[首相]56 小泉純一郎

出ましたっ、小泉さん
自民党をぶっ潰す!

小泉純一郎

加藤の乱
森総理の支持率が危機的状況
誰もが「やめてもらうしかない」と思った時、
加藤紘一が動いた
野党が提出した内閣不信任決議案に賛成する動き
もし、加藤派と山崎拓のグループが自民党を割って出ると、自民党は過半数を失う

困ったのが小泉純一郎
元々、YKKトリオと言って仲良し
ところが、小泉純一郎は森派
結局、加藤紘一の動きを止める方向で動く

そんなこんなで、自民党内は大荒れ
森総理の誕生が密室で決められた印象だったので
開かれた総裁選が求められた

総裁選
ここまで、2回総裁選には出馬しているが、いずれも負けている
森派だし

迷いに迷っていると
田中真紀子が猛プッシュをかけてきた
立つの立たないの

女性に立たないの? と言われては、立たないとは言えない
下ネタまがいのコメントを出し、森派を離れた

そうなると、派閥の応援は受けられない
イチかバチかの賭けに出た
派閥を無くす、という主張
「自民党をぶっ潰す」
これが国民にウケた

人気者の田中真紀子が全面的に応援
全国を二人で回り、遊説先の演説では黒山の人だかり

一方の橋本龍太郎、亀井静香、麻生太郎らは
派閥内をまとめきれなかった

決選投票で、亀井静香が小泉支持に回り
3度めにして悲願の総理となった

組閣
以降、異例づくしのいろんな事をやっていくが
まずは組閣
完璧に派閥の論理を無視
田中真紀子の外務相を始めとし
通常、党三役と相談しながら行う人選は
完全に自分一人でやりあげた

小泉内閣発足直後の世論調査では80%というかつてない高い内閣支持率を記録した

続きは次回

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[織田信長]12 毛利攻めと石山本願寺

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
[織田信長]7 義昭を将軍に
[織田信長]8 姉川の戦い
[織田信長]9 武田信玄西上
[織田信長]10 長篠の戦い
[織田信長]11 石山本願寺、松永久秀との戦い
の続きです

毛利征討
羽柴秀吉は、中国征討の命を受けて、安土を発した。
信長は本願寺を壊滅させる為には、その背後にある毛利と決戦するほかはないことを知っている。
本願寺を先に片付けたとしても、その後では毛利と闘わねばならないのだ
毛利の勢力は、この時その極盛期にあった。
安芸、周防、長門を本拠として、十二ヶ国二百万石を勢力圏内とし、動員兵力五万
更に備前の宇喜多直家、丹波の波多野秀治も、毛利の与国であるから、中国地方は殆ど凡てが毛利の指揮下にあったと言ってよい。
この強大敵国である毛利討伐の大任が、秀吉の上にかけられたのである。
秀吉は、この時四十二歳。
既に江州二十二万国の大名になっていたとはいえ、
織田家に大先輩として、柴田、丹羽、佐久間の諸将がいる。
その中で自分が擢んでられて、事実上の中国征伐主将的地位を与えられたのだ。

「禿鼠も、偉くなったな」
自分でその地位に引上げてやった当の信長が、
天守閣の最上層から、秀吉の出陣を見送りながら、
ふっとそう洩らしたぐらいだから、
秀吉本人の感慨は無量であった

播州に入った秀吉の行動は極めて迅速であった。
小寺政職の家老である小寺官兵衛孝高を使って、忽ちの中に、播州一国の各城から人質を集め、官兵衛の居城である姫路城に本拠を置いた。
山口、岩淵、竹田の各城を陥れ、
備・作・播の国境にある上月城を奪った
一ヶ月余りで、播磨、但馬両国をほぼ平定してしまう
ここまでは、甚だ快調であったと言ってよい。

が、ここで事態は急変した。
織田勢の三木城主、別所長治が、毛利方に通じて叛旗を翻した
別所にくみする城主が続いた

それらの城を一つ一つ落としているとき
小早川隆景、吉川元春の率いる三万五千の毛利勢が、
宇喜多の兵力をも合せて、播磨に侵入し
上月城を包囲した

秀吉は上月城に向かったが、包囲網は崩せそうにない
信長に救援を求める
信長は、滝川、丹羽、明智、筒井らの諸将に二万の兵を与えて、秀吉を助けさせた。

それでも容易に勝負は決しない

竹中半兵衛が進言
上月城を捨て、三木城の別所を討つべし

応援の諸将には信長から伝えもらい大挙して三木城へ
こちらも容易に落ちないとなると、諸将たちは様子見
そうこうするうちに、またも裏切り者が出た
荒木村重が毛利方に寝返る

三木城もなかなか落ちず、兵糧攻めに方針転換
時間ばかりが過ぎる中で
竹中半兵衛に病が進んだ

疲れました。少し休ませていただきます
目をつぶった半兵衛は、そのまま36歳の若き生涯を閉じた

実に1年半もの間、耐え抜いた三木城だったが
兵士たちを救うため
別所長治と弟知之は切腹
城兵は全て助命された

石山本願寺
石山本願寺は、籠城五年に及んで屈しなかったが、その勢いは次第にちぢまってきた
前関白の近衛前久(このえさきひさ)が、調停に立った。
前久は顕如上人ともよく識り合った仲であったし、
信長とも特別に親しくしていた

