[大岡越前] 江戸の経済再生

前回、大岡越前が行った行政改革の話をしました
[大岡越前] 構造改革あれもこれも

今日は、私が一番知りたかった物価の問題を含む経済改革です。

経済再生
江戸庶民が幸せに暮らしていけたのは、物価と賃金のバランスが良かったからと、私は常々思っています。
それはたまたまではなくて、誰かが広くて深い視点で考えてそうしたから
おそらくその一人が大岡越前だったでしょう。

この問題は、矛盾する問題もかかえ、様々な方面と関わりますので
何度かに渡って、色んな方向から触れていきます。

矛盾する点とは、
生活物資全般の物価は下げたいけど
米の物価はむしろあげたいということ。

これかなり難しいと思います。

江戸時代も始まって100年ほど経ってくると、色んな歪みが出てきて
物価も高くなってしまっていた。

江戸時代は、金本位制みたいな言い方で言うと、米本位制
何でもかんでも米に換算して経済力を計ります
何万石とか言いますね

その基準となる米の値段だけあげたいって
手品みたいな話です。

なんで米だけあげたいかというと、そうしないと武士が困るから

武士は、戦を職業としていた頃ははるか昔で
いわゆる行政を行っています。

幕臣と言われる旗本や御家人たちは、幕府からお給料をもらうサラリーマン。
お給料は毎月ではなく、年に3回だけです。
2月と5月と10月
にごぅじゅう、と覚えましょう。

そのお給料、小判とかの現金でもらうんじゃなく
お米でもらいます。
重たかったでしょうね。

自分が食べる量以上は、持っていても邪魔なので
札差し、という質屋さんみたいなところに持ち込んで現金化します。
当然、その時のお米の相場なので
お米の物価が下がると、お給料が減っちゃうことに等しい。

当時、大きな傾向としては、米価はだんだん下がってきていた。

物価対策
さあ、大岡越前、どうしましょうか

ひとつには、幕府が一つ一つ値段を決めるという手があります。
豆腐はいくらで売りなさい
茶碗はいくらで売りなさい

やってはみたものの
経済の大原則は、「需要と供給のバランスで値段は決まる」
安くなってばんばん売れたら、品薄になって
良いですよ、もう少し高くても買いますよ、と

買う側が高くても買うって言っちゃうと、そんな決め事、守れる訳ありません

次に考えたのが
正常な需要と供給のバランスには従うとしても
無理矢理、値段を吊り上げようとする悪い奴を取り締まろう。

江戸に来る米は、東北地方からが多いんだけど
それ以外の品物は、この頃まだまだ、関西からが中心
良いじゃない
この関西からのルートに目を光らせれば
米とそれ以外の考え方を分けられるぞ

おかしな動きを把握するため
関西から船で物を出荷するとき、いくらで出しましたよ
というのをリストにして全部出させる

江戸では、船から物を下ろすとき
いくらで買いましたよ、というのを
これまたリストにして出させる

これを繰り返して付き合わせていけば
意図的に物の値段を吊り上げようとする悪者を特定していける

ここでの取り締まりに関しては
また前回お話した、名主が有効に機能します。
江戸での報告は、問屋そのものではなく
問屋のある地域の名主
第三者的な役割です。

問屋自身にも問屋組合を組織化させます。
名主で相互チェックがうまく行ったので。

ただ、問屋組合は、思ったほどうまく機能しなかった。
問屋時代がまだ成熟しきっていなかった。

ただ、この方針は、田沼意次等
このあとの江戸時代の基本的経済政策の中心になっていきます。

今までのは、当面の対応です。
長期間に渡って、物の値段を押さえていこうとすると
市場原理に従った、根本対応が必要です。

米以外の品物を、関西だけに頼らず
江戸近郊で、産業を振興し
供給を増やす。

これは、時間もかかりますし
根本的なので、とても大変

次回、お話していきたいと思います。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[江戸城] 天守は3回丸々変わって、その後なし

