[岩宿] 相沢忠洋というひと

「岩宿」の発見という本を読みました
相沢忠洋(あいざわただひろ)さんの書いた本です

実は読んだのは半年近く前、家の近くの鈴木遺跡に行った少し後
鈴木遺跡。都内最大級でびっくり

鈴木遺跡は縄文時代よりさらに前の旧石器時代の遺跡

学芸員のおじさんが説明してくれる中で、相沢忠洋の名前が出た

知ってます知ってます、相沢忠洋、ひろは太平洋の洋ですよね
歴史検定2級の勉強の時に一生懸命覚えたその名前を言いたかった

相沢忠洋という名前
歴史検定の前は全く知らなかった
旧石器時代に興味のある人以外は、あまり馴染みがないと思います

でも、こんな偉大な人は二人といない
それまでなかった「歴史を作った」人

縄文時代から令和に至るまで、〇〇時代が色々あるわけですが
相沢忠洋が岩宿を発見するまで
縄文時代より前には、日本では「時代」は無かったんです

1949年、戦後の吉田茂内閣の時、相沢忠洋が岩宿遺跡を発見
突如、日本に、縄文時代より前の「旧石器時代」というものが現れた
そんな昔の話じゃない

世界的には、土器がまだ作られない「旧石器時代」があることは分かっていたのですが
日本では、その時代の石器がただの一つも発見されていなかった

日本は縄文時代以前に、人は住んでなかったのかもね
島国だからあり得るよね
くらいの感じ

遺跡の発掘調査をするときも、
関東ローム層のような、縄文時代より前の地層にぶち当たった段階で
どうせこの先掘っても何も出ないから、と
掘るのをやめていた

岩宿の発見以降、えっ日本にも旧石器時代があるんだ、ってことで
あちこちで掘ってみたところ、
出るわ出るわ
今では全国におびただしい数の旧石器時代の遺跡が存在します

相沢忠洋

そんなものすごい発見を成し遂げた相沢忠洋というひと
さぞや立派な学者さんなんだろうと思いきや
学者さんではない

ばくっと言うと、愛好家
あまりに、人生そのものを遺跡にかけているので、愛好家というには抵抗があるんですが
学者さんとかの遺跡研究を職業にしている人ではない

鈴木遺跡がとっても面白かったから、石器のことを知りたいと思って、Amazonで本を検索
相沢忠洋さんが自ら書いた、「岩宿」の発見という本があることを知り
早速注文
本人が書いたくらいだから、さぞ詳しく解説してくれているだろうと期待

ところが、読んでみると、石器の解説は皆無
相沢忠洋さんの自伝だと理解
とはいえ、学者でもないのに、大偉業を達成した訳だから
面白い人生なんだろうな、と思いつつ読み進める

偉人の自伝にありがちな自慢話は覚悟していたんだけど、一切無かった
なかなか表現が難しいんですが
この本の読後感に今も引っ張られている感じがする

こんなに頑張ったんですよ、的なのがチラチラすると
読む側は、お前はそうかも知れないけど、一般庶民には無理なんだよ
って印象が出るもんですけど
全く違った印象だった

なんでこんなに哀しいんだろう

納豆の行商の話から始まる
お得意先のお宅を回り、納豆を買っていただく
昔は苦労したんだな
大丈夫、もうすぐ大成功が待っているよ
そう思いつつ読み進める

文章がうまく、詩的なので読み物として面白い

えっ、どういうこと?

「それはそうと、納豆屋さんはどうして、そんなに古いことが好きになって、熱をあげるようになったんですか」

「えれえもんさ。20年以上もひとつことをやるということは、容易じゃねえからな。なんて悪口を言われても平気、こうやって話している今でも、始めてきたときとちっとも変わっちゃいねえ。人間はなかなかできるもんじゃねえんだ」

ま、まさか
この納豆の行商って
岩宿遺跡の発見の、さらに後の話なの?

