[足利将軍]8-2 義政。応仁の乱の始まり

[足利将軍]8 義政。頑張る気持ちはあるんだけど
の続きです

応仁の乱

まずは、畠山氏の家督争いが起こる
畠山持国は、弟の持豊に家督を譲るつもりだったんだけど
気が変わって、息子の義就(よしひろ)に譲った
将軍の足利義政も、はい分かりました。良いですよ

持豊自身は、しゃあないなあ、と諦めたんだけど、持豊の取り巻きたちが納得しない
持豊の息子、弥三郎を立てて、争いを仕掛ける

畠山持国の長年のライバルだった細川勝元に応援を依頼
細川勝元は、畠山持国の勢力を削ぐ良いチャンスとばかり、快諾
さらに、次なる実力者、山名宗全(持豊)も弥三郎側に付く
面白いですね。山名宗全は最初、細川勝元と同じ側
そうなると圧勝。
義就は京都を脱出、お父さんの畠山持国も引退表明

はい、一件落着

のようですが、将軍義政としてはモヤモヤ
義就でOKって言ったのに。
政長の家督相続は認めるも、弥三郎派の人物を処分

何それ
頭に来たのは細川勝元。
管領をやめると言い出した

ごめんごめん。そう言わずに
なんとか慰留

気持ちがおさまらない将軍義政は、山名宗全が悪い、と言い出した。
討伐命令が出るも、細川勝元のとりなしで撤回
山名宗全は、やってらんない、と京都を離れ、国に帰っちゃった

山名宗全が京都からいなくなると、
義政、ビックリするようなことをします

畠山義就に声をかけ
戻っておいで

弥三郎は追い出され、落ちのびたまま亡くなりますが
弥三郎派は、その弟の弥二郎を擁立。後の政長です

またまたビックリ
将軍義政は、畠山義就がちょっと気に入らない行動を取ると
今度は、畠山政長を家督と認めると発表

コロッコロ
意味分からん

義政には、弟がいるが出家していた
義政が歳を取ってきて、男の子がみんな早くして亡くなったので
弟に還俗(げんぞく)させ、跡継ぎにと考えた
義視(よしみ)です
ところが次に生まれた男の子が元気に育っていった
後の義尚(よしひさ)です

この時期、3つの勢力があった
ひとつは伊勢貞親を中心とする将軍義政の側近
二つ目は山名宗全をリーダーとする集団
三つ目は細川勝元をリーダーとする集団

将軍義政は斯波(しば)氏の家督争いにも介入し、家督をすげ変えた

これに怒ったのが山名宗全
気まぐれだけで、火をつけ回るのは、将軍としてふさわしくない
義視の方が良いんじゃないか

山名宗全が戦の準備をするのを知って、呼応したのが、畠山義就

先手を打ったのは、将軍側近グループの伊勢貞親
義視が謀反を起こそうとしてますよ、と義政に告げ口

義政は義視討伐命令を出す

義視は元々自分の身が危ないと思っていたので
山名宗全と細川勝元に助けを求めます

山名宗全と細川勝元の二大勢力が味方につけば圧勝
義視を将軍に据える暫定政権が出来上がるはずでした

ところが、前言撤回!勘違い、と義政が言い出した
うそ言った伊勢貞親は処分するよ

山名宗全としては、義視を将軍にする気まんまんなので、そんな話には乗らなかったが
細川勝元が、義政擁護をし出した

伊勢貞親がいなくなるなら、3すくみの状況が崩れる
細川勝元としては、悪い話ではない

勝元さん話が違うよ

かくして、3大勢力状況が、2大勢力となります
山名宗全は、元々親戚であり、20年来の付き合いだった細川勝元との決別を決意します

長い長い応仁の乱の始まりです

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

相模原で四十九日

(3/3の事です)

