[神社] 八幡神社が一番多い理由、その4

[神社]八幡神社はこうして出来た。
[神社] 八幡神社が一番多い理由、その1
[神社] 八幡神社が一番多い理由、その2
[神社] 八幡神社が一番多い理由、その3
の続きで、八幡神社シリーズとしては最終回

稲荷とか、他の神社も考えておりますが。

時代の変化
結局、八幡神社って、最も積極的で、
仏教を始めとした色んな要素を含んでいたので大きく発展。

一旦力を持ってしまえば、その力は大きな意味を持つ
どちらかというと天皇家の方から積極的に近づいて
八幡神社を離すまいぞと

でももし、この状況に満足し切ってしまえば
今の八幡は無かったかも知れない。

時代は変わる

平安時代から鎌倉時代へ
貴族の世の中から、武士の世の中へ

天皇は、相対的に役割を低くしていくから
それに伴って、となったかも知れない。

ここで、元々の八幡神の要素が役に立った。

八幡の「幡」は旗、軍旗のこと
お上品な神様ではなく
イケイケドンドンの神様

源氏
永承元(1046)年、源頼信が
わが氏族の氏神様は八幡神だと宣言
戦いの勝利を祈願する神様だと位置付けた。

うまくチェンジ出来ましたね

そしてその子供、頼義が石清水八幡宮に参拝した夜
社殿で三寸の霊剣を賜わった夢をみた
起きるとなんと、枕元に小剣がおいてあるではありませんか
感激!

ほどなくして奥さんが懐妊
産まれた子が7歳の時、石清水八幡宮の前で元服させ
八幡太郎義家と命名

すごいですね
名前が八幡になっちゃいました。

頼義は前九年の役で東北に赴く際
石清水八幡宮に参拝して出かけ、おかげをもって平定

ありがとうございました、ということで
拠点鎌倉は由比郷に石清水八幡宮から、八幡宮を勧請(=お裾分け)

その後、八幡太郎義家が修理

時を経て、源頼朝
八幡太郎義家のひ孫です。

本格的に鎌倉に幕府樹立
良い国作ろう鎌倉幕府

良い神社も作ろう八幡神社
由比郷に作った八幡宮をお引っ越し

火事で全焼したりと色々あって
結局、後山(大臣山)中腹にどどどーんと
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)完成!

大事件
そして、鶴岡八幡宮と言えばこの大事件

3代将軍、源実朝の時代
鶴岡八幡宮の一番偉いさんは、別当と呼ばれるお坊さん
さすがは神仏習合、神社なのにね
その時の別当は、公暁(くぎょう)
2代将軍頼家の二男です。
3代将軍、源実朝は頼家の弟なので、公暁からみると、実朝は叔父さん。

将軍の二男を鶴岡八幡宮の総責任者に当てるぐらいだから
どれだけ、重要視していたかと言うことですね

ところが、この公暁、
ちょっとおかしい

自分のお父さん、頼家は、実朝に殺されたと勘違いし、思い込んでいる

建保7(1219)年1月27日、
雪が降っておりました。
実朝が右大臣になれたため、鶴岡八幡宮に参詣する。

参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かった

突然、公暁が襲いかかる
「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬りつけ、首をはねる

は?
何なの?
という間もございません。

即死

逃げる公暁はあっという間に捕まり、すぐに近くで殺される

何とも訳の分からない事件ですが
この影響は無茶苦茶大きかった。

この時点で、実朝には子供がおらず
源の血を引いた公卿だってすぐ殺されたと言うことは
急に源氏の血が途絶えちゃった。

せっかく良い国作ったのに、たった3代
それ以降は、北条氏が実権を握るという、大事件中の大事件。

それが、八幡宮が絡んでいる訳ですから
何かと歴史の中心に顔を出す、八幡宮ということになります。

その後
源氏の氏神になったことは、
源氏のみならず、その後ずっと、武士の神様と言うことになります。

宇佐八幡宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮と3つ揃ったことは、
とても大きく、どこの八幡様を選ぶかよりどりみどり

