「信長と弥助」という本を読みました。
弥助
天正7(1579)年
本能寺の変の3年前
ポルトガル領マカオから、大きな黒船が日本の九州へ向けて出発した。
イエズス会の宣教師と従者の一行が乗り合わせていた
その中でずば抜けて背が高く、強靭な肉体を持った20代前半のアフリカ人男性がいた。
後に「弥助」と呼ばれる。本名は分かっていない。
弥助の役割は、宣教師ヴァリニャーノを護衛すること。
ヴァリニャーノの目的は、貿易とキリスト教の布教だった。
当時の日本は戦乱の世
鎖国になったりキリスト教が弾圧されるのはまだ先
九州には、キリシタン大名と言われるキリスト教を信じる大名も存在していた。
口之津という港に着いたあと、長崎に移動
長崎は、大村純忠という日本初のキリシタン大名がおり、
イエズス会に土地を寄進。
キリスト教の拠点となっていた。
ヴァリニャーノは日本に溶け込むべく、メンバー全員に日本語を勉強させ
日本の礼儀作法を覚えさせ
自ら範を示した。
弥助は既に何ヵ国語か話せたので、日本語の習得も早かった。
ヴァリニャーノの功績で、かつてキリスト教を弾圧していた島原の藩主、有馬春信を改宗させ
洗礼を授けた。
2年間の滞在のあと、総仕上げとして京都への旅に出た。
次なるターゲットは当時、ほぼ日本全部を制圧する勢いの織田信長
堺の港に着いたあと、キリシタン大名の高山右近の庇護のもと、一行は京都へ向かう。
一行は人々を驚かせた。
特に飛びきり背が高く、肌の黒い弥助
本人達より先に噂が先に都に達し
京都に着くや否や、弥助はもみくちゃにされた。
信長の耳にも入った。
好奇心旺盛な信長は一刻も早く目にしたい。
そんな不思議な人間が存在するとはどうしても信じられない。
本当に黒いのだろうか。
単なる異人の悪ふざけではないのか。
あるいは余興のでっち上げか。
よし、見破ってやろう
信長の本陣、本能寺へ呼び出される。
弥助は学んだ日本の礼儀作法で
頭をできるだけ下げて、膝を着いたまま進み
信長から数メートルの距離で頭を床につけた。
表をあげい
そして、上半身を脱がせ
布で擦ったり引っ掻いたりさせた
何をしても黒い色が落ちない。
この肌は本物か。
矢継ぎ早に質問が飛ぶ
お前は誰で、どこから来て、どれだけ日焼けすればそうなるのか
家族はどうなのか。痒くはないのか
丁寧に答えるジェントルマンをすっかり気に入った。
褒美を取らせる。
数日後、ヴァリニャーノは数々の献上品を捧げた。
そして、その中の目玉が、弥助だった。
弥助は、世にも珍しい小姓として信長に仕える事となる。
弥助も新しい主君と、新しい国がとても気に入った。
信長は自慢の側近をどこに行くときも連れていった。
イエズス会にも便宜を図り、神学校を建設する土地も提供した。
弥助にも新しい地位を授け、従者つきの私邸と給与も与えた。
弥助もそれに応え、武士のしきたりにものっとり、懸命に仕えた。
知性も備えていた。
信長の好奇心は尽きず、外国のまだ見ぬ事を聞いてくる
精一杯分かりやすく応えた。
そして、あの日がやって来る
弥助が信長と初めて会った思い出の地、本能寺
本能寺の変
敵は本能寺にあり
全くのプライベートであり、想定外も想定外
守る兵はほとんどいなかった。
弥助と森蘭丸とを含む本当の側近のみ。
明け方、信長たちが目を覚ました直後に銃声が轟いた
瞬く間にあちこちに点在する建物が取り囲まれた。
火が放たれる。
もはやこれまで。
切腹の形式を整える暇さえなかった。
白装束も辞世の句も奉書紙を巻いた切腹用の刀もない
それでも、何としても切腹せねばならない。
捕まって、公開処刑など絶対にあり得ない。
蘭丸に介錯を頼む。
蘭丸は後を追うつもり。
弥助に最後の命令が言い渡された。
わが首と刀を絶対に敵に渡してはならぬ。
首と、出来れば遺体ごとここから持ち出すこと。
そして信長の刀を、後継者たる息子信忠に手渡すこと。
信長の刀と遺体を抱えて姿を表した時
残兵達は事情を察知した。
弥助を守れ!
弥助と織田の兵達は、炎の中を駆け抜けた。
塀を越えて脱出
遺体を焼くための小枝や枯れ葉などを集めた。
煙が立ち上る。
後を頼む
弥助は次なる課題のため、信忠の元へ向かう。
無事、信忠軍と合流し、共に御所を占拠
刀を手渡し出来たが、後継の証である刀も意味をなさなかった。
ほどなく、御所も明智勢に取り囲まれ
信忠も自害した。
弥助は逃げる事が出来た。
その後、弥助はどうしたのだろう。
その後の資料は残っていない。