[勝海舟] 明治の勝海舟

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望
[勝海舟] 西郷隆盛や坂本龍馬との出会い
[勝海舟] 海舟は千両箱なり
[勝海舟] 江戸城無血開城。江戸焦土作戦
の続きです

明治になって
江戸城無血開城という大仕事を終え、明治になる
上野戦争や戊辰戦争は続くが、勝海舟は加担していない
徳川家は田安家の家逹(いえさと)が家督を継ぐ
駿府藩主、その後静岡藩知事になる

海舟は家逹に仕え、静岡に行く
15代将軍慶喜は水戸で謹慎したあと、静岡に移っている

静岡にいる間も何かと呼び出され、度々東京に出向いている

明治4年、廃藩置県
家逹は静岡藩知事でもなくなり、海舟や慶喜と共に東京に戻っている

その後、家逹は天璋院篤姫に養育されている

私は明治になってからの勝海舟が一番好き
性格がよくあらわれている人生だと思う

海舟は、新政府の要請を受け、様々な要職につく
新政府は度量が大きいと言いますか
幕臣を起用しています
本来ならば敵な訳で、起用するのは変なんですが
榎本武揚、勝海舟、渋沢栄一、徳川家逹も

海舟もおさまりが悪かったんでしょう
どんな職についてもすぐに辞めちゃっています
就いている間も特に何をするわけでもなく、めくら判を押すばかり

では、明治における海舟は、意味を持っていなかったかというと、そうではない
一言でいうと「なだめ役」

新政府はかなり強硬に改革を進めていったから
もっと暴動が起きそうなもんだけど
そこそこで済んだのは海舟の存在が大きい

最終的に幕府の代表を務めたのが海舟だったから
新政府に不満を持つものは、たびたび海舟の元へ伺う
そのたびに、特有の性格と江戸弁でのらりくらりといなす

なだめ、が効かなかったのがひとつ
江戸城無血開城交渉で心が通じ合った仲の西郷隆盛
結局西南戦争に走ってしまった事に

新政府はあなたが代表者だったじゃない
なんで、そうなるの

残りの人生の多くを「名誉回復」に費やす

西郷隆盛
そして
徳川慶喜

自分の事より、誰かのために

上野に西郷隆盛の銅像が立ち
徳川慶喜は、「徳川慶喜家」の創設を許され、寛永寺の敷地に墓を立てることもできた

洗足軒
田町での江戸城無血開城交渉のあと、さらに具体的な交渉のために
池上本門寺に向かうとき
危険な目に会い、逃れたのが洗足池

その時に目にした洗足池の風景がとても気に入る
後に、洗足池のほとりに土地を買い
洗足軒と名付けて移り住む

晩年は、気の会う仲間たちと、和歌を詠んだり、魚釣りをしたり
せがまれて撮った写真

77歳で他界
慕う人たちが、行列をなした

洗足軒があった場所のすぐ近くに、自らデザインした墓が立っている

さらにその近くに、西郷隆盛を讃える碑が立っている

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[岩宿] 相沢忠洋というひと

「岩宿」の発見という本を読みました
相沢忠洋(あいざわただひろ)さんの書いた本です

実は読んだのは半年近く前、家の近くの鈴木遺跡に行った少し後
鈴木遺跡。都内最大級でびっくり

鈴木遺跡は縄文時代よりさらに前の旧石器時代の遺跡

学芸員のおじさんが説明してくれる中で、相沢忠洋の名前が出た

知ってます知ってます、相沢忠洋、ひろは太平洋の洋ですよね
歴史検定2級の勉強の時に一生懸命覚えたその名前を言いたかった

相沢忠洋という名前
歴史検定の前は全く知らなかった
旧石器時代に興味のある人以外は、あまり馴染みがないと思います

でも、こんな偉大な人は二人といない
それまでなかった「歴史を作った」人

