江戸時代に新宿に落ちた隕石を探して

(1/19の事です)

朝一番で、センター試験を済ませ
よし、まだ少し時間があるぞ
あそこ行ってみよう

磯田道史先生の「日本史の内幕」という本を読みました。
私の好きなTBSラジオ安住紳一郎の日曜天国で年に一回ずつ出演してくれるんですが
その時の話がとても面白い

書かれたものも読んでみた訳ですが
面白いのなんの
歴史は江戸時代を中心に色々読みましたが
この本のようなアプローチは始めてです。

この時代のこの時にこういう事があって、という歴史を説明した本というよりは
随筆と言うか、裏話と言うか。

子供の頃から古文書オタク
普通の歴史家とは興味の向き先がちょっと違っている

例えば戊辰戦争であれば、個々の事件の年号だったり関係する人物なんてのは
磯田先生だととうに分かっている
実は先生の先祖が関わっていたんだけど
その先祖が、どこからどういうルートで戦場に着き
いくら新政府にご褒美をもらったのかということ

古文書を徹底的に集め、読み込んで解明していく

この本はそんな過程でワクワクしたこと
あまりの発見に息が止まった、というようなことが書いてある

何度か話している、ウォーキングの醍醐味
その場に行って、大好きで話したくて仕方ない人の幸せそうに話すのを聞くのが一番好き

同じ体験がこの本で味わえる
よほど好きなんだなあとこちらも笑顔になる

今後、いくつかの話をしていきたいんですが
今日はまず、その中で象徴的な話

隕石
江戸時代に、東京の都心に隕石が落ちてきたことがある

いきなりすごい事書いてあります。
江戸がらみの本はある程度読んだつもりでおりましたが
そんな話始めて聞きました。

磯田先生の中では、そこまでは当たり前に分かっていること。
ロシアに隕石が落ちたニュースを見て
そういうと、あの江戸に落ちた隕石って、もっとピンポイントにどこに落ちたんだろうと気になった。

ここからが、磯田先生の磯田先生たるゆえん
徹底的に古文書に当たる

私だったら、ちょこっとグーグルで検索してみて、出てこなきゃ、まあいっか、だけど

で、探し当てちゃうのがすごいところ

まず、松浦静山(まつらせいざん)の甲子夜話(かっしやわ)
江戸検定で常連さん
肥前国平戸藩の第9代藩主でありながら、引退後に書いた随筆集が面白いとバカ売れ

その甲子夜話の中に

戌の刻下り(夜8時頃)に西の空から大砲のような音が響き・・・
(中略)
早稲田に微禄の御家人の住居があり、その玄関の様なところに石が落ちて
屋根を打ち破り、破片が散乱した

よし、早稲田だな

もっと狭く特定すべし

ようやく見つけた、今度は鈴木桃野(とうや)という学者の「反古(ほご)のうらがき」という随筆

早稲田と榎町との間に「とどめき」という場所に町医者がいて
その玄関前に二尺に一尺ばかりの玄蕃石(げんばいし)のような切石が落ちて二つに割れていた
焼き石と見えて余程暖かかった

とどめきか
それはどこだ

古地図をあたる
そのあたりに、宗参寺という寺があって、傍らに轟(とどろき)橋という橋がある
とどめき とどろき

さらに、江戸名所図絵で宗参寺を見ると
弁天町にあり。この地をどどめきという

どんぴしゃ
特定した

行けっ

当時浜松に住んでいた先生は新幹線に飛び乗り、宗参寺へ
神社やお寺でご神体や寺宝として祀られているかも知れない

黒くこげた30cmの石
ない

住職さんに声をかけた

口ポカン

へえ、そんなことがあったんですか

結局見つからず、それっきり

宗参寺
磯田先生が無かったと言っているので隕石はありません

それがどうしたっ

ここは、行くしかなかろう
行かずして、何のでーこんぞ

これか

はたまた、これか

これなのか

意外にこれだったりして

この空。ここから飛んで来ました

この辺り一帯の地名「牛込」の由来の牛込氏や、山鹿素行(やまがそこう)の墓もあります。

牛込氏の墓までは分かったんですが

山鹿素行の墓までは分かりませんでした。

まあ良いか
隕石も見れたし

(見てない見てない)