江戸城シリーズ、今回は天守についてです。

天守
そもそも天守(天守閣)って、織田信長が始めたもの
天正4(1576)年の安土城が初めてです。
厳密には、それ以前にもあると言えばあるのですが
微妙なので、織田信長からと考えて良いと思います。

従って、それ以前にも城はいっぱいありますが
天守はありません。

天守って、城主がそこに住んでいて、最上階から町を眺めて
あっぱれあっぱれ、
って言っているイメージがありますが
天守には人は住みません。
天守に住んだのは、唯一、信長だけです。

江戸城の天守
江戸城の天守って、丸々3回も作り直されています。
最初は、慶長天守。慶長12(1607)年。家康が作りました。
次は、元和(げんな)天守。元和9(1623)年。2代将軍、秀忠が作りました
3つめは、寛永天守。寛永15(1638)年。3代将軍、家光が作りました。

とても不思議です。
家康の天守も、秀忠の天守も、たった15年しか使っていません。
リフォームだったら話は分かりますが、建て替えです。
丸っきり壊して建て替え。
うーん、もったいない。

一つずつ見ていきましょう。

家康の天守
家康の慶長天守は、その実態が良く分かっていません。
現在の天守台より、200mほど南に建っていました。

5重5階で、1階の床面積は豊臣大阪城の2倍以上
高さは天守台を含め、55mという説が有力です。
おそらく色は、姫路城のように白

外観は簡素な感じ。
おそらく、中身はもっと簡素。
あまり真剣に戦争するつもりでは作られておらず
大きさが他の城より大きくて威厳を示すというのが目的だったと思われます。

秀忠の天守
本丸御殿を拡張したことに伴い
場所を北に移動します。
現在の天守台とほぼ同じ位置

それにしても、偉大なるお父様が作った天守を
わずか15年で壊しちゃうとは。
秀忠もすごいことしますね。
本当は家康の事が嫌いだったんでしょうか

こちらも、詳しいことが分かっていません。
でも、作り直すくらいだから、家康の天守より大きかったんじゃないでしょうか。

家光の天守
またまた、15年
これは、秀忠文句は言えませんね
秀忠と同じことをしただけですから。

これは、まあまあ分かっています。
どでかいです。
5重5階、地下1階。6階建てということになります。
天守台合わせて、59m
15階建てのビルに相当します。

大きさ比較するとこんな感じ

でかあっ

色は黒っぽかったようです。

屋根は銅板を張った銅瓦で覆われていた
銅瓦は耐久性が格段に良く
300年はもつものです。
銅ですから、10年ほどすれば、緑青が出て風合いも良くなります。

耐震性や耐火性も高い構造です。

15、15、19と覚えましょう。

明暦の大火
あれれ、19って何?

耐久性抜群の寛永天守
後から考えると、江戸時代は260年
今度こそはそのまま最後まで行っても良さそうです。

ところが、19年後でした。

江戸中を焼きつくす明暦の大火がおきます。
本丸も全焼

耐火構造の天守は?
残念。中に鉄砲で使う火薬を置いてあったら、耐火もなにも、大爆発

ドドーンと消えてなくなりました。

3つの天守合わせて、約50年。
江戸時代は260年
最初の2割くらいにしか天守は無かったんです。

暴れん坊将軍に江戸城の天守が映ったりしていますが
あれは真っ赤な嘘。8代将軍は真ん中辺りなので、ある筈がなく
姫路城を映しています。

この事が、5年前まで、歴史なんぞに興味が皆無だった私が、歴史に興味を持ったきっかけです。
あまりにも意外だった。

明治4年に江戸城を写した写真集があって、それをある人からいただいた。
どこにも天守が写っていない。

変だなあ。
こんな更地にするのも逆に大変だったろうに。

調べてみて、この事実を知り、びっくり仰天。
え、江戸時代って何なの?
もっと知りたいわあ、と

もっと言うと、そもそも本丸御殿さえ写っていなかったんですけどね。
江戸城無血開城という言い方をしますが
その時点ではその5年前に本丸御殿は火事で全焼し
建て直すお金がなかったので、建て直さず、大奥の天璋院篤姫や和宮は
西の丸に住んでいました。

