[昭和歌謡]54 学生街の喫茶店

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

学生街の喫茶店
ガロ
作詞 山上路夫 作曲 すぎやまこういち
1972年

♪君とよくこの店に来たものさ
訳もなくお茶を飲み話したよ
学生で賑やかなこの店の
片隅で聞いていたボブディラン

ガロですよ、ガロ
懐かしいなあ
今の人は分からないんでしょうね

ボブディランですね
この歌の時はボブディランの事は知らなくて
何かそういう音楽のジャンルがあるんだろうなあ、ぐらい
民謡とは違うんだろうな

さすがにだんだん分かってきて
なんか有名な人らしいぞ
いっちょ、レコードでも買ってみるか

風に吹かれて
B面がライクアローリングストーン

さすがに世界は広い
良かったなあ
かなり何度も聞いた

私は全ての楽器の中で、ハーモニカが一番好きで
特に、フォークソングで使われるブルースハープってやつね
ギター弾きながら目の前のハーモニカを口だけで顔を動かしながら吹く
かっこいいなあ

ハーモニカと言えば、ボブディランですね

そのあと、フォークにのめり込んで行ったから
洋楽には行かず
洋楽ではレコード買ったのこれだけかな

ボブディランが好きな人からすると
2曲しか知らない私なんぞは
ボブディランの事を口に出すな、って感じでしょうけど

学生街
学生街か
羨ましいなあ

そんなものは無かったです。

わが中央大学は、私の時から、神田から八王子にお引っ越し
多摩動物公園駅からえっちらおっちら山を登っていってやっと到着

レストラン棟が充実しているし
中大以外は周りに何もないから
一旦駅まで行っちゃうともう一度山を登るかと思うとうんざりするから
学生たちは、レストラン棟に朝から晩までずっといる

さらに、私の場合は朝から晩まで司法試験の勉強を
研究室という部屋にこもって、365日ずっとやっていたから
喫茶店?
何でしょそれは

目一杯勉強したのは、なかなかできない良い経験だと思うので
後悔は全くないんだけど
こういう歌を聞くと
一般の大学生さんたちは
楽しい大学生活を送っていたんだろうなと
羨ましい気持ちにはなりますね

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グレビレア

花カレンダー始めました

ハワイ国王が日本におこなった驚くべき提案

外国人から見た幕末・明治の日本シリーズ

史上初めて、日本を訪れた外国の元首はどこの国の人物でしょう

チッチッチッチッチッ

ハワイ国!

そんなの知りませんよね

デイヴィッド・カラカウア一世
ハワイ国7代目の国王

明治14(1881)年、彼はお忍びで日本にやって来る
横浜港に降り立った時、驚きの光景を目にする

「ハワイ・ポノイ」というハワイ国の国家が爆発したように鳴り響いたのだ
軍の楽隊

なぜ、知らせてもいないのに分かったんだろう。
この歓迎ぶりは・・

あまりの感激に目に涙が滲んだと、後に旅行期に書いている。

実は、サンフランシスコにいた日本の領事が
情報をつかんですぐ、日本政府に電報を打っていたのだ

ハワイ国
安永7(1778)年、キャプテンクックがハワイに上陸
それ以降、ポリネシア人のこの土地は
次々と欧米にかき乱されていく

そんな中で、ヒーロー誕生
カメハメハ一世

彼が王となり、寛政7(1795)年にハワイ王国誕生

♪南の島の大王は その名も偉大なカメハメハ

ハワイ国7代目の国王が、デイヴィッド・カラカウア一世なんだけど
名前がカメハメハじゃないことからも分かるように
ハワイ国王は直系の息子で引き継いでは来れなかった
カラカウア一世も選挙で選ばれた国王

ハワイ国には大きな問題があって
疫病が大流行して、かつて30万人いたポリネシア人の人口は
この7代目の時点で4万5000人。

欧米に入り込まれても頑張っている、日本に
何とか学びたかった。

明治天皇に謁見
その時にも、日本のみんなの丁寧な接遇に、感極まって涙

普通に考えれば、そんな大げさな、なんでしょうけど
それには理由があったんです。

具体的な提案を持って訪れていた。

数日後、突然国王がいなくなった
国家の一大事とみんなが手分けして探すが
どこにもいない。

そんな時、ひょっこり帰ってきた。

どこに行かれてたんですか

ごめんごめん、心配かけたみたいだね
気づいてたんだ

気づきますっ!