近衛前久は正親町天皇に働きかけて
信長と和解して大阪を退去すること
という勅命を出してもらった

本願寺内では大いに揉める
顕如は講和賛成
その跡継ぎ教如は反対

教如は最後まで反対したが、顕如が和平論なので大勢は決し
顕如たちは石山を退去していった

ところが教如は頑として動かない
残念ながら、教如に同調するものは数人まで減っていった

いよいよ教如も観念して退去した

石山本願寺は火が放たれ、三日間燃え続け
全ての伽藍が灰塵に帰した

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] お目見え

ことば日本史シリーズ、江戸時代です

お目見え
将軍に直接会うことができる、つまり将軍から見える立場の人の身分を「御目見(おめみえ)」といった。

平安末期から、武家社会で主従関係をむすぶために従者となる者が主人に謁見する儀式は「見参」と呼ばれていたが、
安土桃山時代に「御目見」というようになり、
江戸幕府にいたってその言葉が幕臣の格式をも示すものとなった。
御目見することには、将軍との君臣関係を確認するという意味があったが、
御目見以上であるか以下であるかによって、家格はまったく違ってしまう。
御目見以上は、一万石以上なら大名、
一万石以下なら旗本。
御目見以下は御家人である。

この武家社会の制度をふまえて、
一般町家でも奉公人が奉公に入る前に、
まず主人に御目見して、試傭期間である「御目見奉公」をするということが行われるようになる。
こうしたことから、やがて身分の高い人に会うことを一般に、御目見というようにもなった

もう一つのお目見え
この言葉は演劇分野にも転用された
特に江戸時代の歌舞伎界で役者が名題(なだい)に昇進し、
初めて大役を担って観客の前に立つ時、
それを「お目見え」と称して特別な扱いをするようになったのです。

この慣習は、歌舞伎だけでなく文楽、能、さらには落語や講談など、広く伝統芸能に継承されました。
お目見えには、その人物の将来を占う意味や、
芸の成熟度を世間に示す目的が含まれており、
観客との初対面という以上の象徴的価値がありました。

明治期以降、西洋演劇が導入されるなかでも「お目見え」という表現は日本独自の舞台文化として残り、
俳優の初出演や新作舞台の発表などに使用され続けています。
特に、俳優や劇団が「本格的な商業舞台にデビューする」瞬間は、今なお「お目見え」として記録されることが多くあります。

[ことば]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]109 明正天皇。859年ぶりの女性天皇

[天皇] 108-2 後水尾天皇
の続きです

明正(めいしょう)天皇

出ましたっ
859年ぶりの女性天皇です
7歳の少女です
今なら、ランドセル背負っています
以前も女帝シリーズで書きましたので、よろしかったらそちらも読んでね
江戸時代にいた!女性天皇。明正天皇

後水尾天皇としては、幕府に対する恨みの電撃作戦
早々と幕府徳川の孫を天皇にしてしまうことで
徳川の血を朝廷に残さないようにしようという意図もある
女性は天皇になると結婚できないんです
従って子孫を残すことができない

7歳にして、あなたは将来結婚できませんと通達されちゃった事になる
さらに、最初からあなたは中継ぎです、その後、弟に譲位しなさいと約束させられる

幼い天皇は歴史上珍しいことではなく、
そういう場合は摂政が置かれ
元服したあとは関白と変わって、そこからはまぁまぁ自由にやりたいことをできるのですが
明正天皇の場合は成人したあとも摂政のままだった
後水尾としては、明正天皇15歳の時に摂政を関白に変え、神事も行うように指示をした。
ところが所司代板倉重宗が猛反発

結局、後水尾は、寛永11年に幕府から「院政」を承認され、
それ以降、延宝8(1680)年に85歳で亡くなるまで、
わが子である明正、後光明、後西、霊元の
四代にわたる天皇を支え、
江戸時代の天皇と朝廷を定着させた。

明正天皇は15年間摂政のままで、神事もやらせてもらえず
弟が11歳になるや、譲位させられる

後水尾から明正天皇への譲位は幕府には知らされない無理矢理のものだったが
明正天皇から後光名天皇への譲位はむしろ幕府が主導した
朝廷を監視するための仙洞付武家と禁裏付武家という機関を新設することが交換条件だった

天皇の間は何もやらせてもらえなかったが
譲位さえすれば、院になる
院に対する法度は用意されていないから、自由にやりたい事をやれる
だから日本の天皇の歴史は、一刻も早く譲位して院になりたがる
さあ、明正院は?
残念
院に対しても幕府の監視員が送り込まれた
さらに言うと、後水尾上皇が実力がありすぎた
院になったあとも明正院があれをやったこれをやったという記録が殆ど無い

明正天皇は結局幸せだったんだろうか
バリバリやりたがりの人なのか、そっとしておいて欲しいタイプの人なのか、人によって考え方が違うので何とも言えませんね

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)