[首相]27-3 東条英機。生きて虜囚の辱を受けず

[首相]27 東条英機。南無阿弥陀仏を20回唱えて寝ているよ
[首相]27-2 東条英機。辞表はどうしましょう。
の続きです。

陸軍次官
出世はゆっくりだったし、何度か失敗しているけど
ここへ来て、急に大出世。
この時53歳。
何と言っても、東京へ戻れる事が有難い。

陸軍で大臣に次ぐナンバーツー
ただ、大臣は大嫌いな石原莞爾に近しい板垣征四郎

石原莞爾ほどではないにしても、いまいち合わない。

統制派は、東条を担ぎ上げようとしていたので勢いづく。
東条は、ハイテンションで、演説とかをどんどんしていった。
そうなるとついつい口が滑ってしまうこともある

いかにもすぐにでもソ連と戦争するかのごときニュアンスの演説で
大問題になってしまった。

その前に、板垣大臣がソ連に強行姿勢を取ろうとして
天皇に大目玉を喰らったばかり

自分の保身のためにも、東条を切らざるを得なくなった。

東条としてもやりにくかったのでせいせいした。
一度次官になれば、統制派が盛り上ってくれるので、十分。

辞めたあとは、航空総監部
まだ、空軍というのはないから
陸軍からも海軍からも飛行機の分野に進出しようとして競争状態

ゼロ戦は海軍なので、海軍優位なんですが。

近衛文麿内閣総辞職後、平沼騏一郎内閣8ヵ月

その次の阿部信行内閣は4.5ヵ月
この時、とうとうドイツがポーランドに侵攻
第二次世界大戦が始まってしまう。

陸軍の動きを押さえねば、日本も参戦となってしまう。
天皇は、海軍の米内光政を次の首相に指名した。
米内光政は親米英派。ドイツが嫌い。
半年後の廃棄を通告されていた日米通商航海条約が失効
決定的にまずい状態
親米派だったのに結局は有効な手立てが打てず、皮肉な結果となる。

一方で近衛文麿がまた動き出す。
新体制運動を開始
国民世論をどんどん戦争へと導いていく。

盛り上がってきたところで、近衛文麿再登板
陸軍大臣は東条英機となる
外務大臣もドイツ大好きな松岡洋佑

日独伊三国同盟締結のための布陣が整った

ベルリンで条約締結。

これで日本は安泰だ。
東条は本気でそう思った。
ドイツの強大な軍事力は、対ソ政策にも優位に働き
日中戦争も終結するだろう。
アメリカも手出ししないはず。

憧れのヒトラーに対する過大評価だった。

大政翼賛会が発足
日本全体が、戦争へ戦争へと

本当にアメリカとの戦争になってしまうのだろうか
さすがに、だんだん不安になってきた東条は
佐藤賢了に、国力の分析をさせた。
佐藤はかつて、反対議員の野次を受けるなり、「黙れ」と怒鳴った人物

鉄鋼・石油の生産量をはじめ戦備の面ではことごとくアメリカに分がありますが
精神力では日本軍が上です。

そうか!良く言った。

悲しい。
何なんだろうかこの人たち。
精神論しかない
鉄と空気を比べる話。

運命的な昭和16(1941)年が明けた。
太平洋戦争開戦の年。

精神論は少しでも不安になるといたたまれなくなるから
形にしようと躍起になる

1月8日の陸軍始めには、「戦陣訓」が発表された。

軍人勅諭に基づくものとしているが、多分に精神主義的な内容であり、
美文調の文章はどことなく軍人には違和感があった。
案の定、末端の兵士に至るほど悪評だった。

ただでさえ「軍人勅諭」を丸暗記しなければならないというのに、
「戦陣訓」まで頭に叩きこまなくてはならず、
暗唱できなければ上官や古参の鉄拳を浴びる

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、
愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ

続きはシリーズの次回ね
[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[北条]8 時宗。元がやって来た。ぶえーっ

[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
[北条]4,5 経時そして時頼
の続きです。

長時と政村
北条執権5代の時宗は、独裁体制を確立。
ところが、それに満足しちゃったんだろうか
元々健康には不安があったということもあり
息子の時宗に執権を譲り、自分は出家
まだ30歳なんだけど。

そして、時宗はまだ幼児。
天皇ならまだしも、実際に政治を司るのが執権だから
いくらなんでも無理があると思い直して、
叔父さんの長時(6代)に時宗が成人するまでの中継ぎを依頼