数回に渡って、シリーズとして「岩宿」の発見、の本から
相沢忠洋さんのなんとも表現しがたい人生を紹介していこうと思います。

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

新たなる挑戦

社労士試験に落ちたあと
社労士に挑戦した理由は
もう間もなく派遣で行っているIT業界の仕事の現場がなくなるから、という話をしました

それがいよいよ現実のものになりつつあります

3月末で終了という話が出た
結論的には延長になったんですが。

次の仕事をなんとかせねばと思った

あの時
単なる経済的事情だけでの社労士挑戦より
本当にやりたいこと、に向かっていくべきではないのかとも、話しました

「その時」が来たのでは

ウォーキング同好会でイベントのガイドをするたびに得も言われぬ幸福感が襲ってくる

ああ、これを仕事に出来たなら

うじうじ考えているより、動き出すと何かが見えてくるかも

ツアーガイドの仕事を募集している2つの会社に応募してみた
でも2社とも、書類だけであっさり断られた

私は全く英語がしゃべれないからなあ

翌日、ウォーキングのイベントだったんだけど
みんなに励まされる
気持ちは萎えていたけど
もう一度気持ちを奮い立たせた

色々検索し、別の会社に応募してみた
すると、2社面接まではさせてくれるところまで行った
面接結果は両社ともダメだった
残念

そんな活動をしている中でいくつか分かってきた事がある

1.ツアーガイド、ツアーコンダクター(添乗員)、旅行会社の営業所での案内係という3種類の仕事がある
2.ツアーガイドは私の一番やりたい説明する人。バスガイドさんもここの領域
3.ツアーコンダクター(添乗員)はガイドがメインの仕事ではなく
ツアーに同行し、旅程管理という仕事をする。スムーズに旅行が進行するよう
途中で色んな連絡をとりまくる裏方さん
ツアーガイドは資格が要らないんだけど、ツアーコンダクター(添乗員)は
旅程管理主任者という資格が必要

旅行会社の営業所での案内係に関しては、旅行業務取扱管理者という国家資格がある

旅程管理主任者の方は、2日間の研修を受ければ、ほぼ取得出来そう
延長された今の仕事が終わる頃に受けよう

旅行業務取扱管理者
これに挑戦だ!

試験は9月頭

国家資格なのでかなり難しいけれど
社労士に比べればボリューム的には小さい

やってみようと思い立ったのが2/20
社労士に比べると、スタートがかなり遅めになってしまったので、頑張らねば

社労士の時の、Excelでまとめて、というノウハウがここでも役立つ
なんとかまとめきって、さあ覚えていくぞ

科目は3つ
旅行業法
約款
実務(地理と計算等)

2ヵ月近く経ちました
過去問による1回目の力試し
60%取れれば合格です

旅行業法⇒76%
約款⇒72%
実務の地理⇒61%
実務の計算等⇒58%

良いんでないの
実務の計算等以外は合格圏に乗りました
社労士の時は、この時期、40%くらいでしたから、天国のようなものです

あと、4ヵ月半
頑張って安全圏に乗せていきたい

実務の地理は
国内全国の観光地について問われる問題
東京だけだと絶対的な自信があるんですが
それ以外は全く分からん

頑張って覚えましたよ
買ったテキストには800箇所ほど
日本には温泉地がなんと多いことかと実感
それで、力試しで61%にまでのせましたが
安全圏まではこれでは足りない
全県のまっぷるを読んでいっています
これが楽しいのなんの

試験勉強が楽しいっていうのは最大のメリット
渓谷ファンとしては、全国のいっぱいある渓谷の写真を見ているだけで癒されます

宣言いたします

私は、旅行業務取扱管理者試験に挑戦いたします

次回、どんな試験でどういう風にまとめて、どう勉強していっているか説明しますね

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

[三種の神器] 八尺瓊勾玉の意味するところ

[三種の神器] えっそうだったの?
[三種の神器] 八咫鏡はアマテラス
[三種の神器] 八咫鏡。どんな形?
[三種の神器] 草薙剣。不思議なことだらけ
[三種の神器] 草薙剣。その姿は
[三種の神器] 八尺瓊勾玉って何の形?
の続きです

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
勾玉の形をおさらいすると、Cの字の形になっていて、紐を通す穴が空いている
穴のある部分を頭、C字の内側を腹、外側を背と呼ぶ
お馴染みのこの形が「定型」と呼ばれるが
縄文時代には、X字形や、小さな勾玉がくっついている子持ち形、魚形、釣り針形など様々な「不定型」が存在する
時代が下るにつれ、形が定型に統一、洗練されていく
弥生時代にはほぼ統一するが、おそらく、整形の技術の進歩による
どんな素材でも、統一した形に揃えることが可能になった

弥生時代に、勾玉は朝鮮や中国への重要な輸出品となる
特に朝鮮からは、交換により多くの鉄鋌(てつてい)(刀剣用の地金)が輸入されている

出雲の玉造(玉造温泉のところです)が代表的な産地です

日本書紀に、崇神天皇の時期に、出雲大社に納められている神宝を献上させた、という記述がある
その神宝が何かは書かれていないが
天孫降臨の時に、天から地へ渡った三種の神器のひとつの八尺瓊勾玉が
出雲大社の神宝として存在していたのではないか
それを「返却」させたとも取れる

ニギハヤヒ
日本書紀に、ニギハヤヒという神が書かれている
神武東征に先立ち、天照大神から十種神宝(とくさのかむだから)を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨した
これは瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天孫降臨とは別の種類の降臨

この十種神宝の内訳は、鏡が2、剣が4、玉が4となる
いずれも行方不明とされている

「三種の神器」の作者戸矢学さんは
この十種神宝の玉4つと、出雲大社からの勾玉4つが合わさって
8種の勾玉が連珠となって八尺瓊勾玉の原形となったのではないかと推測している

