[首相]37 岸信介。あとは歴史が判断してくれる

首相シリーズ
順番の覚え方は「鳩は石橋の岸に池里」
鳩山一郎・石橋湛山・岸信介・池田勇人・佐藤栄作

岸信介

佐藤栄作のお兄さんです
山口県の佐藤家に生まれた信介は、弟栄作とともに両親の期待を担って成長するが、中学3年のとき、父方の岸家の養子となり、岸姓を名のることになる

1920年(大正9)、岸は東京帝大を卒業し、農商務省に就職する。
満州では、その経済の能力をいかんなく発揮し、実力者となる
東条英機内閣が発足すると、商工大臣として入閣

最初は良かった東条英機との関係が次第に悪化
敗色濃厚となった戦局への批判をかわすため、東条は岸に辞任を迫る
岸は辞任を断固拒否
閣内不一致で東条英機内閣は総辞職

敗戦
A級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監された
東条英機らに死刑宣告がされる中
岸についてはなかなか判決に至らず、3年も収監されたまま
そうこうするうちに国際事情がかわり、東西冷戦
最終的に不起訴となって釈放
さらに公職追放の4年を経て、ようやく政治家へ復帰した

弟佐藤栄作が幹事長をつとめる自由党に入党し、衆議院選挙で当選した
反吉田だったため、吉田茂から自由党を除名される

同じく反吉田の鳩山一郎を担いで民主党を立ち上げる
保守合同でも中心的な役割を果たし、自由党と民主党を合併させ、
岸は幹事長となって自由民主党を設立

鳩山一郎が退陣したあと、総裁選に出馬
得票は一位だったのに、二位三位連合の石橋湛山に決選投票で僅か7票差で敗れる

ところが石橋湛山が健康を害し、予想外の短期内閣
いよいよ、岸信介の出番とあいなった

岸首相
得意分野は経済であったが、
首相になると一転、外交と治安に力を入れた

治安では、警察官職務執行法(警職法)、売春防止法で「赤線」がなくなった
外交ではアジアを中心として27ヵ国も訪問

そして、岸首相での最も代表的な出来事、安保改正(60年安保)に取り組む

60年安保
吉田茂の時、1951年に締結された日米安全保障条約
不平等な条約だった

対等な条約に早期に改正する必要がある
時間をかけて粘り強く交渉
「日米共同防衛」という文言が盛り込まれた条約案が出来上がった

改正前よりは日本にとって有利になった訳だからすんなり通るのかと思いきや、さにあらず
戦後、国民が一番怒りをあらわにしたのはこの時ではなかろうか
国会前の大暴動

死者まで出た

法の内容については意見が別れるだろうから差し控えるとして
手段として岸がとった「強行採決」という手段が、国民の怒りに火を付けたことは間違いなかろう

岸は、自分は悪者になっても、何が何でも通すのだ、との姿勢を貫いた
あとは歴史が判断してくれる

結局、安保が自然成立になり、岸は退陣を表明
次期総理に池田勇人を指名

池田勇人の総裁就任パーティーの会場を出たところで
暴漢に太股を6箇所刺される

総理最後の日は、病院で向かえる

あとの人生はゆっくりと
にならず、その後の首相人事や外交に精力的に影響を与え続けた

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激闘の鎌倉 その2

激闘の鎌倉
の続きです。

景清の土牢
[鎌倉時代]

建久6(1195)年、平忠光の弟、悪七兵衛景清が謀反人として捕らえられる事件が起きた
景清は、和田義盛に預けられた
「預かり囚人」
和田邸を抜け出さない限り何をしても良いのだが
扱いに困った和田義盛は、誰かこの役を変わってくれない、と申し出た
結局、八田知家に預けられるのだが
八田知家は厚遇に処した
景清は、父も兄も処刑されているのに、自分だけこんな厚遇を受けているのはおかしいと思う
自ら洞窟に入り、読経を続けるのみで、運ばれる食事を口にする量も少しずつ減らしていく
建久7年(1196)年3月7日、かぼそくなっていた読経の声は、ついに途絶えた

海蔵寺をちょっと覗くと結婚前のカップルが披露宴の前撮りをやっていた
お幸せにー

亀が谷坂切り通し
[鎌倉時代]

