家康7、お返しの京都見物。えっその時?

家康6、武田崩れたり!富士山見たい
の続きです。

京都へ
富士山観光での最高の接待に感激しきり

何としてもお返しをしたい

ぜひ京都へおいで下され

家康が浜松を出発したのが、5月11日

超多忙の信長
まずは、自慢の家臣たちに最高の接待をさせ
その後に自分自身が。

心を傾け、金銀を惜しまずに接待せよ。

徳川がどうのというより
最高の接待をしないと、信長は怒り狂うだろう。
何せ、富士山観光の時に家康がやったことを何度も聞かされている。

徳川に通ってもらう道は、
どうだっ、てくらいに競いあって普請した。
家康の草履は、各土地の大名自らが取って接待

5/14、近江に入る
ここは、丹羽長秀。織田五人衆の一人
家康のための宿を急こしらえで用意し
長秀本人が出迎え。

痛みいります。痛みいります。

自分がやったことの裏返しとはいえ
毎度毎度、こちらも気を使って休まることがない
五人衆ともなると、自分よりも格上なので、機嫌を損ねると大変な事になる

接待される側も大変

こういう接待って秀吉が得意そうだけど
秀吉はちょうど一番大事な毛利攻めの真っ最中

となると、次はこの人

明智光秀です。

次に入った安土城下の大宝坊という寺で待っていた。
光秀は、その前の大仕事がちょうど終えたばかりなので、時間がある

自分の財力の全てを使い果たしてでも
今回の接待の中心は私だ!

この超大物にそこまで気合いを入れられると、家康も逆の気遣いで精魂尽き果てます。

こりゃ参った、と思って三日が過ぎたとき、異変が起きます。

秀吉から連絡が入ったのです。

いよいよ、毛利本軍が出て来そうです。
信長様に応援ととどめをお願い致したい。

こういうところ、秀吉はぬかりがなく、最後の功は、自分ではなく御大将に譲る。

あい分かった。

ただ、タイミングが悪い。
いよいよ、次は自分が接待と、準備万端整えて待っている。

時間稼ぎという訳ではないけれど
まずは先発隊を行かせよう。

ということで、明智光秀に連絡を入れた。

それがし、にわかに主命があり

丁寧に家康に断った。

光秀、大急ぎで準備
かつてないほどの大軍。

急に家康の接待役がいなくなった。
一旦ぽっかり空いたところ、誰に接待させるか

答えは自分

そのあとに自ら接待の予定があったのだが
それにプラスして、この中継ぎも自分でやった。

上方能を見せるために、幸若梅若の両太夫を呼んで舞わせる。
家康、そして家康家臣の石川和正、酒井忠次の元に、自ら膳を運ぶ。
信長、とびきり上機嫌

明日は京をご案内いたしますぞ。

5/21から、京を案内したのは、かつて家康に接待役指南として貸した、長谷川秀一
趣味ごとだと、この人に任せれば絶対に間違いはありません。

そして、5/29から堺見物

6/1、光秀は大軍を率い、丹波亀山城を後にした。

6/2、堺見物は一旦お休み。一日自由行動
こんな時、ぼおっと寝ている家康ではない。
一旦京にのぼり、本能寺に泊まっているはずの信長にお礼を言いに行こう。

朝早くに、一行は堺を発った。

ただ

既にこの時、信長はこの世にいなかった。

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テンダイウヤク

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[大奥]大奥では~

新しく始めた大奥シリーズ

1代将軍、家康時代の築山殿
2代将軍、秀忠時代のお江
と来ました

3代将軍、家光となると、超大物、乳母の春日局(かすがのつぼね)ですね
現代でも、お局様という言葉が残っているくらいです。
大原麗子、綺麗でした。

春日局が大奥という仕組みを作りました。

春日局本人に入る前に、そもそも大奥ってどういうところなのか
興味は尽きません。
基礎知識編と参りましょう。

岸田今日子風に「大奥では~」
はじまりはじまり。

大奥
大奥内の事は極秘です。
絶対に外に漏らしてはいけません。
退職したものも同様で、最初に誓約書を入れ
例え親に対してでも内情しゃべるべからずということになっています。
そうなると、あることないこと、色んな話が行き交うことになるんですね。