ええよ

そのあと、時頼は37歳で亡くなる。
やっぱり、健康上の問題だったんですね

「中継ぎ」だとの約束は
えっ、何の事でしょう と言っちゃって、
自分の子供に執権を譲っても良さそうなもんですが
良い人なんですね。そうはしなかった。

なんと時頼が亡くなった1年後、35歳と若かったんですが
自分も病に倒れ、亡くなっちゃいます。

まだ、時宗、成人しておりません。

北条家の人たちは寄ってたかって良い人なんでしょうか
今度は、政村(7代)が中継ぎ承知でかって出ます

政村は元々60歳のおじいちゃん。

ようやく時宗成人
はいどうぞ

時宗(ときむね)
北条執権は8代の、時宗に移ります。
出ました、時宗。
時宗と言えば、蒙古襲来です。

外国軍が侵略のために、日本にやって来たのは
長い日本の歴史の中でも、蒙古襲来と太平洋戦争のみ。
我々の世代は、元寇(げんこう)って言っていたけどなあと思って調べてみると
どっちでも、良いらしい。

金がモンゴルに滅ぼされた。
そのまま南下して南宋も風前の灯

へえ

この時点ではまだ対岸の火事

南宋が何とか踏ん張って持ちこたえたので
矛先を朝鮮の高麗に変えた。
1258年、高麗が降伏

そうなるともう目と鼻の先

1260年、モンゴル皇帝が第5代のフビライハンに変わる
フビライハンはイケイケ

もう一回、南宋へ向かう。

その一方で、日本の太宰府に使者を送る

貿易しませんか。

ほんまに? なんかとても高圧的に文章ですけど。

分かりました? 実は降伏しなさいという意味です。

あらま。そういうことなら、一大事。
鎌倉に聞いてみますんで、少々お待ち。

この時、正確に言うと、まだ時宗になっておらず、執権は7代政村
緊急幹部会議

どうしましょう

どうもこうも、はい、降参します、って言うわけないよね

おっしゃる通り

じゃあ、降参しません、来るなら来い、と返事しましょうか

ちょっと待ってよ。
それもダメでしょう
こうしましょう。
返事しない、って事で。

賛成ーっ

怒らせちゃいました。
でも、フビライハンは南宋で忙しいので
日本には再三の使者

日本は一貫して、「返事しない作戦」

1273年、南宋の襄陽(じょうよう)と樊城(はんじょう)が陥落
完全には落とせていませんが、
フビライハンはほぼ大丈夫と考えたのでしょう。
とうとう、矛先が、日本に向いてしまいます。

文永の役
1274年。ぶえーっ。文永の役

高麗に将軍の洪茶丘(こうちゃきゅう)を派遣して、戦艦を作らせる。
約900隻が、朝鮮半島の合浦に集められた。
その船に乗り込む兵力は、元軍と高麗軍合わせて3万人。
総司令官はモンゴル人の都元帥クドゥン(忽敦)、
副官は、漢人の劉復亨(りゅうふくこう)と高麗人の洪茶丘である

10月に出港した元軍は、瞬く間に、対馬、壱岐を制圧する

さあ、どうする

このあとは、シリーズの次回ね

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[天皇]88 後嵯峨天皇。長年の火種を作った天皇。

天皇の歴史としては大きな転換点となる天皇です。

後嵯峨天皇
1242~1246年

前の四条天皇、2歳で即位したが、病弱なのでそう長くはなく
守貞親王の皇統は途切れるだろう
ということで、早い段階から次への一手の検討が始まっていた。

交野宮(かたののみや)のところまで話しましたね
せっかく候補になったのに、本人がびっくり事件を起こしちゃって離脱

となると、候補は3人
1.仲恭天皇
2.土御門天皇の息子
3.順徳天皇の息子

いずれも、承久の乱がらみ

仲恭天皇は即位の礼すらしてもらえず史上最短で廃帝させられた。
その人を復活させるっていうのもねえ。

残りは二人だけどやっぱり、島流しとなった天皇の息子って大丈夫なの?

道長を中心とした、公家達は強く順徳天皇の息子を推す
順徳天皇はとても優秀な天皇だったから、その夢をもう一度

ただ、幕府(執権)側がどうしても認められなかった。
後鳥羽上皇と共に中心になって承久の乱を起こした張本人の息子
ここで、その皇統に天皇を継がせるってことは

天皇を臣下の筈の執権が配流させるという前代未聞の事をやったそれを
間違いだったということに等しい。

ましな方という判断。
土御門の系統ならなんとか

12歳にして、亡くなってしまった四条天皇のあと
後嵯峨天皇が即位することとなった。

譲位
守貞親王の系統と異なり
後嵯峨天皇には複数の息子がいた

守貞親王系統が散々繋ぐことに苦労したのに比べると安泰。

第一皇子は宗尊親王(むねたかしんのう)
宗尊親王が天皇を継ぐと思いきや、
第二皇子が天皇を継ぐことになった。

おそらく母親の家柄
宗尊親王のお母さんは、中宮でもないし、公家でもない

この頃の天皇にとって一番の関心事は
よし、国のトップとしてこんな政治をするんだ、というようなことではなく
早く自分の息子に天皇を譲って、自分の皇統を作り上げること。