長女が来ています。
孫の四十九日の納骨のため

長女とは色々話しました
もう、長女も気持ちは落ち着いて大丈夫
仕事にも復帰しています。

旦那様の家のお墓が相模原の市営の霊園にあります
そちらに入れていただけます

ちょっと遠いので、9時に車で出発

11時に着いたので、食事をしながら、旦那様との合流を待ちます
旦那様は仕事の関係で、今朝大阪を発ちました

峰山霊園という場所なのですが
GoogleMapでみると、すぐ近くに「勝坂遺跡」の文字

おおっ、あの勝坂遺跡はここなのか
縄文時代を調べると出てくる縄文式土器には色んなタイプがあって
その代表的な遺跡の名前が着いているんですが
勝坂式土器がその一つ

食事は古淵駅の駅前のコメダ珈琲だったんですが
席に案内されるまでに時間があったので
ちょっと遺跡見てくるわ
正直、勝坂遺跡と言っても、博物館があるわけではなく
公園に2つ竪穴式住居が再現してあるだけ
さっと写真だけ撮って帰って来るね

分かった
でも、ラインで連絡したら戻って来てよ

はい
出発

ところが、思ったより全然遠かった
確かに峰山霊園と勝坂遺跡は近いけど
古淵駅からはかなりある

うわあ、行けども行けどもなかなか着かない

峰山霊園を過ぎ、
ようやく、勝坂遺跡の公園の前
30分近くかかった

ピンコン
ラインが鳴った

すぐ戻って

うひょお
今せっかく着いたのに

結局何も見ないうちに戻りました
戻ると、旦那様が着いておりました
食事

暫し談笑後、出発
大丈夫。霊園までの道は下見済みだよ

峰山霊園
綺麗な霊園でした

管理棟の一室で、告別式の時のお坊さんが来てくれ
四十九日の法要
通常は四十九日の段階で閻魔大王の三途の川裁定を受け
地獄行きか極楽行きかが決まるけれど
浄土真宗なので、南無阿弥陀仏さえ言えば、四十九日を待たずして絶対に極楽浄土
助かりました
というのも、子供って親より先に亡くなったというだけで地獄行き
それも回避されます
念のため、先日真性寺の地蔵菩薩で頼んで来ました
地蔵菩薩は、そんな子供を救ってくれる仏様です

納骨
納骨に立ち会うのって私は生まれて初めてになります

骨壺をお墓の中に入れます
へえ、びっくり
墓石をごっそり横にどけて、と想像していましたが、違うんですね
墓石の前に蓋みたいなのがあり、そこを開ける

手前の小さいのが、孫の骨壺です
青いのは旦那様のお父さん、すなわち孫のおじいちゃん
息子の結婚式までは見れたのですが、孫は見れずに亡くなった
おじいちゃんにだっこしてもらえるね

本来なら初節句のお雛様
お花には桃の花も入れていただきました

赤ちゃんの場合はあめ玉を2つお櫃に入れるとお母さんのおっぱいだと思う、というのを
告別式の前にブログで教えていただいた
ミルキーを2つ入れました

それにちなみ、長女がミルキーの香りお線香というのを見つけてきました

ただ、大阪の部屋でそれを焚くとあまりにミルキーの香りが強烈なのでくらくらする

屋外だと大丈夫だろうと持ってきています
今日一箱丸々使いきる予定

おおっ、本当にミルキーだっ
あたり一面に甘い香りが充満
さぞや孫も喜んでいることでしょう

会食
その後、両家で近くのレストランに行き、会食
色んな話に花が咲き、とても楽しかった
親戚が増えるというのは良いもんですね

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[足利将軍]6-2 義教。恐怖政治の果てに

[足利将軍]6 義教。くじ引きで選ばれた将軍
の続きです

義教(よしのり)
将軍になってそうそう、正長の一揆というのが起きる
さらに、播磨の土一揆
求心力が低下していく

元々、大名たちに支えられての室町幕府
その中で、政治に無関係だった義教が、何とか地盤を築こうと試行錯誤

前半は、それなりに味方も作り、バランスを保ちつつ進んでいっていたのだが
関東の持氏との戦いあたりから変わってくる
本来、強気なのでバランスを保ちつつ、というのは性に合わない

大名たちに対して、圧倒的に優位に立ちたくて、大名たちの勢力を削ごうとする
大名内での家督争い等に積極的に介入し、内輪揉めの火に油を注ぐ
これが、後の応仁の乱に繋がっていく

さらに「恐怖政治」が始まる
何だかだと因縁をつけ、要職から外したり、殺したり

元々くじ引きでなった将軍
引け目があるなかで、何とか大名たちに溶け込もうとしていたのに
糸が切れちゃったのかも知れない

義教が主導する幕府政治に直接的にもっとも関与できたのは管領細川持之
そして侍所赤松満祐(あかまつみつすけ)

