[明治]懲兵制の逃れ方

明治維新になって3大改革が行われた。

学制改革、地祖改正、徴兵制
今回はその徴兵制に関する話題。

徴兵制
太平洋戦争の時の赤紙が強烈な印象なので、そんな感じと思いがちだけど
最初はもっとゆるかった。

印象的には、今の裁判員制度に近く、
後の徴兵制が原則適齢男子全員を対象にしていたのに比べ
抽選による一部の人

逃れ方
その時に職がない人には歓迎だけど
そうでなければ、行きたくはない。

富国強兵、新しい日本をみんなで守ろうというイメージはイメージ
庶民に歓迎された制度ではなかった。
各地で徴兵制反対の一揆も起きている

最初は、兵役免除というものがあり
徴兵検査対象者のうち、実に75%もの人が免除された

官吏、専門的な学問を学んでいる人、戸主、跡継ぎ、代人料の270%を国に収めた人
戸主が60歳以上であれば、その家にいる子供は全員

まずは、長男になれば、徴兵免除
この為に色んなテクニックを駆使する。

分家して戸主になる
跡継ぎがいない家に頼み込んで養子にしてもらう。

さらに、「戸主が60歳以上であれば、」の規定
親の年齢を偽装。
老人の名義を売買するというものまで現れた。

さらに、これは噂だけなんだけど
明治6年に、いわゆる征韓論一気に20歳男子を緊急で集めるらしい
但し、結婚しているものは免除になるらしい
との噂によって
偽装結婚が相次いだ。
ひどい例だと、3歳の女性と婚姻届

〇子ちゃーん お兄ちゃんと結婚ねー
うん。

政府も、少しずつ免除規程を厳しくしていって
そうは行くかいっ

明治22年、全ての免除規程を撤廃

やられたー

涙ぐましい努力
不正が極めて難しくかなったけど
行きたくはないものは行きたくない

よしっ、あれだっ

おまじない。
徴兵検査に落ちますように

南無阿弥陀仏のお札を1000枚書いて祈念
女性用の腰巻を懐中に巻く
33歳の女性の陰毛を3本、新しい汗襦袢の襟に縫い込んで受験

本人には知らせず、四十九日の供物を受験日の朝に食べさせる

これは、罰当たりな事をすれば落ちるだろうという発想。

尻に牛肉を挟む

これは痔になったと思わせる。
それ、大笑いされるだけだと思うけど

[徳川名参謀]14 家茂→井伊直弼。桜田門外の変2

桜田門外の変、続きになります。
1回目はこちら
こちら

襲撃
実は、井伊直弼にも襲撃の情報は伝わっていた。

でも、特別な警戒は取らなかった
井伊直弼は居合の達人
来るなら来い。

異常気象の雪
午前9時、少し薄日がさしてきた。

直訴
直訴ーっ、と森五六郎

直訴を装い、カモフラージュ。注意をそちらに寄せ付ける。

バーン
関鉄之介が鉄砲をぶっ放す。
はじめ!の合図。

合図なんだから空に向けて撃てば良かったんだけど
興奮しちゃっているもんで
井伊直弼の乗った籠に向けて撃っちゃった。
結果的に言うと、これが効を奏した。
井伊直弼の太股を貫通。
いくら居合の達人と言え、どうしようもない。

彦根藩60名に対し、水戸藩と薩摩藩18名
普通に考えるとどうにも歯がたたないところだけど
まず、鉄砲に驚いて、半分近くが逃げちゃった。

そして、彦根藩のメンバーみんな
降りしきる雪に大事な刀がぬれちゃいけないと
袋の中にしまっていた。
袋におおわれた刀で応戦。
あるいは素手
多勢に無勢ならぬ多勢が無勢

そんな中でも、彦根藩、二刀流の達人、河西忠左衛門と永田太郎兵衛は
冷静に刀を取り出し大活躍。

それでもほんの数分で突破

ブスッ ブスブスッ

井伊直弼の籠に刀を突き刺す。

唯一の薩摩藩、有村次左衛門が
籠の中から虫の息の井伊直弼を引きずり出す。

キエーーッ
奇声をあげつつ、刀を降り降ろす。

頭が
落ちた

落ちた頭を刀の先に刺し
掲げながら歩き出す。

彦根藩、小河原秀之丞が息を吹き返し
有村次左衛門に切りつける

有村次左衛門は重傷を負う
小河原秀之丞はみんなに取り押さえられる。

有村次左衛門は重傷を負いつつ、前へ前へ歩く。
一歩一歩

寸劇
彦根藩上屋敷跡から始めて、桜田門外でここまで
ウォーキング同好会のメンバーで、以前、配役決めて寸劇やったのよね

楽しかったなぁ
太鼓の役とか、籠かきA、籠かきBとかもね

首落ちるところもね
はい、首落として落として

みなさんもぜひ、何人かで皇居の桜田門に行かれる事がありましたら
寸劇やってみてください。

大手門へ
桜田門から大手門まで歩いてみるとかなりあるんですよね
有村次左衛門は、重傷を負いつつ大手門のあたりまで歩いた。

遠藤但馬守邸の前まで来ていよいよ力尽きた。

自決

誰か、誰か介錯を
みんなおそれをなして、遠巻きに見つめるのみ

これを、これを預かってくれ

おいおい、何か言って死んじゃったけど
どうすんの
そもそも、これ、誰?

