[ことば日本史] お目見え

ことば日本史シリーズ、江戸時代です

お目見え
将軍に直接会うことができる、つまり将軍から見える立場の人の身分を「御目見(おめみえ)」といった。

平安末期から、武家社会で主従関係をむすぶために従者となる者が主人に謁見する儀式は「見参」と呼ばれていたが、
安土桃山時代に「御目見」というようになり、
江戸幕府にいたってその言葉が幕臣の格式をも示すものとなった。
御目見することには、将軍との君臣関係を確認するという意味があったが、
御目見以上であるか以下であるかによって、家格はまったく違ってしまう。
御目見以上は、一万石以上なら大名、
一万石以下なら旗本。
御目見以下は御家人である。

この武家社会の制度をふまえて、
一般町家でも奉公人が奉公に入る前に、
まず主人に御目見して、試傭期間である「御目見奉公」をするということが行われるようになる。
こうしたことから、やがて身分の高い人に会うことを一般に、御目見というようにもなった

もう一つのお目見え
この言葉は演劇分野にも転用された
特に江戸時代の歌舞伎界で役者が名題(なだい)に昇進し、
初めて大役を担って観客の前に立つ時、
それを「お目見え」と称して特別な扱いをするようになったのです。

この慣習は、歌舞伎だけでなく文楽、能、さらには落語や講談など、広く伝統芸能に継承されました。
お目見えには、その人物の将来を占う意味や、
芸の成熟度を世間に示す目的が含まれており、
観客との初対面という以上の象徴的価値がありました。

明治期以降、西洋演劇が導入されるなかでも「お目見え」という表現は日本独自の舞台文化として残り、
俳優の初出演や新作舞台の発表などに使用され続けています。
特に、俳優や劇団が「本格的な商業舞台にデビューする」瞬間は、今なお「お目見え」として記録されることが多くあります。

[ことば]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]109 明正天皇。859年ぶりの女性天皇

[天皇] 108-2 後水尾天皇
の続きです

明正(めいしょう)天皇

出ましたっ
859年ぶりの女性天皇です
7歳の少女です
今なら、ランドセル背負っています
以前も女帝シリーズで書きましたので、よろしかったらそちらも読んでね
江戸時代にいた!女性天皇。明正天皇

後水尾天皇としては、幕府に対する恨みの電撃作戦
早々と幕府徳川の孫を天皇にしてしまうことで
徳川の血を朝廷に残さないようにしようという意図もある
女性は天皇になると結婚できないんです
従って子孫を残すことができない

7歳にして、あなたは将来結婚できませんと通達されちゃった事になる
さらに、最初からあなたは中継ぎです、その後、弟に譲位しなさいと約束させられる

幼い天皇は歴史上珍しいことではなく、
そういう場合は摂政が置かれ
元服したあとは関白と変わって、そこからはまぁまぁ自由にやりたいことをできるのですが
明正天皇の場合は成人したあとも摂政のままだった
後水尾としては、明正天皇15歳の時に摂政を関白に変え、神事も行うように指示をした。
ところが所司代板倉重宗が猛反発

結局、後水尾は、寛永11年に幕府から「院政」を承認され、
それ以降、延宝8(1680)年に85歳で亡くなるまで、
わが子である明正、後光明、後西、霊元の
四代にわたる天皇を支え、
江戸時代の天皇と朝廷を定着させた。

明正天皇は15年間摂政のままで、神事もやらせてもらえず
弟が11歳になるや、譲位させられる

後水尾から明正天皇への譲位は幕府には知らされない無理矢理のものだったが
明正天皇から後光名天皇への譲位はむしろ幕府が主導した
朝廷を監視するための仙洞付武家と禁裏付武家という機関を新設することが交換条件だった

天皇の間は何もやらせてもらえなかったが
譲位さえすれば、院になる
院に対する法度は用意されていないから、自由にやりたい事をやれる
だから日本の天皇の歴史は、一刻も早く譲位して院になりたがる
さあ、明正院は?
残念
院に対しても幕府の監視員が送り込まれた
さらに言うと、後水尾上皇が実力がありすぎた
院になったあとも明正院があれをやったこれをやったという記録が殆ど無い

明正天皇は結局幸せだったんだろうか
バリバリやりたがりの人なのか、そっとしておいて欲しいタイプの人なのか、人によって考え方が違うので何とも言えませんね

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[縄文]6 石器・骨角器づくり

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
[縄文]3 森をひらきイエをつくる
[縄文]4 ムラができる
[縄文]5 道具づくり
の続きです

