難病が治るケース(人のために尽くした人)

人のために尽くした人
快癒力の篠原先生によると
難病が治るケースのうちの一つは

篠原先生のところにあまり顔を出さなくなって
久しぶりに顔を出したので、どうされてましたって聞いたら
いやあ、それどろじゃなくってね
誰々さんが大変でねと、
自分の事そっちのけで人の話ばかりする

ところでお体は、
ときくと
何か治っちゃったかも
って
そういうケースだと言うのです。

何に「気」を使うのか
例えば、呼吸は吐いて吸っての繰り返し。
多く吸うためには、まず吐かなければならない。
出せば黙っていても入ってくる。
健康にかかわる「気」のエネルギーはそれと同じだって思うんです。。

「体を大切にする」より健康に良いこと
「体を大切にしない」よりは「体を大切にする」の方が、いいでしょう。
それはそう
しかし、「もっと体を大切にする」ことは「もっと健康になる」ことにつながるのだろうか。

もやもや
「健康」にかかわるブログを書いていて、多少もやもやしていたんです。
結局これって、「自分にとっていいこと」でしかないのではないか。
自分さえよければいい。いわゆるジコチュウなのではないか。

自分への納得のさせ方
それに対しての自分への納得のさせ方。
自分で実践した「健康に良いこと」「本当によかったこと」を公表する。
それは「人のため」になる
現実に楽しみにしてくれている人もいるし、コメントももらえる。
「人のため」になっているのだろう

ただ、ハッとしました。

快癒力では、「体を大切にする」ことに必死になっている人は、それほど健康にはなれないとしている。
「そんなことより」人のために一生懸命になっているひと。
惜しい惜しいと「気」をため込む人は、「気」が内向きになってしまう。

健康なんてどうでもよろしいやん

ギブアンドテイク
ギブアンドテイクはギブが先
自分の事なんてどうでもよろしい

その方が結果として健康になれますよって

それすら考えることもなく
気がついたらなおっとった

それでいいんやと

「気」っていかがわしい?

快癒力の篠原先生は最初「気」というものに傾注していきます。
西洋医学の医者でありつつ、実際に「気」で病気を治したりもする。
本当に治せるわけだからそっちの方向に行っても良かったのかもと思うけど
結局その方向にのめり込むことをしない。
「気」を全体的で重要な概念として使いたいから


東洋医学で中心になる概念、「気」
この存在が、東洋医学をいかがわしい印象にしてしまう原因でしょう。
何でもかんでも「気」のせいにしてしまう。
それって思考停止なんじゃない?。
もうちょっと、何とかないの、とは確かに思います。

ましてや、テレビで大の大人を数人並べて「気」をかけると全員一斉に倒れたり。
本当にできるんだと思います。
でも、そのことで逆にいかがわしい印象を与えてしまう。

おそらく本当に言いたいことはそういうことではないでしょう。
大きな方向性や概論のことを言っているのでしょう。 
細かいことだけに目を向けるのではなく、ばくっと全体としてどうなのか。
「気」を自分のためだけに使っているのか、人のために使っているのか。
大きくいって何を「気」にしているのか

「気」にする、「気」にしない
「気」にする。「気」にしない。
「気」を向ける。
「気」をつける。
「気」がいく。
要は、大きくいったところの生命エネルギー
それが、今、どっちに向かい、何に主に使われているのか。

気のバランス
気は総量よりもバランスの方が大切
呼吸でもハアハアと呼吸回数の多いのは良くない。
脈拍も速いのは良くない。
禅などの修行では呼吸回数を出来るだけ少なくしようとします。
人間が自分の能力を十分に発揮できるのは、脈拍が低く安定しているとき。
「気」で重要なのはバランよく安定しているということです。

難病が治る3つのケース

快癒力の篠原先生は、難病の患者さんといっぱい関わられました。
その内で不思議と難病が治る3つのケースがあることを発見されました。

難病が治る3つのケース
1.病気をあきらめた人
2.病気を忘れた人
3.人のために尽くした人
全て篠原先生が実感した「あり得ない治り方をした」人達です

総じて
病気にエネルギー(気)を使わなくなってしまった人たちです。
平たい言葉で言うと「病気? もうどうでもいいわ」
そんな人たち。

病気をあきらめた人
難病とずっと闘って、闘って、疲れはてて
「病気? もうどうでもいいわ」

病気を忘れた人
こっちの場合は、もっと積極的に「それどころじゃない」
もっとやらないといけないことがあり、そっちに集中する。
気がつくと「そう言えば病気だった」
結果として「病気? もうどうでもいいわ」

人のために尽くした人
これは、病気を忘れた人を一歩進めた感じでしょう。
より強い感じですね。
「病気? 私の事なんて、もうどうでもいいわ」

「病気になりたくない」は病気になる

快癒力の解説をしていきます。

その人の心が病気を作っている
単純に言うと「病は気から」という一言になってしまうのでしょう
快癒力では、2つの例を挙げて、説明しています
篠原先生のところに通っている体の弱ったおばあちゃん
「私は子供のころから風邪だけはひかんのですわ」
いろんな病気は経験済みだが、実際に本当に一回も風邪をひいたことがないらしい

毎年いつも同じくらいの時期に風邪をひくという男性。
いつからいつまで風邪をひくと篠原先生に言っていたそうだが、
あるとき、先生のところに風邪が治りました、と来たら、あらかじめ聞いていた「風邪が治る日」とぴったり一緒だったそうです。

病気もまた「思ったことは実現する」
面白いのはここから。
病気になりそうだ、で病気になってしまう。
これはよくわかります
驚くべきことは、「○○の病気になりたくない」と強く思っても、その病気になってしまうということです
「病気を予防したり、治そうとしてはいけない」ということです

イメージするな
特定の病気のためにいっぱいのエネルギーを使って、あの手この手で「予防」を測ったら、その病気になってしまう
とても面白い実験の話がかかれています
「皆さん、今から目をつぶってレモンを”思い浮かべない”でください」
これを言われて実際にできる人はいるでしょうか。
絶対に無理。
病気もそれと一緒です。
特定の病気を思えば思うほどその病気の「魔の手」に陥ってしまいます。

お母さんだって
「この子は風邪をひきやすくて」と言っている母親は、一生懸命子供を風邪に導いているのも同じだということ。
そりゃあ引きやすいですわね

病気を予防してはいけないという視点
「病気を予防してはいけない」という視点は、とても新しい視点。
よく、テレビで○○は糖尿病の予防にいいだの、食事や体操やいろんなことをやっていて、影響力のある番組だと店頭から納豆がなくなったりする。
そんなこんなが全て馬鹿げた行動だということ。
何と過激な
ただ、篠原先生は、回り道しながらの自分の患者さんとの豊富な経験から、実感のある法則として導き出された。
私には「正しいこと」と思えます