[ことば日本史] 人生五十年

ことば日本史、戦国時代から

桶狭間の戦い
突然の激しいにわか雨が、織田信長の味方をした。
桶狭間山で休息をとっている今川義元軍に察せられることなく、
彼らを見下ろせる尾根にたどりつくことができたのだ。

信長軍は一気に義元の本陣を急襲した。

義元に槍を突きつける服部小平太。
義元は、刀で膝を切り払うが、毛利新介(秀高)に後ろからくみつかれ、首を取られた。

永禄3年(1560)年5月19日の、史上に名高い桶狭間の奇襲である。

今川氏は、当時の最大の戦国大名。
すでに三河を掌握し、武田氏や後北条氏と和解の態勢を作って、
信長がほぼ支配するようになっていた尾張への侵入をはかっていた。

このとき義元の軍勢は二万ほどであったとみられ、対して信長軍は数千人。
どちらも確かな数はわからないが、大きな差があったことは確かだ。

この圧倒的な大軍に対して、
籠城すべきだという意見が強かったところを、
信長は断固として野戦で挑むことを決した。
敵勢を分散させておき、
19日の未明、信長はわずかな手兵を率いて出陣、
山道をひそかに迂回して、義元の本陣へと迫る。

そして風雨に乗じて本陣の横手の高所から一気に襲って、
奇襲を成功させたのである。

この出陣の前夜、信長は、幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」を舞った。

その一節が今なお有名な次のくだりだ。

人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり。
一度生を受け、滅せぬもののあるべきか。

諸行無常を謡う信長の声を聞いて、
将兵たちはそれぞれの胸に覚悟を深めたという。

この逸話にちなんで、
命がけの行為にのぞむとき、
失敗覚悟の困難に立ち向かうとき、
「人生五十年」とつぶやき、その短さ、はかなさを思って覚悟を決める。

その50年、とおに過ぎちゃった
私はいつも、人生の中で今が一番楽しいと思いつつ生きてこれたので
いつ死んでも良い

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[外交]4 三国干渉から日露戦争へ

外交資料館に行って来ました
[外交]2 条約の改正に頑張る外務大臣たち
[外交]3 日清戦争は朝鮮の内乱?
の続きです



三国干渉
日清戦争に勝って、下関条約で以下の4点が決まります
1 清は朝鮮の独立を認める
⇒朝鮮はもともと独立国だが清との属国関係を解消するという意味。
2 日本が手に入れた領土:遼東(りょうとう)半島・台湾・澎湖(ぼうこ)諸島
⇒台湾総督府設置。初代総督に樺山資紀就任
3 賠償金:約2億両(テール)(当時の日本円で約3億1000万円)
4 清は新たに、沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開港する。

日本中は大喜び

ところが、そりゃまた何で?
という事態がおきます

三国干渉、すなわち、ロシア、ドイツ、フランスが、遼東(りょうとう)半島を中国に返せ、と言ってきたのです
ここで抵抗するとこの三国相手に戦争って事になりかねないので、渋々返します

中国って日本にも負けちゃうのね、と認識した列強各国が、中国におそいかかります
「中国さん、おたくの中のこれこれの都市、うちに期限付で貸してくんない?」

都市を貸すって何でしょうね
早い話が、期限付きの実質植民地、租借(そしゃく)と言います

中国分割
ありゃりゃ
日本が中国に返したはずの遼東半島の中の主要な都市、旅順と大連が
気づくとロシアの租借地になっているじゃありませんか

日本の中でのロシアに対する国民感情は最悪に。

もちろん、中国国民もおもしろくありません
勘弁してくれよ、あいつら
一部の中国国民が立ち上がります
義和団(ぎわだん)と名乗る人たちです

さらに義和団は清政府に働きかけます
ここは奮起して、戦争しようよ

君たちの言うことももっともね
よし、宣戦布告だ
北清事変です

この宣戦布告に対して、列強各国は一致団結して、立ち向かいます
8ヶ国の連合軍
イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア
そしてなぜか日本も加わる