よし、ここで古地図アプリを立ち上げてみよう
あっ、あるじゃないですか「轟橋」

轟橋の方にも行ってみましょう

このあたり

こっちの空

この横は済松寺


こっちにはそれらしき石はありませんでした。

実はこの隕石の前に若干のウォーキングをしています
その様子は明日ね

おでかけマップ

センター試験で大躍進。67点

去年も同じ日に挑戦
新聞に出た、センター試験の日本史Bの問題を解いてみようじゃありませんか

去年はぴったり50点
去年よりは、江戸時代以外も、古代とか多少は分かるし
ちょっとでも点数アップすれば嬉しいなあ

開始
解答用紙は、相馬屋の原稿用紙を使いましょう

始めて、うーむ
去年も思ったけど、こんなの分かるって日本の大学生はどんだけ賢いねん

分からないけど、去年よりは「馬が星を見ている状態」度合いが少ないかも

答合わせ

えっ
ここ、たまたま有ってたんだ
当てずっぽうが当たったところが続出

67点

飛躍的じゃないですか

去年ちょうど1/2の正解率だったのが
2/3になったと

やったやった
正直、これは自信あると答えたのは一つだけだけど
去年は全く鉛筆転がし状態だったのが
選択肢のいくつかが消えるのが去年より増えたと思う

いくつかの例
例えば、一番最初の問題

識字率、足利学校、ヤンヨーステン、はいはいはい
ヤンヨーステンは丸の内のウォーキングイベントでもやって、一人にだけ大受けしたヤンヨーステンの歌
(大阪で生まれた女の節で)
♪大阪の町を~(ヤン)ヨーステン

かすってるんだよなあ
足利学校について書いてあった場所にも
ヤンヨーステンの中にも坂東の大学の話はなかった

結論、4の教育令とヤンヨーステンの組み合わせにしたけど
1の学制とフランシスコザビエルだった

後で考えると、16世紀なかばというところがポイント
ヤンヨーステンはもう江戸時代になっているから、なかばではない

学制と教育令の順番くらいは分かっていないとね
反省。
明治維新4大改革のひとつですからね
学制、教育令、という順番です。

唯一完全に分かったのがこれ

江戸の貨幣は任しとけぃ
1,2は逆なのですぐ消えて、4は松平定信じゃなくて、田沼意次
3の改鋳は、元禄時代だけじゃなくその後もたびたび行われますが
少なくとも元禄時代は間違いではないので3番です。

よし
この調子で行くと、来年は、3/4の75点を狙っちゃうぞ

次女に
今日な センター試験受けたんやで 67点

えっ? 言っている意味分からん

日本史Bだけやけどな 解いてみてん

へえ
でも、あんなに毎日勉強してるのに、低くない?

えっ 嘘ぉ
無茶苦茶難しかったで。
67点は大満足なんですけど。

センター試験はほぼ100点くらいの勢いで行かないと
問題はその次だから

えっ、ほんまか、それ
社会は何選択したん?

倫理。点数までは覚えてないけど、少なくとも90点は超えてるよ

ちょっとちょっと

いけません
聞かなかった事にしましょう
思えば去年長女も似たような事を言っておりました。
許せない発言です
処罰する必要があります。

トンビは鷹を2匹も生んではいけません。

でもなあ
そんなに賢い必要があるか?
お父さん、幸せに生きて来れたで
そこそこやったら、何やっても
ほんまかぁ 知らんかったなぁ 面白いなぁ
って毎日感動で生きていけるで
そうしい

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[名僧]沢庵ポリポリ、流罪のあとに

名僧シリーズ

沢庵漬けで有名な沢庵和尚です

沢庵宗彭(たくあんそうほう)
1573~1645年 臨済宗

父は武士だったけど、織田氏に滅ぼされる
その後出家する。

色んな僧につくがことごとく亡くなってしまう。

苦労して苦労して、臨済宗のベスト5のひとつ大徳寺の153世住持となる

型破りで、高僧は当たり前の法嗣(ほうし)という跡継ぎとなってくれるものも取らなかった

紫衣事件(しえじけん)
五山の大徳寺と妙心寺は、住持になると、朝廷から紫の衣をもらえる
ありがとうございます、といくらかのお金を渡すので
朝廷としても重要な収入源

ここに割り込んで、徳川幕府が首を突っ込んできた
「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」
さらに「禁中並公家諸法度」
金地院崇伝(こんちいんすうでん)が作りました
朝廷は幕府の許可を得ずに、紫衣を出してはいけません
紫衣を得るためには、30年の修行と、1700の公案を経験する必要があります。
全く非現実的な数字です。

怒ったのが後水尾天皇
幕府がなんぼのもんじゃいと、沢庵に紫衣を出した
こちらも読んでね

幕府としても捨ておけません
条件を満たさずに得た紫衣ですから無効とします。

一触即発

当事者である大徳寺内では意見が真っ二つ

素直に従おうと言うものと
徹底抗戦だというもの

沢庵は徹底抗戦を主張

ここで折れては、仏教寺院は今後幕府の言いなりになるしかなくなる

抗議文を提出

1700の公案というのは、比喩的に使われる数字で
八百万の神というのと同様で、数多くのというくらいの意味
実際に1700という数字を示した言い方ではない

30年の修行というのも、これからの人生からして不可能
過去に、30年を経ずして悟りを拓いたものはいくらでもいる
そもそも悟りというのは時間によって到達するものではない。

