[ことば日本史]喧嘩両成敗

「ことば日本史」室町時代に入っていきます

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)
中世社会では、自力救済の観念が強く、喧嘩は当事者同士で解決することが普通だった。
武士同士なら戦になる
それには、紛争の解決のみならず、名誉を守るという意味もあった。
ただ、全てのものが限りなく武力を持たなければならないので、できることならば避けたいところ
何らかの基準を決めて欲しいし、裁定してくれて双方が納得する「権威」にお願いしたい
それが朝廷だったり、幕府になる

幕府が作った基準が「故戦防戦の法」
攻撃を仕掛けた(故戦)側を防戦した側より重めに処罰するというもので、
私闘・私戦を行った双方を処罰することで、私闘・私戦を禁止しようとした。
仕掛けた方と防戦の方で差はあるが、両方が罰せられるということで
喧嘩両成敗の元とされる

次第に大名が力を持つようになってくると
「故戦防戦の法」と同様の基準を設け
領地内の紛争は大名が裁定するようになる
「大内氏壁書」<史料1>
「結城氏新法度」<史料2>
「吉川氏法度」<史料3>

これらに対して、典型的な喧嘩両成敗を規定したのが今川氏
「今川仮名目録」は8条において、
喧嘩を行った者は理由を問わず双方死罪に処すと明確に規定している。

喧嘩両成敗は、自力救済による私闘・私戦を否定して、
紛争の調停を大名権力の下に一元化し、その裁判権に服させることを目的として定められた。
多くの戦国大名が、中世社会の通念であった自力救済を否定する方向に向かいつつ、
なかなかこれを克服できなかったのに対して、
今川氏が自力救済を分国法において完全に否定したことは、
今川氏の戦国大名としての権力の強さを物語っている。

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

[三種の神器]八咫鏡。どんな形?

[三種の神器] えっそうだったの?
[三種の神器] 八咫鏡はアマテラス
の続きです

八咫鏡(やたのかがみ)
八咫鏡は古事記日本書紀で作るところから書かれている
岩戸隠れの際に、イシコリドメに作らせたもの

そして、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天孫降臨する際に
天照大御神から、私だと思って大切にせよ、と与えられた

ということは、八咫鏡は神様界のトップ、天照大御神そのものだということになる

この事を踏まえて
天皇すら見ることのできない八咫鏡とはどのようなものか
「三種の神器」の著者、戸矢学さんの考察を紹介していきましょう

鏡と聞いてまず頭に浮かぶのが、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

縁が三角に盛り上がっていて、絵柄として神獣、中国の神仙(西王母とか東王父)、と獅子のような霊獣とが交互に配置されています

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に書かれている
中国の魏に貢ぎ物を送った邪馬台国の女王卑弥呼は、「親魏倭王」として銅鏡100枚を授かった
100枚もくれた意味合いは、これを諸国の豪族たちに、ヤマトに従う約束の見返りに与えれば良いよ
ってこと
実際には日本国内で400枚以上も見つかっており
もらった三角縁神獣鏡を真似て、国内でさらに増産したのではないかと思われる
卑弥呼イコール天照大御神と考えれば
天照大御神イコール八咫鏡と繋がっていきそう

結論的にいうと、違う
もらいものが三種の神器のひとつになったりはしない
天皇しか持てないから三種の神器なわけで
それをみんなに配っちゃいけません

「日本」の天皇の証なのだから
中国の信仰対象の神獣はあり得ない
これが天照大御だという絵柄でなければならない
天照大御神は太陽なのだから
太陽が描かれているだろう

ズバリ、一番近い絵柄は、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)

重要なのは、その機能
鏡といえば、顔を映すものと考えがちだが、そうではない
日光を集めて火を起こす、凹面鏡
オリンピックの前に聖火を太陽の光を集めて起こす、あれと同じ

さらに、その大きさ
正直、鏡を作る技術は当時中国に叶わないから
三角縁神獣鏡の方が品質として高いかも知れない
天皇のみに許される特別性は、大きさで凌ぐしかない
例えば平原遺跡で見つかった内行花文鏡は46.5cmもある
当時の技術ではこれ以上は難しいとされているから
同等かもう少しだけ大きいかもしれない

三種の神器の他の二つは「剣璽御動座(けんじごどうざ)」と言い
天皇が2日以上別の場所に滞在するときは、一緒に持っていかねばならず
その場所が宮中となる
八咫鏡だけは、剣璽御動座が必要だとされていない

古事記では、天孫降臨で三種の神器を渡すとき
「この鏡は、もはらわが魂(みたま)として、わが前に拝(いつ)くがごとく、いつき奉(まつ)れ

と言って渡している
本来「同床共殿(どうしょうきょうでん)」が必要なのは、鏡なのだ

おそらく、あまりに大きくて重いので持っていきづらいのではないか

三種の神器が平家没落の時に安徳天皇とともに海に沈んだ時も
八咫鏡だけは難を逃れている
あまりに大きくて重いので持っていけなかったのではないか

[神様]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]102 後花園天皇。漢詩でいさめる

天皇シリーズ

後花園天皇

崇光天皇の系列か、後光厳天皇の系列か
交互にという約束は反故にされ、後光厳系が後円融、後小松と続ける
さらに後小松は後光厳系を確固たる既成事実にすべく、早々と息子の称光天皇に譲位
称光天皇は病弱でその息子がいなかったため、弟の小川宮を皇太子とする

ところが、小川宮が亡くなっちゃった
よっしゃ、チャンスとばかり動き出したのが、旧南朝系
南朝も、北朝南朝交互にという約束を反故にされている
京都に何かと歯向かっている鎌倉公方と近づいた