東久留米第七小学校の6年生が卒業記念に造った版画集を元に出来上がった「縄文人は生きている」という本からの引用です

17.石器をつくる

石器には、大きくわけて、
自然にある石をそのまま利用したもの、
打ち欠いてつくったもの、
研磨してつくったものの三種類がある。

石のもつそれぞれの性質を利用して、
割れ口がガラスのように鋭いものは刃物に、
表面がざらざらとしたものは磨石や石臼にというに、
そのつかいみちに適した石を選んで石器をつくった。
石を割り、それを加工する技術は、みんな「職人並」だ。

18.鹿の角でつり針をつくる

つり針は鹿の角でつくられたものが多い。
鹿の角はにかわ質を含み、弾力に富んで丈夫だからだ。

つり針をつくるにはまず材料の角(つの)にたての切りこみをいれ、
そこから石斧などで打ち割って角の髄をとり、
板のように削りこむ。
つぎに、つくろうとするつり針のおおまかな形をきめ、
石器で削りながら基本の形に整えていく。
そして、最後に砥石で全体を研磨し、
針先を鋭くとぎあげ、さらにかえし鉤(かぎ)をつけて完成である。
それは根気のいる仕事だ

削ったり、磨いたりするときに、水をかけながらおこなうと、
ひじょうに早く作業ができる。

19.柄をつける

道具は刃物の部分と、てこの役目をする部分とを組み合わせると、
より大きな力をだすことができる。石斧につけた「柄」もそうだ。
これを組み合わせ道具という。
福井県鳥浜貝塚からは、石斧につけられたままの、木でできた柄がたくさん発見されている。
いずれもソケット式とよばれる差し込み式のもので、
木の枝のまたの部分を利用して、石斧をとりつけるソケットをつくっている。
長さは柄が約50センチ、ソケットは約25センチである。
この他にも、木に切れこみをいれて、そこに石斧をはさみ、
ひもや縄で結ぶなどの方法がとられたことが考えられる

20.弓矢の発明

石器時代人がつくった組み合わせ道具で、
もっとも発達したもののひとつが弓矢である。
弓矢は弦の反発力を利用し、
大きなエネルギーを生みだした、はじめての飛び道具であった。

縄文人がつくった弓は、全長が70〜140センチの丸木弓であった

矢の先につける矢尻 (石鏃(せきぞく))を作るために、
遠く長野県などから黒曜石をわざわざ取りよせていた。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]55 森喜朗

首相シリーズもこのあたりになってくると、つい最近感があります

森喜朗(よしろう)

早稲田大学ではラグビー選手。
日本ラグビーフットボール協会会長を務めた。
早稲田大学へはラグビーでの推薦入学だったが、病気を患って退部したため、大学も辞めるべきかと迷ったが、その後、雄弁会という道を見つける
演説は得意感があるあまり、話が脱線しやすい。
問題発言も調子に乗りすぎて出たのだろうか。

小測総理の突然の入院・退陣を受けて、森喜朗が自民党総裁に選ばれ、総理となる。
しかし、後継者選びが青木幹雄、野中広務といった少人数の党内有力者による密室協議で決まったため、
発足当初から政権の正統性に疑問が出た。
それを反映し、内閣支持率も低迷する。
さらに森総理自身の、「日本は天皇中心の神の国」などの発言が問題化。
2000年(平成12)6月に衆院解散に打って出るが、
ここでも「無党派層は寝ていてくれればいい」と演説。
投票の結果、自民・公明・保守の与党3党とも大幅に議席を減らすが、
3党では安定多数を確保し、森総理は再指名を受けた。

総選挙で危機感をもった森総理ら自民党執行部は、青木幹雄参議院幹事長を中心として、自民党に有利な、参院比例代表区に「非拘束名簿式(候補者名簿に順位をふらない方式)」を導入する公選法改正案を提出。
強行採決でこれを成立させる

景気が回復せず、外務省機密費問題やケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD)の汚職事件が政権の重荷となるなか、
側近の中川秀直官房長官が女性スキャンダルで辞任した。

2000年11月、内閣不信任案が提出されるや、
野党に同調しようとする加藤紘一元幹事長らによる「加藤の乱」が起こる。
このときは加藤の動きを押さえ込んで不信任案否決でしのいだが、求心力はますます低下した。

2001年(平成13)2月、アメリカの原子力潜水艦と水産高校の練習「えひめ丸」の衝突事故が起きた際、
森総理がゴルフを続けていたことが世論のきびしい批判をあびる。
これを決定打に、4月の退陣となった。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)