[神社] オシラサマ

オシラサマ

昔あるところに、父と娘が、一頭の馬と暮らしていました。
娘は馬を好きになり、毎夜、厩に行って寝て、とうとう夫婦になりました。

これを知った父は、馬を連れ出し、桑の木につり下げて殺してしまいます。
娘は、死んだ馬の首にすがって嘆きました。

父が腹を立て、斧で馬の首を切り落としたところ、
娘はその首に乗って天に飛び去りました。
こうして、馬と娘はオシラサマという神様になったのです。

東北地方で広く信仰されるオシラサマは、
高さ30センチほどの一対の人形(馬と女性)として、神棚にも祀られます。

着物
オシラサマは着物の着せ方によって「包頭型」と「貫頭型」に分けられます。
着物をおせんたくと呼んだりもします
「包頭型」の例

オシラサマの着物は1年に1度、もしくは1代に1枚、新しくしますが、交換するのではなく、
上から新しい布を被せたり、縫い付けていくため、古いオシラサマほどボリュームが出ます。

オシラサマに着せる布は、オシラサマの好む赤や花柄を選ぶように伝えられた家が多く、
上棟式等で使用された赤い布を大切に取っておいて使っているという家も。
ただし、「赤」は色と言うよりも「よそいきの」「キレイな」というニュアンスで使われることがあったようで、
「赤い布」は必ずしも「真っ赤な無地の布」ではなく
「普段使いのものではないキレイな布」という解釈で伝承されている家もあるようです。

分布
オシラサマの由来の物語は、民俗学者柳田國男の名著「遠野物語」でも紹介されており、
遠野がオシラサマ発祥の地であると思われるようになりました。

実際には遠野以外にも広く岩手県内にはオシラサマが存在しており、
年号が記載された貴重なオシラサマの中で、
県内で最も古いのは、種市町(現洋野町)の真下家にあるオシラサマで大永5年(1525年)のものとされています。

全国的に見ると、秋田や山形の一部で岩手とほぼ同様の性格のオシラサマが存在するほか、
群馬県はじめ関東地方にも「オシラサマ」という呼称の民間信仰があるようですが、
その姿は蚕の神様を描いた「掛け軸」であり、全く別物であるとされます。
この群馬の「オシラサマ」は「蚕の神」でしかなく、
あくまでも養蚕農家が祀るものである一方、
岩手の場合、オシラサマは「目の神様」とされる地域が多く(海や船、家などその他の神である場合も)所有する家は養蚕農家とは限りません。
そのため、当初は「目の神様」であった岩手のオシラサマが、
ある時期に関東地方のオシラサマの影響を受け、「養蚕の神」という一面も付け加えられてしまったのでは、
という説もあるようです。

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[伊勢神宮]3 内宮解説2

伊勢神宮で考えたこと
[伊勢神宮]2 内宮解説
の続きです

正宮(しょうぐう)を過ぎて、それ以外の別宮を巡っていくことにします
再度、マップを貼っておきますね

■籾種石(もみだねいし)
当日どの石か分からなかったので、写真は本からの引用です
参道の左側、正宮の建つ御敷地の石垣にある、特別大きな岩。
苔むしたこの岩は、江戸時代の遷宮の時、地元の人々が五十鈴川の川上にあった大岩を、自分たちの手で運んで献納したものと伝えられています。
それは大変な作業で、食料に困って籾種まで食べたことから、籾種石といわれるようになったとも言われています。

■御稲御倉(みしねのみくら)
神宮の神田で収穫された御稲がここに納められています。
御稲は、10月の神嘗祭、6月と12月の月次祭で天照大御神に捧げられます。

御稲御倉は、正殿と同じ唯一神明造りで建てられており、茅葺きの屋根の両側を、棟持柱(むなもちばしら)が支える構造を間近で見ることができます。

唯一神明造りはこう

掘立柱、切妻造、平入り、檜の素木造り、茅葺き屋根に千木と鰹木といった特徴を持ち、古代の高床式倉庫の様式を今に伝える、日本で最も古い神社建築様式
一般の神社で神明造を採用する際は、伊勢神宮と同一にならないよう意図的に変更(例:鰹木の本数を減らす、礎石立てにするなど)されるので、唯一。