では、その本丸の話や、石垣やお堀の話なんかは、また改めて。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]29 欽明天皇。時代が変わります。

欽明天皇になって大きく時代が変わります。

欽明天皇
天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと) 539~571年

継体天皇の息子で、安閑天皇や宣化天皇とは異母兄弟ということになります。

宣化天皇が亡くなった時はまだ若かったということもあるので
山田皇后(やまだのきさき)という宣化天皇の奥さんに天皇をやってもらってくださいと辞退

山田皇后は、それを聞いて、
とんでもない。
欽明天皇は人柄的にも能力的にも大変優れているので、欽明天皇こそがふさわしい

良いですね
安閑天皇や宣化天皇ラインと、欽明天皇ラインは母が違うので、何かととりざたされがち
こういう「日本的手続き」を経る事は重要です。

なぜ、欽明天皇から大きく時代が変わるかというと、仏教伝来です。

朝鮮半島情勢
第25代の武烈天皇あたりから、朝鮮半島情勢が大きく変わってきている
新羅(しらぎ)と百済(くだら)が勢力を拡大し、日本の影響下にあった任那(みまな)(加那地方)を併合

この外交上の失敗で、大伴金村が失脚
大伴氏と物部氏の二大勢力だったものが
この前の宣化天皇の時に蘇我稲目(そがのいなめ)にとって変わって
物部氏と蘇我氏という構図に変わる。

日本は任那を奪還すべく、兵を送る

結果として、奪還はできなかったのだが
思わぬ副産物が得られる。

分かった。任那は諦めるわ。

ほんに。
そう言ってくれるんならこっちも有難い。
今後は仲良くしましょうよ。

百済は、仲良しのしるしとして、儒教の学者を五経博士として交代で日本に貢上することになった
日本に学問が本格的に輸入される。

易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人

そして、538年(552年の説もあり)
極めつけに仏像と経典がもたらされるのです。
仏教伝来です。

なにこれ。素敵!
あまりにあか抜けているのでびっくり仰天。

大急ぎで帰って、部下達に見せる
ほらほら、すごいでしょ。
この仏教とやらで日本の国も安泰だね

蘇我氏「いやあ、良いもんもろてきはりましたなあ。中国とかでも仏教は大ブームらしいですよ
 うちも、これでいきましょ」

物部氏「うさんくさい。そんなもん取り入れたら日本の神様に怒られますわ」

えっ、びっくり。意見分かれるんだ。
てっきりみんな大歓迎してくれるとばかり思ってた。
そうなんだったら、無理には言えないね

蘇我さんは、賛成だってことだから、これ預けるね。

ええっ、嬉しい!賛成して良かったぁ
末代まで大事にしますわ

お堂を建てて、仏像を祀り、毎日毎日、お経を読む。

ところが、たまたまタイミングが悪かったんでしょう
まもなく、国中に疫病が大流行

ほらぁ、言わんこっちゃない
そんなけったいなもんを拝んでるから、
日本の神さんが機嫌そこねはったんやで。

仏像を無理矢理奪い、難波の堀江に投棄し
お堂を焼き払った。

欽明天皇は
いかん、えらいことになった。
ここでどっちかに味方したら
優秀な部下の半分を失ってしまうことになる。

知らぬ存ぜぬを通し、仏教には一切触れない、だんまり作戦
ちゃんと決着しないといけない、大問題であるのは分かっておりますが
自分の代では決めずに先送り。

出ました、また「日本的手続き」です。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治維新] 賤民廃止令で変わったこと