重臣は、管領(かんれい)と呼ばれる副総理的な役割の細川氏を中心とし
畠山、山名、斯波(しば)
次あたりに赤松氏

赤松満祐は侍所という重要な役職についていたので、義教を良く支えた
少なくとも前半は義教の最も頼りになる人物だったと言える

前回お話しした富士旅行の時は、不在の間京都を守るために京都に残る
その少し前、赤松満祐の領地である播磨に旅行し、手厚い饗応を受けている
正直、富士旅行のお供をするには大名の経済的負担は大きく
京都に残る赤松満祐に対しては、同様に経済的負担を負わなければ、他の大名とバランスが取れないということがあったのだろう

その対応もして、義教を支えてきた赤松満祐なのに
義教が満祐ではない赤松氏(赤松貞村等)に近づく動きを見せた

まさか、私にもか
裏切られた

永享13年2月17日、改元定が行われ、「嘉吉」と改元された
改元されて間もない、嘉吉元年6月24日
満祐の子息の赤松教康の屋敷で諸敵平定の賀宴が催されるということで、
室町殿義教は午後二時すぎ、教康のもとを訪れた

御相伴として管領細川持之、畠山持永、山名持豊、細川持常、大内持世、京極高数らの大名が在席した。
余興として猿楽三番が演じられ、盃酌も五献に進んだところで、義教の座席の後障子が開く

覚悟っ

甲冑を着た武者数十人が乱入し、義教を殺害
義教の近習である細川持春・山名熙貴はともに激しく渡り合ったが、持春は負傷し、熙貴は落命

赤松教康は屋敷に火をかけ、義教と熙貴の頸を剣にさして本拠の播磨へと下国
満祐は現場にこそいなかったが、赤松教康にすぐに合流した

家臣が将軍を殺害。嘉吉の乱と呼ばれる前代未聞の大事件
本能寺の変を連想するが
本能寺の変と違うのは、その後の大名たちの動き
当然即刻対応すべき、赤松征討に迅速に動く大名がいなかった

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紙でパンプキン爆弾を作りました

(12/23[土]~24[日]の事です)

パンプキン爆弾ついては何回か書いています
西東京市を巡るために
ちょこちょこっと名所巡り
西東京市のイベントの下見
西東京市のイベントの下見の続き

最初に西東京市の郷土資料室でその存在を知ってから、頭を離れません

原子爆弾投下の予行演習のために長崎の原爆と同じ大きさ重さのものを作って
全国49箇所に落とした

そのうちの一つが1/27にウォーキングイベントで行く西東京市のしじゅうから第二公園の場所に落とされた

何に一番驚いたかと言うと、その大きさ

ネットで写真を見ると
全国49ヶ所のうちのいくつかの場所で
大きさを実感してもらうため実物大の模型や絵を再現している
人の大きさと比較して、なんてでかいんだ

本やテレビなどで、原爆の写真とかを見ると
きのこ雲の写真とかが主で、爆弾そのものの大きさを実感出来ていなかった

自分でもその大きさを実感してみたい
ウォーキングイベントでも、みんなにその大きさを実感してほしい

そのためには、実物大の何らかのものを自分で作ってみること
模型までは難しいから、紙を張り合わせて
この大きさだ、ってのを作ってみよう

コピー用紙を張り合わせるのは気が遠くなるほどの作業の気がする
新聞紙を繋げるとしよう

色々調べて、縦が1.5m長さが3.5mであることまでは分かった

すごく大変な作業だったけどなんとか張り合わす事が出来た
部屋では到底広げられる大きさではなく
二つに折ってなんとか入るくらい。これは二つ折なので大きさはこの倍。

枠の線を書こうかな
マジックで書き初めて、ふと
パンプキン爆弾だからなあ
せめて枠線くらいは黄色く描きたい

100円ショップでポスターカラーを売っているかも、と
近くの一番大きなダイソーに出かけた

ポスターカラーは無かったので、次なる候補は、黄色いマスキングテープ
これでいけるかな
と、あれこれ見ていると
黄色の色模造紙を発見
2本入りが2つで必要量の半分だったけど
買ったらまた補充してくれるだろうと、とりあえず2本購入

