[旅行] 全国美術館巡り

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[旅行] 全国渓谷巡り。東日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。中部近畿編
[旅行] 全国渓谷巡り。中国四国九州編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財編
[旅行] 全国城巡り。国宝重要文化財以外
[旅行] 全国洞窟巡り。
[旅行] 全国海岸巡り。西日本編
[旅行] 全国滝巡り。東日本編
[旅行] 全国滝巡り。西日本編
[旅行] 全国陶磁器巡り。六古窯その1
[旅行] 全国陶磁器巡り。六古窯その2
[旅行] 全国陶磁器巡り。美濃焼は陶器界の革命児
[旅行] 全国陶磁器巡り。あれこれ東日本編
[旅行] 全国陶磁器巡り。あれこれ西日本編
[旅行] 全国橋巡り。東日本編
[旅行] 全国橋巡り。西日本編
[旅行] 全国祭り巡り。北海道、東北編
[旅行] 全国祭り巡り。中日本編
[旅行] 全国祭り巡り。西日本編
[旅行] 全国祭り巡り。四国編
[旅行] 全国祭り巡り。九州編
の続きです

東北
青森
■十和田市現代美術館
有名なのはフラワー・ホース

スタンディング・ウーマン
高さ4mの巨大なおばさん

愛はとこしえ十和田でうたう
出ましたっ。草間彌生の水玉

山形
■本間美術館
酒田市の豪商・本間家ゆかりの美術コレクション
国指定名勝の庭園「鶴舞園」、大正天皇や昭和天皇も宿泊した別邸「清遠閣」



すごいのが梅の欄間
梅が彫ってあるだけの欄間のはずが
影を見てみると、そこにはうぐいすがとまっている

日本を代表する豪商なので、所蔵の美術館や文化財が桁違い
藤原定家の書

色絵葡萄鳥文瓢形水注

東海
静岡
■MOA美術館
国宝3件、重要文化財67件,重要美術品46件を含む約3500件を所蔵
超有名な尾形光琳の紅白梅図屏風(国宝)

野々村仁清の色絵藤花文茶壺(国宝)

豊臣秀吉が作らせた黄金の茶室も再現されていたり

円形ホールや光のエレベーターがアート

愛知
■徳川美術館
徳川家康の9男である徳川義直(尾張徳川家初代)が、
父家康から譲り受けた遺品「駿府御分物(すんぷおわけもの)」を中核とし、 江戸時代を通じて御三家筆頭の地位にあった大名家、 尾張徳川家の歴史とともに厚みを増した多種多様な大名道具を受け継ぐ。
うおおっ、徳川ーっ

現存最古の物語絵巻として世界に知られる「源氏物語絵巻」(国宝)

漆工芸の最高傑作「初音の調度」(国宝)


これら国宝9件をはじめ、
重要文化財60件、重要美術品50件を含む1万件を超えるコレクション

中国
島根
■足立美術館
約5万坪(東京ドーム約3.5個分)の広大な敷地を誇る日本庭園は、米国の日本庭園専門誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』の調査で長年にわたり第1位を獲得し続けている。


すごいのが、生の額絵と生の掛軸
壁に穴が空いて、そこから庭園を絵として楽しむ

所蔵しているのは、横山大観の絵が中心

岡山
■大原美術館

倉敷にある日本を代表する実業家、大原孫三郎によって創設
日本にあるのが奇跡と言われている、エル・グレコの「受胎告知」

クロード・モネがいくつか書いた「睡蓮」のうちの一つ

モネの家にあった睡蓮をもらって来たのが、見事に花咲いています

四国
■徳島
大塚国際美術館
世界中の名画1,000点以上を陶板で原寸大に再現した、
日本最大級の常設展示スペースを誇る「陶板名画美術館」
私は行っていませんが、長女が行ったそうで、
かなり感動したようです




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[ことば日本史] 本因坊

「ことば日本史」江戸時代から

本因坊
慶長17年(1612)、徳川家康は本因坊算砂ほか七名の囲碁・将棋の上手に扶持を与えた。

家康は、囲碁、将棋が大好きだった。

天正末期から家康は上洛するたび、連日のように宿館で宴会を催し、さまざまな人々を招待したが、きまって碁打ち、将棋指しも招いたという。飲食のあと、対局して楽しんだらしい。

その頃から、家康ばかりでなく、武家、公卿、僧侶、町人にも囲碁の愛好者が増えており、専業者が生まれてきた。

たつちゆう本因坊算砂は、京都寂光寺の塔頭、本因坊の住職で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて稽古をつけたといわれる碁打ちの上手である。ただし実際には信長は観戦しただけで自分では打たなかったとも考えられている。秀吉もそれほど深い関心はもたなかったらしく、もっとも好んだのは家康だった。

家康に扶持を与えられた囲碁、将棋の上手たちは、全国の碁打ち、将棋指しの家元のような存在となり、それぞれ一門をなす。
寛文2年(1662)に、寺社奉行の支配下に碁所、将棋所がおかれ、
碁方四家、将棋方三家が決められた。
この家格は世襲され、
江戸城で年に一度、各家の当主と跡目は黒書院に出仕して、
将軍の前で対局する「御城碁」「御城将棋」を行った。

また、全国の将棋指し、碁打ちに対して強弱を認める免許状を発行し、
これを収入源とした。

21代本因坊の秀哉(しゅうさい)が引退して、
昭和14年(1939)からは、本因坊は実力によって争奪される優勝者の称号となった。
ひいては碁の上手をさしても使う。

