[足利将軍]8-3 義政。応仁の乱2

[足利将軍]8 義政。頑張る気持ちはあるんだけど
[足利将軍]8-2 義政。応仁の乱の始まり
の続きです

応仁の乱

文政元(1466)年の暮れ、畠山義就(よしひろ)が軍勢を引き連れて上洛
バックには山名宗全がついている
以降、西軍と表現します

迎え撃つは畠山政長
こちらには細川勝元がつく
以降、東軍と表現します

山名宗全と細川勝元の完全決別です

将軍足利義政はというと、
畠山義就の勝手な上洛に怒っていたので、東軍側につく
・・・はずだった

ところが、年が明けた正月
正月は将軍が、家臣の邸宅を訪れ、もてなしを受ける「御成(おなり)」が行われるんですが
畠山政長邸ではなく、畠山義就邸を訪れた

またまた、優柔不断な両天秤方針です

東軍側もそんなことは今まで散々あったので予想の範囲内
武力で圧力をかけようと、将軍御所を兵で取り巻こうとした

ところがその企みが、西軍側に漏れる
西軍側が先手を取って、将軍御所を取り巻いた

東軍西軍がにらみ合う中、将軍義政からお達し
畠山氏の家督争いは、畠山氏の双方で戦い、一対一で決着をつけよ
細川、山名両名は加担するべからず

畠山政長(東軍側)と畠山義就(西軍側)が完全衝突
細川はお達しを守り加担しなかったが
山名はバカ正直な細川をあざ笑うかのように全面協力
当然西軍側が圧勝した

この戦いを憂いて、元号が応仁に改元される
なんと、ここからが応仁の乱なんですね

プライドずたずたの細川
しばらくは静かにしておりましたが、着々と準備を進めます

義政に、
約束を破った山名は討伐せねばなりません
ついては将軍の弟、義視(よしみ)さんを総大将とし、山名討伐の兵をあげたいと思います
将軍旗を掲げさせて下さい

エエよ

細川(東軍)の総攻撃が始まります

東軍優勢のまま推移し、義視は大ハリキリ
ところが、それを疎ましく思う人がいた
将軍義政の奥さん、日野富子
日野富子は、時期将軍として義視より自分の息子義尚(よしひさ)を立てたかった
義視に活躍してもらっちゃ困る

致し方なく、義視は自宅に戻る

東軍としても決定打を欠き、ぐだぐたしているうちに
西軍に協力な援護者が現れる
現山口県の大物、大内義弘が入京

完全に兵力が互角になる

戦が長引く中、びっくりすることが起きる
西軍が、義視(よしみ)を将軍として
我らこそが幕府なり、と宣言

あれ?
ちょっと前まで、東軍の総大将だったはずなのに

もともと、最初に義視を担ごうとしていたのは山名宗全だったわけです

あっちへふらふら、こっちへふらふらしていた義政もこれには怒った
自分を廃するということですから
足利義視治罰の院宣を朝廷に出してもらい、義視は「朝敵」となる

応仁の乱長期化の要素がまた一つ加わりました

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]40-4 田中角栄。ピークを過ぎて

[首相]40 田中角栄。苦学の時代
[首相]40-2 田中角栄。コンピュータ付きブルドーザー
[首相] 40-3 田中角栄。日中国交正常化
の続きです

田中角栄
空前のブームの中での首相就任
そして、たぐいまれなる実行力で、就任後たった2ヵ月半で日中国交正常化

イケイケ
自民党執行部はこの機に乗じて衆議院を解散し、与党勢力を拡大しようと進言

もちろん田中も自信満々
11月13日、衆議院の解散を宣言し、公約を発表
あの「日本列島改造論」

ところが12月10日の投票結果は、予想外の敗北だった。

自民党の議席は追加公認を含めて284議席で、
改選前から16議席も減ってしまった。

敗因は、田中が強気に出て候補者を乱立させたこと、
「日本列島改造論」に対し、
野党がいっせいに「大資本優遇」「公害ばらまき」と
批判キャンペーンを展開したこと、
そして実際に「列島改造論」が大企業の土地投機を過熱させ、
地価が上がり、物価も上昇していたことだった

