週末ウォーキング、今回は葛飾区。青砥からスタートです。
宝泉寺
松浦静山は江戸検定では常連さん
肥前国平戸藩の藩主なんだけど
「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆を書いて超売れっ子作家
20年にも渡って、江戸の出来事や文化を克明に書いてくれているから
江戸の事を知ろうと思うと、まずは「甲子夜話」
江戸検定では、「甲子夜話」によると、という書き出しの問題が実に多い
その松浦静山の墓があるんです。
超ビッグ。こんなでかい宝篋印塔なかなかありません。
立石熊野神社
陰陽師の安倍晴明の勧請です。
五行にちなんで、神社の敷地も五角形です。
巨大なクスノキが2本
ここが一気に有名になったのは、ご神体の石棒が
調べてみると、古代人が使った石剣だということが分かったのです。「神代の石剣」です。
いつ分かったかというと、江戸時代の寛政年間。11代将軍の家斉。
松平定信の寛政の改革の頃です。幕府の地誌取調役が発見しました。
以来「熊野神社の神代の石剣」として全国的に有名になり、江戸市中をはじめ多くの崇敬を集め、
連日参詣人が群れを成したといわれます。
石剣は、二尺四寸(長さ約70cm)あり信仰の的でした。
南蔵院
うわあ、でかい
こちらでも考古学的に重要な発見がありました。
明治31年、南蔵院の裏の畑で、埴輪の土偶が出土されたのです。
立石様
公園の中に、玉垣で囲われているのが
地名の由来にもなった立石様
えっ、これ石なの?
と言うなかれ。
信仰により削られちゃったと言うこともあるけれど
下を掘ってみれば、巨大な石だと言うことになっています。
今も語り継がれえている伝承として、
「立石様を掘るとバチがあたる」
「立石様は青砥駅までその根が続いている」
「中川が蛇行しているのは立石様を避けて掘ったからだ」などがある
江戸時代後期以降、立石は
寒さで欠け暖かくなると元に戻る「活蘇石(かっそせき)」として
江戸名所図会などの地誌類に多く記載されるようになります。
立石が玉石垣で囲われるようになったのは文化年間(1804~1818)以降で、
その周囲に梛(なぎ)や小竹が繁茂する、社叢を呈していました。
「雲根志」には、立石が高さ2尺(約60.6cm)程度であったとされていますが、
御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、
愛石家のコレクションとして人々に削り取られていきました。
また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、
その結果、現在の高さに至っています。
なお、大正12年には人類学者の鳥居龍蔵がこの地を訪れ、
石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたものと結論づけています。
その後も中谷治宇二郎、大場磐雄ら考古学者により、
先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。
のきなみ、3連チャンで古代がらみです
どうも、考古学的にみて、この辺りに古墳や、古代人の信仰の対象の石があるというのが
不思議なことらしい
低湿地だからです。
古代には、海の底だった可能性もある
遺跡があるので、海じゃなかったという説と
後に、ここに誰かが運んだという説に分かれるらしい
喜多向観音堂
昔、百姓の久兵衛の奥さん妙(たゑ)さんが
浅草の浅草寺にとても帰依した。
千日詣でをして、満願の日に
光輝く観音様が現れた。
よう頑張った
有難や、と作ったのがこの喜多向観音堂
極めて霊験あらたかだと評判で
ひとつは絶対に願うが叶うそうです。
セルロイド工場発祥の地
渋江公園になっているところ
セルロイドの工場が日本で初めてできた場所です
千種稔氏が この地に初めて玩具工場を作ったのです。
♪青い眼をしたおにんぎょうは
アメリカうまれの セルロイド
渋江公園にはテニスコートが何面かあるのですが
なんでしょうか、今日は高校生(中学生かも)やその応援の家族でごった返しています。
かなり大規模なテニス大会のように思われます。
みんな頑張れ!
ウォーキングの続きは明日ね