[天皇]107 後陽成天皇
の続きです
結局、秀吉の中国制覇の構想は失敗に終わる
その間も、なにかにつけて、後陽成天皇は秀吉にやんわりと翻意を促した
晩年は、
慶長3(1598)年8月18日、豊臣秀吉は62年の生涯を閉じる
ただし、発表されるのは翌年の正月までなかった
秀吉が死ぬ5日前、後陽成天皇は気分を悪くし、めまいを起こした
その後病状が悪化し、一進一退
回復の様相が見えない中、譲位の意向を明らかにする
すでに決まっていたはずの、長男ではなく、
三男に譲りたいと思う
実はすでに死んでいるものの
秀吉側は長男を推し、つばぜり合いが続く
数カ月後、後陽成天皇は回復
秀吉は死後、「新八幡」として祀られる事を望んでいたが
これも、八幡が天皇の祖先神であることから、後陽成天皇が抵抗
結局、神号は「豊国大明神」に決まる
家康
秀吉没後の政務は、
秀吉の遺言に従って五大老の徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家が担うが
筆頭の家康、次席の前田利家だったが
前田利家が亡くなることで
家康が大きく主導権を持つようになる
そうした状況の中
家康は、独自に朝廷との関係を構築していく
後陽成天皇は参内した家康に常御所で対面
未だ将軍でない家康を受け入れたことで
家康を天下人として認めたことになる
天下が二分され、関が原の戦いが近づいてくると
後陽成天皇は和議を提案している
関が原の戦いで東軍が勝利すると
後陽成天皇は家康のもとに、使いをよこす
徐々に、天皇側と家康側が、距離を縮めていき
慶長8(1603)年
家康が、いよいよ征夷大将軍に任ぜられることになる
それまでは、天皇も豊臣秀頼に気を使って
両にらみ的な動きもしてきたが
征夷大将軍に任じたあとは大きく家康へとシフトしていく
さらに2年後の慶長10(1605)年
家康の息子、秀忠に将軍が譲られることになり
秀忠に対して征夷大将軍が任じられる
ただ、そのことで天下人が秀忠に移ったわけではなく
依然として実権は家康が握っていた
後陽成天皇が家康に近づいていったのは、目的があったからで
それは、自分の意図する三男への譲位
家康は譲位を了承
ただ、現実に譲位がなされるのは、すんなりはいかなかった
公家内での不祥事
なんとか落ち着いて、
再度、家康に譲位の意向を伝えて了承を得る
ところが、近づくと
家康の五女市姫が亡くなったという理由で、延期を通知される
七か条の通知がなされ
不満ならどうぞご勝手に譲位されればよろしいと
残念ながら、勝手に譲位できる資金がない
どうしても譲位したいという意向が強いので
家康に従わざるを得ない
譲って譲って我慢して、全て受けいれた
秀吉の時はあんなにも抵抗していた後陽成天皇も
したたかな家康の前ではなすすべがなかった
ようやく慶長16年1月17日、譲位が実現
後水尾天皇の誕生