[縄文]9 狩り

[縄文] 縄文人は生きている
[縄文]2 ムラづくり
[縄文]3 森をひらきイエをつくる
[縄文]4 ムラができる
[縄文]5 道具づくり
[縄文]6 石器・骨角器づくり
[縄文]7 山の幸
の続きです

東久留米第七小学校の6年生が卒業記念に造った版画集を元に出来上がった「縄文人は生きている」という本からの引用です

25射止める

縄文人がいろいろな動物の狩りをしていたことは、見塚などから発見される動物の骨でたしかめることができる。
とれた動物は肉が食用となるほか、
骨や角が道具の材料に、
皮が衣服の材料になるなど、
そのほとんどを利用することができただけに貴重であった。

よく狩りには弓矢がもっとも多くつかわれた。
弓は弦の反発力を利用した飛び道具で、
獣との距離をおいたまま射とめることができたので、
一人でしのびうちをするのにも、
おおぜいで追いこみ猟をするのにもとても便利な道具である。
また、矢の先端に毒をぬって、毒矢としてつかったとも考えられている。
これは日本をふくむ東アジアにはトリカブトが自生しており、
この根に有毒なアルカロイドという成分がふくまれていることから、
昔のアイヌなどの民族で、
毒矢として利用していたことから考えられているものである。

縄文人がもっとも多くとった動物は
シカとイノシシであるが、
キジやカモなどの鳥もとられた。
鳥を射とめるには、弓矢が最も効果をあげたにちがいない。

「ヨーシ!こんどこそ」
獲物をねらう狩人の目は真剣で鋭い。

26逃げられた

静岡県蜆塚貝塚から発見されたイノシシの坐骨には、
矢の先端につけられた石鏃(せきぞく)がつきささったまま
その周囲の骨が増殖していたという。
これは矢を射こまれたイノシシが深い傷をうけながらも、
静岡県蜆塚貝塚から発見されたイノシシの坐骨には、
矢の先端につけられた石鏃(せきぞく)がつきささったまま
その周囲の骨が増殖していたという。
これは矢を射こまれたイノシシが深い傷をうけながらも、その後もかなりの期間にわたって生きていたことをしめしている。

矢があたっても、それが必ずしも死ぬほどの傷にはならない。
それだけに、動物の急所がどこにあるかなど、
狩人になるための知識を縄文人は十分にもっていたことであろう。

27シカを追いたてる

シカなどの大きな動物を捕獲するには、
「落し穴」「わな」などのほかに、
弓矢などの飛び道具をつかって、
しのびよってうつ、ケモノ道などでまちうけてうつ、
追いだしてうつなどの方法が考えられる。

しのびよったり、待ち受けたりする猟法は、一人でもできるが、
追いだし猟は何人かの集団での作業となる。

縄文時代早期の遺跡からすでにイヌの骨が発見されていることから、
猟犬の活躍も十分に考えられる。
イヌなどをつかって追いだす場合、
あらかじめシカがにげる道を予想し、
そこに身をかくして待ち受けている方法と、
おおぜいで遠まきにして、まちうけているところへ追いだす方法とがある。

「にがすな!そっちへいくぞ」

冬のシカは秋の実りをたっぷりと食べて、
脂がのっている。この期間が、新山ムラの人びとにとって追いだし猟で活気づくときだ。

28落し穴を掘る

落し穴には動物を追い落す方法と、
落ちるまでまつ方法とがある。
落し穴が発見される遺跡をみると、山の尾根、わき水のまわり、谷ぞいなどに多くつくられている。
それはシカ・イノシシ・タヌキ・キツネなどのケモノ道や水飲み場をねらって、
落し穴が多く掘られたからである。

落し穴は竪穴住居と同じように、打製石斧(だせいせきほ)とよばれる土掘り具で掘られた。
直径1メートル、深さが1メートル以上もあって、
底に先の鋭くとがった棒を立てた穴もある。

29穴に落としてバンザイ!!

動物を追いこんで穴に落とす猟法は、日本各地に残る民俗例で知ることができる。
それによれば、まず落し穴を一定のあいだをおいてならべて掘り、穴と穴とのあいだには垣をつくって、
そこへにげこむ動物が落し穴の上を通りぬけなければならないようにしておく。
そして、動物をおおぜいで遠まきにして、
落し穴のほうへ追いこむのである。

「ヤッター!落ちたぞ。バンザーイ、バンザーイ!」

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[河村瑞賢]5 木曽全山の木材を仰せのままに

[河村瑞賢]1 江戸へ
[河村瑞賢]2 おこうこはいらんかね
[河村瑞賢]3 ものを売ろうとするからだめなんだ
[河村瑞賢]4 明暦の大火
の続きです

木曽へ
明暦の大火が過ぎて途方に暮れる
また一から出直しか
万が一の時のために、家の下に埋めてあった壺を掘り出す
十両と少し
若干の元手にはなりそうだが、果たして何をしようか