「三種の神器」という制度を作ったのは天武天皇
古事記や日本書紀を編纂させ、その中で「三種の神器」を明確化した

八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)については、神話の中で
その意味付けが書かれている

神話の中で、八尺瓊勾玉を三種の神器にふさわしい位置づけを与えるため
ある神を追加した
月読命(ツクヨミノミコト)である
天照大御神(アマテラスオオミカミ)の弟であり、素戔嗚尊(スサノオノミコト)のお兄さん
月の神様

天照大御神が太陽で、その象徴が八咫鏡であるならば
月読命の月を象徴するものが八尺瓊勾玉

前回、八尺瓊勾玉は、胎児の形と言ったが
三種の神器に加わるにおいて、三日月の形という新たな意味付けが加わった
太陽と太陰(月)はセットでこそ意味をもつ

そして「巴(ともえ)」というデザインとなって終結する
陰陽太極図

陽と陰のバランスこそが重要とする風水の象徴的なシンボル
まさしく勾玉そのもの

この巴の形は、様々なバリエーションになり、神紋や家紋として広く採用されるようになる

[神と仏]シリーズはこちら(少し下げてね)

[勝海舟] 江戸城無血開城。江戸焦土作戦

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望
[勝海舟] 西郷隆盛や坂本龍馬との出会い
[勝海舟] 海舟は千両箱なり
の続きです

江戸城無血開城

慶應4(1868)年3月13日と14日、いよいよ西郷隆盛との交渉です

勝海舟は交渉に先立ち、ある作戦の準備をしていた
火消し・ヤクザなどの親分のところを回って金を渡し、
新政府軍が進撃して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土と化し、
その進撃を食い止めるよう命じる
同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした
いわゆる、焦土作戦です

江戸城無血開城会談について、必ず出てくる話なのですが
海舟本人が書いた『海舟日記』『解難録』に記述されています

『海舟日記』
慶応4年3月10日に書かれている
この日は山岡鉄舟が西郷との会談を終え、江戸に戻り復命した日である。
日記には、そのことで鉄舟を絶賛している。
主君の恭順の真をよく官軍側に納得させたこと、
法親王(天台座主輪王寺宮入道公現親王)始め多くの者が嘆願に向かったにもかかわらず
誰一人成功しなかったが、鉄舟だけが降伏条件の書付を持参して帰った、
とその沈勇・識見を賞賛している。
その要旨は以下の通り。
○官軍は15日に江戸城を攻撃するらしい。
○官軍は3道から、市街地を焼き、その退路を断ちながら進軍してきているらしい。
○当方の嘆願が聞き入れられず、官軍が攻め寄せて来れば、江戸は灰燼と化し、無辜の死者は百万に達するであろう。
○もし官軍がそのような暴挙に出るなら、こちらも黙ってはいない。こちらから先んじて市街を焼き、江戸を焦土と化し、進軍を妨げてみせよう。この決意を持って官軍に対応するつもりだ。百万の民を救えないなら、自らこれを殺そうと決心した。

後に『解難録』にも、同様の内容が書かれており、さらに以下のような記述もある
  ○これはロシアがナポレオンを苦しめた策である。
  ○自分の策はこれとは違う。こうすれば1日で焦土となって戦いは終わり、それによりむしろ無辜の民の死は少なくて済むであろうと思う。
  ○自分は火付け道具を密かに用意したが、不要となり品川の海に捨てた。そのため、後に新政府より嫌疑をかけられた。
  ○西郷は度量が大きく、とても自分は及ばない。西郷の仕事を手伝わされる羽目になるのもやむを得ない。
  ○大火が発生した場合、庶民を避難させるため船の用意をさせた。
  ○幸いにして、江戸攻撃は中止となり、「焦土作戦」は徒労に終わった。
   (幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる)
  ○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
  ○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。

さらに後の談話をまとめた『海舟座談』では、
大いに海舟の自慢話で誇張や冗談が入っている感はあるが以下のように書かれている
≪江戸の明け渡しの時は、スッカリ準備してあったのサ。
イヤだと言やあ、仕方がない。あっちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼打のつもりサ。
爆裂弾でもたいそうなものだったよ。
あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。
治まってから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあわせてやろうと思ってた」と言ったら、
西郷め、「アハハ、その手は食わんつもりでした」と言ったよ。
ナアニ、おれのほうよりか西郷はひどい目にあったよ。
勝に欺されたのだといって、ソレハソレハひどい目にあったよ。≫

結局、この作戦は確かに準備まではしたようだが
西郷に伝わって、焦土作戦が抑止力となって、
「それなら攻撃は止めよう」となった訳では無さそうだ

江戸を焦土と化すなら、庶民が大量に死に至るのは誰が考えても分かるし
船で100万近い人を房総に運べる筈もない
海舟ほどの人が、本気で実行しようとしていたとは思いがたい

抑止力を目的としたのでないとしたら
『解難録』にあるように、自らを奮い立たせる、という目的だけだったのだと思う
  ○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
  ○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。

一人の人物が、交渉によって日本全体のその後を決する
その意味と重みは気が狂いそうになるほどのものだったろう
ある意味、海舟のような性格の人物でなければ
やりこなせなかったのではないかと思う

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)