この戦いで、連合軍の勝利
北京議定書で、中国はごめんなさい

北京議定書で連合軍内の日本は何ももらいませんでしたが
ロシアが実質的に満州を支配することになった

えええっ
いよいよ、ロシア憎し

ただやっぱり、ロシアは中国の比じゃない
味方が欲しい
やはりロシアがどんどん力を持ってくることを脅威に感じていたイギリスと手を組みます
日英同盟です

イギリスが助けてくれることになったら力強い
ロシアに日露戦争をしかけます

アメリカも応援してくれて、ロシアに互角に戦い
日本海海戦ではほぼ勝利をおさめます

とはいえ、日本ももう限界
一方のロシアはというと、第一次革命で、国内が混乱してきた

もうそろそろ戦争やめたい、ってところに
アメリカが手をさしのべてくれた

おふたりさん、私が仲介しますから、手打ちってことでどうでしょう

ハイハイ、乗ります乗ります

ポーツマス条約
なんと、日本が勝った、ってことになりました

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[足利将軍]15 義昭。信長と二人三脚

足利将軍シリーズ、いよいよ最後の将軍になります
[足利将軍]14 義栄。次期将軍争い
の続きです

義昭

前回、信長が、京都に入り
14代義栄が行方知れずになったところまででした
信長が岐阜を出陣して、わずか1ヵ月あまり
脅威的なスピードです

あらためて義昭の入京し、征夷大将軍に任じられました
1568年、15代将軍義昭となります
奈良を脱出してから3年。感慨ひとしおだったでしょう

義昭は感謝のしるしとして、信長に様々な爵位・栄典を与えようとしたが
信長はほとんど辞退したようです

この直後、信長は一旦岐阜に戻ります
おそらく信長としても想定外の速さでの入京
もろもろの準備が整っておらず
一旦国に帰って、再度やり残したことをやってからまた、と思ったのでしょう

信長さえいなきゃ、と三好勢がまた、京都を取り返しにやって来ます

いやらしい奴っちゃ
信長もまた、急いで駆けつける
ああ、危なかった

信長と義昭は連名で「殿中御掟」を定め新政権をスタート

義昭のために堅牢な将軍御所を3ヵ月で完成させ、献じます

やったね。信長と義昭
でも、信長のやりたい事は、まだまだそれだけじゃなかった

北陸へ侵攻
若狭を征服、そして越前へ

ところが、義理の弟、浅井長政に裏切られてしまう
やむ無く越前から京都に戻る

行けるぞ、とばかり、近江の六角氏が息を吹き返し
朝倉や浅井と組んで、京都に攻め行ってきた

一旦退散
信長は、義昭を京都に残したまま、岐阜に逃げ帰る

その後、徳川家康と組むことで、朝倉や浅井には勝つが
今度は大阪本願寺という強い敵がやって来る

信長包囲網

すんなり信長に天下取りをさせてなるものか
有力諸大名が反信長で歩調を合わせる

まずいっ

ところが、信長のすごいところ
反信長陣営の弱点に気づく

反信長陣営は、京都からすると周辺各地に散らばっているから
メールとかがない時代では、意思疎通が困難
隙をついて、個別に和睦を結ぶなど、陣営を崩していく

戦じゃなく、こういう交渉ごとなら、義昭は得意
陣営崩しでは、義昭も大活躍

このあたりまでは、信長義昭の密月時代
ところが、このあと、この関係が変化していくのです

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[首相]45-2 中曽根康弘。行革断行

[首相]45 中曽根康弘。風見鶏と言われても
の続きです

中曽根康弘
いよいよ、中曽根康弘が総理になりました

鈴木善幸内閣で、行政改革に取り組んでいた
よし、このテーマをやり遂げるぞ

大きくは2つ
1.三公社民営化
2.官公庁組織の改編

三公社民営化は良く覚えています
国鉄がJRになり
電電公社がNTTになり
専売公社がJTになった

これすごいなあ
小泉さんの時、郵政民営化であんなに大騒ぎしたのに
その3倍ですもんね

JRが分割民営化されて、色んな事が良くなった気がする

ただ、本人は
三公社民営化よりもっと官公庁組織の改編の方が大きな成果をあげたと言っている

特にその中で
予算の編成権を大蔵省から取り上げたこと
第2次臨時調査会(第2臨調)に担当を移し変えた
臨調のような、総理の直属の諮問機関が絶対的な権限を持ったことで
官僚主導から
大統領的な、トップダウンの意思決定が出来るようになった

これがゆえに、JR分割民営化なんて強烈な改革ができたのかも知れない

そうなるともう恐いもんなし
やりたい放題で、今までできなかった色んな改革をやってやるぞ!

ところがここに落とし穴があった

強大なる総理たりとも、国民の民意には勝てなかった

「売上税構想」を掲げちゃった
要するに消費税

国会の牛歩戦術とかもあって
大もめにもめた

内閣支持率が一気に急降下

売上税構想は取り下げ
総理も退任に追い込まれた

当時としては、歴代5位の4年11ヵ月の長期政権だった

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