すきすきすき すきすきっすき、一休さん

名僧シリーズです。

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
臨済宗大徳寺派 1394~1481年

とんちの一休さんです。
ただ、昔話だったり、アニメの一休さんで定着したこのイメージは
後に加わったもので、とんちとは関係がない

じゃあなぜとんちの一休さんになったかというと、「変な人だった」から
そこからの連想です。

お父さんは後小松天皇
いきなりです。すごい人だったんですね
ただ、正式な子ではないので皇子や親王と呼ばれない
色々あったようで、宮中では産めなかった。

6歳の時、安国寺に入りますが、政府の庇護の元というのは性に合わなかったようで
幕府の庇護を受けない山林派の謙翁宗為のもとへ移る

「変な人」に近づいて来ましたね

でも、このまま「変な人」道をまっしぐら、って訳ではなく
「変な人」も一回挫折します。

謙翁宗為が亡くなっちゃうんです。
折角頼って行ったのに、私はもうこの先生きていく術がない

瀬田大橋から投身自殺を試みます。

うちの子最近変だわ。危ないかも
と思っていたんでしょう。
お母さんが尾行を使わしていて、
すんでのところで取り押さえられる。

翌年、近江堅田の祥瑞庵にいた大徳寺派の僧侶、華叟宗曇(かぞうそうどん)の弟子になる
彼の元で、一休宗純と改名します。
琵琶湖の上を渡るカラスの声を聞いて、悟りを拓く

おお、悟りを拓いたか
それでは印可を与えよう。

悟りを拓いた証明書みたいなもんです。

うーん。やっぱり印可はいただかなくて結構です。

確かに、師匠とのやり取りの中で悟りを拓いた訳じゃないですからね
貰うなら、カラスからです

(イン)カァーッ

だんだん「変な人」度が増してきました。

華叟宗曇が亡くなると
兄弟子、養叟宗頤(ようそうそうい)との関係がうまくいかなくなります。
そんなこともあって、このあと、ひとつところに止まらず、あっちこっちへお引っ越し

今までの名僧シリーズにあった、清貧の中で諸国を回るというパターンとはちょっと違い
内職をしながら食いつないでいく

大徳寺派内で内部対立が激しくなると
抗議の意味で絶食し、自殺しようとします。
後花園天皇が手紙をよこして、やめるよう説得
やっぱり交遊関係はすごいものがありますね

文明6(1474)年には強く求められて大徳寺の住持を引き受けたものの、
入寺の法語を書いて渡すだけで、実際に寺には入らず即出てしまった

風狂の人
酒も女性も、遠慮なし。
晩年には、盲目の女性を愛したり

堺の町を、ぼろぼろの着物を着て、木刀を持ちながら歩いたり。

芸術面で優れていて
詩文だったり、書だったりはかなりの腕前
当時の一流の芸術家達、連歌師、水墨画師、猿楽師が彼の元に集った。
侘び茶の成立に大きな影響を与えた村田珠光も、一休から禅を学んでいる

東山文化は一休に寄るところが大きい。

死後
死後、一休の風狂ぶりが語り継がれ
様々な書物に登場するようになる

江戸時代の寛文8(1668)年に出された「一休咄」で、どーんと有名になる
この中では、橋の話も書かれている。

「このはし渡るべからず」
とあったので、はしっこじゃなく、真ん中を堂々と歩いていったという、一番有名なとんちです。

この中にあるのが
ある正月、墓場に行って骸骨を拾い、杖の上につけて
「ご用心、ご用心」と言いながら、京の町を歩いた。

骸骨はめでたいぞ
目の穴が大きく開いて、これをめでたいと言うのだ
昨日は良くても今日は何が起きるか分からんから、ご用心

先程の木刀の話からの連想でしょう

このあとの、一休ものでは、このあとに歌を詠むパターンが追加される

門松は、冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

実篤記念館と実篤公園で、忘れられない出会い

狛江から野川緑地公園を歩きました
の続きです。

仙川駅方面へ進み、あとは実篤記念館と実篤公園、という武者小路実篤がらみのみ

結論から言うと
「これだからウォーキングはやめられない」
という象徴的な時間を過ごすことが出来ました。

実篤記念館
山本有三記念館の時もそうでしたが、
ウォーキングコースの中であるから寄る、って感じ。
小説にはあまり強くない。

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)
教科書に出てくるような人なので、名前は知ってますが
ええっとええっと、誰だっけ

