[岩宿]10 出たぞ、出たぞっ

[岩宿] 相沢忠洋というひと
[岩宿] 一家団らん
[岩宿]3 少年の孤独
[岩宿]4 戦争とおばさん
[岩宿]5 さよなら
[岩宿]6 赤土の壁でみつけたもの
[岩宿]7 趣味から学問へ
[岩宿]8 研究所の設立
[岩宿]9 ついに定形石器発見
の続きです
岩宿シリーズは最終回になります

杉原先生
杉原先生は考古学界では押しも押されもせぬ第一人者
そんな大先生に会えるなんて
登呂遺跡の話を生で聞けるのだろうか

お会いすると緊張のあまり頭の中が真っ白
先生が芹沢先生から受け取った封筒を取り出す
赤土の壁の資料
そうだった。完璧に忘れていた

杉原先生が一つ一つについて細かい点を見ながら、
それが人工物なのか自分の見解を話していく

ともかく現場を見たいと思います
明日明後日は会議があるので、その会議が終わってから

まさかの展開
2日間仕事をしながら待つが、興奮のしっぱなし
えらいことになった
桐生へ来ていただけるなんて

発掘
杉原先生一行は6名
現場へ着くや否や、説明を聞くまでもなく
赤土の壁に吸い寄せられる
先生は愛用の小型スコップで少しずつ削っていく

一同、ただ無言になる
なかなか何も出てこない

小さな石剥片が出てきた
一同、勢い込む

昼近くまでに小さな石剥片がいくつか

この分ならきっと石器が出る
今度は完全な石器を見つけろよ

4時少し過ぎて、小雨がぱらつき出した頃だった

突然、杉原先生が
「出たぞ、出たぞっ」

小型スコップを捨て、素手でなぞっていく
みんな一斉に走り寄った

みずみずしい青色の石
指で少しずつ、周りの土を払いのける
だんだん大きく現れてきて、卵形の形を見せてきた
やがて、コロッと先生の手で掘り出された
指で泥を払いのけると、
完全な立派な石器であった

しばらくなでまわす
手は震えていた

順番にかわるがわる手にし
ずっしりと重い石器の肌触りを確かめた

私は
間違っていなかったんだ

大きな反響
新聞の報道
学会にも大きな波紋を呼んだ

赤土の壁には「岩宿遺跡」と名前がついた

それまで遺跡の発掘では、関東ローム層の赤土が出てくれば
地盤が出たとかいって、発掘をやめていた
考古学の常識
関東ローム層の時代は今から1万年前から3~4万年前
毎日毎日地上に火山灰が降り積もり、人類はおろか動物も住むことができないと考えられていた
考古学の常識

その常識がまるっきりひっくり返った

学者でもなく、小学生さえまともに出ていない
23歳の青年
相沢忠洋

孤独な少年の夢から始まった
家族団らんが欲しかった
憧れへの旅だった

ずいぶん時が流れた
昭和36年
父が脳血栓で床に伏した

忠洋は群馬県で最高という「県功労章」をもらった
大きな賞状と銀盃を手に持たせる

「良かったなあ。お前やみんなに苦労をかけてすまなかった」
痩せ細った手で、銀盃をなでさする
長い間吹き続けてきた笛の芸をつかさどる男の手だった
この言葉が親子で交わす最後の言葉になった

昭和39年の大晦日
母が危篤という知らせが入った
翌、元日、母の元に急ぐ

母は顔を見るなりぼろぼろ涙を流した
もう母自身の手ではぬぐえない病状だった
松が開けたころ、母はこの世を去った

父には男として、母には女として、それぞれの道があったのだと思った

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[岩宿]9 ついに定形石器発見

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[岩宿]8 研究所の設立
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ある社長のお誘い
研究所の設立後、2年ほどの実績の中で、どういう地層年代でどういう土器石器があるのかが
だいぶ整理できて来ていた
笠懸村の赤土の壁の石剥片はどことも一致しない独特のもの