このあと、八幡神社が一番多い理由として
3つの鎮守(ちんじゅ)広がり方を見せます。
鎮守というのは、特別に重要なものを守る神様

ひとつは、寺院の鎮守と言われるもの
宗派に限らず、八幡様を鎮守として、近くに作るのが大流行
お寺の数だけとは言い過ぎですが、かなりの数、ぼこぼこ出来ます。

ふたつは、国府の鎮守
国府は諸国に置かれた国司の役所(国衙)の所在地
ここを守る
当然、全国に及びます。

みっつは、荘園の鎮守
荘園、教科書で出てきましたね
有力者の私有地です
これも当然あちこちにありますから、
ものすごい数に及びます。

もちろん、他の神社でも良いわけですが
鎮守と言えば八幡様、みたいに流行りになっちゃいました。

これだけ重要な歴史の中心に常にいて
流行にまでなっちゃったら
そりゃ、全国で一番多いはずですね

索引はこちら
[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]16 仁徳天皇。世界遺産登録おめでとうございます。

天皇シリーズ代16代
前方後円墳ですね

仁徳天皇
大鷦鷯尊(おおさざきのみこと) ~427年?

応神天皇の息子です。
仁徳天皇が産まれた時、産殿にミミズクが飛び込んできた。
同じ日に今でいう総理大臣のように政治の全てを取り仕切ってくれていた
武内宿禰(たけうちのすくね)の奥さんも出産
そちらには、ミソサザイが飛び込んで来た。

こりゃ面白い
子供には鳥の名前を付けましょう
それでもって、その名前を交換しましょう
ってことで、
仁徳天皇はミソサザイで大鷦鷯(オオサザキ)
武内宿禰の子は、ミミズクで木菟宿禰(ツクノスクネ)

時は経ちましたくしくもこの二人が一人の女性を巡って争うことに。
女性は、木菟宿禰の元へ。

仁徳天皇は、側近に
ミソサザイとミミズクってどちらの方が飛ぶのが早いの?

ミミズクでございましょう。

あらそう。
じゃあ、仕方ないね。

民のかまど
仁徳天皇がある日、丘の上から、国中を見渡した。

すると、各家から、煙が立ち上っていない。

これは、民の生活が苦しくて、かまどを炊けないのであろう。
よし、税金を取るのは一旦停止にしよう。

天皇家では、財政が困窮し
家もボロボロ。
雨漏りする始末。

数年たって、また、丘の上

あっ、家々から煙が立ち上っている。

という事で税金再開。

ああ、良かった良かった
と喜んでいると
横で皇后が

何が良かったもんですか
家はボロボロ雨漏りだらけ
どうしてくれるのよ

誰とは言わないけど、こういう言い方するよねぇ

前方後円墳
仁徳天皇と言えば前方後円墳ですね
記憶に新しいちょっと前、2019/7/6 ユネスコが世界遺産に登録決定
やったぁ

でかいぞっ

広さだけなら世界一

とっても不思議なこの形
大きさと形に意味があるそうです。

そもそもお墓を調べることは、古代を考える上でとても重要
お墓の出来方で、中央集権的国家がいつ出来てきたかが分かる

前方後円墳というこんな特殊な形のお墓が
一時期集中的に、どどどっと九州から東北まで出来る
不思議だ
そんな昔に本当にそこまで広い範囲に及ぶ国家が存在したんだろうか