ウォーキングコースに入っているのは、実篤公園があるから。
こんな私としては、実篤記念館の方は、入場料との相談かな

200円?
入る入る絶対入る。

大人一枚お願いします。

そちらで、ボランティアガイドもやっておりますのでよろしかったら

えっ
これは予想外
ボランティアガイドさんのガイドは色んなところで色々聞きましたが
結論的に言うと、時間を何とか合わせて、絶対聞いた方が良い。
聞かずに回るのと聞いて回るんじゃ楽しめ度が全然違います。

その場所に行くと私以外誰もいない

すみません。私一人なんですけど大丈夫でしょうか

はい。あと10分後に始まりますので
それまでの間、記念館の中をご覧になってもよろしいですよ

不思議な事言うなあ、と思いました。
それを説明して回ってくれるんじゃないのかなあ。

ざっと一通り見ました。
予め、代表作品が何かぐらい分かっておかないと、ガイドさんに失礼
ふむふむ。「友情」というのが一番有名らしい
まずいなあ、そう言われてもピンと来ない。

そして、分かってきたのは、小説家としても有名だけど
絵や書としても有名。
あっ、これ見たことある

ところで、中をパチパチ撮したんだけど
後で、撮影NGだった事が分かったので
絵はがきで3枚購入したものから

よろしくお願いします。

武者小路実篤さんについては、どの程度?

すみません、全く分かっていません。

ああ良かった。
これで肩の荷が降りました。

華族の出で、学習院。
学生の時からの友達に志賀直哉がいるそうです。

子供の頃の学校の成績で、一番悪かったのが、作文と絵だったそうです。
ガイドさんならではのエピソードです。

25歳の時に白樺という文芸雑誌でデビュー
明治の終わり頃から、昭和51年まで、小説家、書や絵画、さらに自給自足の思想家として活躍。
この仙川の地は、70歳から90歳まで住んだお屋敷になります。

さあ、参りましょう。
向かったのは実篤公園
さっきの謎が解けました。
公園の方をガイドしてくれるんですね。



すごかったのがヒカリモ

奥の黄色い奴です。

ヒカリゴケは自分で光を出しますが、ヒカリモは反射して黄色く光る
光る時期と光らない時期があって、
ラッキー。良く光っています。
光らない時のためにガイドさんは、光った時の写真も持っていますが、一緒でした。

むしろ、光らない時はどんな色なんでしょう

どぶ色です。

実篤さんは、どんな性格だったんですか

とにかく真面目で、こちらに越してきた後は奥さんやお孫さんを愛する良いお爺ちゃんでした。
記念館で穴の空いた硯見られました?

見てないです。
後でもう一回行きます。

住居に来ました。

70歳を超えてなお、精力的に活動していた仕事部屋とかも案内いただきました。
時代としては、昭和なので、キッチンやお風呂や、テレビ等
子供の頃にあったあった、という懐かしさ満載

写真もいっぱい撮ったんですが
本当は建物内部は、一応写真はダメということになっているんです
って事なので、あげるのはやめときましょう

奥さんをモデルに絵を書いている写真もありました。
上品なそそとした女性です。

奥さんは、実はちゃんとした画家に師事した絵のプロ
奥さんがこの地で、孫を書いた絵を見て、可愛いねえ
ってことがきっかけで、絵を始めたので
小説家実篤が画家や書も始めたのは、晩年であり、奥さんのおかげ

住居の前に、なななんと、江戸城の石垣
しかも刻印石

先日江戸城で、結局刻印石を見つけられなかったのに
こんなところで見つけられるとは

さすがは華族。コネがあったんでしょうね

ここは、逆に私から、江戸城の石垣について熱く語っちゃいました。

国分寺崖線というすごい崖のある地域。
ここもすごい崖をうまく利用しての庭園
上の池と下の池の高低差は実に18mもあります。

気さくなガイドさんで、ガイド以外にも色んな世間話もして、とても楽しかったです。

そして、これが、穴の空いた硯

休憩コーナーに、「実篤体験コーナー」というのがあった
かぼちゃがおいてあって、自由に絵を書いて良い
良いじゃない。やってみましょう。

ところが先客。
横に空いた席もあったので、そちらで書いても良いのですが
何とその先客が、若くて美人
美人の横で絵を書くなんて無理

素晴らしいですね
美人は絵を書くんですね

分かったこと

美人が絵を書くのは、絵になる

帰り
さあ、ここからです。ウォーキングの醍醐味

さあ、帰りましょう

どっちの方向かとうろちょろしていたら

どちらかお探しですか

声をかけてくれたのは、何度か出会った、ファミリーのお客さんをガイドしていた別のガイドさん

駅に行こうと思いまして。

どちらの?

