鎌倉時代で宗派を興した開祖達を一通り紹介しました。
法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)
今回以降、鎌倉時代でそれ以外の名僧を何人かずつ、紹介いたしましょう。
重源(ちょうげん)
1121~1206年
源平合戦で、平家により奈良の大仏殿が焼かれちゃった。
何とか再建したい朝廷だが、聖武天皇の時とはだいぶ違い、全く金が無い
そこで、重源に
東大寺勧進職(とうだいじかんじんしょく)を命ず。
あとはよろしく。
今であれば、東大寺復興担当大臣。
その時、重源は既に、61歳。
えええっ。
あとはよろしくと言われましても。
仕方ありません。
方々のお金持ちに頭を下げまくって、寄付を募る。
それでも遥かに足らず
一輪車を作って、全国を寄付を募る旅に出る。
再建が始まっても
お坊さんたちは、自分達が住む僧房を先に再建してくれだのと言いたい放題
まあまあ、と調整役に奔走。
建築様式も、当時の中国で最新だった方法をアレンジし
大仏様と呼ばれます。
とても長くやってますので、木材の運搬で新たな方法を開発したりと
建築全般の専門家とも言えるほど。
見事に東大寺が再建なったのが、83歳
生きている間に、東大寺の再建完成を見れて良かったね
貞慶(じょうけい)
1155~1213年 法相宗
当時の法相宗がかなりいまいちになっていたのを立て直す。
法然とかと同じように、諸国を回る、聖(ひじり)という生き方だった。
一番有名なのは、
興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した
『興福寺奏状』の起草者だということ
折角法然が頑張っているのに、いわゆる抵抗勢力的な事をして、嫌な奴
とも思える。
でも、調べていくと、疑わしいとの文章があった。
興福寺奏状って、2つの訴状から成り立っている。
その1とその2、って感じ
ところが、その1とその2があまりに違いすぎるんじゃないの?と
法然を批判しているのは、その2にしか存在せず
その1は、むしろ法然を讃えている。
その1は法然の事を敬称である「上人」と呼んでいるんだけど
その2は法然の本名である「源空」と呼び捨て
とても怪しいです
考え方は違うかも知れないけど、貞慶だって、足で諸国を回る苦労人
同じスタイルの法然をボロのチョンに言うだろうか
歴史における真相って、とても難しいですね