丸の内、ロンドンの次はニューヨーク

前回、一丁倫敦の話をしましたね
丸の内がロンドンになった日

三菱が払い下げを受けたのが明治23年。実に84000坪
一号館の建設が明治27年
明治32年馬場先通りの4隅が完成、4軒長屋と言われます
間を埋めながら、13号まで。
ここまでで明治44年です。
一丁倫敦(いっちょうろんどん)としてはほぼ完成です。
ちょこっと離れて、同じく明治44年に帝国劇場
帝国劇場株式会社の代表取締役は渋沢栄一です。
フランス風の白亜の建物


建物の軒高(高さ)が統一されるんですね
50尺。15~6m

東京駅
さあ、大正に入って参ります。

鉄道が、新橋からの状態は変わっていない
東北方面からは、上野止まり

繋げたい!
そして、中央停車場を作りたい

諸事情があって、実現が遅れに遅れておりました。

大正3年にようやく完成
設計は、言わずと知れた、辰野金吾
ジョサイヤコンドルの弟子ですね。

基本の軒高は55尺。
それまでの50尺ルールを破っちゃいます。

それって明治時代のルールでしょ

左右の八角塔に突き出した棒は、は152尺(46m)

これを契機に、開発の中心が
馬場先通りから東京駅のど正面、行幸通りに移ります。

大正時代のこの町並み
新しいルールで統一するってどうでしょう

いいね、いいね
今までが50尺だから
今度は100尺だね

結構、安直です。
31m

まずは、大正7年に、東京海上ビル7階建て
どどーん

新基準でどんどん建ち始め
大正12年2月に、いよいよ丸の内の象徴
丸ビル完成でーす。

馬場先通りが一丁倫敦ならこっちは、一丁紐育(ニューヨーク)

ところで、大正12年と言えば?

そう
9月に、関東大震災ですね

東京全体が壊滅する中
一丁紐育はそれほど被害を受けませんでした。

丸ビルも館内はぐちゃぐちゃになりましたが
建物自体は無事。
実は関東大震災は11年12月にもかなり大きな地震を前もって起こしており
完成直前だった丸ビルは、耐震補強の筋交いを163箇所も追加していたんですね。

丸ビルの中から、浅草凌雲閣12階が崩れ去るのが良く見えたと言います。

皮肉な事に、これを契機に
被害の少なかった丸の内に首都機能が集中していくことになります。

昭和
昭和9年
象徴的な出来事が起きます。

明治生命館の完成です。

この建物、一丁倫敦の二号館の場所に建ちます。
隣接の土地のビルも壊し
どどーんと

当然100尺の新基準

一丁紐育が、一丁倫敦を飲み込んだ瞬間ということです。

これ以降、今に至るまでお堀端に面した建物はほぼ全て、100尺で揃うことになります

昭和4年に大ヒットした「東京行進曲」
一番が銀座で二番の歌詞は丸の内

恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く 人もある
ラッシュアワーに 拾ったバラを
せめてあの娘の 思い出に

