玉川上水ウォーキング、ゴーール

週末です。お出掛けです。
玉川上水ウォーキングがあともう少しでゴールというところまで来ていました。

玉川上水ウォーキング、第4コーナー回りました。続き
さあ、行くぞ

新宿からでした。
この前の終わりのところまで。
そのもうちょっと前のこの分かりやすいモニュメントのところからにしましょうか

出発っ

JR新宿駅へ向かって真っ直ぐ
と思ったんですが
せっかくここまで来たんだったら、明治32年以降の、淀橋浄水場への新水路の方のゴールも確認しておきたいな。
実は行ったことあるんですが、玉川上水がらみですから、再度
要は、淀橋浄水場の跡地ということです。

実に広大で、今の新宿中央公園を含む新宿副都心全体

そんな中で、淀橋浄水場を感じられるあそこ行きましょう
新宿中央公園内の旧淀橋浄水場六角堂
旧淀橋浄水場のみんなの憩いの場所であった六角堂がそのまま残されています。


おっと、中央公園内のナイアガラの滝

この水も、かつては、玉川上水の水を使っていました。
(嘘です)

フリーマーケットが開催されていました。

服を2~3着買いましょうか
やっぱりやめとこ

ここがゴールでもいいんですが
ちょっと離れたところに、旧淀橋浄水場跡地、という碑がありますので、
そこを新水路の方のゴールと致しましょう。
LOVEを抜け

あの東京モード学院の繭ビルの横になります。

正門の跡の碑です。新水路のゴーール

さあ、江戸時代の方の旧水路のルートに戻りましょう

甲州街道です。
こんなすごいところを、玉川上水も良く通ったものです。

新宿駅

すぐ真横を通り抜けるんです。
すごいぞ


やってまいりました。新宿御苑

その横に、インフォメーションなるものがありました。
行ってみましょう

新宿御苑に関わるパンフレットだったり、資料だったりが置いてあります。

済みません。
玉川上水の事を知りたいんですが。

はい。こちらをどうぞ
玉川上水内藤新宿分水散歩道のパンフレット
A4で8ページほどのとても立派なものです。

新宿御苑の端っこを玉川上水が通っていました。
というか、玉川上水の水を引いて、内藤家が庭園を作ったのが
新宿御苑の始まりです。

新宿御苑のチケット売り場のお姉さんに
哀しげな顔をして聞いて見ました。
玉川上水散歩道を歩きたいんですが
チケットは必要でしょうか

大丈夫です
そちらのインフォメーションセンターの奥側が散歩道になります。

良かった。哀しげな顔が効きましたね。


おおっ。水だ。玉川上水だ。

玉川上水の開渠部分は、この先の四谷大木戸門まで
江戸時代も、その先は、水道(上水)は木で四角く枠を作った水道管が地下に埋まります。
ゴールの最終手前ですね。
木がいっぱい植わった涼しい遊歩道が、玉川上水ウォーキングの最後を飾ってくれます。



さあ、新宿御苑の端っこまできました

四谷大木戸
四谷大木戸、水番屋跡です。

水番屋とは、ごみを取り除いたり、異物が混入していないかをチェックするところ

大木戸門の碑があって

横にあるのが玉川上水の碑
一番上の篆書(てんしょ)の部分は、なんと徳川宗家第16代当主、徳川家達(いえさと)によるもの

ゴーーーール
このどでかい碑を見ていると、じわじわ実感が沸いてきました。

結局7回に分かれたんですね。
羽村から始まって、繋いで繋いで、全ルートを歩ききったんだなあ
達成感、ズシンでございます。

おでかけマップ

[天皇]21 雄略天皇。鉄剣にあった名前は。

[天皇]20 安康(あんこう)天皇。衣通姫の禁断の愛。
の続きです。

父の仇
安康(あんこう)天皇は、ライバル大草香王子(おおくさかのおおじ)を討ち、天皇になるが
その子供、眉輪王(まよわおう)に父の仇、と殺される。

殺れば殺り返す混沌とした世界を、さらに上回る力でねじ伏せようとしたのが、
安康天皇の弟、ワカタケル王(雄略天皇)です。

雄略天皇
大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)~489年

雄略天皇のエピソードをお話しする前に、鉄剣の話をします。

1873年(明治6年)九州の熊本で、鉄剣が出土された
途中、「治天下獲□□□鹵大王」 と書かれている箇所があり
これは、王の名前だぞと。
ただ、肝心の□□□の部分が判別不能。
諸説が入り乱れておりました。