不思議なものです。
空前のブームと、いきなりの実績なのに
田中にとって、日中国交正常化のその時がピークだった

第2次内閣
総選挙で敗北したからには内閣の陣容を立て直さなければならない。
犬猿の仲の福田赳夫を第1次田中内閣では冷遇していたが
そうは言っておられなくなった

福田派を取りこみ、挙党体制きょとうをつくることを決意。
福田の入閣については
本人の「軽いポストがよい」という希望で、
行政管理庁長官というポストに決まった。

こうして、第2次田中内閣がスタートした。
田中内閣による昭和46年(1973)度予算は、
前年比、一般会計24.6%増、財政投融資28.3%増の超大型となり、
内需拡大と社会福祉の拡充を目指した。
だが、この積極財政はさらなる土地投機熱をあおり、
地価高騰を招く結果となる

田中が選挙での敗北を挽回しようと次に打ちあげたのが、
「小選挙区と比例代表の並立制」導入である。
現在では定着したこの制度も、
当時は非常に唐突の感をもって受け取られ、
野党から「大政党に有利」「選挙区の区切りが恣意的」と批判が集中。
内閣支持率は27%(不支持率4%)に急落し、
田中は導入を断念せざるをえなかった。

1973年(昭和48)7月5日、
巻き返しをはかって訪問したソ連では、
北方領土問題についてソ連側の譲歩を引き出すという成果をあげたものの
それを吹き飛ばす嵐が巻きおこる。

第4次中東戦争勃発に起因するオイルショックである。
エネルギーや化学製品の原料を中東の石油に頼る日本経済を直撃し、
石油や化学製品の価格が暴騰した。
11月には卸売物価が前年同月比22%上昇という異常事態となった。

このかつてない経済危機のさなかに、
愛知揆一大蔵大臣が過労で急死。
苦慮した田中は、ライバル福田に頭を下げて蔵相を引き受けてもらい、
経済政策を一任した。

記者会見で福田は
「日本列島改造論は田中総理の個人的見解であり、私論だ」と言い切る

さらに
明けて1974年(昭和49)1月、
田中は東南アジア諸国を歴訪。
このころ田中は顔面神経痛を患い、
顔がゆがんでしまうという辛い症状をおしての訪問だったが、
現地で反日デモが吹き荒れ、田中にとっては報われない外遊となった。

こうしたなかで、田中の支持率はどんどん落ち
そして迎えた参議院選挙は
奇しくも田中政権が産声をあげた7月7日に投票が行なわれ、
自民党は議席を減らす敗北を喫する

参議院は7議席差で与野党伯仲の状態となる。
それ以上に田中政権にとってマイナスになったのは、
金権選挙への批判が噴出したことである。

そして10月、『文藝春秋』に掲載された
田中の金脈問題記事によって
いよいよ田中は追いこまれる。

11月11日の内閣改造から7日後の18日、ニクソンの辞任にともなって
アメリカ大統領に就任したフォードが来日。
フォードとの会談を花道として
田中は11月26日、ついに退陣を表明することとなった。

当初の人気からすると、2年5ヵ月
そうなのかぁ、と思う

ただ、ご存知の通り、これで終わった訳では無かった

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[勝海舟] 江戸城無血開城。江戸焦土作戦

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望
[勝海舟] 西郷隆盛や坂本龍馬との出会い
[勝海舟] 海舟は千両箱なり
の続きです

江戸城無血開城

慶應4(1868)年3月13日と14日、いよいよ西郷隆盛との交渉です

勝海舟は交渉に先立ち、ある作戦の準備をしていた
火消し・ヤクザなどの親分のところを回って金を渡し、
新政府軍が進撃して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土と化し、
その進撃を食い止めるよう命じる
同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした
いわゆる、焦土作戦です

江戸城無血開城会談について、必ず出てくる話なのですが
海舟本人が書いた『海舟日記』『解難録』に記述されています

『海舟日記』
慶応4年3月10日に書かれている
この日は山岡鉄舟が西郷との会談を終え、江戸に戻り復命した日である。
日記には、そのことで鉄舟を絶賛している。
主君の恭順の真をよく官軍側に納得させたこと、
法親王(天台座主輪王寺宮入道公現親王)始め多くの者が嘆願に向かったにもかかわらず
誰一人成功しなかったが、鉄舟だけが降伏条件の書付を持参して帰った、
とその沈勇・識見を賞賛している。
その要旨は以下の通り。
○官軍は15日に江戸城を攻撃するらしい。
○官軍は3道から、市街地を焼き、その退路を断ちながら進軍してきているらしい。
○当方の嘆願が聞き入れられず、官軍が攻め寄せて来れば、江戸は灰燼と化し、無辜の死者は百万に達するであろう。
○もし官軍がそのような暴挙に出るなら、こちらも黙ってはいない。こちらから先んじて市街を焼き、江戸を焦土と化し、進軍を妨げてみせよう。この決意を持って官軍に対応するつもりだ。百万の民を救えないなら、自らこれを殺そうと決心した。

