14代家茂、和宮と幸せな日々、そして悔し涙

ラスト2ですね。

どろどろの継承問題に決着がつき、家茂(いえもち)が次の将軍に。

井伊直弼が大老になります。

井伊直弼
井伊直弼は、ついでに話すには大物過ぎます。

私としても、桜田門のその場所で、ウォーキング同好会のみんなと
桜田門外の変の寸劇をやったということがありますから
特別の思い入れがあります。

別に、井伊直弼についてお話しするとして今回は省略します。

どう対処するの?
ペリーが来た。
えらいこっちゃ。
この難局にどう立ち向かうか。

頼りの将軍は、家慶がすぐに死んじゃって、次は家定
う~ん、こりゃなんとも。

この際、今までのようにお飾りの将軍じゃなく、
リーダーシップのある徳川慶喜に立ってもらおう。
というのが一橋派
いや、老中がしっかりやれば良いんだ。
もっというと、俺がやる。
と言ったのが、井伊直弼の南紀派。

南紀派が勝ったわけだから、
井伊直弼が、俺がやる。

結果は、ご存じの通り。
ここは、さらに詳しく別のコラムで書くとして
桜田門外の変で井伊直弼が殺されるということで、また転機を向かえる。
どう対処するかがまた振り出しに戻る。

尊皇
そうこうしているうちに、全国で大きなムーブメントが起きる。
ここはもう徳川将軍には無理だろう。
俺たちがなんとかせねば。

でも、それぞれは、俺が何とかすると言い切った井伊直弼ほど、
個人で力を持っているわけではない。
何らかのキーワードでまとまって。、力を持った集団になっていこう。

尊皇攘夷(そんのうじょうい)

攘夷の方は開国か攘夷かで大きな争点。
一旦外します。

尊皇。

将軍はお飾り的ではありますが
1,2,3,5,8代は実質的にも政治をしていました。

完全にお飾りだったのは天皇(朝廷)
その天皇に焦点を当てようと。

ただ、実質的な政治を期待してた訳ではないでしょう。
自分達の主張に
よきにはからえ
と言ってもらえれば。

幕府側では
幕府側ではその動きが明確に分かってくる
朝廷を敵に回すと自分達が危ない。
先手を打たねば。

7代家継の子供将軍の時に実現したあれだっ。

公武合体
朝廷と幕府が一体化して難局に当たる。
本音としては、尊皇派の勢いを削ぐ。

天皇家から嫁をもらおう。

候補が2人
和宮(かずのみや)と冨貴宮(ふきのみや)
和宮は婚約中、冨貴宮は1歳。
1歳じゃなあ。

和宮のお兄さん、孝明天皇は断固拒否。
お兄様頑張って!

岩倉具視が説得に動く。

外国大嫌いの孝明天皇は、
仕方ない、攘夷をやってくれるんならいいよ。

条約結んじゃってる訳です。
断るための無理難題。

分かりました。
そういたします。

ええっ、そんな

そうこられては、致し方ない

お兄様ぁ

困ったのは婚約。
破談は絶対に許されない。

婚約相手、有栖川宮から
縁組み延引の願いが出される。
破談ではない。
いつまでも待ってるからね。
いよっ、男の子っ。

家茂と和宮
1861年10月20日。和宮は中山道を通って江戸へ。
8000人の大行列。25日かかった。
結婚は1862年2月11日。
桜田門外の変から、僅か2年後。
明治維新の僅か6年前。
二人は同じく17歳でした。

はっきり言って政略結婚の最たるもの。
和宮だって、京都からすると江戸なんてど田舎には死んでも来たくなかった。

でも、家茂は偉かった。
和宮を愛そうとした。
それが、男有栖川宮からバトンを受け取ったものの使命。

将軍はいわゆるお手付きが仕事であり、使命だけど
和宮の話がある前に一度あったっきり。
結婚後はいわゆる浮気は一切していない。
これは、15代将軍のうち、子供将軍家継以外では家茂だけ。

攘夷
困ったのが、約束しちゃった攘夷。
朝廷側から、
約束したよね!

家茂は、その実現のため、京都へ行かざるを得なくなります。

和宮としては、
そんなんだったら京都にいたのに。
入れ違いです。

和宮も家茂のことを愛するようになっていました。

出発の前
家茂の無事を祈って、増上寺でお百度参りをしています。

二度目の上洛の時、
和宮が家茂に出した手紙が残っています。
基本、堅苦しい内容なんですが
一番最後に
1日も早く帰ってきて下さいね。

家茂という人
家茂は、井伊直弼が、自分がやりたかったが故に担ぎ出したひと。
慶喜と比べるとやっぱりお飾りだったのかというと
どうもそうではなかったようです。

聡明、敏捷、慈悲、仁徳
かなり誉め言葉が残っています。
8年という短期で、最初2年は、井伊直弼。
家茂が何をやったのかというと、なかなか厳しいですが
勝海舟などは
この君のためなら命を捨てても良い、と信服していた。
幕臣たちにはかなり評判が良かったようです。

ここなんですよね。
慶喜はむちゃくちゃ頭の良かったとはいえ、違うところ。

本人の意欲としてもかなりあった。

色んなことが起きる舞台は、江戸から京都に移っていて
その江戸ではなく、京都にいたというのは
お飾りではおられなかったということでもある。

途中から、慶喜がしゃしゃり出てきて
老中と大喧嘩しながらもことを進めていく。
それを目の前で見て
将軍としての私は何なんだろうと悔し涙を流したという

激動
時代は激動の時期を迎えます。
長州藩、薩摩藩、坂本龍馬
これも、書き出すとものすごいボリュームになるので一旦省略です。

死去
家茂は長州征伐の総大将として京都から離れ、一旦大阪城へ
ここで、薩摩藩の思惑とかもあってかなり待たされます。
そして、家茂自体、全く予想していなかったまさかの事態。
1866年7月20日 家茂、大阪城内で病死
かっけと言われています。
21歳の若さ。
明治維新の僅か2年前ということになります。

和宮との結婚生活は4年半ですが
3度の上洛を余儀なくされたため
一緒に過ごした時間は、僅か2年数ヵ月でした。


増上寺で墓を見てきました。
寛永寺も行きましたので、ほとんどの将軍の墓を見ました。

将軍の横に、正室の墓が有るのは実は2つの例しかありません。

家定と篤姫
家茂と和宮

その場に行くとグッと来るものが有ります。

和宮さん
いい人と巡り会えて良かったね。

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