鎌倉は自然の要塞、南の海以外は山で囲まれ
切り通しと呼ばれる崖を削った細い道を通ってしか入ってこれない
それを肌で感じましょう

電動アシスト自転車でも立ち漕ぎしないと全く進めない
吹き出す汗

亀が谷という地名は、亀が登ろうとするとひっくり返るから
まあ、オーバーに言ってるんだろうと思っておりましたが
全くその通りでした

崖が90度を越えてせり出してきているから、確実にひっくり返ります

浄光明寺
[南北朝時代]


建武2(1335)年、中先代の乱を制した足利尊氏は、そのまま鎌倉にとどまった
勝手な事を、と後醍醐天皇は怒り、新田義貞を大将とする討伐軍を差し向ける
まずい、と思った尊氏は、この浄光明寺で蟄居(ちっきょ)し謹慎の意を表す

でも、後醍醐天皇の怒りが解けず、弟直義にも危険が迫るのを感じ
そうなの?そっちがそのつもりなら、と挙兵に傾いていく転換点になったお寺です

巨福呂坂切通(こぶくろざかきりとおし)
[鎌倉時代]
鶴岡八幡宮の横の道を北に上がっていきます
出たっ、またまた切り通し
今度の坂は急な上に長い
電動アシスト、がんばれー
これ、歩きや、普通の自転車じゃ到底無理です
心臓バクバク、太ももガクガク

ああー、ようやく頂上
そのあとどーっと下がっていきます

長寿寺
[南北朝時代]

足利尊氏がこの辺りに一時期住んでいた。
その子、基氏が、弔うために元からあった長寿寺を整備
尊氏の遺髪を納めた墓を作った

なんですけど

えっ、入れないの?
春と秋しか一般公開していないらしい

足利尊氏の墓を見んがために長くて急な坂を越えてきたのに

ネットから写真を拝借するとこんな感じ
その後荒らされて、ほんの一部しか残っていないらしい

次は、っと
ありゃりゃ、元の道を引き返すのか
また急坂を登って下るのね
頑張りましょう

五山第一の建長寺を横目で見ます
ここは前回行ったのでね

鶴岡八幡宮の前を素通り
鶴岡八幡宮は前回行ったし、大物過ぎるので寄ってしまうと時間が足りなくなります

宝戒寺
[鎌倉時代]


萩で有名らしい

拝観料300円払って入ったものの目当てのものがいくら探しても見つからない
拝観料払うところのおじさんに写真を見せて、こういうのがこの中にあると思うんですが

さあ、ごめんなさい、見たことがありません

何かというと、北条義時の屋敷跡の碑
ネットから拝借するとこう

ひとつ前の大河の主役ですよね。小栗旬ですよね
わんさか人が押し寄せそうなもんですが

「もっと行きたい鎌倉歴史散歩」を読んでいても、何度も出てくる重要な場所
うーん、意味分からん

若宮大路幕府舊蹟
[鎌倉時代]
ちょっとだけ引き返して、横道に入る

鎌倉幕府の置かれた場所って、鎌倉内で3回お引っ越し
ここは3回目に幕府が置かれた場所
1238~1333までの幕府の場所ってことになります
将軍でいうと4代頼経の時にここに移転した

政所跡(まんどころあと)
[鎌倉時代]

ビルの一角にちょこんと
こういう小さいのは、探すのが大変なだけに見つけたときに、テンション上がります

東勝寺跡
[南北朝時代]
待ってました東勝寺!
新田義貞ファンとしては東勝寺は欠かせません
ただ、東勝寺はもう今はなく跡だけなんですね
後に発掘するとかなり大きなお寺だったようです。