Q.退職ってどういう時になるの?
A.基本的に30歳くらいになると、もう退職です。
まだ若いのにね。
でも、江戸時代の感覚ではそうでもないようです。
退職しても、江戸城の大奥にいたとなると超エリートなので、そのあとの人生は
お師匠さん的な事で引く手あまただったようです。

ただ、将軍のお手付きになったものは、一生外には出られません。
子供を産んだかどうかに限らずです。

また、将軍が崩御した場合、お付きの者たちは、原則全員解雇なんですが
さすがに総入れ替えだと、色んな事を知っている人がいなくなるので
仕事の出来る人は結構残ったようです。

Q.大奥って将軍以外は本当に入れないの
A.御広敷という場所が大奥の中にあって、そこには、男性がいます。

その例外ですが、将軍だけではありません。
御三家、御三卿も、将軍の息子で、他家に養子に行ったもの
9歳以下の子供
御広敷関係の人、医師、小普請頭、台所頭もOK

思ったよりは、ゆるめかも知れません。

一番厳格なのが、長局(ながのつぼね)という場所
奥女中たちが寝る場所です。
小さな部屋が、ずらずらずらっと並んでいます。

ここに唯一入ることが許されているのは、奥女中が重病だったときの、医師のみです。
それも、必ず監視役が付きます。

一旦これくらいで、続きは、次の機会にいたしましょう

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バショウ

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神田上水物語。主人公は3人

今度、神田上水を辿る、というウォーキングイベントをやります。
下見の様子はこちら
神田上水を辿って

本屋でチラチラ本を立ち読みしておりまして
「家康、江戸を建てる」という時代小説が目に止まりました。
門井慶喜さん。慶喜というペンネーム自体、徳川好きが滲み出ております。

4章立てで、第一章が利根川東遷
おおっ
第三章が神田上水
おおおっ

これは読むしかありませんな

神田上水
びっくりしました。
認識が違っておりました。

大久保藤五郎は知っていましたが、全て大久保藤五郎がやったものと思っていました。
担当したのは三人、それぞれが協力しあいながらだったんですね。
もちろん、小説なので多分に演出は入っていましょうが
信用する前提で話を進めて参ります。

大久保藤五郎
内田六次郎
春日与右衛門

小説として実に良くできていて
喜怒哀楽の激しい藤五郎、お調子者の六次郎
この二人、口喧嘩しあいながらも、同じ目的に向かう仲間として本当は仲良いんだろうなと思わせる
春日与右衛門は、専門家で断トツの切れ者だけど
二人を馬鹿にすることなく、功労者として気遣う優しさがとても泣かせます。

大久保藤五郎
三河時代からの、家康の家臣
他の三河武士同様、この身を投げ売っても、家康のために、と思っています。
三河時代に、戦で負傷し、下半身が不自由です。

おぬしは菓子作りが上手じゃな

あ、ありがたきお言葉

その上手で江戸の民々に水を飲ませてやってほしい。

秀吉から関八州への国替えを命じられて程なくのこと

江戸はとても人が住めるような場所ではなかった
下町はビチャビチャ、山の手はカラカラ
下町は飲み水がありそうに思うが、満潮で海水が奥まで入り込むから
飲み水が有るわけではない。

言われている意味が理解できた藤五郎
その大仕事を自分に与えてくれたことに感激し、既に泣き出している。

体が不自由になった今、武で功をなす事は無理
菓子司という菓子を作る役職に就いた。
自分でも意外だったが、菓子作りという仕事にとても向いていた。
天職かと思えた。
極意とも言うべきことが分かった
それは、水だった。
水の良し悪しで菓子は決まる。