ある会社の社長さんが訪ねてきた
うちに所属してうちの商品を販売して欲しい
遺跡歩きの時は自由に休んでいい
生活の安定は必要なんじゃないか

研究所を設立したと言っても収入があるわけではなく
相変わらず、自分の食いぶちは行商に頼っていた

熟慮の末、お世話になることにした

ついに
また笠懸村の赤土の壁に出かける
いつものように端から丁寧に観察しながら歩く

あっ

ついに見つけた
定形石器

今まで見つけていたのは石剥片
とうとう、完全な形の人間が作った石器を見つけた
二年あまり、探し続けてきた
いまだ土器を出土されていない、赤土(関東ローム層)の中に
人間が暮らしていた痕跡

しかも黒曜石
今でいうとダイヤモンドにも匹敵するであろう石を手に入れ
生活の利器として使用していたのだ

石剥片の発見で、ひょっとして、という疑問
その謎に対する回答のごときもの

大変なことになった
今までの考古学の常識をひっくり返すことになる

話すべきか
話さねばならない
でも、誰にどういう風に

芹沢先生
江坂先生のお宅にうかがっているとき、芹沢先生がちょうどおられた
話がずいぶん弾む

赤土の壁について、喉まで出かかったが、話せない
江坂先生は、おそらく今ライバル関係になってしまっているグループと繋がりがある

申し訳ないと思いつつ、江坂先生が席をはずされたとき
ちょっとだけ、石剥片について話を出してみた

後日、葉書が届く
差し支えなければ拝見させていただけませんか

芹沢先生の青山のお宅にうかがう

外国の雑誌と丁寧に見比べながら
「これはすごい、うりふたつだ」

たいへんなことだ
これが、日本の、関東の中に存在するということ
そして、関東ローム層の中に土器を伴わずに存在するということ

話は尽きず、やっと終電に間に合って帰宅

また、芹沢先生から葉書が届いた
登呂遺跡から杉原先生が帰ってこられるので、明大の研究室に来てくれないか

杉原先生と言えば、大先生中の大先生
登呂遺跡の責任者
そんな大先生にお目にかかれるのか
舞い上がってしまって何も手につかない

この続きは、シリーズの次回

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高縄遺跡の発掘
赤城山の近くの高縄部落で、貯水地の工事が始まった
土器が複数発見されたということで、その土地の有力者にお願いし
遺跡の発掘を行わせてもらえることになった

そこでは縄文時代の早期の段階での土器が出土した
小規模ではあるが、群馬県における縄文文化黎明期遺跡調査の第一号となった
最も古いといわれた土器グループは赤土にはない
その上層部分から出る

あの赤土の壁から出る石剥片(せきはくへん)は縄文文化黎明期のものではないのか
いや、まだこの一ヶ所だけでは少なすぎる
もっと色んな場所で発掘してみなければ

返信
ある日、郵便受の中に一枚の郵便ハガキを発見した
あっ

東京の考古学研究所から

おこがましくも手紙は書いたものの
返信はなかろうとあきらめていた

4行だけの短い文ではあるが、詳しく知りたいとのこと

夢のような気持ちだった

感慨に浸っていると、後を追うように電報が来た
「〇ニチ ユク ヨロシクタノム」
吉田格先生となっている

どのような先生なのか
どうすれば失礼のない応答ができるのか
何も手につかない

改札口で待つ
すぐに分かった
家に案内して、つくだ煮の箱に整理してある採集してある資料を見てもらった

先生はその数の多さに驚きながら
一つ一つ丁寧に解説していただいた
新鮮で大切な知識ばかり

高縄遺跡に行ってみたいとのことだったので、翌日案内
ショベルを借りて実際に掘ってみる
やはり、同じ結果

この遺物グループはおそらく関東最北端の遺跡であり
非常に重要なものであろうと言われた

喜んで帰られたのがとても嬉しかった

ただ、赤土の壁の件は話していない

東毛考古学研究所
今まで、「家族団らん」を追い求める心のさびしさ故に遺物を調査してきた
でも、自分のやっていることは、重要なことなのだ
私的なものではなく公的なもの
となると、学問研究に役立てなければならない
それは義務であると思うようになった