終戦
昭和20年がやって来ます。
東京全土が焦土と化します

震災から20年余りですのにね。

前を向くしかない。

行幸通りの最後の大空き地に
新丸ビルが建ちます。
昭和27年です。

時代は進み、東京オリンピックが昭和39年

高度成長の時代に入ります。

昭和40年に、高さ147mの霞が関ビルディングの完成

超高層ビル時代に突入か

100尺の第一号、東京海上ビルが立て替えを予定
128mにする予定でした。

ここで、お堀端からの景観論争が勃発
すったもんだのあげく、東京海上ビル側も譲歩。
間取って、100mで一件落着

平成
またどどっと進んで、平成14年
丸ビルが立て替え
これを皮切りに
我も我もと立て替え、超高層化のラッシュ

でも下から見ると一旦100尺
その上に乗っかっているように見えますね
超高層ビルのくせして、100尺ルール
何ともこの考え方が可愛いね

今は一丁何なんだろう。

もう今は、どこを真似た訳でもない
一丁丸の内じゃなかろうか

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キンシバイ

花カレンダー始めました

丸の内がロンドンになった日

一丁倫敦(いっちょうろんどん)の話、近いうちに書きますと言いつつ、
そのままになっていました。
丸の内をふたつのテーマで歩く

一丁倫敦
丸の内は、各藩の密集地帯でした。
明治維新になって、さあ、撤収ーっ
丸の内だけに限りませんが、がらがらのもぬけの殻

この膨大な地域、どう使うよ
陸軍さん、あなたにあげますわ。

そりゃまたありがとう

陸軍が使っていた訳ですが
色々あって、移転することになりました。

さあ、困った。
移転費用が膨大にかかる
てっとり早く移転費用を捻出するため
ちょこちょこ売るんじゃなく
この土地を一括して買ってくれるところはなかろうか

はいはいはい。
手をあげたのが、渋沢栄一と三井の合同チームと、岩崎弥之助の三菱

分かった!
三菱が勝ったんでしょ
ほら、三菱地所を見に行こう、って可愛い女の子が宣伝してる。

いやあ
そうは簡単にいかないんですね。

入札をしました。
両方の出した金額が、陸軍の必要な金額に全く及ばなかった。
決裂

残念でしたね。

でも、どうしましょ、陸軍さん

にっちもさっちも行かない間に時間だけが過ぎていきます。
豊洲移転問題みたいですね

岩崎弥之助のところに連絡を入れます。

どうもどうも、その節は。

ところで、例のあの場所なんですが
これくらいでいかがでございましょう。
そろばんパチパチ

はいっ?
前言われていた金額と変わりませんやん

分かりました?

岩崎弥之助は、偉大なるお兄さん岩崎弥太郎が亡くなって、引き継いだばかり
でっかい仕事で、自分色を出したいところ

無いなあ、金

そこへ、外国に仕事で行っていた、昔からの大番頭から電報

カウベシ

何とかなるっしょ

土地やら会社やら株やら、売りまくって、金を工面

だだっ広い空き地を見て
あああ、買っちゃったよ

でもどうすんの
金はすっからかんだから、建物立てられないじゃない

ただ、広がる荒野

人々は、「三菱が原」と揶揄します。

ところが、不思議と天から降ってきたような特需
西南戦争が勃発します。
西郷どんには申し訳ないが、ウハウハ

よし
やるからには、みんなが唸るような歴史に残る町並みを作ろう
ロンドンの街を街を真似て
こんな感じでお願い

あの、ジョサイヤコンドルに設計を任せます

馬場先通りの四隅に一号館から三号館まで
ひとつだけは、おかみに、東京商工会議所として取られちゃった
四隅全部とったらオセロだと無敵だけどね

さらに、間を埋めるように、ガンガン作っていきます。

一丁というのは100m位なんですが
それだけの長い間、全部ロンドンという意味で
一丁倫敦(いっちょうろんどん)


町並みを絵で書くとこんな感じ

高さを完全に同じにして、統一感を持たせつつも
全く一緒じゃなく、それぞれ個性を持たせる。

綺麗です。

さあ、そして、このあと、
東京駅、一丁紐育(ニューヨーク)、高層ビル化と続いていくわけですが
後半戦は、また日を改めて。

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ヤマボウシ

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唐人お吉の悲しすぎる運命

前回、初代アメリカ公使、ハリスの話をしましたね
アメリカ、初代公使ハリス

次はその流れで、その通訳ヒュースケン、と思っていたんですが
ハリスの時のコメントで、唐人お吉(とうじんおきち)の話が出ました。

これはやっぱり、ヒュースケンの前に唐人お吉を挟まざるを得ませんね

斎藤きち
後に唐人お吉とあだ名されるのは、斎藤きち
伊豆下田の船大工の娘でした。

幼い頃から近所でも評判の器量よし
琴や三味線も習い
下田で芸者をすると一躍人気者となり、下田一と噂されるようになります。

船大工の鶴松とも婚約し、この先の人生に想いをはせながら過ごしておりました。

ハリス
そんな時期、ハリスが日本にやって来ました。

前回お話ししたように、ハリスは慣れない日本の地で病気になってしまいます

困った通訳のヒュースケンは
幕府にお願いをします。

看護師を一人お願いできませんか。

ナース ワン プリーズ
でしょうか

英語がオランダ語に翻訳され、さらに日本語に

はあ?ナース?
何ですのんそれ
日本には看護師なる概念がないので、オランダ通訳としても翻訳しようがなかった

何て説明しましょう、
女性で・・

といったところで

はいはいはい。
分かりました、皆まで言うな
いやあ、ハリスさんもお好きですなあ。

完全に勘違い。

大事な異国からの客人
最高のおもてなしをせねば

下田一の芸者、お吉に白羽の矢が立ちます。

絶対嫌です。私には婚約者がございます。

まあ、そう言わずに
月給10両と、支度金25両でどうだ
(1両10万円と考えれば、月給100万円の支度金250万円)