今、人々が一番困っているもの
水と食料
ただ、江戸周辺の農家では足元を見てくるだろう
利益を出すのは難しそうだ

あっ
自分のやってきた商売、材木じゃないか
江戸から離れた木曽ならば、まだ大火の情報は知らないだろう
雪で閉ざされ、今の季節は交通が遮断されている
そこに一番に行けさえすれば

命からがら、雪まみれで、何とか木曽に着く

此度は早急に木材の手配をせねばならず、
こちらに駆け付けてきた次第です

こんな時期にですか
江戸で大名家か大寺の大きな作事があるんですね

ええ、まあ、そんなところです
(まだ、大火の事は伝わっていないな)

それで、どれほど要る

ご都合がつくすべての木をお引き取りいたします

戯れ言もほどほどになされよ。
木曾全山の木を引き取りたいと申されるか

はい

うーむ
で、手付金はいかほど

(持ってきた十両を見せると)

話にならん
ところで、木曽全山の木材、いくらで買おうと言うのだ

仰せのままに

何をっ
木曾の木を一本残らず、こちらの言い値で買うというのか
馬鹿な。どこの世界に卸元の言い値で買う奴がいる

確かに商人たるもの、利を出さねば商いをする意味はありません。
しかしながら、産地と仲買人は持ちつ持たれつ。
山村様も暴利をむさぼるつもりはないはず

そうだ

山村様を男と見込んで、言い値で買うと申しました

(しばしの沈黙のあと、山村が膝を打った)

分かった
今年の相場値で売ろう

本当に伐採する木材を、すべて買い上げるのだな

男に二言はありません

ただし金を払った分しか運ばせぬぞ

商人たるもの、金は向こうからやってくるように仕向けねばなりません

この山里に、金を持った者どもが押し寄せてくると申すか

はい

約定書を取り交わした

飛ぶように
その後、5日目あたりから、商人が押し寄せてきた

全て、七兵衛に任せてあると聞き、やってくる
次々と取引を成立させ、山村に現金を支払った
山村は目を白黒させて驚く

さらに数日後、江戸で大火があったという情報がもたらされ
山村は悔しがったが
どんどん現金収入が増えていくので、悪い気はしない

七兵衛は、暴利を貪ろうとはしなかった。
客どうしを競り合わせて販売価格を釣り上げるようなことはせず、「上限の売値は仕入れ値の倍まで」という方針を貫いたのだ。
これにより交渉や駆け引きによる無駄な時間がなくなり、
それぞれの商取引が右から左へと流れるように進んでいった。

雪解け水が涸れ始める頃には、七兵衛は大金持ちになっていた。

江戸に戻って
私が驚いたのは、このあとです。
ここまでの話で、なるほど七兵衛はきさいに優れ、大金持ちになった、紀伊國屋文左衛門のような商売人なんだなと。
とはいえ、大きな意味では人の弱みにつけ込んで巨額の富を得たと言えなくもない。

ところが、違っていたんです。

材木商人たちの波が一段落すると、
七兵衛は川舟で尾張熱田まで下り、
もうけた金で買えるだけの米を買い付けた。

江戸へ戻ると、
その米で、粥施行(かゆせぎょう)を始めた

すなわち、七兵衛は得た巨万の富を、自分の懐に入れず
全て人々のために使った。

残してきた家族と再開。
ひしと抱き合ったが、やはり次男の兵之助は見つからなかったと言う
長男は粥施行を手伝うと、かってでた

連日、人々が押し寄せる

ところが被災者があまりにも多すぎた
とうとう、米が底をついた

集まった人たちは、粥がもらえないと分かると
罵詈雑言を七兵衛に浴びせるようになる

これで、粥施行とは笑わせる
名を売るためにやったんだろう

七兵衛はひたすら耐えて頭を下げ続けた。

数日後、七兵衛の元に米俵が届く
七兵衛が私欲を捨てて、人々のために頑張っていると聞いて
大阪の商人から届けられたもの

幕府から米の手配を頼まれた彼らは、
それを廻船に載せてくる際、
指定された量よりも多めに載せ、
それを無償で七兵衛に提供した

再び、粥施行が軌道に乗ってきた
大阪だけでなく、全国各地の商人から届くようになった
役人を介すると、せっかくの米も武士に回ってしまうので、
あえて七兵衛に送り付けてくる

食料事情は少しずつ改善されていった

ただ、江戸では次なる問題が生じていた。

この続きは、シリーズの次回でね
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[織田信長]14 富士山見物と弥助