たった4年天皇をやっただけで、もう譲位。
後深草天皇です。

宗尊親王かわいそう
でも大丈夫。
執権の時頼は、摂家将軍より
自ら天皇と直接やり取りしたいがために
将軍家と天皇家とを一緒にしちゃおうというスペシャルプラン

大変失礼なんですが
宗尊親王空いてますよね。

頼継将軍を失脚させ、宗尊親王を将軍に。

複数息子がいた、と言いました。
実はもうひとり。

後深草天皇と同じ母親の弟です。

後深草天皇には健康上の不安があったので、
弟がいれば、安心安心。

と思ったのですが
この、二人の息子が、このあととても長く続く天皇家の火種
両統迭立(りょうとうてつりつ)
そして、その延長で、南北朝という天皇家分裂にまで発展しようとは。

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[首相]27-2 東条英機。辞表はどうしましょう。

[首相]27 東条英機。南無阿弥陀仏を20回唱えて寝ているよ
の続きです。

関東軍
関東軍の参謀本部長となる
日清戦争で、中国の遼東半島の旅順と大連が日本の委任統治下になる
関東軍とは、その旅順と大連に常駐している日本軍

日本から距離的に離れていることもあって
日本の参謀本部の言うことを聞かない、暴走ぶりが目立っていた。

東条英機が参謀本部にいるときは、
関東軍の石原莞爾(いしわらかんじ)が言うことを全く聞かず
ついには、1931年には、満州事変を起こす。

その関東軍へ

ところが、関東軍に来てみると不思議なもので
途端に気持ちが好戦的になる

ソ連軍の脅威があるように感じ
日本の参謀本部へ、しきりにこちらから先制攻撃すべきだ、と打電
ソ連へ、蒋介石率いる国民政府へと。

歴代関東軍首脳部がかかった、陸軍中央部を無視する満州独特の「熱病」に陥った

打電の10日後に、ソ連軍とちょっとした小競り合いがあった。
すると、熱病にかかっている東条は、独断で一個師団を送りこんだ。
しかも悪いことにウラジオストクからやってきた砲艦まで攻撃

やってもうた

明らかな権限逸脱行為
かつて押さえる方の立場だったからすぐ分かる
辞表を準備した。

そうこうしているうちに、1937年7月7日が来る

盧溝橋(ろこうきょう)という場所で今度は中国軍と小競り合い
これはいわゆる手違いの類い。
なのに、現地の兵士達はいらんことしちゃっているらしい。

終わったぁ

タイミングが悪すぎる。
かつて先制攻撃すべきだなんてなこといっているし
辞表を書くべきほどの事をやっちゃったすぐ後だし。
全て自分のせいにさせられる。

ところが、参謀本部の方で不思議なことが起きる。
意見が割れた。
あの石原莞爾は立場逆転で、今は参謀本部にいるんだけど
事を起こすことに大反対。
でも、このきっかけで中国に戦争を仕掛けてしまえ、という意見も出ている。

最終的には、首相の近衛文麿の判断で、「行け」っという方向になった。
太平洋戦争まで含めて15年戦争と言われる始まりの「日中戦争」(支那事変)に突入する

辞表どうのこうのと全く違うレベルになってしまった。
東条自身も兵を率いて、戦地に向かうことになる。

最初、東条は関東軍の精鋭舞台が向かえば、ほどなく決着すると楽観視していた。
でも、事はどんどん大きくなっていき、泥沼化していく
最初は日本政府は北支事変と呼び局地戦と考えていたが
中国全土へ広がりを見せ、支那事変と名前を変える。

参謀本部の方では、意見が分かれて採用されなかった方の石原莞爾を
煙たく思うようになっていた。

いまこそ君の力が必要だ、ってな事を言って
石原莞爾を関東軍に体よく左遷する。
関東軍参謀軍副長
東条英機のすぐ下。

今まで一度たりとも意見が合ったことが無い。
異常なほどに頭の切れる石原莞爾と
はっきり言って戦争の事が良く分かっていない東条

一刻も早く日中戦争をやめるべし、と思っている石原
かつて満州事変を起こした事を棚に上げて、と言う気もしますが。
一方で気持ちがノリノリになっている東条
毎日のように大喧嘩
というか、東条としては、口では絶対に勝てないので
ひたすらに無視。

日本国内では、改善が見られない日中戦争の状況に
近衛文麿首相は、陸軍大臣の杉山元に責任を取らせようと考えた。

後任として考えたのが石原莞爾。
ただ、正直石原は敵が多すぎるので
石原に近い、板垣征四郎
固辞する板垣を説得して納得させた上で
退任を渋る杉山元に再度強く迫った。

分かりました。ただ、ひとつ条件があります。
人事です。

分かった、言ってみろ。

次官として、東条英機を採用していただきたい。

えっ

続きはシリーズの次回ね

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