[ことば日本史]おごれるものは久しからず

「平氏にあらざれば人にあらず」といわれたほどの栄華を誇った平家一門も、ついには滅びる。

清盛は、源氏との合戦半ばにして熱病で苦しみながら逝き、
清盛の孫である安徳天皇も、平家一門の者たちとともに壇ノ浦に沈んでいった。

世の無常を感じずにはいられない。

そのことを「平家物語」は、このように語る。

奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂には滅びぬ、風の前の塵に同じ。

これは「平家物語」を貫く思想であり、
言い換えれば 「平家物語」は仏教の無常観を文学化した物語だった。

単に歴史の物語というのではなく
日本人の生き方に強く影響を与えたと思う

自分についても数々の思い当たることがある
ちょっとうまく行くとすぐに天狗になる
知らず知らずのうちに周りの人をばかにしている

しっぺ返し
その繰り返し

ああ、ああしてりゃ良かった、こうしてりゃ良かった。

でもね
この歳になると吹っ切れた

天狗になったって良いじゃないか
自分の事は大好きだから
立派な人になんてならなくて良い
反省ばかりしていると、辛くなる

あの人すごいなあ
でも、私だってすごいのさ

知らず知らずのうちにかけた迷惑があるのなら
どうぞ、言ってください。
誠心誠意謝りますから
それまでは好きなようにやらせてください

そんな生き方

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[天皇]98 長慶天皇。即位したのかなあ、しなかったのかなあ

長慶天皇
1368~83年 南朝

第98代・長慶天皇もその前の同様、何度も何度も幕府軍の攻撃を受け、
たびごとに行宮をかえ、各地をさすらっていた。

だから、即位したのかしなかったのか、 長い間疑問視されてきた天皇である。

細川頼之軍の攻撃を受け、
長慶天皇が天野山金剛寺から大和の吉野山に行宮を移したのは、
文中2年(応安3年) 1373年3月ごろだった。
ちなみに元号を2つ書いているのは、南朝と北町で別々の元号を使っているから

このとき忠臣・ 四条隆俊も殺されている。
その後、また移った。 大和宇智郡五条付近の栄山寺である。
この栄山行宮が天授5年(1379)から、弘和2年(1382)のころだった。

楠木正儀が南朝方に帰順して、北朝側の山名氏清と戦っていた弘和2年(永徳2年)ごろ、
長慶天皇は参議に任じている(その翌年である、という説もある)。

その翌年の3月、天皇は皇太弟の熙成親王に皇位を譲り、太上天皇となった。
この後もずっと南山の御在所にいて、応永元(1394) 年8月にここで崩じた。

長慶という追号さえも仮で、その御在所の寺名だったと伝わる。

即位説をとったのは、水戸光圀の大日本史
この紋どころが目に入らぬか

対して非即位説をとったのが
あの新井白石や塙保己一(はなわほきいち)

超大物通しが真っ二つに分かれましたね。

明治になってもまだ決着がつきません

1911年(明治44年)3月に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も
在位認定されないまま

大正15年(1926)年、
ついに八代国治・武田祐吉両博士の研究の結果、在位が確かになった。

めでたしめでたし

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[首相]32-7 吉田茂。誰にも知られてはならない。

[首相]32 吉田茂。嫌になったらいつでも投げ出す。
[首相]32-2 吉田茂。分かった。ひとりの日本人も、餓死させない
[首相]32-3 吉田茂。耕さないもの認めない
[首相]32-4 吉田茂。初めての選挙
[首相]32-5 吉田茂。あの人とあの人とあの人
[首相]32-6 吉田茂。吉田学校の始まり。
の続きです。

ジョセフ・モレル・ドッジ
総司令部は、アメリカ本国から公使としてジョセフ・モレル・ドッジを招いた
元デトロイト銀行頭取で、アメリカ占領化の西ドイツで通貨政策を断行したつわもの

来るなりいきなり
日本経済はアメリカの援助と国家の補助金と、二本脚の竹馬経済である
この二本の脚を切って、自分の脚で立たない限り、本当の経済再建はあり得ない

いやあ、びっくりしました。
アメリカにも竹馬ってあったんですね
(そっち?)

ドッジラインと呼ばれる

企業への補助金の類いはことごとく廃止
荒療治中の荒療治
日本経済はガタガタ
流血事件がいくつか起きるほどだった

でも、後に経済学者たちの意見は一致している
確かにあの荒療治があったからこそ
その後の日本の高度成長があり得た。
日本の恩人

講和
何とかんとか、ドッジラインも乗りきれそうになってきて
吉田茂の頭の中に、二文字がイメージづくられるようになってきた

講和

占領下の日本が、独り立ちし、各国と講和を図る
吉田は根っからの外交官だから
この最大のテーマを自分の手で成し遂げたいと思った

どうすれば良い

最大の問題は、
軍隊を持たないと憲法で宣言した日本
安全保障をどうするか

議論が交わされる

国連に守ってもらったら?
そんな意見も出たが

吉田の中にはひとつのシナリオができていた。

マッカーサーと吉田が会談した。

池田勇人をアメリカへ送りたい

分かった了解した
だが、あなたの考えているその「目的」は極秘にすること
誰一人に知られてはならない
総司令部内部にもだ

出発は4月15日
他の閣僚誰一人知らない

これは・・・対日講和についての私の覚え書きだ

えっ、ドッジラインに関わる交渉ではなかったのですか

読めば分かる
いや、読むのは後で良い
あくまでも、表向きは、ドッジラインの交渉

私は、これを持って誰と交渉すればよろしいのでしょうか

それがだねえ
わしにも分からんのだ

続きはシリーズの次回

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[ことば日本史] 棟梁

ことば日本史平安時代から

棟梁(とうりょう)
これがなくては立たない

建物の棟(むね)と梁(はり)をあわせて棟梁。
建築を支えるもっとも重要な部分だ。

古くは一国の重臣のことをさした言葉だというが、
十世紀末には武家社会のトップリーダーを「武門の棟梁」と呼ぶようになった。

おもに平家と源氏の嫡流のことである。

中央集権政府がちゃんと機能している時は、
その政府が、税を取る変わりに、人々を守ってやる、という持ちつ持たれつの関係になる
警察機能だったり裁判機能をもち、揉め事があると、その政府に訴え出る
こっちの勝ち、と言ってもらい、負けた方も、仕方ないと諦める

ところが、平安時代も後半になってくると、中央集権政府であるはずの朝廷が力を失っていく。

そうなると、揉め事は自分で解決する必要がある
訴え出たところで、負けた側が
朝廷だぁ?ちゃんちゃらおかしいやいっ
と言ってしまえば意味がなくなる

いわゆる武力を持って、自分の事は自分で守らねば

武士の台頭です

情けないことに、朝廷自身が自分を守るために武士を雇うようになる

そうすると、単なる力の優劣だった筈の武士たちに、権威的なものが加わる

武士としても、常に武力だけで守り
ビクビクしながらの人生は疲れる

「権威のある武士」に揉め事の仲介役をお願いして安心したい

そういう「権威ある武士」を武士の棟梁と呼ぶ

平家だったり、源氏の嫡流
血筋がものを言うようになっていく

そして、ピラミッド型の体制が
武士の中に出来上がっていく。

最終的に「武士の棟梁」が各地方の武士たちをまとめあげ
朝廷に反乱を起こすほどの力を持つようになる訳です。

承久元年(1219) 1月に実朝が暗殺されて
源氏の嫡流が絶えてからは「武士の棟梁」という言葉はあまり使われなくなり、
江戸時代になって、大工の方がこの名で呼ばれるようになる。

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