仙川です。

ちょっと、つつじヶ丘の方が近いですが
今から私そちらに行きますんで、つつじヶ丘で良ければ御一緒しましょうか

そうなんですか。ぜひ

自転車を押してくれて、つつじヶ丘までずっと一緒に歩いてくれた。

ガイドどうでした?

いやあ、とっても良かったです。

そうですかあ。良かったあ。

プロの女性カメラマンさん
パンフレットをもらったんですが、そこに岡克己さんという名前
岡克己というのは、旦那さんかも
Googleで検索するといっぱい出てきます。

つつじヶ丘までの間、とてもいっぱい話をした。
島原から、倉敷に住みたくなって引っ越し
旦那さんとの出会い。
写真を初めとしていっぱい色んな活動をしておられる。

ここに引っ越してきたのは、武者小路実篤が亡くなった1年後
記念館もなかった。
記念館が出来て、武者小路実篤を調べると自分との繋がりがいくつかあって好きになって
ボランティアガイドというのをやりませんかと、自分から提案
喋る事の原稿も、最初全部考えて。
今でボランティアガイドが始まって10年
ガイドさん、今は10人いる

とても良い人生を歩んでおられますね。

全て楽しい話ばかりだった。
ずっと自転車押してくれたもんなあ。
嬉しいです。

ああ、うろちょろして良かった。
ウォーキングして良かった。

おでかけマップ

狛江から野川緑地公園を歩きました

週末です。お出掛けです。
自然系で行ってみよう。

狛江から
狛江から野川緑地公園をずっと辿り、実篤公園を経由して仙川まで、というコースです。

狛江市に降り立つのはおそらく初めて。
小田急線の狛江駅です。

降りてすぐ目に入るところに、竹林があるのに驚いた

初めての市だと期待できるのは、マンホールの蓋です。
どんなだろう、わくわく

えええっ。
目ん玉が上下に激しく動きました。


カラーのマンホールはずいぶん話題になりましたが
この発想は初めてです。
目から鱗です。

場所は歩道の上
となると、スリップ対策のでこぼこは、それほど必要ではありませんし
耐久性についても、真ん中の絵のところは磨耗すれば取り替えれば良い。
現実に、マンホールに似たものとして、観光地には、観光用プレートが地面に埋め込まれていたりする。
全く問題ないのに、何でマンホールとなるとこの発想をしなかったんだろう。
真ん中の絵をどんどん変えて、広告料だって取れる。
恐るべし、狛江市

通常タイプはこれみたい

一枚だけ、これも見た

駄倉塚古墳(だくらづかこふん)
GoogleMapに、駅のすぐそばに、駄倉塚古墳なるものが出ています。
行ってみると、みずほ銀行。
その敷地内に山がある
小さな祠があるので、何かあるのは分かるんだけど、まるまるみずほ銀行の敷地
こりゃ入っちゃまずいでしょう
うろうろしていると、小さな扉が開いたままになっているのを発見

おそるおそる入っていくと、おお、ここだ

ちゃんと入れるようにしてくれていたのね。
さすがはみずほ銀行
物事の考え方が立派です。

登るとかなりの高さ
下を写したんだけど、高さの感じが分かるかなあ

調べてみると
駅前古墳としては、JR南武線西府駅の南口前に所在する「御嶽塚古墳」に次ぐ、
最寄り駅から近距離にある古墳

古墳という名前になっているけどほんとかなあ、とみんな疑っていた。
平成5年に発掘調査してみると
円筒埴輪がちゃんと出土されて古墳であることが証明された。

頂上に3本松が生えていて、明治の頃は高い建物も無いし良く目だった
ゲンさんという女性がいて、
一番高い松に、旗をくくりつけて、天気予報を地域のみんなに知らせていた。
赤旗なら晴れ。白旗なら雨。
府中にあったお役所まで、毎朝聞きに行ったらしい。
明治30年代。まだ女性の洋装は珍しい
ゲンさんはとても活発な女性で、自転車に乗って洋装
大評判になって、ゲンさんを見に大勢集まったらしい