縄文時代から令和に至るまで、〇〇時代が色々あるわけですが
相沢忠洋が岩宿を発見するまで
縄文時代より前には、日本では「時代」は無かったんです

1949年、戦後の吉田茂内閣の時、相沢忠洋が岩宿遺跡を発見
突如、日本に、縄文時代より前の「旧石器時代」というものが現れた
そんな昔の話じゃない

世界的には、土器がまだ作られない「旧石器時代」があることは分かっていたのですが
日本では、その時代の石器がただの一つも発見されていなかった

日本は縄文時代以前に、人は住んでなかったのかもね
島国だからあり得るよね
くらいの感じ

遺跡の発掘調査をするときも、
関東ローム層のような、縄文時代より前の地層にぶち当たった段階で
どうせこの先掘っても何も出ないから、と
掘るのをやめていた

岩宿の発見以降、えっ日本にも旧石器時代があるんだ、ってことで
あちこちで掘ってみたところ、
出るわ出るわ
今では全国におびただしい数の旧石器時代の遺跡が存在します

相沢忠洋

そんなものすごい発見を成し遂げた相沢忠洋というひと
さぞや立派な学者さんなんだろうと思いきや
学者さんではない

ばくっと言うと、愛好家
あまりに、人生そのものを遺跡にかけているので、愛好家というには抵抗があるんですが
学者さんとかの遺跡研究を職業にしている人ではない

鈴木遺跡がとっても面白かったから、石器のことを知りたいと思って、Amazonで本を検索
相沢忠洋さんが自ら書いた、「岩宿」の発見という本があることを知り
早速注文
本人が書いたくらいだから、さぞ詳しく解説してくれているだろうと期待

ところが、読んでみると、石器の解説は皆無
相沢忠洋さんの自伝だと理解
とはいえ、学者でもないのに、大偉業を達成した訳だから
面白い人生なんだろうな、と思いつつ読み進める

偉人の自伝にありがちな自慢話は覚悟していたんだけど、一切無かった
なかなか表現が難しいんですが
この本の読後感に今も引っ張られている感じがする

こんなに頑張ったんですよ、的なのがチラチラすると
読む側は、お前はそうかも知れないけど、一般庶民には無理なんだよ
って印象が出るもんですけど
全く違った印象だった

なんでこんなに哀しいんだろう

納豆の行商の話から始まる
お得意先のお宅を回り、納豆を買っていただく
昔は苦労したんだな
大丈夫、もうすぐ大成功が待っているよ
そう思いつつ読み進める

文章がうまく、詩的なので読み物として面白い

えっ、どういうこと?

「それはそうと、納豆屋さんはどうして、そんなに古いことが好きになって、熱をあげるようになったんですか」

「えれえもんさ。20年以上もひとつことをやるということは、容易じゃねえからな。なんて悪口を言われても平気、こうやって話している今でも、始めてきたときとちっとも変わっちゃいねえ。人間はなかなかできるもんじゃねえんだ」

ま、まさか
この納豆の行商って
岩宿遺跡の発見の、さらに後の話なの?

数回に渡って、シリーズとして「岩宿」の発見、の本から
相沢忠洋さんのなんとも表現しがたい人生を紹介していこうと思います。

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[勝海舟] 西郷隆盛や坂本龍馬との出会い

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望
の続きです

咸臨丸でアメリカにいる間に、日本で大事件がおきます
桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺される
さらに時代が大きく動いていきます。