■外弊殿(げへいでん)
神々に奉納された幣帛(へいはく=おそなえ)や神宝などが納められています。

■荒祭宮(あらまつりのみや)
ご祭神は、同じく天照大御神なんだけど、荒御魂(あらみたま)
荒御魂とは、 神様の優しくおだやかな面を和御魂(にぎみたま)というのに 対して、荒々しく顕著なご神威を表しています。
神様も状況によってノルアドレナリンや副交感神経のゆったりした状態と、アドレナリンバシバシで交感神経優位の状態もある
神道の面白いのは、それが別々に祀られるということ
夫婦円満だの家内安全安産祈願など穏やかな方が良いお願いは和御魂、合格祈願や勝負事などは荒御魂にお願いします

■御酒殿(みさかどの)と由貴御倉(ゆきみくら)
正面から見て左が御酒殿、右が由貴御倉です。御酒殿は、10月の神嘗祭、6月と12月の月次祭の由貴の大御饌祭(おおみけさい)のにお供えする四種のお酒をいったん納める場所です。
御稲御倉のお米もそうでしたが、神事でお供えするものは自給自足です。伊勢神宮は酒類製造免許まで持っています

由貴御倉は、古くは大御饌祭(おおみけさい)のお供えものや果物を保管しておく倉でした。由貴とは、清浄でけがれがないという意味なのです。
こちらもやっぱり自給自足

■忌火屋殿(いみびやでん)と祓所(はらえど)
忌火屋殿は神饌(しんせん=神様の食事)の調理を行う場所です。

忌火とは、「清浄な火」という意味で、御火鑽具(みひきりぐ)によっておこした火を用い、お供えものの準備をするのです。
伊勢神宮は徹底していますね。火すら自分でおこします

祓所は、忌火屋殿の前庭で、祭典の際に神饌と神職のお祓いをする場所です。

■四至神(みやのめぐりのかみ)
注連縄(しめなわ)に囲まれた石畳の上にお祀りされています。四至とは四方を意味しており、内宮の神域の四方を守護している神様です。
二拝二拍手一拝の作法でお参りをします

■風日祈宮(かざひのみのみや)
風雨を司る神様で、雨風の災害がなく天候が順調であり、稲を中心とする農作物が豊かに育つよう祈りが捧げられるお宮です。

■御厩(みうまや)
運が良ければ馬に会えます
私が行ったときはいませんでした

■参集殿(さんしゅうでん)
休憩所です
ここで、図説伊勢神宮という本を買いました

■大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)と子安神社
大山祇神社のご祭神は大山祇神で、神路山(かみじやま)の入り口にご鎮座される山の守り神です。子安神社は木華咲耶姫神(このはなさくやのひめ)をお祀りしています。
安産の神、子授けの神として信仰されています。

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[伊勢神宮]2 内宮解説

伊勢神宮で考えたこと
の続きです

内宮(ないくう)
ないぐう、でも、ないくう、でもどちらの読み方でも大丈夫なようです。

参宮橋案内所でこのマップをもらえます
表裏で内宮と外宮になっています

■宇治橋前の鳥居
20年ごとの式年遷宮で、正宮の中の一番太い棟持柱(むなもちばしら)が外されたあとは、この鳥居になります

■宇治橋
五十鈴にかけられた橋を渡ると聖域になります
宇治橋も式年遷宮で20年に一回かけ替えられるのですが
大量の人々が渡るため、20年間で5cm程度すり減るそうです


流木が流れてきて壊れるのを防ぐため、木除け杭があります

■神苑(しんえん)
宇治橋を渡って右に折れると、きれいな砂利道が続き、神苑という松の庭園が広がります

その中に、大正天皇お手植えの松があります

■手水舎(てみずしゃ、ちょうずしゃ)