嫌と言ったら嫌です。

ところで、鶴松だが苗字帯刀が許される身分になりたいと常々言っているそうじゃないか
考えてみても良いのだが。

泣く泣く向かったハリスの元
お吉、弱冠17歳の時。

完全に勘違いだったことが分かります。

となったら、日本のために、誠心誠意お仕えせねば

一生懸命看病
ハリスもその態度にすぐに心を打ち解けます。

アイ ウォント ミルク
牛乳が飲みたいです。

当時、牛乳を飲む習慣が日本には全くありませんでしたが
ハリスのために、お吉は奔走します。

そのまま、献身的な看護で回復に向かい・・
となりそうですが
なんとなんと、たった3日でハリスから解雇されてしまいます。
(3ヵ月という説もあります)

理由はお吉に、おできが出来たから

納得いきません

お吉はヒュースケンに詰め寄りますが
解雇です。もう来ないで下さい、の一点張り

まあ、そんな理由はおかしいので推測するに
おそらくハリスも勘違いの経緯がわかり
かつ、お吉に婚約者がいることを知ったからなんじゃないでしょうか

ストレートに言うのが取り柄の外人さんなんだから
ちゃんと言えば良かったのにね

唐人お吉
帰ってきたお吉に周りの人たちは好き勝手な噂を流します。

唐人お吉!

唐って中国ですのにね
人々は、中国とオランダ以外の外国を良く分かっていません。

お吉としても、理不尽な解雇を腹立たしく思い
気持ちが荒れていきます。
まとまったお金が手に入りましたので、お酒に溺れるようになります。

そもそもが、外国人に対して攘夷の風が最も強く吹き荒れていた時期

悪い方向へ悪い方向へ

転々と
下田にいられなくなったお吉は、逃げるように住まいを変えます。

髪結いの技術も習得。
そこでは、それなりに順調に行きそうだったのですが
どこからか、噂が立ち
また偏見の目で見られるようになります。

転々と

横浜で、偶然に元の婚約者、鶴松と出会います。

習得した髪結いの技術で鶴松と一緒に、髪結い床を始めます。

今度は「唐人」を逆手にとり
外国で流行っていると銘打って、新しい髪型を流行らせたりします。
外国で日本髪を結っている筈ないですけどね。

若干はブームになるんですが
やっぱり、唐人偏見は根強く、
毛が抜けるとかの噂で、元の木阿弥

また、酒に溺れるようになり、鶴松とも分かれてしまいます。

そしてやはりと、下田に戻ります。

小料理屋「安直楼」を開きます。

最初はうまく行っていたんですが・・。

朝から酒を飲んでいると評判が立ちます。

2年で店を締め、物乞いの生活。

身も心もボロボロになっていきます。

1890年(明治23年)3月27日、
豪雨の日でした。

稲生沢川門栗ヶ淵に入水自殺
50歳。

結局は、帰された後に飲み始めたお酒
このお酒がことごとく彼女の人生を邪魔します。
嫌な事があると、お酒に逃げてしまう。
酔って失敗して、評判を悪くする
その繰り返し。

