[首相] 40-3 田中角栄。日中国交正常化

[首相]40 田中角栄。苦学の時代
[首相]40-2 田中角栄。コンピュータ付きブルドーザー
の続きです

首相
いよいよ、田中角栄が首相になる

1972(昭和47)年7月7日、内閣が発足したその日に、
「外交については、中華人民共和国との国交正常化を急ぎ、
激動する世界情勢にあって、平和外交を強力に推進する」という談話を発表した。

第2次世界大戦後、日本は、蔣介石率いる中華民国政府(台湾)と国交を結んでおり、
台湾と敵対する中国(中華人民共和国)とは国交がなかった。

ところが、中国が1971年(昭和46)に国際連合に加盟したことに加え、
1972年2月にアメリカ大統領ニクソンが電撃的に訪中し、中華人民共和国が中国の正統な政府であることを事実上承認したのである。
機が熟した。

田中の談話に、中国側はすばやく反応した。
周恩来が田中の表明を「歓迎に値する」と述べたのである。

秘密厳守のうちに交渉作業は進められ、中国での周恩来首相との会談が実現した
田中総理、大平外相、二階堂進官房長官の3首脳以下、
政府関係者36名と報道関係者15名の計51名が中国へ向かった

田中はいつもの名調子とは異なり、
緊張した面持ちで原稿を読み上げて挨拶を行なった。
言葉を区切るごとに中国側から大きな拍手が起こる。

ところが田中が「わが国が、中国国民に多大な迷惑をおかけしたことについて、
私は改めて深い反省の念を表明するものであります」
と述べると、中国側から低いざわめきの声があがり、拍手も起こらなかった。

「迷惑をかけた」という日本語の中国語訳であった「添了麻煩」という言葉は、
撒いた水が人にちょっとかかってしまった程度のミスを詫びるときに用いられるもので、
周をはじめとした中国側は、
「侵略戦争をそんな簡単な言葉でかたづけるとは何事だ」と激怒したのである。

翌日、田中が「迷惑をかけたという言葉は、日本では誠心誠意の謝罪を表わすのです」と
ていねいに説明すると周は納得して、この件は落着した。

とはいえ、この日の会議では、「戦争状態の終結」宣言に中国側がこだわり、
日本側は解決策が見出せず重い空気に包まれた。

夕食のとき、大平は落ち込んで料理に箸もつけない。

田中だけが意気軒昂で、大平に「おい、一杯やって、めし食おうや」と声をかける

「失敗したときの全責任は俺がすべてかぶる。君らはクヨクヨするな。
こういう修羅場になると大学出はダメだな」

大平は
「それなら名案があるんですか」

「どうやるかは、ちゃんと大学を出た君らが考えろ」

そこでみんな大笑いとなり、下戸の大平も酒に口をつけた

大平や外務省担当者らは作戦を練り直した。
その結果、「戦争状態」という言葉を「不正常な関係」と言い換えることで、
翌日、中国側の了解を得ることに成功した。

中国側も予定になかった田中と毛沢東主席との会談を
急遽セッティングした

現れた毛沢東
周首相と田中角栄を前にして
「ケンカは済みましたか。ケンカをしなくてはダメです。
ケンカをしてはじめて仲良くなれるのです」と微笑んだ。

日中双方の率直な議論のやりとり、日本側の粘り強い交渉が実をむすび、
4日後には、人民大会堂で日中共同声明の調印式が行なわれた。

調印を終えると田中と周が握手。
周首相が堅く握った右手を大きく上下に振ると、
田中もそれに応えて、ふたりの手はいっそう大きく波打った。

中国との国交は経済発展、資源対策にも有益と判断した田中は、就任後2か月半で訪中。
わずか4日間で交渉をまとめ上げた。
日中国交正常化は、中国との長期にわたる「不正常な関係」(戦争状態)の終結であるとともに、
現在に至る日中関係の出発点だった。

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[勝海舟] 海舟は千両箱なり

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望
[勝海舟] 西郷隆盛や坂本龍馬との出会い
の続きです

終焉
幕末、薩摩が幕府を怒らせようと挑発
薩摩から送られた、益満休之助(ますみつきゅうのすけ)が動く
まんまと罠にはまった幕府の面々は薩摩江戸藩邸焼き打ち事件を起こす

