[天皇]111 後西天皇

後西天皇

後光明にはまだ皇子がいなかったので、
つぎの天皇を誰にするかが問題となった。
後光明天皇は、承応三年に生まれた後水尾の皇子、高貴宮(あてのみや、後の霊元天皇)を養子にする意向を近臣らに伝え、
天皇の死去後に近臣だった三条西実教、勧修寺経広、持明院基定が、後光明の遺志としてそれを伝えた。
関白や武家伝奏、所司代板倉重宗らは協議し、故天皇の遺志に従って高貴宮を後光明の養子にし、皇位を継がせるという結論に落ちついた。

しかし後水尾は、高貴宮は生後4ヵ月の乳児なので、とりあえず花町宮良仁親王を皇位につかせ、
高貴宮が14〜5歳になったら譲位させるべきだと判断した。
明正天皇と同じつなぎ役の天皇を立てる案だった。
この案が、幕府との相談を経て決定された。
幕府は、将軍家綱が若年のため朝廷の事情に暗いので、関白がよいように取り計らうようにと指示した。
さらに東福門院へは、家綱が花町宮のことをよく知らないので、「作法」「所作」が天皇にふさわしくなければ(「天子御作法よろしからざれば」)、いつでも高貴宮への譲位を東福門院が取り計らうようにと回答した。
東福門院とは、後水尾の奥さんで、2代将軍秀忠の娘です。

この経緯から、後光明から良仁親王への皇位継承はともかく、
良仁親王から高貴宮への皇位継承は幕府が主導権を握ることになった。

兄弟の多くが出家し、出家していない後水尾の皇子の中では年長という事情、
いわば消去法により宮家を相続していた良仁親王が皇統を継ぐことになった。
将来は天皇、という前提で訓育を受けないまま突如として18歳で即位したのだから、天皇としての「所作」「作法」という点では不安があっただろう。

譲位
後西天皇は、在位九年に満たずに、寛文3年(1663)1月に譲位した。
譲位の理由をめぐっては、
幕府の発意説と後水尾法皇の要求説などの諸説があり、定かではない。
在位中の万治4年(1661)1月に、
二条家から出火して禁裏から仙洞御所、女院御所などが焼失する大火が発生し、
翌寛文2年(1662)5月には京都大地震がおこり、
方広寺大仏が壊れるような大被害に見舞われた。

その少し後に、理由はさだかではないが後西天皇は譲位の意向を示し、幕府へその内意を伝えたらしい。
それをうけた幕府は、寛文2年9月に後西天皇の譲位を東福門院へ申し入れ、
幕府と東福門院の主導でこの譲位を実現させようとした。
結局、御所の造営も完成しない寛文3年1月に、
後水尾の計画より4〜5年早く弟の高貴宮、識仁親王に譲位した。

後西天皇は、つなぎ役として消去法で決められ、
朝廷内で軽く扱われそうな立場にあった。
それでも、18歳で即位したので元日の四方拝、小朝拝などを始めとする神事や節会をこなし、
和歌御会などにも熱心に取り組み、朝廷政務にもあたった。

また、後光明天皇のあとを追うかのように、六国史を書写させるなど禁裏文庫の充実に力を注いだ。
しかし、京都大火、大地震と相次ぐ天変地異に見舞われた後西天皇は、
幕府から譲位を迫られる前に、
自主的に譲位の意思を示すことを選択したのではなかろうか。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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