まあ、とりあえず箱に入れてしまっとこ

程なくして、彦根藩の藩士がやって来た。

この辺に首落ちてませんでした?

ああ、あるよ。

何かあると察した遠藤但馬守邸メンバーは
渡せないですよ

どんどん、彦根藩の藩士が増えていって100人くらいに

分かったよ
ちゃんと証文書いてね。

で、誰の首なの?
加田九郎太って人なんですけどね

嘘つけ
そんな下っぱに、100人も押し掛けてくるわけないよね
この顔、いつか見たあのお方に似てるんですけど。

彦根藩上屋敷から
戻った首、藩医の岡島玄達が首と胴を縫い合わせた。

井伊直弼から、幕府に負傷届が出される

約20名で襲われたが、井伊自身を始め、みんなで応戦。
一人を討ち取り、残りは全て逃げ去る
その時、怪我を負ったので、治るまでお休みします。

えええっ
そんなんで良いの?

将軍から使いが、早く良くなってねと、朝鮮人参が贈られる。

日本の政治家は上から下まで嘘だらけ
無かったことにすれば
誰一人責任を取らなくて良い
ああ、やだやだ

とても厳しい言論統制が取られる
ゴシップの宝庫『藤岡屋日記』ですら、一切触れていない

でも
知らない訳ないよね

こんな歌が流行る

桜田騒動途方もない、
そこでどうやらお首がない、
首を取っても追手がない、
お駕籠こわれて舁き手がない、
お番所どこでも止め手がない

[徳川名参謀]14 家茂→井伊直弼。桜田門外の変1

徳川名参謀シリーズの中の、井伊直弼の最後になります。

桜田門外の変
桜田門外の変には、特別の思い入れがあります。

皇居のウォーキングイベントの時に、みんなで寸劇をやった。
彦根藩上屋敷から出発するところから。
配役決めて、井伊直弼の首がコロンと落ちるところも。
その時の様子はこちら
面白かったなあ。桜田門外の変の寸劇

戊午の密勅で
戊午の密勅が下り、幕府側の視点では前回まででお話ししましたが
水戸側はどうだったのか。

藩主慶篤は江戸の上屋敷小石川にいる
そこへ、朝廷から手紙。
1858年8/16のこと
驚愕かつ狼狽し、沐浴して身を清め、衣服を改め、席を下って恭しく拝受した。
ダメだ、勇気がわかない。
駒込の中屋敷にいる斉昭に許しを得て、恐る恐る開封。
まだ開けてなかったのね。

予想を遥かに超える内容に震えが止まらない。
藩中、狂喜乱舞。

でも、安政の大獄の大嵐が吹き荒れています。
井伊直弼側は、安政の大獄の総仕上げ
戊午の密勅を返還させようとする。

還せ、還さないのやり取りがずっと続く。

気の弱い慶篤を脅しで屈服させる。
ただ、水戸にいる過激派たちはそうはいかない。

9/2頃から江戸へ江戸へと大挙押し寄せてきた。
騒ぎを怖れた藩当局は、現松戸市の辺りに関門を設けて
江戸入りを食い止める。
小金原と呼ばれる広い原っぱに2000人程度が集結。
その後も増え続け、1万人程度にまで膨れ上がる

でも、過激派達にとって、不思議なことが起きた。
信じていた斉昭が止めに入った。

まさか・・・
一旦解散

でも、戊午の密勅関係の人達が
どんどん安政の大獄で処罰されていく。

再度集結。
でも、藩のスタンスは変わらない。
過激派たちが心を決めたのはこの時
仕方ない。藩はもう無理。
脱藩して、藩には迷惑がかからないようにする。

高橋多一郎、金子孫二郎、関鉄之介

もはや、他に手段なし。

計画
薩摩藩の過激浪士とも連絡を取り合う。
江戸常駐の浪士は、水戸藩浪士と行動をともにし
残りの薩摩藩のメンバーは同時に京都で事を起こす。
結局京都の方は実現に至らなかったけど
江戸常駐の有村次左衛門は井伊直弼襲撃に唯一加わっている。

藩には、彼らの活動がバレちゃっていて
出頭命令。
バラバラになりながらそれぞれ逃げ回っていた。

「その日」の前日、初めて品川で全員が集まった。
作戦と役割分担を再確認。
金子孫二郎は総監督。
現場には行かず、みんなからの報告を待つ。
現場での総指揮は関鉄之介。
現場に行くのは18名。
ちなみに高橋多一郎は、京都の方に行っています。

傷をおったものは、自害、ないしは閣老へ自訴
無傷であれば、次なる計画京都への応援に向かう。

当日朝は、怪しまれないよう、バラバラに出発し
愛宕山で集合。
そこから、桜田門へ向かう。

雛祭り
選んだ日は、1860年3月3日。上巳の節句(雛祭り)