提案
行っていた先は、
再び、個人的に陛下の所

具体的な提案をしにね

一つは、移民
日本の人達に、ハワイに移住してもらうわけにはいくまいか

不思議な提案ですね

そして、もうひとつ

結婚

カラカウア一世には、子供はいなかったんだけど
姪であるカイウラニ王女を実の娘のように可愛がっていた。

後の東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう)
当時、山階宮定麿王(やましなのみや さだまろおう)
に、嫁にもらってもらえないだろうか

皇位継承権をも持つプリンスです。

答を保留しています。

全くもって奇想天外なこの提案
普通であれば

まあ、面白いお話ですなあ
で終わりなんでしょうけど

あまりの真剣な眼差しに
日本としても真剣に検討した。

もう後が無かった。
国王としては
考えに考え
考え抜いた上での提案だったろう

「ハワイ王国がアメリカになってしまう」のは時間の問題だった
自分の代で、ハワイ王国が終わる
それも確実だろう

それは覚悟したのだけれど
それでも、このままでは
カメハメハ一世以来の、代々の国王に
申し訳が立たない

思い付く、全ての悪あがきをしなければいけなかった。

日本について良く分かっている訳じゃないけど
それでも、どこかに国を売らねばならないとしたら
日本を選びたかった。

もらってください

悲壮な叫びだった。

日本だってそれどころじゃない
無我夢中
がむしゃら

人の国の事なんて考えていられる状況じゃない
次は我が身かも知れない

でも、嬉しいじゃないですか
考え抜いたその相手に日本を選んでくれた。

日本としても真剣に検討した

でも、やっぱり
ごめんなさい

文書で丁寧に謝った。

万事休す

カラカウア王はそれ以上なすすべがなく
酒に溺れるようになり
健康を害して、7年後、54歳の生涯を閉じる

そして、その僅か3年後の1893年(明治26年)
ハワイ王国は完全に消滅する。

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ホザキナナカマド

花カレンダー始めました

茎の存在意義は何でしょう

茎の存在意義は何でしょう

せっかくですから
このあとの本文を隠して、ちょっと考えて見てください。

前回、葉っぱはなぜ平たいかの説明をしました。
今回は、茎に関するお話をしましょう。

茎の存在意義
さあ、どう思われました?

正解というのがあるのかということ自体、疑問がありますし
あるとすれば、その正解は、複数なんでしょうけど

高校の教科書では
葉と根の間で水や栄養をやり取りする、
と書いてあるそうです。

でも、この「植物の形には意味がある」という本では
その表現に違和感を感じるとしています。

えええっ
私もそう思いました。

それは逆でしょうと言っています。
もし、それが茎の「主要な」役割ならば
根から、直接葉っぱを出せば済む話です。

「奇想天外」という植物があります。

こんな複雑な例をあげずとも
身近な例で、タンポポは葉っぱに関する限り根から直接出ています。

茎のある植物と茎のない植物を混ぜて同じ場所に植えたら、どうなるでしょう。

茎のある植物の方が勝つ。

葉っぱが、より上に茂ることが可能だから
光の獲得競争に勝つということです。

先ほどの例で言うと
奇想天外は、そんな光の獲得競争が必要ない砂漠で育つから
茎は必要ない

じゃあタンポポは
上に遮るものがない、日当たりの良い場所でしか育っていないと言うんです。

なるほど、そう言われるとそんな気もする。

ここで、疑問が
林の中で育つ植物にも、葉っぱが直接出ているものがありますね。
カタクリです

でもカタクリの育つのは、落葉樹の林の中なんです。
早春に葉を出して、花を咲かせたかと思うと
夏になるだいぶ前に、葉っぱは枯れちゃう。
上が葉っぱで暗くなる頃には、もう休眠状態
突貫工事型の生活をしています。

