荒川で桜と芝桜

今日は月に一度のウォーキングイベントの日
以前荒川をウォーキングしたとき、荒川は人が掘ったと知ってびっくり
それ以来、荒川に魅せられていつかイベントにしようと思っておりました

芝桜が咲くと知ったので、よしその時期だ、と4月に設定

実は同じ場所で桜並木もあるのですが
両方の時期は少しずれており、同時期に見れる事は今までほぼありませんでした
桜が散ったあとに芝桜が満開って感じ

ウォーキングイベントでは、やはり桜は最強アイテム
分かってはいるのですが
桜のイベントはとても難しい
毎年、満開時期はあまりにずれるし、すぐ終わっちゃう
当たり外れが極端で今まで勝率5割ってところかも知れません

最近は、桜を組み込むとしても、歴史ものとかをメインにし、
まあ咲いてればもうけもん的な位置づけにしています

春の花を組み込むとしても、菜の花、チューリップ、といった
桜より長く咲いているものをメインに持ってくるようにしています

そういう意味でも芝桜は良いんじゃないでしょうか

今年は、桜が例年より早いはずだったのが、ずれにずれました
ひょっとすると、咲いている時期が長いはずの芝桜さえ咲いてないんじゃないの?

ヒヤヒヤしながら、朝早めに行って
下見
咲いているかなあ

おおっ
満開とは言わないまでも
十分見応えあるほどに咲いておりました
やったぜー

しかもなんとなんと
桜も咲いているではありませんか

芝桜と桜の共演
滅多にあることではありません
桜バックの芝桜




離れたところから見ると、北区の「KITA CITY」の文字がくっきり

ラッキーラッキー
超ラッキーでございました

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

[日本語の発音] ゐ、ゑ、を

[日本語の発音] 奈良時代に母音は8個あった
[日本語の発音] ハヒフヘホはパピプペポ
[日本語の発音] 発音通りに書いた時代
の続きです
「日本語の発音はどう変わってきたか」からの引用です

平安時代の後期

いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみし ゑひもせす

日本人なら誰でも知っているいろは歌
いろは四十七文字をひとつずつ使いつつ、仏教の教えを説いたとても優れた歌

色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず

(すべて形〔色〕あるものは滅び去る。この世の誰が永遠の命を保つというのか。
諸行無常・有為転変の真理を説く仏教の奥山に今日分け入って、
軽薄な夢を見まいぞ、現実に酔いしれることなく)

現代人にはまず違和感があるのは、ゐとゑですね
現在の「イ」の発音には「い(i)」と「ゐ(wi)」があり
現在の「エ」の発音には「え(ye)」と「ゑ(we)」があった
現在の「オ」の発音には「お(o)」と「を(wo)」があった

母さんが、よく、それはどっちの「い」やねん、いは二種類やで
と言っていたのを思い出します

いろは歌が作られた時には、別々の発音だから、別々の音が当てられていたということになります
ところが、平安時代後期には、発音が一緒になってしまい「i」と「ye」と「o」に統一されてしまう
平安時代の中頃は「ye」だったんです
yesterday の発音のyeです
平安時代の後期に、「ye」は「e」に変化します

発音は統一されますが、文字は統一されなかった。
そのあと、昭和に至るまで、ずっと二種類

統一前は「をかし」は「wokatsi」と発音していたからそのまま書けば良かった

統一後の人々は、耳で聞いたことばを文字に書き表そうとしたとき、
どっちで書くべきか悩み続けることになります
この問題を「仮名使い」の問題と言います
助詞についての仮名使いは以前にも書きましたので、よろしかったら
を は へ、変な助詞には歴史がある
は へ 、には長い歴史が

室町時代に来日した宣教師が作った辞書では、音の区別が無いことが明確に分かります

ハ行
ハ行が最初はパピプペポの発音だったという話はしました
それが、平安時代になると、fa、fi、fu、fe、foになる
2音目以降はwa wi u we wo
ここは、wa i u e o に統一