後に『解難録』にも、同様の内容が書かれており、さらに以下のような記述もある
  ○これはロシアがナポレオンを苦しめた策である。
  ○自分の策はこれとは違う。こうすれば1日で焦土となって戦いは終わり、それによりむしろ無辜の民の死は少なくて済むであろうと思う。
  ○自分は火付け道具を密かに用意したが、不要となり品川の海に捨てた。そのため、後に新政府より嫌疑をかけられた。
  ○西郷は度量が大きく、とても自分は及ばない。西郷の仕事を手伝わされる羽目になるのもやむを得ない。
  ○大火が発生した場合、庶民を避難させるため船の用意をさせた。
  ○幸いにして、江戸攻撃は中止となり、「焦土作戦」は徒労に終わった。
   (幸にして無事を保ち、此策終(つい)に徒労となる)
  ○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
  ○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。

さらに後の談話をまとめた『海舟座談』では、
大いに海舟の自慢話で誇張や冗談が入っている感はあるが以下のように書かれている
≪江戸の明け渡しの時は、スッカリ準備してあったのサ。
イヤだと言やあ、仕方がない。あっちが無辜の民を殺す前に、コチラから焼打のつもりサ。
爆裂弾でもたいそうなものだったよ。
あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。
治まってから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあわせてやろうと思ってた」と言ったら、
西郷め、「アハハ、その手は食わんつもりでした」と言ったよ。
ナアニ、おれのほうよりか西郷はひどい目にあったよ。
勝に欺されたのだといって、ソレハソレハひどい目にあったよ。≫

結局、この作戦は確かに準備まではしたようだが
西郷に伝わって、焦土作戦が抑止力となって、
「それなら攻撃は止めよう」となった訳では無さそうだ

江戸を焦土と化すなら、庶民が大量に死に至るのは誰が考えても分かるし
船で100万近い人を房総に運べる筈もない
海舟ほどの人が、本気で実行しようとしていたとは思いがたい

抑止力を目的としたのでないとしたら
『解難録』にあるように、自らを奮い立たせる、という目的だけだったのだと思う
  ○「焦土作戦」を笑う者もいるし、自分も愚策とは思う。
  ○しかしこうして自分の精神を活発にしておかなければ、西郷との交渉を貫徹することは出来なかった。

一人の人物が、交渉によって日本全体のその後を決する
その意味と重みは気が狂いそうになるほどのものだったろう
ある意味、海舟のような性格の人物でなければ
やりこなせなかったのではないかと思う

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[ことば日本史] ピンからキリまで

「ことば日本史」室町時代から

ピンからキリまで
室町末期には、南蛮貿易が盛んになり、
さまざまな西洋の文物が輸入されるようになった。

そのなかに西洋カルタ、つまりトランプもあって、
「天正カルタ」と呼ばれた。

その一の札をピン、十二の札をキリという。
ピンは、点という意味のポルトガル語「pinta」にちなむ。
ピン芸人とか言いますね

キリは、十字架を意味する「cruz」によるといわれ、
したがって十をキリといった。
それを、最後のものという意味に転じて、
十二の札に使ったのだろうか。

キリについては、花札の十二月が桐であることによるという説
(花札でも一月はピン、十二月はキリと呼ぶ)や、
限りの意味の「切り」によるという説もある。

いずれにせよ、カードの一から十二まで、
すなわち最高のものから最低のものまでという意味で
「ピンからキリまで」というようになった。

ピンからキリまでってどっちが良くてどっちが悪いの?って気になります
ピンが1でキリが12、トランプだとキングなんだったら
キリの方が良さそうですが
ピンの方を良いようにイメージしている気がしませんか?どうでしょう
1はエースだから良いのかなあ

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