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[天皇]111 後西天皇

後西天皇

後光明にはまだ皇子がいなかったので、
つぎの天皇を誰にするかが問題となった。
後光明天皇は、承応三年に生まれた後水尾の皇子、高貴宮(あてのみや、後の霊元天皇)を養子にする意向を近臣らに伝え、
天皇の死去後に近臣だった三条西実教、勧修寺経広、持明院基定が、後光明の遺志としてそれを伝えた。
関白や武家伝奏、所司代板倉重宗らは協議し、故天皇の遺志に従って高貴宮を後光明の養子にし、皇位を継がせるという結論に落ちついた。

しかし後水尾は、高貴宮は生後4ヵ月の乳児なので、とりあえず花町宮良仁親王を皇位につかせ、
高貴宮が14〜5歳になったら譲位させるべきだと判断した。
明正天皇と同じつなぎ役の天皇を立てる案だった。
この案が、幕府との相談を経て決定された。
幕府は、将軍家綱が若年のため朝廷の事情に暗いので、関白がよいように取り計らうようにと指示した。
さらに東福門院へは、家綱が花町宮のことをよく知らないので、「作法」「所作」が天皇にふさわしくなければ(「天子御作法よろしからざれば」)、いつでも高貴宮への譲位を東福門院が取り計らうようにと回答した。
東福門院とは、後水尾の奥さんで、2代将軍秀忠の娘です。

この経緯から、後光明から良仁親王への皇位継承はともかく、
良仁親王から高貴宮への皇位継承は幕府が主導権を握ることになった。

兄弟の多くが出家し、出家していない後水尾の皇子の中では年長という事情、
いわば消去法により宮家を相続していた良仁親王が皇統を継ぐことになった。
将来は天皇、という前提で訓育を受けないまま突如として18歳で即位したのだから、天皇としての「所作」「作法」という点では不安があっただろう。

譲位
後西天皇は、在位九年に満たずに、寛文3年(1663)1月に譲位した。
譲位の理由をめぐっては、
幕府の発意説と後水尾法皇の要求説などの諸説があり、定かではない。
在位中の万治4年(1661)1月に、
二条家から出火して禁裏から仙洞御所、女院御所などが焼失する大火が発生し、
翌寛文2年(1662)5月には京都大地震がおこり、
方広寺大仏が壊れるような大被害に見舞われた。

その少し後に、理由はさだかではないが後西天皇は譲位の意向を示し、幕府へその内意を伝えたらしい。
それをうけた幕府は、寛文2年9月に後西天皇の譲位を東福門院へ申し入れ、
幕府と東福門院の主導でこの譲位を実現させようとした。
結局、御所の造営も完成しない寛文3年1月に、
後水尾の計画より4〜5年早く弟の高貴宮、識仁親王に譲位した。

後西天皇は、つなぎ役として消去法で決められ、
朝廷内で軽く扱われそうな立場にあった。
それでも、18歳で即位したので元日の四方拝、小朝拝などを始めとする神事や節会をこなし、
和歌御会などにも熱心に取り組み、朝廷政務にもあたった。

また、後光明天皇のあとを追うかのように、六国史を書写させるなど禁裏文庫の充実に力を注いだ。
しかし、京都大火、大地震と相次ぐ天変地異に見舞われた後西天皇は、
幕府から譲位を迫られる前に、
自主的に譲位の意思を示すことを選択したのではなかろうか。

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[名字]4 門跡や院政で

[名字]1 氏姓制度と賜姓
[名字]2 冠位と律令制度
[名字]3 源平藤橘の始まり
の続きです

門跡(もんぜき)
三条源氏が成立してから以降の約半世紀の間、
皇族の臣籍降下が、突然とまった。
天皇家の財政情況が好転したわけではなかった。
摂関政治が最高潮に達していた時期だったから、天皇家の財政情況はむしろ悪化していた。

臣籍降下とは別の方法が編み出された。
皇族を大寺院の門跡(もんぜき)に任じて送り出してしまうという手だった。

皇族が門跡として送り込まれたのは、
円融院・青蓮院・実相院・円満院・仁和寺・妙法院などだった。

この方式は、送り出した天皇家にとっても、
送り出された皇族にとっても都合がよかった。
臣籍降下させるだけだったら、
少なくとも一、二代の間だけでも天皇家は旧皇族を朝廷での官職に任じて、一定の収入があるようにしなければならない
しかし皇族を門跡として送り込んだ寺院には、
それなりに寺領などがあるから旧皇族が困窮する心配はない。
また皇族を門跡として寺院に送り込むということは、
皇族を僧侶にするということである。

僧侶になれば肉食妻帯はしないはずだから子孫が生まれるはずもない。
その皇族一代限りということになる。

院政
後三条天皇が即位した頃から、白河・鳥羽・後白河と、
摂関政治にかわって院政が開始された。
院(もと天皇)たちは、みな財政窮乏の事態の原因を見抜いていた。
荘園整理令を強行する。

色々理由をつけて不備が見つかった荘園を収公して、
また公領に戻した。
藤原摂関家領の荘園が最大のターゲット

また院たちは、荘園を公領に戻そうとしただけではなかった。
院自身が、荘園領主になろうとした。

かくして、臣籍降下による財政改善の必要がなくなり
財政改善の意味での臣籍降下は全く行われなくなる
これ以降の臣籍降下は、また褒賞的意味合いになる

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