[明治]5-2 大隈重信。人気もののおじいちゃん再び。

[明治]5 大隈重信。藩閥に対抗する超大物
の続きです。

首相
首相を最初から言うと
1.伊藤博文(長州)
2.黒田清隆(薩摩)
3.山県有朋(長州)
4.松方正義(薩摩)
そして、
第二次伊藤博文内閣
と続きます。

ここまでずっと薩長の藩閥
一方で、政党も力をつけてきた
大隈重信の立憲改新党

藩閥政治家としても無視できない勢力になりました。

次の第二次松方正義内閣
「松隈(しょうわい)内閣」と呼ばれ
松方と大隈の連立内閣になります。

第三次伊藤博文内閣

山県有朋は政党が大嫌い。
でも伊藤博文は、政党と折り合いをつけていく事を考えていた。

政党の大物を入閣させようとしたが、条件面で折り合わず断念

次は、板垣退助の自由党と手を組もうとした。

でもこの時、板垣退助は伊藤博文を選ばず大隈重信を選んだ

立憲改新党と自由党が合併
憲政党となる。

伊藤博文も自ら政党を立ち上げようとした。
今まで、過渡期として、藩閥政治でやって来たけど、
やはり、政党が国をリードしていくべきなのではないか

でも、山県有朋などの元老即ち藩閥政治家達が大反対
これも一旦断念

自分は無理でも、
政党が持つ可能性を試したくなった。

大きくなった、憲政党ならやれるかも。
正直合併したばかりだから、分裂するかもしれない
でも失敗したなら、政党は力を失うだろう。
藩閥としては良いこと
どっちに転ぶとしても、やらせてみる価値はある

どうですか、やってみませんか

政党出身の首相
初めて、政党出身の首相
大隈重信と板垣退助
隈板(わいはん)内閣
歴史的一歩

さあ、やったるで

ところが
伊藤博文の予想通りになってしまった。
内輪揉めの分裂

元自由党のメンバーが離脱して、ジ・エンド

たった4ヶ月の内閣だった。

次は、第二次山県有朋内閣

文化活動
政治生命を絶たれた訳ではない。
ただ、軸足は、早稲田大学総長等の文化面へとシフトしていった。

早稲田大学で野球が行われた時
総長大隈重信は始球式を行った。
記録に残っている限りでは初めての始球式。
何せ片足なので、良く投げれたなあと思います。

ストライクゾーンよりは大きく外れた。
でも、ボールってなると総長に傷がつきます。
とんでもないボールではありますが、バッターは空振り

ストライーク

以降、始球式のボールは空振りするようになったのです。

文字
ところで、大隈は文字を書きません。
子供の頃、とても字が汚なく
かなりバカにされたそうです。
それがトラウマになり

今後一切、字を書かない
と決めた。

勉強するときはノートを取らない
全て暗記しちゃう

執筆活動も何冊もしているんだけど、全て口述筆記

条約締結等で署名する必要はあって、仕方なくした署名は残っているんだけど
なるほどいかにもって字だったらしい。

空白
時は、16年の時を刻みます。
大隈重信は、76歳のおじいちゃんになりました。

その間、大隈重信は、庶民派政治家として大人気

一方、伊藤博文が板垣退助の力を借りて作った立憲政友会は政党の中心になります。

政党の形式は取っているものの、結局は、伊藤博文色の極めて強いもの

そして、山本権兵衛内閣の時に、シーメンス事件が起きます。
ロッキード事件にも匹敵する大汚職事件です。

山本権兵衛内閣は総辞職。

この政治の信頼をどう回復したものか
有力政治家に数人打診するが、こんなときは断られてしまいます。

ここはもう、あの国民的人気政治家におでましいただくしかなかろう。

大隈おじいちゃん再登場です。
そのあと行われた、総選挙では、大隈陣営圧勝になります。

画期的な選挙活動が行われたんです。

一つは、大隈の演説をレコードに吹き込んで販売
ちょっとまえに、憲政記念館で、写真撮ってきましたよ

初めて閣僚の地方遊説
大隈は、電車で移動し各駅で止まっては、窓から演説を行った。
黒山の人だかり

ただ、この二回目の大隈政権
この時期に第一次世界大戦が始まり
大隈も、中国に対して「対華21箇条要求」というあまり誉めがたい政策を進めてしまっています。

最後まで、人気は衰えず
大隈重信が亡くなった後は「国民葬」が日比谷公園で行われるんですが
20万人とも30万人とも言われる人が押し寄せます。

そのあと、山県有朋の葬儀は一ランク上の「国葬」ですが
なんとも見劣りのするものになっちゃいました。

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

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