おそらく今で言うアルコール依存症になってしまったんだと思います。

途中、前向きになっていた時期もあるので、
悔しい思いでいっぱいになります。

遺体の引き取り手はなく、どこの寺からも引き取り拒否
二日間放置されたあと、宝福寺住職に無縁仏として引き取られます。

人気
哀しすぎる人生ですが
せめてもの救いで言うと

その後、芝居や小説で取り上げられ
人気者になったこと

稲生沢川門栗ヶ淵は、お吉が淵と名を変え
お吉記念館も出来
下田では知らない人はいません。
毎年お吉を忍ぶ年中行事は大盛況

あの5000円札の新渡戸稲造が特にお吉に思い入れを強く持ったようで
色んな研究を進めています。

お吉
100年以上もたったあと、あなたのことは忘れていないからね

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ムラサキゴテン

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アメリカ、初代公使ハリス

日本側はうっかりしていた。

ペリーの不完全燃焼
ペリーは開国という目的に対し、大成功だったかに見えるが
大学頭(だいがくのかみ)の林復斎(はやしふくさい)に言い負かされてしまう。

日米和親条約
これは、何ら具体的なものは書かれておらず
仲良くしましょうねという趣旨のみ
日米修好通商条約の締結は出来ずじまいで帰国してしまう。

ああ帰っていった。
良かったね、ほっとした。

ところが
仲良くしましょう条約に、
こんな一文が書かれていた。

必要と判断される際は、外交官を派遣することを許可する。

ハリス
ところがこの大事な一行は
翻訳をした人がミスして、違う意味の日本語になっていた

1856(安政3)年、ハリスが下田にやって来た

♪ハリスーのかぜー

入国を認めない
いや、入国だ

激しい応酬の末
現在の静岡県下田市柿崎の玉泉寺を仮の総領事館とする

ハリスは政治家でも官僚でもない
初等教育しか受けていず、ずっと商業の世界に身を置いていた。

独学で数ヵ国語をマスターし
貿易商として、中国やインドシナに遠征する。

いつか外交官になることが夢だった彼にとって
降って湧いたようなチャンスだった。

日本の印象
「柿崎は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて
態度も丁寧である。
貧乏な国にいつもつきものになっている、不潔さというものが少しも見られない。」
(ハリス日本滞在記)
ハリスが自身の目から見た日本の土地やそこに住む人々は
裕福ではなくとも幸せそうだった。

これから起きるであろう、西洋文明の侵食
彼の中に少しばかりの葛藤が生じた。

交渉
ペリーになくて、ハリスにあったもの
それは、通商によって日本側が得られるものを
理屈で説明出来る能力だった。

粘り強く、粘り強く、交渉を重ねていく。
欧米で行われている商業のひとつひとつを丁寧に説明。

それは、経済学の理論ではなく
彼の貿易商としての経験で得たもの
日本に無い概念なので、翻訳しようにも言葉がない

通訳のヒュースケンと二人三脚で苦労を重ねる

将軍謁見
そして、翌年
ようやく、将軍家定との謁見がかなう

あの、又吉がやってる家定です。

短い沈黙の後、大君は自分の頭を、その左肩を越えて、後方へぐいっと反らし始めた
同時に足をふみ鳴らした。
これが、三四回繰り返された。
それから、彼は、良く聞こえる、気持ちの良い、しっかりした声で、次のような意味のことを言った
「遠方の国から、使節をもって送られた書簡に満足する。
同じく使節の口上に満足する。
両国の交際は永遠に続くであろう。」

体調
江戸参府のあと、体調を崩し、予定を早めて下田に帰る。
実はこの時チフスにかかっていた。

当時最高の医師二人が、匙を投げた。

そして、ヒュースケンも、日記で、覚悟したと書いている。

その後、何とか持ち直す。

気力を振り絞って交渉を続け
ようやく条約締結が叶ったときは
それはそれは嬉しかった事でしょう。

体調を崩して、病魔にやられた原因のひとつ
牛乳が飲めなかった。

以前書いたことがありますね
明治の東京は牧場だらけ
江戸時代以前は、牛乳を飲むという習慣が全く無い

牛乳が大好物のハリスは、ストレスこの上ない

辛抱たまらん。ノンノンノン。
牛かう!
(飼うとカウをかけてみました)

雌牛一頭を下田で飼おうとしましたが、結局は実現しませんでした。

条約へ向けて
井上と岩瀬という二人がどれだけ頑張ったか
井伊直弼はなぜOKを出したか、というあたりは
こちらを読んでね
[徳川名参謀]14 家茂→井伊直弼、なんでそうなるのか

索引はこちら
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アブチロン(チロリアンランプ)

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