[明治]大久保利通は用心深い妻

明治シリーズ
いよいよこの人、大久保利通

「大政事家 大久保利通」という本を読みました。
4年前に読んだ筈なんですけど、いくら探しても見つからず
再度、今度は電子書籍で買いました。

大久保利通
1830~1878年

幕末から明治維新において、すごい人たちはいっぱいいたけど
ずっと通して中心人物だった人は大久保利通をおいていないでしょう。

岩倉具視は、幕末ではほんとに最後の方からの参加だし
西郷隆盛は征韓論政変で離脱、朝敵となってしまう。
木戸孝允にしても、西郷隆盛とほぼ同時期に離脱。戻っても健康上の理由でその前と同じとはいかなかった。
通してずっと中心というのは、大久保利通だけ
しかも全ての改革に最終決定者となっている

大物政治家と言ってこの人以上の人はいないと思いますが
不思議ですね
いまいち人気が無い
おそらくあまりに西郷隆盛が人気がありすぎて
西南戦争で親友の西郷をほおむった非情な人というイメージなんでしょうね

特に地元鹿児島の人にうけが悪いのなんの
鹿児島のいたるところに銅像が立っていておかしくないと思いますが。

自由党の運動家、馬場辰猪は、西郷は「冒険的な夫」であり、大久保利通は「用心深い妻」だと表現しています。

版籍奉還(はんせきほうかん)
木戸孝允の時と同様、幕末の方はまるっと省略しましょう。

版籍奉還から話を始めましょう
慶応4年2月、大久保は薩摩藩の4分の1の土地と人民を天皇に奉還
先鞭をつけるから、他の藩も追随してね、と

中央集権化への第一歩です。

ただほぼ同じ時期に、木戸孝允が全藩が奉還すべしと建議を出しているから
この時点では、木戸孝允の方が急進派

二人は会談して合意
その後さらに土佐藩も含め、薩摩藩、長州藩、土佐藩三藩が会談して合意
その後、肥前藩も参加表明

まだこの時点では大久保自身も、藩を無くすとまでは考えていなかった。

特に、薩摩と長州が中心になって強い中央政府を作ろうと考えていた。

大久保の考えが変わっていった、ないしは変わらざるを得なかった理由は
肝心の薩摩藩の実質藩主、島津久光の強固な抵抗だった。

元々は久光に引き上げられて自分があるわけだけど
どんどん久光が意固地になっていく。

薩摩がリードしてとイメージしていた事が実行に移せなくなっていく。
例えば、東京に常備兵を置くという構想
一番に薩摩が人員を出したのに6ヶ月交替の新しい兵を拒否

どんどん薩摩が中央政府と向かう方向を変えていく。
まずい。

この時期西郷隆盛は中央政府からは引退して、国に戻っていた
健康面で問題がありましたのでね

よし、西郷隆盛を久光から引き離して、中央に引き戻そう。
そして、久光との完全な決別を決意
元々、久光と西郷はすごく仲が悪かったですし。

久光の行動は、逆に廃藩置県を加速させ、自分で自分の首を締めちゃったと言えるかも。

現実には、久光のご機嫌取りはするんだけど、気持ち的には完全に決別
大久保の発想が薩摩を離れて、「日本」という国家を中立かつ冷静にとらえるようになった背景でしょう
岩倉具視使節団として各国を回ったのも、視野を広げ
俯瞰してものを見れるようになったのでしょう。

日本に帰って、西郷が征韓論を口にするのを聞いて
おいおい、欧米諸国を見て回れば、今戦争なんて何バカなこと言ってるんだ
どれだけ差を開けられちゃっているか

まさか西郷とまでたもとを分かたなきゃいけないのか

西郷は下野し、また薩摩に戻り
今度は西郷が担がれて、薩摩が反中央の独立国家化してしまった。

でも、西南戦争にまで発展するとは思ってなかったでしょうけどね

続きはシリーズの次回と致します。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治]大久保利通は用心深い妻」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: [明治]大久保利通その2。岩倉具視使節団で行ったり来たり | でーこんのあちこちコラム

  2. ピンバック: [明治]大久保利通その3 | でーこんのあちこちコラム

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