新田義貞の鎌倉攻めを実地検証

八国山緑地で緑のシャワー
縄文時代に行ってきました。赤いっ
の続きです。

将軍塚
八国山緑地の最後のところのちょっとおさらい

この将軍塚は
元弘3(1333)年、5/12
新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府の北条軍、と久米川の戦いで戦い
一旦勝利した時に、旗を立てたところ
後でもう一回おさらいしますね

久米川合戦場跡

その久米川合戦場です。
新田義貞頑張れっ

徳蔵寺
確かさっき、徳蔵寺に重要文化財、元弘の板碑(いたび)の実物があると書いてあったぞ
徳蔵寺はコースの途中にあったから寄ってみよう。

ぐるっと回ってもいまいち板碑がどこにあるか分からない

あっ、ひょっとして

灯台元暗し、こんなすごい建物が。
元弘の板碑保存館。入口は開いていそうだが、拝観料200円とある
ようやく寺務所を見つけ、200円を払った

入口空いてますからご自由に

中に入ると自動的に電気がついた
2階建
肝心の板碑は2階だと言うことで2階へ

あった!

これが、新田義貞が鎌倉幕府を倒した証拠となった、重要文化財の板碑

新田義貞が鎌倉幕府を倒した時間的経緯、そのルートも書かれている
そのあたりは、「太平記」に書かれているのだけど
何せ物語なので、その信憑性が議論されていた。

そこにこの板碑の発見
鎌倉攻めの時、元弘3(1333)年、5/15に討死した3人の家来を弔うためのもの
日にちや名前が、太平記に書いてある内容とぴったり一致した。
前のガラスが光って、写真では見にくいと思いますが、中にはこう書いてあります。

太平記は信用して良い!
となった、歴史上極めて重要な意味のあるものだから重要文化財
そんな貴重なものの実物が、今目の前にあるわけです。
鎌倉時代が、室町時代に切り替わった証拠品。

2階建のすごい建物で守られているはずです。
それを200円で見せてもらえる。

ただ、失敗したぁ
新田義貞についてはあまり分からない。
せっかくだったら、多少でも勉強してから来たら、とても楽しめたろう。
ここは、ざっとで切り上げて
多少勉強した後でもう一度来ることにしよう。
霞が関の憲政記念館をそうしたように。

結果を言います。
これ、土曜日の事なんですが
翌日の日曜日、新田義貞について勉強してから
もう一度、ここに来ました。

寺務所で

昨日お伺いしたんですが
あんまり素晴らしかったものでまた来ちゃいました。

はい、200円です。
入口空いてますからご自由に。

新田義貞については、また、適当なところで書くことにしますね。
小手指の戦い、さっきの久米川の戦い、分倍河原の戦いと
三つの戦いで一進一退。
分倍河原ではほぼ負けかけて、板碑の3人も死んじゃう訳ですが
一気に形勢逆転

そのあと、勢いついてますので、一気に鎌倉に乗り込みます
ここでも苦労しますが
最終的に鎌倉幕府を滅ぼすんです。

新田義貞の板碑はすごいとして、200円の価値は他にも。
2階に上がってびっくり仰天したのが、板碑の数
あるわあるわ


板碑ファンにはたまりません。
おそらくここの住職さんが代々、板碑のコレクターで地道に買い揃えていったのではないでしょうか。

板碑について説明しておきましょう。
薄い石の板で、仏教各派の信仰を表します。

一番メインのところの梵字は一文字で、仏様を表します。
この例でいうと、サンスクリット語でキリーク、阿弥陀如来

日曜日は2回目なので、このコレクションを全部見ました
ほとんどが阿弥陀如来でした。
大日如来が3つ。釈迦如来が2つあっただけ。

宝篋印塔や

五輪塔についても説明がありました。
ああ、嬉しいっ

前の自家製パン屋さんで、トトロのパンを買って食べました。

東村山ふるさと歴史館
東村山市の郷土資料館です。
正直、疲れはてておりますが、頑張るぞっ
一番の目的は、たいけんの里に書いてあった瓦塔

あったぁ


こんなでかいものだったのか
こんなの良く地中に埋まってたね
本物は国立博物館にあって、これはレプリカなんですって。

鷹場の話や天明の飢饉の話など、興味深い話がいっぱい

その中で、興味深かったのが、東京都内で建築の国宝としては唯一なのが正福寺の千体地蔵堂
建物の模型が置いてあり
屋根の下の斗栱のところがとっても面白い形、今まで見たことないなあ
中にあるお地蔵さんは、レプリカですが、こんな感じ

さらに、貞和の板碑(じょうわのいたび)というどでかい板碑が同じ正福寺にあるというじゃないですか

ちょっと待ってくださいよ。
その正福寺ってどこにあるの?