39歳で、今度は江戸の講武所で砲術の師範役
40歳で、軍艦奉行と着実に出世していく中で
有名な坂本龍馬との出会いがあります

坂本龍馬が勝海舟を殺そうとして邸宅を訪れたが
その人柄に惚れ込んでしまい、逆に弟子になる
色んな歴史ドラマで面白く描かれる場面です

将軍の家茂(いえもち)に軍艦操練所というのを作りたいんですけど、と提案し許可を得る

翌年神戸に開設

坂本君、君も軍艦操練所に来ないか

はい、師匠

勝海舟が42歳の時です
この年、西郷隆盛と大阪で対面、お互いを認めあっています
この事があったので、後の江戸城無血開城会談にも影響したのだと思います

ところが、軍艦操練所のメンバーが問題を起こします
尊皇攘夷が吹き荒れているのでみんな血気盛ん

海舟も良からぬ事を考えているのではないかと疑われ
神戸の軍艦操練所が閉鎖になってしまいます

仕方なく、海舟は江戸に戻ります

一方の坂本龍馬はここから行動を別にすることになります

海舟は、あくまで幕府の人間

坂本龍馬は弟子である認識はあるものの
結果として幕府に弓を引くことになる、薩摩と長州の薩長同盟をまとめあげている
皮肉なものです

海舟は江戸にいるのでその事を知らない

第二次長州戦争が起こり、幕府は長州征伐しようとするが、大敗を決する
協力してくれるはずだった、薩摩が(なぜか)動かなかった

幕府で停戦交渉役をおおせつかったのが、勝海舟で停戦交渉をまとめる

結局のところ、勝海舟は軍艦奉行という勇ましい役職ではあるものの
自分から戦争を仕掛けようとは一切していない

敵を作る性格ではない
少なくとも、薩摩や長州を敵だとは考えていない

このあと、大詰めの幕末をむかえるが
なぜ、勝海舟が幕府側の「代表」という立場になり得たかというと
この「考え方」によるものだと思う

その大詰めは、シリーズの次回
[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
の続きです

嘉永6(1853)年、ペリー来航です
幕末の多くの志士たちもそうですが、ここから勝海舟の人生が大きく動きます
31歳の時です。

衝撃を受けた海舟は、「海防意見書」を
幕府と水戸藩に一通ずつ送った

その内容がかなり良かったのでしょう
以降、蘭書の翻訳をさせてもらうようになり
長崎に、海軍伝習所という大型船の訓練学校を作る時
幹部候補生としてお声がかかる

初代講師はペルスライケン

2代目には、ヤパン号という船にのって、カッテンディーケがやって来る

ヤパンというのはジャパンと同じなので「日本号」という意味
幕府が10億円でオランダに発注して納品された
後に咸臨丸(かんりんまる)と名を変える

33歳から37歳までの4年間、みっちり技術を習得
その時の海舟のノート
難しそうな内容が、オランダ語でノート取ってるんです

その間、日米修好通商条約が締結されます
アメリカで条約を批准するため、ポーハタン号でアメリカ人たちが帰る
新見正興が日本側の正使として同乗

それだけでも良かったのですが
もう一隻、随伴船として付いていっても良いでしょうか

まあ、良いけど

ありがとうございます

さあ、咸臨丸がいよいよ外洋に出て実践で試せます

艦長、勝海舟
技術アドバイザー ブルック大尉
日本人としては福沢諭吉やジョン万次郎も乗り込みます

この船の中の事が勝海舟記念館で映像で流れるんですが、かなり感動的です

出発前、勝海舟が病気になってしまう
普通なら諦めるほどの発熱

ただ、この日のためにずっと訓練してきた訳です
船の上で死ぬなら本望
無理を押して乗り込みます

海は大荒れになった
木の葉のごとく上へ下への咸臨丸
日本人たちは例外なく船酔いでなすすべなし

元々病気の勝海舟は船酔いが重なり、ベッドから起き上がる事すらできません

船はブルック大尉を中心としたアメリカ人たちが操縦しているのみ

せっかくの実践訓練なのに全く意味をなしていない
ブルック大尉が勝海舟のベッド脇に来た

私に全権を委任して欲しい

状況から当然なのは分かる
ただ、
艦長の誇り
日本人としての思い
今までの苦労

捨てよう
そんなものは、自分だけのちっぽけなこだわり

日本人乗組員が経験できる貴重な時間を最大限に活かさねば

よろしくお願いします

後にブルック大尉は、その後の日本人たちの働きを絶賛している

サンフランシスコに着いたあとは海舟も体調回復
積極的に見て回り驚きの日々
蒸気機関のお土産

面白いのがサンフランシスコで撮ってもらった写真

頬のあたりがほんのり赤く塗られているの分かります?
海舟自身が塗ったらしいです
お茶目!

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