理屈です。
理路整然としています。

カチンと来た幕府。金地院崇伝
そんなことは最初から分かっていての無理難題

決定的なのが、最後に付け加えられていた一言

このような誤りが生じたのは、起案者の不明によるものではないか

完全に喧嘩を売っております。
絶対的権力者、金地院崇伝に今まで楯突いたものなど一人もおりません

もうひとりのブレーン、林羅山も大激怒
これは、家康様を侮辱したに等しい

こうなっちゃうと死罪は免れませんが
確かに理路整然としており、はなから無理難題であったし
更なる実力者、天海が、まあまあそこまでしなくてもと仲裁

結局、沢庵は出羽の上山に流罪になった
同じく紫衣を得ていたものは、それぞれ地方に流され
一人だけ許された
許されたのは、事件後即刻謝った人

配流生活
大物沢庵を迎えることになった上山藩主の土岐頼行は大張り切り
有名人が来るような場所ではありませんので。

立派で大きな庵を作ろうしたんだけど

流罪なんです。ご勘弁
できるだけ小さくしてください。

茅葺き屋根の春雨庵を作ってもらった

簡略これ仏道

何だか質素な生活が楽しくなっちゃったみたいです。
そうなると、周りも楽しくなるんじゃないでしょうか

幕府から監視役が付いているんだけど
沢庵の事が大好きになっちゃって、あれやこれや世話を焼いたり
ものをあげたくなっちゃう

ものをもらっても、僧侶の身
使いたいものはない
と、あっさり捨てちゃう

自分を流罪にした幕府に対して
恨み言のひとつも言いそうなもんですが
生活を楽しんじゃっていると、心も穏やかになるんでしょうか

法度を作った以上、守らないといけない
ちゃんとそれを守った幕府は立派。天晴れじゃ

おいおい、ちょっと前まで喧嘩売ってたくせに

秀忠が亡くなった事で、恩赦が行われ、沢庵は許されます

ええっ、そうなの
ここが気に入ってるんだけどなあ

東海寺
そんな沢庵の事が大好きになっちゃった人がひとり
とても意外な人

何と家光

生き様を気に入ったということでしょうか
本来なら、幕府に楯突いた煙たい存在な筈なんですけど

江戸に是非来てください、と
沢庵の為の東海寺を作っちゃった

さらに江戸城の中に沢庵が休む為の部屋まで作っちゃうという入れ込みよう

もちろん、沢庵の性格からしてありがた迷惑
何とか逃れようとするので
東海寺から逃げないように当番制で近隣の農民が見張りに狩り出された
これを「沢庵番」と呼んでいます

それでも逃げようとする沢庵に
お前は自分の迷惑の事ばかり言うが、
俺の気持ちも考えてくれ
と、家光が言っている

そこまで行くと
男色で有名な家光の事だから疑いたくなりますが
その時、沢庵は60歳越え
さすがにそれはないんじゃないか

一途なラブコールに
苦労して大人になっている沢庵は、次第にほぐれて行ったのでしょう
素直に感謝するようになっていったようです。

柳生宗矩
そもそも、なぜそんなに気に入られたかというきっかけや接点なんだけど
元々沢庵は、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と仲が良かった

柳生宗矩と言えば、剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流を創設した人物
将軍の剣の先生と言えます。

そんな柳生宗矩が、恩赦のあと、沢庵と幕府の関係修復を取り持とうと動いたようです。

将軍が禅の先生を探していた

柳生先生、禅の良い先生知りませんかね

知ってます。知ってます。今度是非セッティングしますね

おそらくそういう経緯で禅の指南役となった。

剣禅一如(けんぜんいちにょ)
という経緯もあって、沢庵の考えは、剣と禅の両方に通じます。
一言で言うと、剣禅一如(けんぜんいちにょ)

沢庵の書いた「不動智神妙録」という本の中に出てくる言葉です。

不動心とは心が自由自在に動いて留まらぬということであり
動心とは何かにとらわれて自由に動けない心である

剣は、技を磨く事に意味がない

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]36 孝徳天皇。ひとりぼっち

天皇シリーズ

孝徳天皇
645~654年

乙巳の変で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。後の天智天皇)は政敵蘇我入鹿(そがのいるか)を公衆の面前で殺しました。