グーグルマップで調べてみると
花菖蒲の北山公園のもうちょっと南
行こうと思えば行けたのか
ああ悔しい。いつか絶対行くぞ
まあ、そういうのって、今までほとんど本当に行けてるんですよね。

そして、昨日のブログに、正福寺の事をいただきました。
いつまで見てても飽きない建築だと。

行く行く、絶対行くーっ

結果を言います。
これ、土曜日の事なんですが
翌日の日曜日、行っちゃいました。

そう。正福寺と徳蔵寺に、車で行きました。

正福寺の話は明日ね。

暑くて疲れたけど、楽しかった。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

縄文時代に行ってきました。赤いっ

八国山緑地で緑のシャワー
でお話しした、八国山たいけんの里、についてです。

八国山たいけんの里
小学生相手の自然体験学習を行う場所かと思っていましたが
全くそうではありませんでした。

奥に、縄文時代の出土品が展示してありますので
ご覧ください

はーい

縄文だったのか
なるほど、ここで出土したわけね
下宅部(しもやけべ)遺跡というそうです。

それならそれで、よくあるパターン
郷土資料館は時代順で展示されるので、
大体、出土された土器や、貝塚から始まります。

そう思いながら見ると
いきなり心捕まれました。

漆(うるし)の技術がうんぬん

えっ、どういうこと?
縄文だよね、縄文
弥生時代より前

そんな時に漆の技術があるとは思えない
漆って、あの、お椀に塗ってあるあれでしょう。

教科書とか各博物館で置いてある縄文式土器と、
繊細な漆のお椀がどうしても結び付かない。

赤いっ
ほんまに赤い

お恥ずかしいのですが
漆に関する知識が無さすぎて、呆然とするばかり

弥生時代にも至っていない縄文時代
食っていくためにギリギリなんじゃないの?
なんでまた漆を塗る?

解説の中で、ひとつ書いてあったのが
補修するため
なるほど、土器に穴が空いたとき、
漆を塗ると、塞がるのか。

でも、接着剤だけでなく、補強剤としても使われたと思われます。
長持ちするってこと。

でも、この重要文化財に指定されている漆塗りの櫛やヘアピンなんて
本当にそれだけ?って気がする
赤い、ってことに意味があるように思う。
縄文時代の女性が、ある男性に恋をしたんじゃないか
お洒落をしたかった。
ヘアピンには、細かい模様が描かれています。

そう思いながら見ると
今までの縄文時代に対する認識が一変してきます。

そもそも、漆って漆の木の樹液から取るって初めて知りました。

縄文式土器の作り方
それではここで、一緒に縄文式土器を作りましょう

まず砂と粘土を用意してください。

混ぜてコネコネ

粘土遊びをするときに、みんな得意気に作る、あれ、を作りましょう
「へび」です。

床にあたる部分を作ったら、そのふちに、ぐるっとへびを一周させます。
さらに、その上にへびをまた一周
崩れないように、ペタンペタン

繋ぎ目から崩れないよう、手やヘラで丁寧に整形

お好みの形に仕上がったら、ここからは、センスが左右します。
外側に模様を書きましょう。
縄文っぽいのがおすすめですが、子供ウケするアンパンマンを書くのも斬新です。

ある程度乾いたら、内部を丁寧に磨きます。
これで水が漏れにくくなります。

急な乾燥は禁物です。
日陰で干しましょう。

十分に乾燥したら、焼きの作業に入ります。
焚き火をしましょう

♪さざんかさざんか咲いた道
焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き

縄文時代から伝わる、焼き工程の歌です。

いきなり放り込むと割れてしまいます。
入れたり出したりで徐々に温度を上げていき、
ここぞというときに、ホレッ

はい完成ーっ

高床式住居を作るための木材加工技術

屋根の木材をはめ込むためのほぞがあります。
その加工するための道具

それ以外にも、食料確保のために、魚を取ったり貝を取ったりの道具
狩猟の道具
ドングリをどう食べていたか
繊維として麻をどう利用していたか

豆を育てていて最初は、ツルマメと呼ばれる小さな豆
時代とともに、ダイズに変わっていき、
そのダイズの大きさも、ある時期以降、急激に大きくなります。

この下宅部遺跡の面白いところは、複数の違う時代のものが出土されていること
縄文時代よりあとの古墳時代や、平安時代のものも

瓦塔
お隣に宅部山遺跡というのがあるんですが
そこでこんなすごい、瓦塔というのが見つかった

いつの時代のものかが書いていなかったんですが
明らかに仏教のものなので、仏教伝来以降でしょう。

その屋根の一部が、250m離れた、ここ下宅部遺跡で発見された。

不思議だ
誰が何の目的で運んだのか
燃えないゴミの日に、ゴミとして運ばれたんでしょうか

あと、池を祭祀の場として使った遺跡も発見されたようです。

いやあ、面白かった。

帰ろうとした時に、スタッフさんを発見
チャンス!