1音目のfa、fi、fu、fe、foはというと
平安時代の後期には、ha hi hu he ho
そうです。今と同じです
1音目も2音目も今と同じ

ハ行の発音の変化の長い旅はここで終結するのです

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] ピンからキリまで

「ことば日本史」室町時代から

ピンからキリまで
室町末期には、南蛮貿易が盛んになり、
さまざまな西洋の文物が輸入されるようになった。

そのなかに西洋カルタ、つまりトランプもあって、
「天正カルタ」と呼ばれた。

その一の札をピン、十二の札をキリという。
ピンは、点という意味のポルトガル語「pinta」にちなむ。
ピン芸人とか言いますね

キリは、十字架を意味する「cruz」によるといわれ、
したがって十をキリといった。
それを、最後のものという意味に転じて、
十二の札に使ったのだろうか。

キリについては、花札の十二月が桐であることによるという説
(花札でも一月はピン、十二月はキリと呼ぶ)や、
限りの意味の「切り」によるという説もある。

いずれにせよ、カードの一から十二まで、
すなわち最高のものから最低のものまでという意味で
「ピンからキリまで」というようになった。

ピンからキリまでってどっちが良くてどっちが悪いの?って気になります
ピンが1でキリが12、トランプだとキングなんだったら
キリの方が良さそうですが
ピンの方を良いようにイメージしている気がしませんか?どうでしょう
1はエースだから良いのかなあ

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[足利将軍]8-2 義政。応仁の乱の始まり

[足利将軍]8 義政。頑張る気持ちはあるんだけど
の続きです

応仁の乱

まずは、畠山氏の家督争いが起こる
畠山持国は、弟の持豊に家督を譲るつもりだったんだけど
気が変わって、息子の義就(よしひろ)に譲った
将軍の足利義政も、はい分かりました。良いですよ

持豊自身は、しゃあないなあ、と諦めたんだけど、持豊の取り巻きたちが納得しない
持豊の息子、弥三郎を立てて、争いを仕掛ける

畠山持国の長年のライバルだった細川勝元に応援を依頼
細川勝元は、畠山持国の勢力を削ぐ良いチャンスとばかり、快諾
さらに、次なる実力者、山名宗全(持豊)も弥三郎側に付く
面白いですね。山名宗全は最初、細川勝元と同じ側
そうなると圧勝。
義就は京都を脱出、お父さんの畠山持国も引退表明

はい、一件落着

のようですが、将軍義政としてはモヤモヤ
義就でOKって言ったのに。
政長の家督相続は認めるも、弥三郎派の人物を処分

何それ
頭に来たのは細川勝元。
管領をやめると言い出した

ごめんごめん。そう言わずに
なんとか慰留

気持ちがおさまらない将軍義政は、山名宗全が悪い、と言い出した。
討伐命令が出るも、細川勝元のとりなしで撤回
山名宗全は、やってらんない、と京都を離れ、国に帰っちゃった

山名宗全が京都からいなくなると、
義政、ビックリするようなことをします

畠山義就に声をかけ
戻っておいで

弥三郎は追い出され、落ちのびたまま亡くなりますが
弥三郎派は、その弟の弥二郎を擁立。後の政長です

またまたビックリ
将軍義政は、畠山義就がちょっと気に入らない行動を取ると
今度は、畠山政長を家督と認めると発表

コロッコロ
意味分からん

義政には、弟がいるが出家していた
義政が歳を取ってきて、男の子がみんな早くして亡くなったので
弟に還俗(げんぞく)させ、跡継ぎにと考えた
義視(よしみ)です
ところが次に生まれた男の子が元気に育っていった
後の義尚(よしひさ)です

この時期、3つの勢力があった
ひとつは伊勢貞親を中心とする将軍義政の側近
二つ目は山名宗全をリーダーとする集団
三つ目は細川勝元をリーダーとする集団

将軍義政は斯波(しば)氏の家督争いにも介入し、家督をすげ変えた

これに怒ったのが山名宗全
気まぐれだけで、火をつけ回るのは、将軍としてふさわしくない
義視の方が良いんじゃないか

山名宗全が戦の準備をするのを知って、呼応したのが、畠山義就

先手を打ったのは、将軍側近グループの伊勢貞親
義視が謀反を起こそうとしてますよ、と義政に告げ口

義政は義視討伐命令を出す

義視は元々自分の身が危ないと思っていたので
山名宗全と細川勝元に助けを求めます

山名宗全と細川勝元の二大勢力が味方につけば圧勝
義視を将軍に据える暫定政権が出来上がるはずでした

ところが、前言撤回!勘違い、と義政が言い出した
うそ言った伊勢貞親は処分するよ

山名宗全としては、義視を将軍にする気まんまんなので、そんな話には乗らなかったが
細川勝元が、義政擁護をし出した

伊勢貞親がいなくなるなら、3すくみの状況が崩れる
細川勝元としては、悪い話ではない

勝元さん話が違うよ

かくして、3大勢力状況が、2大勢力となります
山名宗全は、元々親戚であり、20年来の付き合いだった細川勝元との決別を決意します

長い長い応仁の乱の始まりです

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)