1968年に行われた埼玉の稲荷山古墳の発掘調査で、鉄剣を出土した。
今度はレントゲンで見るとちゃんと読めるぞ

熊本の時と同じと思われる大王の名前があった
獲加多支鹵大王
獲わ 加か 多た 支け 鹵る
そうかっ、わかたける大王か!
雄略天皇の事です。

年号も書いてありました。
辛亥(しんがい)の年。60干支は60年で一回りしますので、60年の幅で正確な年が分かります。
おそらく西暦で言うと、471年。
雄略天皇と一致します。

衝撃の事実です。
熊本から、埼玉という広範囲に渡って
同一の大王の影響が及んでいた。

従来考えられていたより、随分早くに大和王朝はそこまで広範囲に統一を果たしていた可能性があります。

センセーショナルに新聞報道されましたので、
御存知の方もおられるでしょう。

ライバル殺し
まずは、兄を殺した、眉輪王(まよわおう)ですが
二人の兄が関わっていたのでは、として二人の兄も殺します。
眉輪王は自分が権力を奪うつもりなど全くなく、ただ父の仇を討っただけ
釈明するのですが聞き入れず、屋敷ごと焼き払います。

そして、兄、安康天皇が次期天皇として指名していた、
いとこの市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)も射殺する

激しい性格で軍事力にも長けていたから
ライバルのみならず、諸国の有力氏族も平定
例えば、吉備(きび)の国は強力だったが、屈服させている

こういったところで鉄剣につながるんでしょうね

万葉集
万葉集では雄略天皇の歌ものっています。

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ 
み掘串(ぶくし)持ち この丘に 
菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね
そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて
われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは
告(の)らめ 家をも名をも

籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ
きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? 
この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ
僕こそ名乗ろう 家柄も名も

菜を摘む可愛い女の子をナンパする歌です。
おどろおどろしい性格に、こういう面もあるとなると
ちょっとほっとしますね

産業を振興したという側面もあります。
養蚕を勧めようと思い、臣下のスガルに命じた
蚕(こ)を集めよ

すると間違って、子どもをたくさん集めてきてしまい、大爆笑

また
丹波国からトヨウケノオオミカミ(豊受大神)を伊勢の地に遷し、
アマテラスオオミカミ(天照大神)の食物神として祀ることにした。
これが伊勢神宮の外宮(げくう)の起源となります。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

稲荷、その不可思議なるもの

[神社] 稲荷って何?
の続きです。

その他何でも
元々渡来人の神様で、神仏習合で荼枳尼天(だきにてん)と習合した

稲作の神様ということはかなり信仰の中心にあることは理解できる
でも、それだけで、ここまで爆発的な数になるだろうか

稲荷って、為政者が推し進めた神というよりは庶民から沸き上がった、草の根的な神様

ちょっとした、願い事を叶えてほしいときに、一番身近にいる手の届きやすい神様

広げるために努力したのは、稲荷行者や稲荷勧進僧と呼ばれる人達
いわゆる祈祷師で、色んなところに出掛けていって祈祷を行った。

草の根的なので、大きな組織で旗振り役がいて、地域の担当を分けてそら行け、みたいな感じじゃない。
みんなが個人事業主のような感じ。
説明が分かりやすい方が良いので、ある程度浸透していた、稲荷という表現をする人がたまたま増えていった。
目に見える方が良いので、稲荷行者が勝手に伏見稲荷の稲荷山の中にお塚を作る