スタッフさんと話ができると、とても楽しいウォーキングになります。

すごいですね、縄文時代に漆があったんですね

そもそも漆の木って日本にはほとんどなくて、大陸のものだから
日本に伝わったあと、日本で栽培されたみたいです。

接着剤って書いてありましたが

元々はそうで、防腐剤的な事は後々発見されていったようです。
接着剤的なものは、全国各地で、色んな方法があるんですが
例えば東北では、天然アスファルトが使われていたようです。

アスファルトが天然なんですか

砂の中に含まれている油分から取り出して、みたいな事だと思います。

漆の赤いのは、元々ですか

ある成分が含まれていると赤く変化するんですが
赤い顔料を混ぜるという方が一般的だと思います。

ということは、わざわざ赤くしたということですね

一番多く取れたのは、朱です。
でも、朱が取れたのは北海道です。
それが運ばれたと考えられます。

わざわざ赤くするために、
北海道から運んだんですか
縄文時代に北海道からここまで運べる船も作れないでしょうし

陸路だとは思いますが、詳しい事は分かっていません。

弥生時代になると漆文化が突然消えたと書いてありましたが

全国的に消えたという事ではないと思います。
少なくともこのあたりでは、出土されなくなり
古墳時代以降でまた出るようになる
縄文時代の漆技術はとても発達していて
今の漆技術と基本的なところはほぼ同じというレベルに達していました。

当然文字なんて全くない時代だから
口伝えしか方法はないと思いますが
そこまで技術を進化させていけるもんなんですね。
北海道に朱があるなんてどうやって分かったんだか

おっしゃるとおり、文字がないので
全ては現象から想像するしかない。
麻から繊維を取るなんて、とても大変な作業なんですが
やっているんですよね。

ありがとうございました。
とても面白かったです。

はっけんのもり
下宅部遺跡をテーマにちょっとした公園もあるというので足を伸ばしました。


縄文時代にやって来たーっ
縄文時代の川


ここで焚き火
♪さざんかさざんか咲いた道

古墳時代以降で、祭祀に使われた池
のはずだったんですが
崩れちゃったようです。

長くなりました。
このあと、八国山緑地のハイキングで、そのあと、新田義貞関連の遺跡巡りと続きます。
八国山緑地は昨日お話しましたので、
明日は新田義貞の話と致します。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

八国山緑地で緑のシャワー

週末です。猛暑です。
こういうときは緑に限る、という事で、
多摩地区、東村山市の、八国山緑地へゴー

八国山緑地
所沢から一駅ずつ、乗り換えて、西武園、という駅からすぐ。

「東京自然を楽しむウォーキング」に従って歩いていきます。

すぐに日陰になって
涼しいぞ。快適快適


最初の目的地はころころ広場
出たっ


お昼近くに出たので、自宅で早めの昼食を食べて来ましたが
パンひとつだけ買って持ってきました。
ここのベンチで追加のお昼といたしましょう。

この広場で初めて人を見ました。
昆虫採集の親子連れ

こんな感じじゃバッタが、たまたまコロナで陽性ってパターンでないと
感染リスクはないね

さあ、食事を終えて、八国山たいけんの里に寄り道
靴の泥落としが斬新です

踏切を渡ります
電車は単線

たいけんと言っているから、自然学習館的なところかな
いくつか行ったことあるけど
大体は、小学生相手に自然学習をすることを目的にしている
大人がイベントでもない日に行っても、ちょこちょこっと展示しているものを見るだけ

と、たかをくくっておりました。

ビックリしました。
ここ、すごかった。
ここだけで1テーマにしたいので一旦飛ばします。

北山公園
ガイド本には、花菖蒲で有名とありました。
時期じゃないけど行ってみましょう。

えっ、田んぼ

東京都って
意外に農業がかなり行われているんだけど
土が田んぼに適していないので、畑ばっかり
周り田んぼだらけの土地で育った私としては
とても違和感のある点です。