そうか、殿はワシの仕事を奥底まで理解してくれていたのか
この仕事、ワシにしか出来まい。

殿、お願いがございます。

ほお、なんじゃ

このお役目、拙者ひとりにお任せくだされ。
未来永劫、余人にはお命じあられぬよう

大いによし

震えるような、飛び上がるような

まだ信じられない。
この、どこまで続いているか分からない荒れ野原を
自分の手で人が住める大地に変えるのだ。

水を求めて
いてもたってもおられず、
馬に乗り、かごに乗り
方々に出掛けた。

うまい水のありかを知らぬか

言われたところ全て行っては見たが
ことごとく期待は砕かれた
江戸の民たちは、このような不味い水を、うまいと飲んでいるのか

苛立ちはつのるばかり

鷹狩り
家康は、最大の趣味、鷹狩りのために、あちこちに出掛けた

武蔵野の原野が多かった。
後に「三鷹」の呼ばれる土地もその一つ

一通り楽しんだあと

在の者を呼べ

連れてこられたのは、40代半ばの、薄汚い百姓

へえ、殿さん、なんだべか

このあたりで、良い湧き水は知らぬか

このわしを誰だと思うとる。そんなものはおやすい御用
付いてきな。

森の中にあった。
泉。
というより湖に近かった。
澄みきった水、
流入も流出もありそうにない。

全て地下水なのか

わしらは、七井の池っち呼んじょる

(後に「井の頭」と呼ばれることになります)

口に含んで飲み干した。
これだっ

おぬし、よう、よう、ここに案内してくれた。
ええと

わしゃ、六次郎じゃ

六次郎とやら
おぬしは今日から、普請役(ふしんやく)じゃ

??

この水を江戸のすみずみへ配分する、その上水の普請を命じる。
役人じゃぞ

役人という言葉は分かった
百姓にとって、とても輝かしい言葉

へへーっ

初めて、ひれ伏した。

神田
そうとは知らない藤五郎

ようやく、ようやく探し当てた
神田の土地に、こんこんとわき出る清水

藤五郎の肥えた下にも十分であった
次から次から、涌き出る様子は、枯れることも無さそうだ

早速、水を持って、家康の元へ

おおっ
見事じゃ
よくぞ見つけた。大手柄じゃ
この水を、江戸中に行き渡らせるのじゃ

今日から、お前に主水の役を授けよう。
古代からの、水を司る役割ぞ
いや、主水(もんど)と濁ってはいかん
藤五郎は、「もんと」じゃ

もちろん悪気はありません。
大いによし、と約束したのを忘れているだけ

さあ、どうなりますでしょう
この続きは、シリーズの次回でね

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スイセン

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[昭和歌謡]68 襟裳岬

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

襟裳岬
森進一
作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎
(1973年)

♪北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由のわからないことで 悩んでいるうち
老いぼれてしまうから
黙りとおした 歳月を
ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です

嬉しかったなあ
岡本おさみと吉田拓郎のコンビです。
「旅の宿」
♪浴衣の君はすすきのかんざし
「祭りのあと」
♪祭りのあとの淋しさが
いやでもやってくるのなら
祭りのあとの淋しさは
たとえば女でまぎらわし
もう帰ろう、もう帰ってしまおう
寝静まった街を抜けて
人を怨むも恥ずかしく
人をほめるも恥ずかしく
なんのために憎むのか
なんの怨みで憎むのか
もう眠ろう、もう眠ってしまおう
臥待月の出るまでは
「落陽」
♪みやげにもらったサイコロふたつ
手の中でふれば
また振り出しに戻る旅に 陽が沈んでゆく

こんな歌詞を書ける人がいるのかと仰天した。
何度も繰り返し歌った。
もちろん、あの独特な歌詞を歌詞とも思わない拓郎の曲があってのこと。

そして

森進一?
あの森進一か

ああ
森進一史上、最高の森進一だ
しかも明らかに拓郎だ
レコード大賞?

これはひょっとしてこういう事ではなかろうか
吉田拓郎がレコード大賞

襟裳の春は何もない春です。

実際に岡本おさみが襟裳岬を訪れた時
何もないけどお茶でも、と、とても温かいもてなしをしてくれた。
感謝のお返しの歌詞
最高の歌詞です。

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ジャノメエリカ

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