この日は、参勤交代で江戸にいる全ての大名が
江戸城に挨拶に行く。

井伊直弼が通るルートも時間も分かっている。

3/3は旧暦なので、今で言うと3/24
完全に春なんだけど
異常気象。
雪が積もった。
何かを暗示しているように。

どーんどーん

登城を知らせる太鼓が鳴り響く
この後は次回ね

尾張藩はどうだったのか

御三家と御三卿をシリーズにしようと思っています。

尾張藩ってどうだったのか

ウォーキングで、 市ヶ谷の防衛省に行ってきました。
尾張藩の上屋敷どでかい敷地です。
中屋敷は四谷の上智大学
下屋敷は新宿に近い戸山公園です

御三家の筆頭でありながら
最後まで、将軍を出すことはなかった。

尾張にいくようならもう「おわり」と言われるほど幕閣のみんなには不人気
とても不思議な藩ですね

尾張藩
御三家ってなんで格上かというと家康の子供だからですね。
最初は、四男・松平忠吉
でも、子供ができないまま死んじゃったので
はい、やり直し。

甲斐甲府藩から九男で忠吉の弟である徳川義直が入封

清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って、尾張藩誕生!
御三家の兄弟の中で一番上なので差をつけませんとね

ちょっとずつ石高増やして61万9500石
尾張の他にも、美濃・三河・信濃・近江・摂津と広範囲に飛地も持ってます。

第4代藩主・徳川吉通
第4代藩主・徳川吉通のとき、かなり惜しかったんですよね。
第6代将軍徳川家宣から、すごく評価されていた。

自分の子供、家継がまだ幼く、かつ病弱。
将軍は無理かな。
徳川吉通さん、お願いして良い?

周りの反対で一旦は取り下げたけど
なにせ家継は病弱だったので、その次の可能性は十分あった。

ところが
家宣が死んだ翌年、突然死しちゃう。

第6代藩主・徳川継友
チャンスは潰えたかに思いましたけど
予想通り、少年将軍は、重病の床に臥す。
まだ少年なので、当然跡継ぎは産まれていません。

真剣に次を考えないと。
大奥の天英院と月光院の大バトルもあり
次の将軍候補が混沌と。

ご存じの通り、最終的には紀州の吉宗が勝つ訳です。
その時、対抗馬として名前が上がったのが
第6代藩主・徳川継友

ここで負けちゃったのが、あとを引き
とうとう最後まで、御三家で唯一将軍を出せなかった。

負け惜しみかもしれませんが
第4代藩主徳川吉通は、「尾張は将軍位を争わず」と言っています。
尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、
徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切です。

そのあたりの意識が、次の徳川宗春に繋がっていくのかも知れません。

第7代藩主・徳川宗春
継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春

この人、すごいですよ。

吉宗の享保の改革、節約節約にちょっと待った!

そんなの面白くにゃあ。

名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可し、規制緩和政策を推進。
真っ向対立です。

とてもやり手なので
どんどん政策を打ち出すんですが
的を得て、成果が上がるもんですから
幕府は後追いで、同じことをやったりします。

単に規制緩和一辺倒ではないんですよね
メリハリをつける
厳しくするところと、緩めるところ。
庶民の娯楽は奪わない。

宗春のとき、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。
犯罪者の処分より、犯罪を起こさない町造り
見回りを強化。
死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた
心中しようとした者、幕府では非人あるいは死罪のところ、
結果的には夫婦として普通に生活することを許可した

人の道の分かった人ですね。

でも、幕府に逆らっているようには見える。
幕府の中に尾張嫌いがじわじわ増えていきます。
もちろん、吉宗自体も、面白くない。

宗春と家老の成瀬正泰が参勤交代で江戸に行ったとき
もうひとりの家老竹腰正武が、
名古屋で宗春の政策を一気に否定。
クーデターみたいな感じ。

そんなバカな
絶対ばれますよ、そんなの。

尾張藩の中の皆もどっちに従って良いんだか
シッチャカメッチャカ

当時、朝廷と幕府の関係がまずくなったことがあり
元々、朝廷との関係が深かった、尾張家が板挟みになったということも
重なった。

吉宗、この時とばかり

全責任は宗春にあり
隠居謹慎を申し渡す。

10代から
9代で血が途絶えてしまった。
で、御三卿の一橋から養子に入る
その後、11代将軍家斉の子とか
田安家からの養子とか

言葉悪く言えば
血筋的には紀州にのっとられた形になる

秘伝の家訓
藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、
代々伝えてきた勤皇家
そういった意味では、事がおきれば朝廷側につくべしとの秘伝の家訓のあった、
水戸家にも似ている。

このことや、長い不遇の歴史から
尾張家の中では、幕府がだんだん嫌いになっていく。

最終的に、幕末にどうなったかというと
なんと、戊辰戦争では、幕府を裏切り官軍についた。

面白いですね。
血筋的には紀州がのっとっちゃったはずなのに
秘伝の家訓の方が勝っちゃうんですね。