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
[織田信長]7 義昭を将軍に
[織田信長]8 姉川の戦い
[織田信長]9 武田信玄西上
[織田信長]10 長篠の戦い
[織田信長]11 石山本願寺、松永久秀との戦い
[織田信長]12 毛利攻めと石山本願寺
[織田信長]13 武田滅亡
の続きです

甲府から
武田攻めで信長は天正10(1582)年4月10日まで甲府に滞在した

ここまで来たのだ。富士を見物しておくかな

行きと同じ木曽路を戻るのではなく、東海道に出て富士山を見物しながら帰ることにした。
信長はまだ富士山を見たことがない

駿府の家康に伝えられた。
さあ大変
信長の機嫌を損ねては大変な事になる
準備周到、破格のおもてなし
この時の様子は過去にも家康の立場から書いたのでそちらに譲ります
家康6、武田崩れたり!富士山見たい
4月20日に安土城に戻るまでの10日間
家康は、生きた心地がしなかった

信長は大満足だった

弥助
信長が安土城に戻って、久々に大爆笑する出来事があった

その1年前、宣教師オルガンチノが信長を訪れた時、
黒人が随伴していた
26〜7歳、身長は2メートルを超える長身
一目見て信長は驚き、興味を持って、オルガンチノに譲って欲しいと頼んだ
黒人は「弥助」と呼ばれ、厚遇を受け、信長には大変な恩を感じていた。

弥助は、戦いにはついて行かなかった。
ゼウス様は殺しを禁じています。どうかご勘弁ください、との嘆願が受け入れられたのだ

久しぶりに合うお気に入りの弥助を呼ぶ

ところが、いつもなら何をおいても駆けつける弥助がなかなか姿を表さない

どうかしたのか

侍女がくすりと笑った
弥助は、上様にお仕置きをされるのではないかと恐れているのでしょう。

お仕置き? 弥助が何かしたのか?

八重の事で・・・

八重? あの色の黒い太った鼻のつぶれた女か
あの女がどうしたのだ

弥助が八重に思い焦がれているのでございます

聞いた瞬間、大爆笑
弥助が、あの、狸が下痢したような八重に惚れおったか

ーーーー
弥助が八重の履いた草履に、こっそり口づけしているのが目撃された
みんなの大笑いの種になり、城中に噂が広がった
八重は、いつも容姿で引け目を感じていたので
黒人にまでバカにされたと思い、カンカンに怒った
ただ、国が違えば美人の基準も違うもので
弥助の国では八重こそが美人だった

お八重さん、あなたは美しい。私はあなたが大好きです。

八重は、生まれて初めて美しいと言われた
どうも真剣に言っていることが分かった

私をみんなの笑いものにしないでおくれ。これから私に近づかないでおくれ
と、言いつつ、頭を包んでいた手ぬぐいを投げた
それ、あげる。人に見せないで。
ーーーー

侍女に引っ張られるようにして、弥助が信長の前に連れてこられた。
もしかしたら打首にでもされるかと、ひどく怯えている。

弥助、惚れたそうだな

はい

惚れたら口説け

は?

口説き落としたら、一緒にしてやろう

そう言うと、笑いながら御殿へ引き上げていった。

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[ことば日本史] 本因坊

「ことば日本史」江戸時代から

本因坊
慶長17年(1612)、徳川家康は本因坊算砂ほか七名の囲碁・将棋の上手に扶持を与えた。

家康は、囲碁、将棋が大好きだった。

天正末期から家康は上洛するたび、連日のように宿館で宴会を催し、さまざまな人々を招待したが、きまって碁打ち、将棋指しも招いたという。飲食のあと、対局して楽しんだらしい。

その頃から、家康ばかりでなく、武家、公卿、僧侶、町人にも囲碁の愛好者が増えており、専業者が生まれてきた。

たつちゆう本因坊算砂は、京都寂光寺の塔頭、本因坊の住職で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて稽古をつけたといわれる碁打ちの上手である。ただし実際には信長は観戦しただけで自分では打たなかったとも考えられている。秀吉もそれほど深い関心はもたなかったらしく、もっとも好んだのは家康だった。

家康に扶持を与えられた囲碁、将棋の上手たちは、全国の碁打ち、将棋指しの家元のような存在となり、それぞれ一門をなす。
寛文2年(1662)に、寺社奉行の支配下に碁所、将棋所がおかれ、
碁方四家、将棋方三家が決められた。
この家格は世襲され、
江戸城で年に一度、各家の当主と跡目は黒書院に出仕して、
将軍の前で対局する「御城碁」「御城将棋」を行った。

また、全国の将棋指し、碁打ちに対して強弱を認める免許状を発行し、
これを収入源とした。

21代本因坊の秀哉(しゅうさい)が引退して、
昭和14年(1939)からは、本因坊は実力によって争奪される優勝者の称号となった。
ひいては碁の上手をさしても使う。

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