ただ昔は、こういった手水舎はなく、五十鈴川で身を清めていました
■五十鈴川御手洗場

すごく水がきれいでとても冷たかった

■神楽殿
ご祈祷の神楽を行う場所です

■五丈殿
神楽殿を過ぎると左手側にある建物です。
雨天の時のお祓いや、遷宮諸祭の饗膳 (きょうぜん=儀式としての祝宴)が行われます。
一丈は約3mで、建物の正面の長さから名前が付けられています。

■御贄調舎(みにえちょうしゃ)
ご正宮への階段下、参道の右側にあります。
奥に小さな石積があり、皇大神宮のお祭の際には、こちらに御餓都神(みつけかみ=天照大御神のお食事を司る神)である外宮の豊受大御神(とようけのおおかみ)をお迎えし、お供えもののあわびを調理する儀式が行われるのです。

■正宮(しょうぐう)
いよいよ正宮。天照大神がおられる場所です
写真は階段の下からしか写してはいけません

垣根に囲われた外からしか見れないので
天照大神がおられる建物は見えません

私が行ったとき、1つ目の囲いの中に一般の女性のかたが神職の人と一緒に入られてお辞儀しておられました
式年遷宮への寄付をすればそこまで入れるようです

中に入れる人でも、天照大神のおられる正殿は写真を取ることができませんが
伊勢神宮の中で買った「図説伊勢神宮」には式年遷宮後すぐで、天照大神が引っ越してくる直前の写真が出ていました。

ここに、三種の神器の一つ、八咫の鏡(やたのかがみ)があります

式年遷宮の時期に上から写した、正宮が2つ並んでいる貴重な写真です

続きは、次回といたします

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[神社] 方位の神様

日本の神様シリーズ
古事記日本書紀以外の神様です

方位の神様

古代中国では、天には東西南北の方角ごとに霊獣(めでたい動物)の姿をした神様がいると考えられていました。
北には玄武(げんぶ=亀と蛇が合体した想像上の動物)
東には青龍(せいりゅう=青い龍)
南には朱雀(すざく=赤い鳥)
西には白虎(びゃっこ=白い虎)

合わせて四神(ししん)といいます。

四神は、飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていました。
奈良県の明日香村にあるキトラ古墳の石室内の壁には、
四神が極彩色で描かれています。
この絵は、埋葬された人を守護するのが目的だと考えられています。

四神を地上に当てはめた場合、
棲み処に適した地形があるとされます。
この考え方を四神相応(しじんそうおう)といいます。

玄武には丘陵、青龍は流水、白虎は大道、朱雀はくぼ地がふさわしいとされ、
これらの地形に囲まれた土地を都にすると、
その都は四神に守られて繁栄すると信じられました。

奈良の平城京や、京都の平安京も、この四神相応の地に造られたとする見方があります。
たとえば平安京の場合、丘陵は船岡山、流水は鴨川、大道は山陰道、くぼ地はかつてあった湿地の巨椋池(おぐらいけ)とされます。

歳徳神(としとくじん)と金神(こんじん)
歳徳神(としとくじん)と金神(こんじん)も、方位にかかわる神様です。
その起源は、古代中国の世界観をもとに日本で発達した陰陽道(おんみょうどう)という考え方にあります。

歳徳神のいる方位を恵方(えほう)といい、縁起がよいとされます。
ただし、その方位は毎年変わります。
これにちなむのが、節分に恵方に向けて巻き寿司を丸かじりする恵方巻きの慣習です。

一方、金神のいる方位は大凶で、
その方角への引っ越しなどはしてはいけないとされます。
これを犯すと「金神七殺(こんじんしちさつ)」として家族に災いが及ぶと信じられています。
金神がどの方向を向いているかは、干支や季節によって毎年変わるため、
暦の注記や専門家(巫女など)に確認する方法がありました。

恐ろしい凶神として畏れられていましたが、時代とともに、この金神を大地そのものの神と捉え直し、信仰の対象として見直す動きも生まれました。
金光教は、この金神を大地を司る神として再解釈し、篤実な生き方を説く宗教として創唱されたものです。

四神や恵方については、過去にも書いているのでよろしかったらこちらも読んでね
[東京ミステリー] 風水で江戸の都市づくり

[神様仏様]シリーズはこちら(少し下げてね)