そして、京都に呼んで、自分のお塚を見せて、拝んでもらう。

はい、ここが、私専門の神様ですよ。

おおっ。うちの行者どのは大したもんだ。
あの伏見稲荷の中に独自の神様を持っちょる

たまにしか行けない京都だけじゃ、心が離れていく。
日常で拝んでもらう必要がある。
まずは、大得意様である武士
武家屋敷に、屋敷を守る土地の神様がいると称して
屋敷の片隅に、小さな祠と鳥居
そこで祈祷。

あれっ
稲作と関係無さそうな
みたいな、理屈は横に置いて
何でもかんでも受け入れられそうな事には全て手を出すところが、稲荷の強さ。

次には金を持っている商人。
商売の神様に早変わり。
お店の片隅に祠と鳥居

金を持っていない一般庶民も大丈夫。
長屋の端っこに、祠と鳥居
まとまればOK
コープさんの共同購入みたいですね

伏見稲荷
総本山、伏見稲荷の特徴と言えば、お話ししたお塚

実は、このお塚が大きく増えていったのは明治以降
廃仏毀釈の影響

廃仏毀釈では、神社神道と仏教を明確に区別するというだけではなく
おかしな信仰は排除しようという流れも含んでいる。

各地のおかしげな信仰に関わるものはことごとく壊された。

でも、やっぱり自分の神様がほしい人は、
伏見稲荷のお塚を思い出し、稲荷山の中に、隠れてお塚を作った

勝手に作るわけですから、神社側は迷惑
定期的に取り払っているらしい

それならば、と、次に出てきたのが千本鳥居

出ましたね。伏見稲荷と言えば、千本鳥居
さぞや昔からあるんだろうと思うが
江戸時代の資料には何を見ても、千本鳥居がない

千本鳥居も、明治になってからなんですね。

お塚が取り払われるんであれば、
変わりに、鳥居を奉納しましょうと。

これだと神社側もお金が入るし
奉納する側も、ちゃんと名前を書いてもらえる

明治35年の時点で、633基
それから、30年たった昭和7年には、2254基にもなった
文字通りの千本超えですね

昭和42年には、7762基
65年の間に、10倍以上増えたことになる

もう今は1万を超えている筈
万本鳥居に名前を変えないといけませんね

さらにすごいのは
増えすぎるため、どんどん古いのは廃棄しているということ
鳥居には奉納者の名前と、奉納した日時が書かれているのだが
とっくの昔に、昭和のものは一本もない

お塚の前に設置する小さな鳥居に至っては
あまりに多すぎるので、一週間ほどで取り払われてしまうらしい

次回は、狐の話や、初午の話をしますね

[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)

[大奥]15 一条美賀子。日本一の卑怯者に何とする

[大奥]15 一条美賀子。身代わり正妻。
の続きです。

喜子(よしこ)を産んだところまででしたね

産婆に母乳を渡し、喜子に飲ませてもらう
自分ではまだ体力が回復していない。

ああ、早く、この手に抱いて、お乳をあげたい。

・・・

君さん、君さん
揺り起こされて起きた。

ただいま、喜子様がおかくれになりました。

たった四日の命だった。

喜子、もう一度泣くんや。喜子、しっかりせなあかん

おつらい気持ちは分かりますが、気をお確かに
一人目のお子さまが育ちにくい事はよくあること
次に丈夫なお子を産めば良いのです。

何も分かっていない。
もう、慶喜との間に子をなすつもりがない。
この子だけなのだ。

喜子を返して。返すんや。

君さん、あきまへん。

顔をもっとよう見るだけや
大丈夫や。私は気もふれぬ。死にもせん。
あきらめたわ。私も今、喜子とともに死んだんや。

御台所へ
時代は次から次へと動き、
慶喜は、京都に行ったっきりになっている
たまに帰ってきても、夫婦の交わりはない。

次から次へと女は作る
少しばかりの嫉妬心が残ってはいる
その事にむしろ安堵するが、ほんの少しばかり

手紙は頻繁に書いた。
すぐに返事は来る

慶喜がフランス語を習えと言う。
挨拶だけで良いから出来るようにしておいてくれと。

小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)が講師としてやって来た。
小栗に世の中の事を色々聞いた。
手紙の中身とも考え合わせて、やはり、大きく変わっていっていることが
美賀子にも良く分かる。