皇極天皇は、息子が殺人犯になっちゃった訳です。
現場を目の当たりにしながら、黙認した。

私は責任をとって辞任します。

歴史上、初めての譲位
それまでは死ぬ事でしか天皇は移らなかった
だから自分が天皇になりたければ現天皇を殺そうという発想にもなった

さあ、ここでクイズです

【問】
皇極天皇以降、今まで89人の天皇がいます
約何割ほどの天皇が譲位(生前退位)しているでしょうか
い) 約1割
ろ) 約3割
は) 約5割
に) 約7割

答は一番最後に書きますので考えてね

話を戻して、皇極天皇は譲位して、息子の中大兄皇子に譲ろうとした。
そもそもが、自分が天皇になれば、息子にスムーズに譲れると思って天皇を引き受けた訳だから
そういう発想をするよね
ただ、息子が殺人犯になっちゃった為に責任を取るわけですから
ダメでしょそれは、と中臣鎌足に諭される

言っていることも分かるわ
じゃあ、弟に譲るしかないわね

弟の孝徳天皇誕生です。
「徳」がつく初めての「可哀想な天皇」です
これは後で話しますね

前回お話しした大化の改新は、孝徳天皇の時に行った大改革
でも孝徳天皇はどれほど改革に関わったのか

中心になったのは中大兄皇子
そして協力したのは中臣鎌足

元号
中国の制度を模範にしつつ改革していったので
元号というものを定めているらしい、と元号を決めた

日本で初めての元号「大化」です

それまでは60年で一回りする干支でのみ年を表していました
乙巳の変の「乙巳」
壬申の乱の「壬申」

その後は、干支と元号の併用になります。
干支が元号に取って変わらず、併用されたということはとても有用です。

干支はきっちり規則的だから、西暦との対応を計算できる
元号は西暦で何年から始まったと計算できるので
元号でだけ表現されている文書が見つかっても
それが西暦何年の事か分かるわけです

大化6年
天皇に白い雉(きじ)が贈られました

おおこりゃめでたい
ということで、元号が大化から白雉(はくち)に変えられます。
日本で初めての改元という事です。

遷都
古代はころころ都を変えますが
この時の遷都はものすごく大規模

難波にどでかい都を建設します。

余は満足じゃ
孝徳天皇はご満悦

大和(奈良)の地は狭いので、広い大阪が大改革を行うにふさわしい都だろうという事です。

大改革を行った中大兄皇子
一方で乙巳の変に懲りず、いっぱい荒っぽい事をやっています。

政敵、古人大兄皇子を攻め滅ぼす
蘇我倉山田石川麻呂は、一緒に乙巳の変をやり遂げた大事な仲間だったはずなのに
謀叛を計画しているとの密告をうけ
追い詰めて自殺に追いやった
濡れ衣だったんですけどね

ひとりぼっち
最初は、中大兄皇子も叔父さんの孝徳天皇とうまくやれていた。

でも、元々荒っぽい性格ですから
次第に意見が合わなくなってくる

急に、難波はやめて、大和に戻ろうと言い出します。

はあ?
こんなにでかい素晴らしい都ができたばかり
なんでまた元の狭いところに帰らにゃいかんの

戻るといったら戻るの

何だと!
わしが天皇じゃ
お前一人で帰るが良い

分かった
じゃあお元気で

中大兄皇子が大和に戻ったと思ったら、あらま
政府を構成するメンバー全てがごそっと大和に移っちゃった

えっ
えええっ

ひとりぼっちかーい
淋しいんですけど

失意のうちに、その翌年亡くなってしまいました。

ということで、「徳」のつく孝徳天皇

どういう意味かというと
ほとんどの場合、天皇の名前って、生前には決まっておらず
本人の意思とは関係無く、死後に有力者が会議で決める

ひとりぼっちにしちゃったなあ
どうしようか名前
寝覚めが悪いし、祟りがあっちゃ怖いから
むっちゃ良い名前にしようよ
仁徳天皇みたいに徳が有ったよって言う事で

良いね。賛成
孝徳なんて最高じゃない

これ以降、「徳」が付くのは祟りを逃れるためにつけられた、可哀想な天皇になります。
流罪の地で、天狗になって呪ってやると言い残して死んだ、崇徳(すとく)天皇
子供なのに壇ノ浦の戦いで源氏に滅ぼされ、三種の神器とともに海に身を投げた安徳(あんとく)天皇

【答】
に) 約7割

89人中61人が譲位(生前退位)しています。
院制華やかなりしころは、一刻でも早く譲位して上皇になりたかった訳ですが
それにしても7割というのはすごい多いですよね

天皇は神に近いということで、特に「死」を忌むべきものとして嫌う
もうすぐお迎えが来そうだ、ってことになると
譲位して、「天皇の死」避けたいという気持ちが有ったようです。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)