これだけ歩き回っても、今まで、田んぼを見たのは板橋区の水車公園の一角と、
先日のケルネル田んぼだけ

この広さは今まで見た中で最大
テンション上がるわぁ

花菖蒲の方は実に広大


これはぜひともその時期に再度来なくては。

先ほどの踏切のところまで戻り、八国山緑地の続きです。
ひだまり広場

ひだまってます

ここからが実に長かった
ずっと尾根道を行きます。
行けども行けども緑
高低差がないので、きつくはないのですが
気分は完全に登山です。


目指す将軍塚にやってまいりました。

後半は、新田義貞(にったよしさだ)関連の色んなものになります。
ここは、新田義貞が旗を立てた場所

そして、手前にあるもっと大きなこれは

ここに元弘の板碑という歴史上とても重要なものがありましたよ、という碑です。
これも新田義貞関連
このあと、元弘の板碑の実物を見ることになるのですが
新田義貞に関しても、大きな1テーマなので、分けたいと思います。

それでは、続きは明日。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

[出雲大社] 文明王国、出雲国は本当にあったのか

[出雲大社]現人神である国造
[出雲大社] 大国主命。どういう神様なんだろう
[出雲大社]天への架け橋か
の続きです。

文明
国譲りの神話
天照大御神(アマテラスオオミカミ)が大国主命(オオクニヌシノミコト)に
国を譲るよう要請
大国主命が従う。

天照大御神は大和。大国主命は出雲。
出雲に大和に匹敵するほどの文明があったのではないか

長い間それは謎とされてきた。

でも昭和から平成という比較的最近
高度な文明を裏付けるものが見つかった。

銅剣、銅鐸
昭和59(1984)年
出雲大社の東南の方角の、斐川(ひかわ)町の荒神谷(こうじんだに)遺跡

大量の銅剣が見つかった。

それまでに日本で見つかっていた銅剣は約300本
なんとここでは、358本の銅剣が見つかった。
あっさり追い抜いちゃった。
時代は弥生時代

上下を互い違いにしてできるだけコンパクトになるようにして埋められていた。

国宝に指定され
古代出雲歴史博物館に展示されている

一体何のためのもので、何のために埋めたのか

普通に考えれば、戦争目的だし
伝来元の中国では、そのために使われている。

ところが、日本に来てから、大きさが大きくなっていった。
特に、ここで発見されたものは大きくて重すぎ
とても振り回せるものではない

さらに、木の持ち手に差し込んで固定するための穴がない
武器として使っていたとは思いがたい。

祭事のような別の用途があったのではないか。

さらに、銅鐸6個、銅矛16本

そして、平成8(1996)年、荒神谷遺跡の東南にある加茂岩倉遺跡から
銅鐸が39個も見つかった。
一ヶ所から見つかった銅鐸では過去最高

伝来元の中国では、銅鐸は、牛や馬の首にかけるベルのような役割で、小さなもの
それが、日本に伝わって巨大化していく
それと同時に、装飾も加わっていく

ここで発見された銅鐸は、大きい銅鐸の中に小さい銅鐸がすっぽりおさまって
コンパクトな形になって埋められていた。

これらの銅鐸は、鋳型に銅を流し込んで作られるんだけど
同じ模様、すなわち同じ鋳型から作ったのではないかと思われる銅鐸が
関西や九州でも見つかっている
さらに作られた年代もかなり長きに渡っている

何を意味するんだろう
単純に銅鐸好きのコレクターが集めたのか
出雲国が広い範囲、長い時代に渡っていたのか

銅鐸や銅剣はある時期以降では、ピタッと出土されなくなる
鉄に取って替わられたとも考えられる。

四隅突出型墳丘墓
そして、銅剣、銅鐸がなくなった時代
出雲地域に不思議な形の墓が出現する


こりゃまた不思議な形

この形は、出雲にしか見られない。
それ以外の地域には、大和に象徴される、前方後円墳が全国的に広がっていく。

やはり出雲には出雲王国があり
大和によって征服され
古事記や日本書紀の国譲り神話として、象徴的に書かれたのか

ただ、両者間に、大戦争があったとすると、あるであろう
戦争に関わる出土品が出雲には今のところ全く見つかっていない。

とすると、出雲は大和に平和裏に傘下に入ったのだろうか

出雲はかなり独特なスタンスで大和との関係を保っていたのかも知れない

その辺の話をまた、次回話していきたいと思います。

[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)