京都から早篭が来た。

将軍家茂様、大阪城にて、みまかられたそうでございます。

そばにいた、女中の宮路が
いよいよ、御台所にならしゃるのですね

滅多な事を言うものではない。
それに、殿様が将軍になると決まってはいない。
殿様はお継ぎにはならんはずや。

最初に言われた。
自分は決して将軍になるつもりはないと。

美賀子としても、御台所だけは嫌だと考えるようになっていた。

ただ、慶喜以外に将軍になりえる人物がいない事も明らかだった。
実際に、家茂が存命のときにも、指揮していたのは、慶喜だった。

4ヵ月断り続けたが、もうこれ以上は断れなかった。

不本意ながら、美賀子は御台所になってしまった。
相変わらず、慶喜は京都にいるまま

美賀子としては、一橋家の正妻で充分だった。
さらに言うと、一つのイメージか美賀子の頭の中で明確になってきていた。

徳川は、なくなる

美賀子が輿入れしてきた時、
丁度安政の大地震が起きた。

一橋家の屋敷が壊滅的で、仕方なく江戸城本丸の大奥に預けられたことがある
見るもの聞くもの、美賀子には、ずれている、としか思えなかった。

御台所になってしまったのは今更抵抗しようがないが
江戸城本丸に入るのだけは嫌だった。

私は、江戸城には入らない。

普通なら、100%あり得ない事だったが
普通ではなかった。
時代が普通じゃなかったし
慶喜が普通じゃなかった。

そもそも慶喜は、一度も江戸城本丸に入っていない。

「新御台所さまご病弱のため、大奥での生活は叶わず」
という願いを一橋家から出してもらった。
受けとるのは、慶喜
何ら問題ない。

今まで、美賀子には自殺騒動など色々あったため
大奥では気鬱だとの噂がたっていた。
肝心の大奥の女たちも拍子抜けするほどあっさりと
「御台さま不在」を受け入れた。

挨拶に行かない訳にはいかない
一橋家は大きな意味では江戸城の敷地内
ふと背伸びすると、本丸が見える位置

運悪く、挨拶の少し前に、京都から、驚くべき報せが届いた。
孝明天皇崩御
あまりに突然だった
妹、和宮は挨拶の場に欠席。

天璋院篤姫は
今後は、静寛院様(和宮)も含めて、力を合わせ、徳川を守っていきましょう。

何のために?
と喉元まで出たが、押し殺した。

逃亡
どんと省略し
鳥羽伏見の戦い
新政府軍と幕府軍の、世紀の一戦

日本史三大不思議の一つと思っているんですが
決戦の前夜
幕府軍のみんなを残し
大幹部の松平容保、松平定敬、老中の板倉勝静、酒井忠惇などを騙して
一緒に開陽丸に乗って、大阪から江戸に逃げ帰っちゃった。

指揮官達不在の中で、当然大敗北。
これで、幕府が無くなることが決定した

史上最大の卑怯者です。

慶喜の行動には、どんなことでも驚かなくなっていた美賀子だが
この時ばかりは皆目分からなくなった。

江戸でも大わらわ
慶喜は罪人として扱われます。

尋問などで、江戸城へ
美賀子は会えません。

まずは謹慎
慶喜は寛永寺に向かいます。

その道中を狙って、着替え等を持っていく。

お着替えお持ちしました
その他、何かお要り用のものがありましたらお持ちしますが。

当面、何も要らん。

事務的な会話
世間的には、幕府を無くした張本人の卑怯者なので
命は無かろうと思われている。
今生の別れになるのかも知れないけれど。

でも、美賀子にはそうならない確信があった。
あの人は、そういう人じゃない。

続きはシリーズの次回でね。

[大奥]シリーズはこちら(少し下げてね)