東勝寺って何かというと、新田義貞が鎌倉攻めをして幕府を倒した、最後の決着の地
鎌倉幕府のトップ北条高時は一族共にここで自害
鎌倉時代の終焉です

高時の腹切りやぐら


本当は東勝寺の建物の中での自害らしいのですが
なぜかその横の山の手前に、腹切りやぐらというのがあります

無茶苦茶蒸し暑い日でしたが、
ここだけはヒンヤリした空気が流れていました

さすがは鎌倉ですね
日本史の教科書に載っているような超大事件が行われた場所が
これでもかこれでもかと
ここまでで、ようやく予定していたことの半分

続きは次回
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[足利将軍]3-7 足利義満。そんな殺生な

[足利将軍]3-1 足利義満。言うだけの事はある
[足利将軍]3-2 足利義満。室町時代の始まりの大行事
[足利将軍]3-3 足利義満。手紙持っていっただけなんですけど
[足利将軍]3-4 足利義満。室町殿と公方様
[足利将軍]3-5 足利義満。南北朝統一
[足利将軍]3-6 足利義満。北山殿という最終段階
の続きです。

おそらくそこまでの歴史の中で最強の支配者になった足利義満
強固な基盤はその後も受け継がれ、強い強い室町政権が確立されそうです

でも、そうはならなかった

義持(よしもち)と義嗣(よしつぐ)
義満が出家したあと、将軍職を譲られたのは義持(よしもち)
後継者としての地盤を築いていくはずだった

ところが思わぬライバル出現
数人の庶子のうちの義嗣(よしつぐ)
成長した義嗣に初めて会った義満は義嗣の事をいたく気に入った

義嗣は常軌を逸した昇進
正五位下・左馬頭になったのがわずか6日後
日を追って出世を続け、
26日後には15歳の義嗣は内裏で元服し、従三位に昇って参議となった
そもそも、義嗣という名前があからさま

そしてなんと義嗣は後小松天皇の猶子(ゆうし=養子に近い)になる
親王宣下(しんのうせんげ)という手続きが予定される
常識を逸脱している。
親王宣下が行われれば、義嗣は皇族になる

親王宣下計画が発表された段階で、義嗣は兄義持を身分的に追い越すと確定した

鎌倉時代の後半は、親王が将軍を兼ねている
義嗣は親王かつ将軍になるのか

ところが
その答は出されなかった

なんと親王宣下計画が発表されたわずか11日後
51歳で義満が急死した

えええっ

勿論本人も全く想定外だったと思うが
せっかく絶大なる支配システムを作りあげておきながら
誰に伝授することもなく、この世から消えた

でっかい火種だけを作って

義持はどうすりゃ良いの?
義嗣はどうすりゃ良いの?

続きはシリーズの次回

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[ことば日本史] 神風

ことば日本史、鎌倉時代から

文永11(1274)年、対馬の西方海上は、蒙古軍船でうまっていた。

文永の役、まもなく佐須浦に数隻が接岸してきた。
地頭の軍勢は少なく、矢をかけあっていられたのもしばらくだった。
佐須浦の民家はすべて焼き払われ、対馬は蹂躙された。

それから8日後、壱岐島に二艘の船が現れて上陸、ここも制圧された。

博多に続々と武者たちが集まってきた。だが、蒙古と日本とでは、戦いのルールがあまりにもちがっていた。そのうえ火薬を用いた「鉄はう」にも驚かされる。

あきらかに劣勢だった。

神風
ところが、この危機は強風雨によって免れた
蒙古軍船は次々と難破

この時の強風雨は台風というほどの者ではなかったらしい
色々説はあるが、一回目は様子見的な意味合いだったかも知れない

これで終わるはずはない
日本も再来を防御すべく軍備の増強

弘安4年、再び蒙古軍がやって来た

今度は暴風雨

何とも不思議なことに2度目も逃げ帰ることになる

3度目は?

なかった

別の外交上の理由で、蒙古がそれどころではなくなっていた

ここで、あまりに有名な言葉「神風」が定着し
ずっとずっと先の、太平洋戦争まで生き続ける

元々存在していた言葉
伊勢に対する枕詞だった

ところが、言葉は共通の「意識」になる

日清日露戦争を経て
神に守られた特別な国なのだと

自然現象だったはずなのに
人間が命を投げ出して作り出すもの、に変貌する

神風特攻隊

歴史
歴史は「事実」なのか

歴史は意図をもって語られるものだということを忘れてはならない

風は吹いたが
それは「神風」だったのか

神風だったとして
太平洋戦争に勝てる、理由づけになるのだろうか

歴史は考えるための材料

どう使うか
われわれ一人一人に委ねられている

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