古墳を見る限り、存在したと考える方が自然ではあるんですが。

もうひとつあるとすると、「流行」かなとは思います。

西の方でかっこいいお墓があるんだって、
すごいかっこいいから、真似しようぜ
みたいな。

それにしても、我々がいつも目にしているのは航空写真なので
あれを作ったとイメージする

実家の近くの日岡山古墳に行ったとき
何だか良く分からなくて
後でネットで調べて、航空写真が出ていたので
げっ、こんなかっこいいものだったんだ

昔の人は、地上から見て本当に分かったんだろうか

今見ると木が生い茂って小高い山にしか見えないけど
出来立てだと、あっ、こっち丸、こっち四角って分かるのかなぁ

もし、分かるとしても角ばった土盛りか丸い土盛りの組み合わせ
上から見てこそ感動するけど、横から見て感動に値する気がしない。

ナスカの地上絵に関して、どうやってあんなものを書いたかというと
小さな設計図があって、真ん中に杭を打つ
紐でそれぞれの方法に100倍とかの点を打って繋げていく。

おそらく考え方としては同じで
大きくすることは出来るんでしょうけど
ナスカの地上絵と同様に、
作る意味

おそらく作った人も一度も上からは見ていないはず
それに、何十年も何千人もの人がつぎ込まれています。

あの形の意味にしても、色んな人が色々言ってますが
結局のところ分からない。

丸いところが埋葬するところで
四角が祭礼を行うところだったんでしょうと。
それくらい

日本にしかあの形はなくて
朝鮮半島の南の端に、ちょっとだけあるのみ

ああ、何もかも謎だらけ
日本ではまだ文字が使われていない時代の事なので
文献が残っていない。

中国で日本のことに書いてある文献と
「複合的状況推理」を組み合わせて考える

こうじゃないかと推測した人の数だけ説が分かれる。

何かが発見されるたびに考え直し。

面白いねぇ
分からないから知りたい

おそらくいつか分かるようになるんでしょう。

ひょっとしたら、大人気の墓職人が全国回って
自分の会社のマークのお墓を作った、とかね
ええっ、それ?みたいな

索引はこちら
[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

フリコに挑戦、大成功。

一之江名主屋敷の近くで、サイゼリアで食事

サイゼリアって久しぶりだなあ。

何々
フリウリ風フリコ?

フが多すぎて何が何やら
漢字をあてるとすると
風鈴風振り子、って事でしょうか

良く分からんので質問が多いんでしょうね
解説もついています。

分からんけど、299円と安いから注文しました。

見た目は一緒に注文したドリアと器も含め全く一緒です。

スプーンを入れるときに
ええっと、今私の食べようとしているのは、と
頭の整理をしてから食べる必要があります。

どんなもんかというと
マッシュポテトにとろけるチーズが混じっていて、焼いてある
ただそれだけ

ポテトとチーズですよ
美味しくない要素がひとつもありません。

なんで今まで見たことなかったのかなあ。

挑戦
ウォーキングを終え
さあ晩御飯をこしらえませんと。

フリコに挑戦だ

良い時代になりました
フリコ レシピ [検索]
で出て参ります。

ところがです。
出てきたいくつかに、ジャガイモとチーズは共通しているものの
今日食べたのと同じ感じのものはありません。

マッシュポテトにはなっておらず
薄くスライスしてあったり、荒く潰した塊だったり。

オーブンで焼くのもひとつもなく
全て、表裏をフライパンで焼くというもの

なるほど
イタリアでは、ジャガイモとチーズを混ぜくって焼いてあれば
全部フリコな訳ね。

そういうときは、どうしよっかなぁ、となるんだけど
はっきり言って、どう作っても失敗するはずがありません。
ジャガイモとチーズだけ。

せっかくだから、お昼に食べたマッシュポテトは前提としよう。
オーブンはあきらめて、フライパンで焼く事にしよう。

方針決定
あとは実践あるのみ。

マッシュポテトを作ります。
大得意です。
困ったときはポテトサラダ
何十回も作っています。

ジャガイモ茹でて、すりこぎでガンガン潰せば出来上がり。

ピザ用チーズをパラパラパラ。
すりこぎでガラガラ混ぜて
パラパラパラ、ガラガラガラ

ところで、味付けに関しては
レシピの中で全く触れていない。
チーズ味ですよ。何か?
って感じでしょうか。

もう一個保険をかけておきましょう。
こういった洋物の場合、長女が好きなのはコンソメ味。
コンソメ一個を細かく砕いて、混ぜ込みました。

平たく整形して
フライパンで両面焼いて、はい出来上がり。
折角付けた焦げ目だけがはがれちゃうので
フライ返しでシュパッと

うーん。やっぱり予想通りの間違いのない味
サイゼリアのとは、全く別物になっちゃいましたが。

若干淡白なので、ハムと一緒に食べるとちょうど良い具合でした。

あと、こんなのも作りました。
とうもろこしと豆腐のとろみ炒め

作り方はこちら

豚肉と野菜のごまドレ蒸し

作り方はこちら

新江戸百景巡り。猿江御材木蔵と鎧の渡し

一之江名主屋敷に行ってきました。
の続きです。

一之江名主屋敷を見終わって、ちょうどお昼
近くのファミレス、サイゼリアに立ち寄ってお食事。

雨降っていないし、もうちょっと時間あるなあ
新江戸百景巡りの中で残っているのはあと3つ
猿江御材木蔵
鎧の渡し
志村一里塚

猿江御材木蔵というのが意外に近かった
同じ、都営新宿線、住吉
乗換案内で見ると十分
よっしゃ、ゴー

猿江御材木蔵
一之江名主屋敷の辺りは、田島図書(たじまずしょ)が新田開発しました。
この深川の住吉辺りは、深川八郎右衛門(ふかがわはちろうえもん)

同じくぐっちゃぐちゃでどうしようもなかった土地を開墾

家康が視察にやって来ました。

ここは、何ていうところなんじゃ?