本来学校を出ていない自分には、到底無理な世界だと思っていた
そんな身分ではない
それを上回る気持ちが沸いてきた
決心

この決心を崩さないために形を作る事にした

「東毛考古学研究所」の設立

新聞でも取り上げられ
色んな人が訪ねて来るようになった
遺跡の発掘も携わっていく

ただ、研究所ができたことで収入が出来た訳ではない
持ち出ししかない
喰っていくために行商を続け
残りの時間で、発掘等の調査を行う

いくつかの発掘実績が積み上がっていく中で
いくつかのグループの大先生が来られるようになった
だんだん分かってくるのだが
大先生たちは、学界におけるライバル関係があり
二分三分されている

うかつに重要な事は言ってはいけないと思われ
赤土の壁の謎については
当面、自分一人の胸におさめておくしかなかった

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再度
赤土の壁で石片を見つけた翌日
いてもたってもおられなくなり再度訪れた

石片を3つ見つける事ができた
合計6つ

やはり、土器片はいくら探しても見つからない

土器片の見つかった場所につけた〇印
ここには◎をつけた

11月に入り、ふと街頭の露店に「日本歴史」という雑誌を見つけた
後藤守一先生の一文
「日本に旧石器時代人が住んでいたかどうかということは古くから問題となっていたが、
それとともに、多くの学者はこれを否定しつづけてきた。
じつをいうと、私も否定側に立っていたのであるが、
近ごろは〈住んでいたかもしれない〉と考えており、
とにかくに、〈住んでいない〉と断言するのは誤っていると信ずるようになった」

「今日では縄文式文化は、曙期・前期・中期・後期・晩期と五時代を経過しており、
ここ五、六年間に研究はもう一歩躍進して、前期の前に曙期のあることが説かれるようになった。
つまり〈最初の日本人〉の年代は年を追って古代へとさかのぼって行く」

関東ローム層、即ち赤土の事が書かれている
赤土は、縄文式文化の曙期、ないしはそれ以前ということになる

心が沸き立つ
ところが自分の中に厄介なものが存在している

友がいない
今までの20年間が現実の人間社会に、嫌悪感を生んでしまっている
とてつもない大きなテーマに、わたしひとりはどう向き合えば良いのだろう

今やれることから始めよう
大量に集めた遺物を整理分類するところから始めた
何かが見えてくるかもしれない

青年団活動に参加してみた
人間の祖先の生活について話してみる
最初は興味を持って聞いてくれても
「こんな時世に、遺跡や遺物のことなどなんにもならないじゃないか」
という結論になる
それでも話せる相手がいるというのは楽しかった

登呂遺跡
登呂遺跡発見のニュースが流れた
一般の遺物への関心が少しずつ変わり始める

戦後も2年目になり、群馬県にも郷土史研究会の集いが持たれるようになってきた

家の中が遺物の木箱でいっぱいになってくると
どこからか噂がたつようになり
遺物に興味がある人が時々訪ねて来ては遺物を見せてくれと言うようになってきた

少しずつ繋がりのようなものができていく
どこどこの誰々先生のところへ行ってみべえ

前橋の川崎先生を訪ねる事になった

「趣味の収集をするのか、事実の追究に目標を定めるのか
まず、自分のやることにけじめをつけなさい」

学問とは何であるのか
強く心を打たれた

赤土の壁に何度も通うようになった
あちこちであんなにも見つかる土器片が
赤土の壁からはどうしても見つからない

縄文早期文化の専門学者の大先生たちの名前が分かってきた

川崎先生に尋ねると、大先生たちの住所を教えてくれた
折があったら手紙でも出して相談してみたらどうか

無学な自分のようなものが、大学の先生に手紙を出すなんて
恐れ多いにもほどがある
そうは思うのだが
日を追うごとに想いが膨らんでいってしまう

思案のあげく
一通は東京大学考古学研究室にあて
もう一通は市川の国府台にもうけられた考古学研究所あてに
心を込めた手紙を出した

続きはシリーズの次回

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