ということで
この本の考える、茎の存在意義は
「葉っぱをより高い場所に保持しておくため」です

そのためには、上にある葉っぱにも根から水を送る必要がありますので
仕方なく、副次的に持たざるを得なくなった役割が
「葉と根の間で水や栄養をやり取りする」
だと。

私は、個人的には
だとすると、副次的だろうが
「葉と根の間で水や栄養をやり取りする」
も複数の存在意義のうちの一つと考えて良いんじゃないかと思いますがね

茎の伸びるスピード
だとすると
せーの、ドン、でスタートしたとすると
早く伸びた方が有利です。
半月で50cmというのが
かなり頑張った場合の記録だそうです。

面白いのが、同じ種類の植物ですらこの競争は行われること。
頑張った価値組は、よりエネルギーを光合成で得られるから
ぐんぐん伸びて
一度劣勢になったらどんどん不利になり
とうとう枯れちゃうといいます。

ただし、ここで、木と草で考え方が異なります。
一年草はスタートダッシュで勝負するから必死ですし
ある程度の高さで何とかなれば
後はどうせ一年で枯れるので、それ以上は必要ない。

木の何年も何十年もかけて
結果として勝負に勝てば良いので
ゆっくり伸びます。

草がうさぎさん
木が亀さんです。

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コンロンカ

花カレンダー始めました

江戸を土地にした男

何年前だろう、その事実を知ったのは
新幹線の中で無料で置いてある小冊子だった。

利根川東遷(とねがわとうせん)

利根川ってこんな川ですよね
関東を西から東へ流れ、銚子で海に注ぐ

ところが、以前はそうじゃなくってこうでした
東京湾に注いでいました

今の形に変えたのは、人の力で
それをやったのは、徳川家康ですと
利根川東遷って言うんですよと

はあ?
冗談も休み休みにしていただきたい。

利根川と言えば、長さで日本2位、流域面積で日本1位の川

そんなどでかい川を人の力で作り変えましたってあなた
もし、そんな前代未聞の大事業を家康がやったというのなら

家康といえば?

利根川東遷!

と日本全国老若男女、誰もが即答する筈です。

知らん
そんな話

答からすると本当にそうなんですが
なんでまた、ここまですごい事がほとんど語られないのでしょう。

その時の衝撃が強すぎて
今、江戸を色々調べている元々のきっかけだったりもします。

ところが、江戸の本はかなりいっぱい読んだつもりなんだけど
利根川東遷が1ページでも割かれていた事がただの一度もない。

江戸検定の教科書にだって書かれていないから
江戸検定の問題に出された事は一度もない

玉川上水は何度も何度も出てきますがね

その内、あれは嘘だったんじゃないかと思い出しました。
江戸をテーマにブログ書くなら
まずは利根川東遷でしょ、ってずっと思ってきたのに
今まで利根川東遷を扱ってこなかったのは
今まで読んだどんな本にも書いていなかったからです。