明治維新は、賤視されてきた身分集団にも、大きな影響を与えた。

明治4年に賤民廃止令が出た。

江戸時代
江戸時代の、賤民と言われる人達を見ていきましょう。

よく、えた非人という言い方をします。

えた、というのは、たおれた牛馬の皮革処理や行刑などを行います。
百姓とは別の村や集落を作り、農業や皮革生産に携わります。

非人というのは、乞食を生業とする人達
さらに、勧進(物乞い)をしながら芸能や呪術を行う夙、猿飼い、大黒舞、ささらなど、
地域により様々な小さな集団を形成している人々。
士農工商ってほんと?
にも書きましたが、庶民の福の神の信仰には重要な役割を果たしています。

「江戸東京の明治維新」の著者、横山百合子さんは
何らかの特権を持っている集団を「身分」と呼んでいますが
えた非人も、ある意味特権階級なのではないかという気がしてきました。

関西と関東では、状況が異なるので、江戸を中心とする関東に限定して話を進めていきます。
関西では、えたと非人は別々ですが
関東では、えたも非人も、弾左衛門(だんざえもん)の配下に入ります。
弾左衛門も、えた非人の身分です。

関八州と伊豆、駿河、甲斐、陸奥の一部までの地域。
弾左衛門配下の戸数は1800(寛政2)年頃には、7720戸ほどです。

江戸だけを見ると、車善七、松右衛門、善三郎、久兵衛の4人の非人頭が
弾左衛門の元で地域を分けあって、勧進の権利を持っていた。

中心となるのは、浅草寺の北東に位置する1万3500坪ほどの浅草新町
ここを拠点に関八州の人々を支配し、集団内の争いについては、
民事刑事を問わず、裁判権・刑罰権を持っていた。
屋敷内に白洲ゃ牢屋もあった。

新町は、弾左衛門配下の人達の、仕事の拠点でもあった。
皮革問屋や、雪駄問屋などが集中し
下総国三か村等で作られる灯心用のいぐさを独占的に集荷する灯心会所も設けられていた。
これは、弾左衛門に認められていた特権

課されていた役割も多彩で幕府内で色んな役割を担っていた。

幕末になると、弾左衛門配下の人材の動員が必要となり
呼応して、弾左衛門も身分の引き上げを求める。
1864(元治元)年、町奉行所の牢屋敷が火災で焼失
その時に、弾左衛門の屋敷内の牢屋に臨時で囚人を収容
その時の手当て等の対応がとても良かったと、
第二次長州戦争に約500人を動員
一部の人の身分の引き上げを許す。

どうも、今まで、えた非人という賤民は、
一方的に産まれながらにして、非差別民としてさげすまれたとばかり思っていたが
そればかりでもない気がする

弾左衛門自身は、努力を重ねて、その地位に出世していったし
交渉を重ねて、皮革をはじめとした、独占的な特権を少しずつ獲得していっている。

賤民廃止令
明治4年に賤民廃止令
総じて言えば、彼等にとってみれば喜ばしいこと。
それは恐らくまちがいないのだが
同時に皮革独占の権利も消滅した。

弾左衛門はそれを機に、弾内記、さらに直樹と名前を変えるのだが
支配下の人達に通達を出している

その中で、「もはや、この方、支配これまで」と述べている。
今後は、皆さん自分達で頑張ってくださいね、と

とはいえ、今日明日、どうすれば良いのか
生き抜いていくための新たな努力がここから始まる。

弾直樹自身はというと
今までの、皮革の技術を元に
文明開化の波に乗るべく
製靴業を始める

これからは、靴っちゅうものをはくらしい。
それは革でできているんだと。

欧米の技術導入を計り、
政府に積極的に交渉し
軍の靴を製造する、契約を締結

ようしこれからだ、って事だけど
特権で守られている訳ではない。

資金力のある三井が本格的に乗り出してくる
政府は、突然契約破棄。
三井組に主導権を取られてしまう。

その後の事は明確には伝わっていないのだが
どっこい生き抜いたと思いたい。

さあ、それ以外の人達は?
その努力と経緯を、シリーズの次回でお話することにしましょう

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