こりゃまずい、と後小松
南朝にやられるくらいなら、と崇光系の貞成(さだふさ)を自分の猶子(養子のようなもの)にした

怒ったのが称光天皇
まだ私に子供ができないと決まったわけでもないですよね

これに、まずい、と思った貞成
せっかくのチャンスではあるけれど、ここは一旦引かないと命が危ない
出家して、野心のないことを示す

大丈夫
称光天皇に子供ができる気がしない
となると、私の子供の代にこそ

案の定、称光天皇に子供ができないまま危篤状態
将軍、足利義教が動いた
貞成の子、彦仁を後小松の猶子にせよ
そのまま、称光天皇は亡くなり、後小松の猶子として彦仁が践祚
後花園天皇となった

後小松の猶子になったわけだから、後花園は後光厳系との位置付けのはず
だが、将軍義教は、後小松ではなく、後花園のお父さん貞成を優遇した

後花園は一体どっち系?

微妙なこの問題に決着が着く時期がやって来た
後小松が亡くなったのだ

本当の子なら、喪に服さなければならない
猶子の場合はケースバイケース
喪に服したならば、後花園は後光厳系となる
喪に服さなければ、崇光系

五分五分だなあ、決めかねる
こういう時の解決策として行われるのが八幡神社の神様の前でくじ引き
出ましたっ
義教が選ばれた時のあのやり方
神様が決めたことになるから負けた方にも言い訳が立つ

ハイッ
「喪に服す」

ただ、相変わらず、将軍義教は、貞成を優遇し
事実上の上皇的に扱った

ここで両系統に面目が保たれることになり
長く続いた対立はおさまることになる

義政に
後花園は、後土御門天皇に譲位し、院政を開始

将軍は、義教が嘉吉の乱で殺され、義勝を経て、義政となる
大きな傾向として、政治は将軍、文化は天皇ではあるものの
後花園天皇は、義政に漢詩を引用して手紙を送っている
大飢饉があり餓死者が大量に出た
にも関わらず、義政は贅沢三昧だった

殘民爭採首陽薇
處處閉爐鎖竹扉
詩興吟酸春二月
滿城紅綠爲誰肥

飢饉の中かろうじて生き残った民は食べるものがなく、まるで首陽山で餓死した伯夷叔斉のように野草を争い採って食べている
どこの家でも囲炉裏に火はなく戸も閉じたままだ
おりしも春たけなわ、詩興をもよおしはするが、いざ詩を吟じても辛く苦しいばかり
この都の街いっぱいの花と緑は、いったい誰のために生い茂っているのか、楽しむ者もいないというのに

真面目な後花園は院政を行っていたが
応仁の乱が勃発すると
自分の無力さを感じて、出家してしまう

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[足利将軍]6 義教。くじ引きで選ばれた将軍

義教

義兼が17歳で将軍を継ぐが、2年後には亡くなってしまう
その後、後継が決まらぬまま、前将軍義持が政治を行う
その情況が3年も

義持としては、信ずる八幡神からのお告げがあって、自分に男の子が授かると

義持が病に伏すことになり、周りは焦る
何としても後継を決めてもらわねば

義持の護持僧満済が良い案を思い付いた

義持の四人の兄弟(青蓮院義円・大覚寺義昭・梶井義承・相国寺永隆)のうちから一人を八幡の神前でくじ引きで決めてはいかがでしょう

八幡神が決めていただけるというのであれば良かろう
くじ引きは私が亡くなったあとでやってくれ

将軍をくじ引きで決めるなんて前代未聞ではあるけれど
意外にこの方法重要な局面で使われてきている
神様が決めたことになるから、負けた方も言い訳が立ちやすい

長男以外はもめ事が起こらぬよう出家するのが通例
お坊さんが集められた

「義円」

還俗(げんぞく)して第6代将軍、義教となる

これに不満を持つ人物がいた
くじ引きに呼ばれなかった足利持氏

京都には幕府が置かれているが、それに次ぐ重要拠点、関東の鎌倉には
鎌倉公方(くぼう)が置かれ
代々足利の兄弟クラスの重要人物がその職に着いている

持氏は次期将軍には自分こそふさわしいと思っているし
鎌倉公方としての実績もある
少なくともくじ引きには呼ばれてしかるべし

ここから京都と鎌倉の大バトルが始まります

義教
義教はやる気まんまん
ただ、選ばれ方が前代未聞だし、少し前までお坊さんだった
もともと、室町幕府の構造的な問題として
直轄の武士がほとんどおらず
主たる大名たちに支えてもらわなければ何ともならない
馴染みの大名が一人もいないところに飛び込んでいく事になる

くじ引き後1年2ヶ月で何とか髪の毛を伸ばし、元服と将軍宣下を執り行う

大名たちには、協力的なものとそうでないものに分かれていくが
そうこうしているうちに、鎌倉公方の持氏が反乱の準備を始める

そうなると、非協力的な大名たちがなだれを打って持氏支持に回るかも知れない

義教は富士山見物の旅行を計画する
そんな大変な時に何を悠長な、と思いますが
目的は、富士山綺麗だなあ、って事だけではない
お供を大名に命ずることによる言わば踏み絵
大軍を引き連れて、鎌倉近くまで行くことは
持氏に対する示威行為となる
行列は20kmにも及んだ

では、ものものしい雰囲気であったかというとそうではなかった
あちこちでみんなで和歌を読むなどの、文化的に楽しむ側面が強調された
ある意味「余裕」を見せつけたのかも知れない

そんな義教が変化していき
最終的には悲しい結末を迎えるのだが
後半はシリーズの次回

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