全面対決の大義名分が整った

この時、益満休之助は捕まった
本来死刑だが、勝海舟が止めた

全面対決の鳥羽伏見の戦いが始まる
15代将軍、徳川慶喜が戦いに挑まず、江戸へ逃げ帰ったことにより
幕末の流れはほぼ決まる

ただ、幕府の中では小栗上野介を中心として、まだ徹底交戦派が大勢を占めていた

慶應4年1月22日、朝廷から内旨が幕府に届く
和宮の保護と京都帰還を促すもの

その翌日、幕府内で大人事刷新が行われる
大久保一翁が会計総裁、勝海舟が陸軍総裁
主戦派はことごとく退けられた、戦後処理体制とも言えるもの

何者も敵と考えない、勝海舟の性格が
結局、幕府の代表にまで押し上げさせる

実は朝廷からの内旨に、大久保一翁と勝海舟を交渉相手とすべしとの指名があった
大いに影響があったと思われる

まだ迷いの残る慶喜に徹底恭順を決意させたのは
最も慶喜の近くで世話をしていた高橋泥舟

さあ、誰が交渉役として新政府が陣を構える、駿府(静岡)に向かうか

慶喜は、ご指名のあった勝海舟に向かうようとの命を大久保一翁に伝える
大久保一翁は命を伝えるべく、海舟に会おうとしたが
うまく会えなかった

すると、慶喜が気変わり
やっぱり海舟は困る、撤回という命を出す

海舟は、千両箱なり
もし海舟本人が向かって、帰ってこないような事があれば
幕府は最後のカードを失うことになる

高橋泥舟が進言した
良い人物がございます

山岡鉄舟
義理の弟になります

分かった

ここで、三舟揃い踏みになります

海舟も
山岡鉄舟ならば申し分ございません
であらばもうひとり、働いてもらいたい人物がございます

休之助よ、ひと働きしてもらえんか

死んだはずの命、救っていただいたあなたに命をお預けしましょう

3月9日、薩摩藩の益満休之助が案内役となり
山岡鉄舟が単身駿府で待つ新政府の元へ単身乗り込むことになります

十分な下打ち合わせを済ませ、無事帰還

そしていよいよ3月13日と14日、江戸で西郷隆盛と勝海舟の会談が行われることになります

この続きはシリーズの次回

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[日本語の発音] 発音通りに書いた時代

[日本語の発音] 奈良時代に母音は8個あった
[日本語の発音] ハヒフヘホはパピプペポ
の続きです
「日本語の発音はどう変わってきたか」からの引用です

平安時代

平安時代に入っていきます

平安時代では文字が劇的に変わります
変わるというより、作られた、という表現の方が近い
平仮名と片仮名です

奈良時代までは、万葉仮名といって、それまで日本人が発音していた言葉に漢字を当てていたが
日本独自の文字が開発された

平仮名も片仮名も一音に対してほんの数個の字が対応する(1個ではない)
書き手にとっては語の形が安定し、また万葉仮名より書記の速度が大幅に改善しました。

書きたいと思ったことをそのまま文字にできたので、奈良時代にはなかった物語や散文などが書けるようになったのです

とっても素晴らしいのですが
日本語の発音の変化を研究しようとするとちょっと厄介になります
万葉仮名のときは、発音が変化すると当てられる文字も変わったけど
文字が固定されてしまうと、発音が変化していっても分からなくなる

それでも、研究者たちはエライ!
漢字の説明用の資料等々外国語との比較で、解析していったのです

音便
平安時代の発音の変化の特徴として、音便があります

前と後の音が繋がるときに、発音しづらい時に、音が変わっちゃう

次の4種類があります。
イ音便、ウ音便、撥(はつ)音便、促(そく)音便

ただし、この時点では、文字に「ん」や「っ」がありませんので
どう文字で表現するかとても苦労しており、安定していません
詳しくは、以前書いたこちらを見てね
「ん」がなかった

しかし、この「ん」や「っ」の例外を除いては
文字と発音は、1対1で対応していた
現在は漢字仮名混じり文だが
この頃は、全てを平仮名で書く文だった

漢字仮名混じり文の読みやすさを知っている我々からすると
相当読みにくいものだったと言える

ただ、発音の通りに全ての文字が綴られる
日本語発音史において、まれな幸福な時代であったといえる

ところが、この幸福な時代は長くは続かなかった

ハ行転呼音
言葉の中の1音目じゃない場合
ハ行がワ行の発音に変わった
ハ行転呼音と呼ぶ

最初、川はkafaと発音していたのに、kawaと発音するように変わった
でも文字は「かは」のまま
恋「こひ」問う「とふ」妙「たへ」顔「かほ」
2音目以降だけです
1音目はハ行の発音のまま、春「はる」人「ひと」冬「ふゆ」減る「へる」星「ほし」

ここから長きに渡る「仮名遣い」問題がおきます

現在は一部の例外を除いて、文字と発音は完全一致
でもなんとそうなったのは、戦後、昭和61年なんです
一部の例外とは、「を」と「へ」
〇〇へ、は「え」と発音しますよね
2音目以降のハ行なのでハ行転呼音な訳です
「を」については次回話します