とうとう見つけました。

「江戸東京まちづくり物語」
約500ページもある分厚い本で、4000円もするので
図書館で借りるだけ

その中の10ページ程度なんですけどね

ああ、やっと利根川東遷書けるよ
スッキリした。

以前の江戸
江戸時代以前の政治文化の中心は西日本ですね
唯一東日本に来た鎌倉時代にしても、鎌倉まで

不思議だと思いませんか

日本地図バッと広げて
真ん中にあるどでかい関東平野
中心にならない筈がない。

実は、以前からそれなりに発達しています。
本では、ドーナツ状と表現されていますが
江戸の周りは開けている
鎌倉はその一つ

ドーナツの穴が江戸です。

理由があります。

一言で言うと、人が住めるような場所じゃなかった。

東京湾に注ぐ利根川が大きすぎて
下流地域は、川というより広大な湿地帯
本では利根川デルタ、と表現されています。

どろどろのズブズブ
とても歩けるような状態ではないし
その状況は、川の状態で日一日変わっていく。
舟を使おうにも、川というより沼に近いのでなかなか進まないし
背の高い葦が一面繁っているから目の前が全く見えない
この辺なら高台でしょっていうところで、所々集落はあるけど
本当に所々だったようです。

太田道灌が江戸城を築いて、というのは嘘ではないけど
ほんの一部の土地しか使えていません。

良く出てくる話で
家康が江戸に入るときに、家を数えたら100軒くらいしかなかった、というのがあり
極端な表現をしたんだろうとずっと思っていましたが
ひょっと、「多少大げさ」くらいの表現なのかも知れません。

利根川東遷
秀吉からの嫌がらせ、かつ、最も恐い家康を封じ込めるため
江戸への国替えを言われたときに
了承した家康には、強い意欲があったろう

そっちがそのつもりなら
受けて立とうじゃないか
ドーナツの穴を埋めて
人の住める「土地」にしてやる

暴れん坊の利根川をてなづけてやる

そんな大事業が一朝一夕で出来よう筈がない
何段階にも分けて考え
自分の代ではまず応急処置
なんとかかんとか住める土地にする

何代かかるか分からないけど
徳川がそれを成し遂げるんだ

この時点で、徳川が何代も続くという事を前提にしている訳ですね
自分が良けりゃ良いということなら
出費ばかりで、成果がずっと先の大事業をやろうなんて思いません。

どうしたか
全部書くと頭がぐっちゃぐちゃになって訳が分かりません
大分割愛しますが、それでも分かりにくいと、最初から申し上げておきましょう。

1.隣の川に繋げます。
隣の川とは後に江戸川と名前を変える太日川
溝を掘ってそっちに流れるようにするわけです。

これで、利根川流域のズブズブは一旦解消されます。

でもそんなことすると、江戸川はえらい迷惑ですね
水量が倍になりますから、ちょっと大雨が降ると溢れるのは明らかです。

2.逆川を作る
江戸川から北に上がる支流を堀り、常陸川に繋げる
常陸川は銚子に注ぎます。
北に上がるのはさすがに無理がありますので
あくまでも応急処置。
水かさが増えた時にしかそっちには流れません。

でも、一部とはいえ、利根川の水が銚子に注がれるようになったと言えます。
利根川東遷のスタートです。

家康の代ではここまでです。

3.本格対応
大阪夏の陣の6年後、元和7(1621)年、本格対応工事が始まります。
赤堀川という、言わば運河を掘り、利根川の本流を、常陸川、鬼怒川に繋げ
銚子に注ぐようにします。

二代秀忠の時代です。

イケイケっ

そして、開通したのが、4代将軍家綱の時、承応3(1654)年
繋がったぞー

まだ、それで終わった訳ではありません。
この時点では川幅5m
さらに引き続いて、川幅を広げてこれぞ本流。
江戸川は支流っていうように広げていく。

これが、メインの流れだけど
こっちをこっちに付け替えると、こっちに無理が出るから、みたいなのが色々あるから
とてもいっぱい関連工事をしました。

江戸の洪水被害は、三大被害として
寛保二年(1742),天明六年(1786),弘化三年 (1846)の洪水があるけど
どちらかというと、大火の被害の方が大きいイメージ
利根川東遷をやってなかったら、それどころじゃなかったでしょうね

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ゼフィランサス(サフランモドキ)

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