[縄文]4 ムラができる

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
[縄文]3 森をひらきイエをつくる
の続きです

火と炉

11.石がこい炉用の石を集める
イエのなかには、中央からやや奥よりの床に、火を燃やす炉をつくる。

炉には、床をただほりくぼめてつくった地床炉(じしょうろ)、ほりくぼめた周囲を石でかこった石がこい炉、土器の底を打ち欠いて床に埋めた埋甕炉(うめがめろ)などいろいろな種類がある。

「これぐらいの石でいいかな」
石がこい炉用につかう石は、近くの河原から集められた。

このようなイエのなかにつくられた炉は、
種火の保存、食料の調理、冬の暖房、照明などさまざまな役割をもっていた。

また、縄文人にとって火は神聖なものであり、
炉のまわりで火にたいする祭りごとがおこなわれたこともあったであろう。

ムラができる
12 完成のよろこび

縄文人は、それぞれの役割をもちながらも、
つねにムラの仕事はみんなが協力しておこなった。

とくにムラをつくるというような大きな仕事には、
ムラびと全員が共同してその作業にあたったのはまちがいない。
それだけにムラの完成のよろこびは大きい。

「やった! 新しいイエができた」
こうして、人びとは力を合せて、一軒一軒とイエをつくり、
やがてムラ人みんなが安心して住めるムラができあがった。

ムラは中央の広場をとりかこむように数軒のイエがたちならび、
さらに共同の作業をする場所や墓、祭りごとをおこなう神聖な場所などがきちっと定められていた。

とくにムラびとのまとまりを保つうえで大きな役割をはたしていたのが
中央の広場である。
広場はムラびとにとって、共同の作業や集会、
神聖な行事をおこなう大切な場所であり、
広場を中心としてムラの生活が営まれていた。

苦労してムラをつくりあげた人びとは、
全員が広場に集まってムラの完成をよろこびあった。

[首相]53 橋本龍太郎。ポマード宰相

橋本龍太郎

昭和十二年(一九三七年)、東京生まれ。父の龍伍は大蔵官僚、のちに衆議院議員、厚相、文相を務める。
昭和三十七年、父の急死で急遽、翌年の衆院選に立候補し当選したのが二十六歳のとき。
初登院のとき継母が付き添い「マザコン代議士」と揶揄されたりしたが、
以降、若くして要職を歴任し、「政策通」「若きリーダー」と目されるようになる。

容姿や服装のセンスから、一般の人気は高い一方、切れ者過ぎて皮肉な対応が多く、
仲間が少ない、とも言われた。
不勉強な質問には嫌味で返す、記者泣かせの政治家でもあった。

首相に
自由民主党・社会党 (のち社会民主党に改称)・新党さきがけの3党連立を継続しつつ、
2年5か月ぶりに自民党が総理の座を取り戻したのが、橋本龍太郎内閣である。

最初の課題は住宅金融専門会社問題だった。
経営がゆきづまった住専に対して、公的資金6850億円の投入を1996年度予算に計上する。
1996年(平成8) 9月に衆議院を解散し、
細川内閣時に導入が決まった小選挙区比例代表並立制による総選挙が初めて実施されることになった。
公示直前には民主党が誕生している。

10月の投票の結果では、自民党が239議席と第1党の地位を確保。
野党の新進党や民主党は大きな伸びがなく、
社民党と新党さきがけは後退し、閣外協力に転じたため、
自民党単独による第2次橋本内閣が発足する。

橋本総理は行政、財政構造、社会保障構造、
経済構造、金融システムの5大改革(のちに教育を加え、6大改革)に取り組む。
行政改革では中央省庁をほぼ半減する再編案をまとめ、
2001年(平成13)1月に実施された。

いっぽう外交分野では、1996年2月のクリントン米大統領との会談をへて、
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の全面返還の合意を取りつける。
1998年(平成10)、ロシアのエリツィン大統領との会談では、
北方領土問題における国境線画定の新提案をするなど交渉は進展したものの、
頼みのエリツィンの退陣で実らなかった。

1997年(平成9)4月、消費税が5%に引き上げられる。
11月には北海道拓殖銀行の経営破綻、
山一證券の自主廃業など経済危機が発生。
1998年7月の参議院選挙では、橋本総理による「恒久減税」発言のぶれも影響して
自民党は44議席にとどまり、橋本総理は敗戦の責任を取って辞任する。

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[織田信長]9 武田信玄西上

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
[織田信長]7 義昭を将軍に
[織田信長]8 姉川の戦い
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将軍足利義昭は織田信長のおかげで将軍になれた
ただ、時が経つにつれて、二人の人間関係は微妙になっていく

義昭としては、結局自分には全く何の権限もなく、すべて信長の言いなりという状況に満足がいかなくなってくる
信長に相談せず、勝手に命令を下す

信長は、勝手なことをされては困るので、
全て私の承認を得てからでないと行動してはならぬという趣旨の5ヵ条を突きつける

それではまるで信長の家臣ではないかと怒り
反信長の勢力、朝倉、延暦寺、浅井、武田信玄、本願寺に密書を送る
全て、義昭をお助けすると回答してきた

信長はその動きを全て把握していた

そんな状況下で、愛妻濃姫の死去が知らされる
信長の中で何かが途切れ
比叡山延暦寺の焼き討ちがなされる

恐怖に震える義昭は、明確に反信長の超実力者、武田信玄に、信長討つべしとの教書を送る

信玄が、いよいよ京都への上洛を決意する
長い間関東で競い合っていた北条氏や上杉氏と戦っている場合じゃない
北条氏とは和議を結び
対上杉氏では、同盟関係にある本願寺に働きかけ
加賀、能登、越中で一揆を起こさせ、対応に翻弄させる
雪で上杉は本格的に動ける状況にない