一旦作業は中断し、あと二本の入荷待ち

次の週末見るが入荷なし
その次の週末も入荷なし
そして昨日
入荷なし
ありゃりゃ、まいったなあ

すみません、この色模造紙、黄色を二本欲しいんですけど
リクエストすれば仕入れてもらえるのでしょうか

お調べしますね
ああ、メーカーの方でも在庫なしですね

あちゃあ、そりゃ入荷ないはず
仕方ない。半分白でもよしとしよう

模造紙を張り合わせ、
目盛が付いているから図面の各線の長さをそれぞれ同じ倍率で計算し線を書いていく

今度は下半分
上半分に合わせ、裏からボールペンでなぞってから裏返し
今度は表をマーカーでなぞっていく
よっしゃ上下対象

表にしたり裏に返したりしながら上下を張り合わせていく

こんなに大きいのか
作業が進むにつれ、つくづく実感していく
確かに、誰かが作った模型でも、横に人が写っていれば大きさは分かるんだけど
分かるというのと、実感するというのはやっぱり違う

ほんとかよ
ほんとにこんなどでかいものをアメリカは作ったのか

大きな問題
イベントで持っていって、と考えたけど
これ、持っていけると思えない

見ていた次女が
持っていけないんじゃないの?なんで続けてんの?

今さらやめられないしな

完成

部屋では広げられない
ある程度だけ広げて、娘に写真を撮ってもらう

娘にも手伝ってもらって折り畳み
なんとか、リュックにおさまるサイズになった

武蔵野公園
あくる日の日曜日
娘が免許の書き換えということで、府中の運転免許試験場まで送迎
書き換えが終わったので、娘と試験場の隣の武蔵野公園に行きましょう

目的は、パンプキン爆弾を広げて、いよいよ大きさを本当に実感したい

公園に爆弾を持ち込んだとあっては、通報されます
人がいないところに行きましょう

まずは地面に広げました

これでは大きさは分かりません

片方を木の枝から洗濯ばさみではさんで
さあ、広げたぞ
娘が撮影

大成功

改めて、やっぱりでかいなあ

追加情報
パンプキン爆弾で前回の説明以降に調べて分かった事を書きます

先ほど、長崎の原爆と同じ大きさ重さと書きました
初めて知ったのですが、
広島の原爆と長崎の原爆って同じものじゃない
広島はウラン型で長崎はプルトニウム型
どちらもウランを元にしているけどプルトニウムの方は、中性子をどのこうのと書いてありました
プルトニウムの方は、比較的安価に作れるが大きさとしては大きくなるらしい
広島の方は、リトルボーイと呼ばれ、長崎の方はファットマン(太っちょ)と呼ばれていた

パンプキン爆弾が長崎型と同じ大きさ重さで作られ49個も落とされたということは
広島型、長崎型両方落とすが、3つ目以降は長崎型を落とすつもりだったと思われます

実は、原子爆弾の原理は日本でも研究されていた
実際に作ろうとしたのだが、原料も資金も足りなかった
アメリカも原理は理解していることも分かっていたが
どうせ作れっこないだろうと、日本は製造をしなかった

途中で、アメリカは作るのではとの情報があり
どれくらい作れそうか調査を依頼
上がって来た調査報告書には500個作れるだろうとあり
あまりの数に驚愕
上に報告できないと揉み消した

西東京市に落とされたパンプキン爆弾は7/29だが
もう少し前の7/20に郡山に落とすつもりで出発
郡山に行くと、曇っていたので、機長が独断で計画を変更
東京に向かい、皇居に投下
天皇の殺害を目論んだ
結果、それて現東京駅の八重洲口のすぐ隣、外堀の中に落下
一人が死亡している
その時は日本に降伏を迫っている時期なので、アメリカは皇居への爆撃を禁止している
機長は命令違反をした訳なので、その後任務を外されている

ポツダム宣言提示が7/20
パンプキン爆弾は7/20以降。例えば西東京市は7/29
広島の原爆が8/6
長崎の原爆が8/9
ポツダム宣言受諾が8/15

もう少し受諾の判断が早ければ、と返す返すも思う

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