前回話したように、奈良時代、ハヒフヘホはパピプペポだった
平安時代時代になると、fa、fi、fu、fe、foになる
そして、さらに、2音目以降は、wa、wi、u、we、wo
に変わる

その方が発音が楽だから

wa、wi、u、we、wo
については他にも文字がある
wa(わ)、wi(ゐ)、u(う)、we(ゑ)、wo(を)

なので、ひとつの音に2つの文字が対応するということになる

そして、さらに、平安時代の後期に、wi(ゐ)、we(ゑ)、wo(を)が変化を遂げます

その話は、次回ね

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]103 後土御門天皇。貧乏だけど一生懸命

天皇シリーズ、戦国時代に入っていきます

後土御門天皇
1464~1500年

寛正5(1464)年、後花園の譲位を受けて、後土御門天皇が践祚(せんそ)した
後花園天皇の第一皇子で、諱は成仁
16歳で親王宣下を受けて実質的な皇太子となり、
翌年に元服、践祚の時は23歳である。
そのあとすぐに、応仁の乱が勃発した

平安時代後期の院政期以来、天皇が比較的若い頃に譲位し、
自らは院(上皇)となって「治天の君」として政治を行うことが慣行となっていた。
後土御門に譲位した後花園まではその慣行が実現しており、
当然、それ以後も続けていくべきものと考えられていた

応仁の乱が続く中、
後土御門は政治に嫌気がさしたこともあり、
何度も譲位すると言い出した。
しかし、周囲から止められ、その都度、断念せざるを得なかった。

応仁の乱は戦闘が京都で行われたので、
多くの公家は京都を離れてしまっていた

そんな時に、譲位や即位を行う余裕はなく、
「院政」の慣行を維持することが著しく困難になる。

天変地異や疫病が止むことを願って行った長享から延徳への改元も、
年号を選定する「年号勘者」が地方に下っていたため、
簡単には実現できなかった。
幕府に命じたわずか二千疋(現在の貨幣価値にして約二百万円)の改元費用も、幕府が出し惜しみし、
朝廷で捻出することになった。

天皇の権威と経済力の低下は著しかったが、君主意識は健在だった。
10代将軍足利義材(義稙)が、
公家領などの押領を行った近江国守護の六角高頼討伐を行った時、
後土御門は義材の要請で綸旨を発給し、
「錦御旗(にしきのみはた)」まで下賜している。

錦御旗は、赤い錦地に太陽と月を金銀で刺繍した旗で、
古代以来、朝敵を討つ時、官軍の旗印となったもの。

江戸時代の幕末、岩倉具視が勝手に京都の呉服商に作らせ、
鳥羽・伏見の戦いに勝利したことが有名である。
錦御旗が翻ったのは、この後土御門以来のことだった。

また、朝廷の儀礼や、芸術文化面でもお金がない中で出来る限りの事をやろうとした
普通なら、指示してやらせるようなことも、側近の数人しかそばにはいない
例えば、朝廷の儀礼がどうだったかを調べるにしても、自分自身でやらざるを得ない
連歌についても自分で率先してやったし
笙の練習も頑張った

なぜそんなに貧乏になってしまったかと言うと
朝廷を保護する室町幕府が衰退してしまったから。
幕府に実力がないから、朝廷領を維持することもできず、
年貢があがってこない。
その上、幕府にも朝廷の儀式にあたって献上するお金がない。

とは言え、幕府との関係は良好だった
そもそも、応仁の乱で御所が焼失してしまったため住むところがない
仕方なく、幕府の室町殿に同居させてもらっていた

明応9(1500)年、後土御門が59歳で崩御した。
在位は36年に及んだが、宿願だった譲位はついにできなかった。
関白近衛政家は、「譲位することもなく崩御されたことは前例がないことだ」と嘆いている。

譲位出来なかったばかりではなく、遺骸が天皇家の菩提所である泉涌寺に移された後も、
葬儀がすぐには執り行われないという異常な事態となった。
朝廷には、葬儀費用を出すだけの経済力もなかった。
ようやく幕府から一万疋(約一千万円)が献上され、葬儀が行われた。

天皇制の実態は、後土御門より前と後で大きく変わる
それまでは、在位期間は短めで、コロコロ変わる印象だが
ここからは、貧乏ゆえに在位期間がとても長くなる
即位後初めての新嘗祭(にいなめさい)にあたる大嘗祭(だいじょうさい)に至っては
このあと221年もの間、資金不足で行われていない

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