野川緑地公園
昔、野川は狛江の町中を流れていたらしく
大雨とかになると氾濫して被害が甚大になるので、付け替えることになった。
従来の野川は埋め立てたけど、そのまま、緑道として残してくれた。
野川緑地公園。緑地公園という名前にはなっていますが、延々と細長く続く、緑道です。

北久保公園
絹山さんという老夫婦が、野川緑地公園沿いに住んでいた。
平成14年というから結構最近ですが、おじいちゃんが亡くなっちゃった。
おばあちゃんだけでは大きな家はもてあますので
野川緑地公園に隣接する土地だったので、狛江市に寄贈することにした。

すみません。
ひとつだけ、条件というか、お願いがあるんですけど。

何でしょうか

この大きな榎(えのき)ですが
おじいちゃんが、とても大切にしていたものなんです。
どうか、切らないでいてもらえませんでしょうか。

分かりました。
そのおじいちゃんの気持ちを
狛江市が、しっかりと守っていきたいと思います。

野川緑地公園にくっついた、北久保公園になり
榎は「おじいちゃんの榎」と命名されて、狛江名物となりました。

千手院

まだ新しめで、立派な八角堂

千手院というくらいですから、千手観音が祀られている筈ですが
八角堂の中の観音様は、六臂(ろっぴ)すなわち、手が6本でした。
観音堂もあったので、そちらにあったのかも知れません。

バス通りを横切るところに、誰がつけたのか
風車が8つ
風が吹いてきて、勢い良く回り始めました。
大合唱しているようです。

ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド

小金橋
野川にぶつかりました。

この小金橋の所から、流れが付け替えられた、ということです。
ここからは、野川沿いに進むことにしましょう。
野川の良いのは、下まで降りて、川沿いを歩けること

土の臭い。川の臭い。草の臭い。
脳の中に閉まってあった、子供の頃に川で遊んだ記憶が
呼び醒まされます。

糟嶺(かすみね)神社
嶺がついているだけあって、山(急激な崖)の上にありました。

裏手に今度は急激に下る坂があって隣接する敷地内に
明照院というお寺


おそらく、江戸時代は同一敷地内で渾然としていて
明治の廃仏毀釈の流れで、分けさせられた、と言うことでしょう。

このあとの後半は明日、続きを書くことに致しましょう。

おでかけマップ

[昭和歌謡]90 どうぞこのまま

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

どうぞこのまま
丸山圭子
作詞・作曲 丸山圭子
1976年

♪この確かな 時間だけが
今の二人に 与えられた
唯一の 証しなのです

どうぞこのまま
どうぞこのまま
どうぞやまないで

歌詞
丸山圭子が20歳の時、同じアーチスト仲間の彼がいたそうです。

彼女の著書「どうぞこのまま」にその時の気持ちが綴られている

彼には奥さんがいる、許されない恋

私たちが体を合わせた後、外は雨が降り始めていた。
私は、ガラス窓を流れる雨の滴を見つめながら、
まもなく二人の時は終わりを告げて、
彼が黙って扉を開け、去っていくのを感じていた。

雨よ、やまないで

全く知りませんでした。
さびのところがとても心地よい歌なので
何度も口ずさんだけど
じっくり歌詞を考えた事はありませんでした。

20歳でそんな歌詞が書けるんですね

ボサノバ
ボサノバですよボサノバ
最初にボサノバを聞いたとき、ビックリしました
世界は広いなあ

ささやくような、ぼおっとした、
特にやることのない休日に
特にやることのない休日であることを満喫するための歌

今の自分にはあり得ない事なので、逆にとても憧れます
四季では春が好きで
春が好きな理由は、ぼおっとできるからなんだけど

いざ、そういう時間がやって来ると、ダメですね
より積極的に楽しむために、お出掛けしたくなっちゃう

そういう体になっちゃいました。

紅茶を飲んで
もし、ボサノバを聞くとすると、紅茶を飲んでいますね
コーヒーもよろしくない。ましてや炭酸なんてもってのほか
横にはマカロン
原色はだめです。淡い色のマカロン

もちろん春
窓から日差しがそそいでポカポカ
時間は1時半

猫が丸まって眠っている
時々目を覚まして、ふあああっ、とあくび
また寝ちゃう

隣の部屋に行ったものの
あら、何しに来たのか忘れちゃったわ
また、元の部屋に戻る

読んでいる本は詩集
途中で昔の事を思い出して、クスッ

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)