三方原(みかたがはら)の戦い
立ちはだかるは織田と同盟関係にある徳川
怒涛の進撃、武田勢
三河の城を次々に落とし、
徳川の本拠、浜松城に迫る

そのまま行けば、浜松城も落とし徳川を壊滅させられた勢いだったが
信玄はそうしなかった
あくまで敵は織田信長
徳川と戦って兵を減らしたくない
浜松を迂回

徳川の家臣たちは死を覚悟していたので、ほっと胸を撫で下ろすが
唯一、家康だけは反応が違った

敵がわが領土を踏みつけてゆくのに、本城に引き籠って、一戦にも及ばぬというのは、武門の恥だ

三方原(みかたがはら)は浜松城の北方一キロにある大高原
家康はそこに陣をはる

見逃してやろうに、無駄なことを

徳川勢さんざんに打ち破られる
家康自身にも襲いかかる

「殿、至急御帰城下さい。ここは、私が防ぎます」
浜松城の留守を守っていたはずの家臣夏目正吉
死ぬ気でいた家康を無理矢理に馬に乗せ
馬の尻を強く引っ叩いた

命からがら浜松城に戻るが
恐怖のあまりうんこを漏らしてしまった
家康三大危機の一つ

徳川惨敗の知らせを受けた織田信長
岐阜に戻って臨戦体制

義昭に対しては17ヶ条の弾劾書を突きつけて完全決裂
義昭は兵を集めて、対峙するが
信長はそんなものを相手にする状況にない
放っておいて、岐阜と京都に全勢力を集めていく

ところが、どうも信玄の動きがおかしい
多くの忍びを使って情報を探る

信玄重病か

それを裏付けるように
武田勢の動きが完全に停止した

信長は、岐阜を引き上げて京都に向かう
義昭をひねりつぶすこともできただろうが、
やはり信玄の動きが気になるので
義昭と和議を成立させ
大急ぎでまた岐阜に戻る
実はその翌日に武田信玄死去
その事実はひた隠しに隠された

その後、義昭と信長との間で
押し引きがあるが
結局、信長は義昭の命までは取らなかった
ただ、将軍家足利は、完全に滅亡
室町時代はこれで完全に終わりを告げたことになる
義昭はこのあと、各地を転々とする人生となる

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[外交]12 終戦。たたかひの

外交資料館に行って来ました
[外交]2 条約の改正に頑張る外務大臣たち
[外交]3 日清戦争は朝鮮の内乱?
[外交]4 三国干渉から日露戦争へ
[外交]5 日露戦争から第一次世界大戦へ
[外交]6 第二次世界大戦への背景
[外交]7 15年戦争の始まり。満州事変から
[外交]8 ニ・ニ六事件そして日中戦争
[外交]9 第二次世界大戦から太平洋戦争
[外交]10 負けるとしか思えないのになぜ
[外交]11 太平洋戦争が始まって
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終戦へ向けて
天皇陛下の前で行われる会議を御前会議と言います
1945年、終戦の年の御前会議と、背景になる状況を整理しましょう

6月8日  御前会議 国体護持を前提に戦争継続⇒継戦決定
7月26日  ポツダム宣言発表⇒黙殺

明治時代からあとは、天皇による君主制なので
全て天皇が決めるという建前なんだけど
実際には、天皇は意思決定してはいけない
なぜなら、あとがないから

もし、天皇が下した決定が間違っているとなったら
天皇は辞めなきゃいけない
首相なら責任取って辞めますってことができるけど
天皇は替わりがいないから無理
ってことで、実質的には首相等が決め、天皇はその決定に従って承認するのみ
天皇も分かっているから、実質的口出しはせずにずっと来ていた

ただ、国が崩壊しようとしている
天皇は、戦争をやめたいと思っている
政府や軍部にその意思なし
敗戦なら、天皇は処刑されるだろう
長い長い日本の歴史
世界に類を見ない千年以上続く天皇制が廃止されるかもしれない
一人の天皇が自分の意思で、それを、選択できるのだろうか
葛藤が続く

たたかひの すゑを思へば むなしけれ 人のいのちの いたづらにして

8月6日・9日 原爆投下(広島・長崎)⇒被害甚大
8月9日  ソ連参戦/御前会議
議題:「ポツダム宣言受諾の可否」
意見が真っ二つに割れる。
外務省・政府側(東郷茂徳外相ら):早期降伏を主張。
陸軍側(阿南惟幾陸相ら):国体を守る保証がなければ受諾できない。
結論が出ない
となると、もう今までの原則に従っておれない
天皇陛下の聖断
「もはやこれ以上、国民に苦しみを与えることは忍びない。
一刻も早く戦を止めるべきである。」

身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

8月14日  最終御前会議⇒ポツダム宣言受諾正式決定

たたかひの 終りし秋の 空すみて 世にたへがたき 光をぞ見る

8月15日  玉音放送⇒終戦

やすらけき 世を祈る身は いさなみの 海の如くに ながれゆかむ

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