地名か?地名なんてまだない。
そもそも誰も住んでなかった。

さようか
しかして、あなたの名前は?
深川八郎右衛門

よし、じゃあここは、深川だ
決定

ということで、田島家同様、深川家が代々深川の27町の名主になる

残念ながら、一之江名主屋敷のような、名主屋敷は残っていない。

理由があるんです。

深川家当主は代々深川八郎右衛門を名乗ります。
その7代目深川八郎右衛門の時、事件が起きます。
ルールを犯す悪いことを清住町の大達孫兵衛なるものがしてしまった。

幕府より深川八郎右衛門が呼び出される

これこれこういうことが起きているらしいが、どうなっとるのだ。

(えっ、知らなんだ。誰かがそんなことしたのか。
でも、そもそもそれを知らなかった私が悪いな
ファミリーの罪は私の罪)

申し訳ございません。
何の申し開きも出来ません。
全ては私の責任でやらせたことでございます。

全ての罪をかぶり、深川八郎右衛門一人が牢屋へ
そのまま獄中死
名門深川家は家名断絶になります。

驚いたのは町民たち
深川八郎右衛門さんはそんなお人やない
本当は許されていないが頼み込んで、遺体を引き取る。
猿江泉養寺で手厚く供養します。

毎年毎年、命日には27町が費用を分担して供養。
今でも、11月3日には、大施餓鬼法会というのが行われているそうです。

そして、深川が一之江地域とちょっと違うのが材木です。

江戸という町はとても特殊
その特徴の一つが20回以上発生した大火
江戸の6割以上を焼き付くした明暦の大火をはじめとし
3年に一度は、江戸のどこかで複数の町が燃える火事が起きています。

どうせ貯め込んだって、いつか全財産持っていかれる
江戸庶民は、共通の体験をしているので
宵越しの金は持たない
人生楽しんだもん勝ちという江戸っ子の人生観が形成されます。

すると、大火はどうとらえられるか

建築に携わる数多くの人達の特需

火事と喧嘩は江戸の華、というのはやけになって言っている訳じゃなく
本当にそう思っています。
どうも、それだけ大火が多い理由は、放火がかなりある
そろそろ火事が起きてくれないと商売上がったり、的な感覚。

家の材料は全て木材ですから
紀伊国屋文左衛門とかの大富豪は木材商です。

深川の地は、海に近く木材を各地から運び入れて貯木しておくのに格好の場所。

猿江御材木蔵はそんな貯木場です。

跡地の碑です

江戸のウォーキングやっていると、
まとまった土地に庭園があったりすると
ここは何藩の武家屋敷だったんだろうと考えるのが習慣になっている。

以前、同じく深川の木場公園に行ったとき、あまりの広大さにビックリして
いったい全体、こんな広大な土地って何藩?って調べたら
武家屋敷じゃなく、貯木場だった

なるほど!
墨田川より東側は、広大な土地は貯木場なのね

ということで、ここにも広大な公園
猿江恩賜公園です。




貯木池の名残の池

当時は、広大な公園の全部とさらにその周辺の至るところにこういった池があって
角材がびっしり浮かんでいて
角乗りとかしてたんだろうなあ。

縦横直角に運河が張り巡らされ
江戸中心地に材木を運ぶ。

横の大きいのが、横大川、横十間川、
縦が、小名木川、竪川

墨田川より東は道路が広くて全部直角なのはその名残でしょう。

鎧(よろい)の渡し
あと2つかあ

欲が出ました。
調べて見ると、半蔵門線で、住吉から水天宮前までたったの2駅

行けぇっ

水天宮から、鎧橋へ


鎧橋が出来る前は、鎧の渡しだった

なぜ鎧なのかというと
源頼義が東北遠征へ行く際、この地で暴風雨に遭い、
この淵に鎧を沈めて龍神に祈ったところ、
風雨が止んで川を渡ることができたから。

この辺りを「鎧が淵」と呼ぶようになり、
ここにできた渡し場は「鎧の渡し」

ここからすぐのところに兜神社があります。
行ってみましょう。

兜神社

境内に安置されている兜岩は、
前九年の役(1050年)に源義家が東征のみぎり
この岩に願を懸けて戦勝を祈願した
これかな

この辺りの地名、兜町の地名の由来です。

兜だったり鎧だったりややこしいですね。

確か、平将門も関係しているはず

平将門の兜もやっぱりここのようです。
となると、平将門の鎧は鎧の渡しの場所?
と思ったんですが
残念!
新宿の方にある鎧神社です。

さあ、これで、新江戸百景巡りもリーチがかかりました。

志村一里塚を残すのみです。

おでかけマップ