[名字]1 氏姓制度と賜姓
[名字]2 冠位と律令制度
の続きです
姓は「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」だとよく言われます
橘(たちばな)
源氏、平氏、藤原氏は有名ですが、急に「橘」って何よと思いますね
前回、律令制度になった話をしました。
ただ、律令制度になってもまだ賜姓(しせい)は行われていた
和銅元(708)年11月25日、
元明天皇の御前で公卿たちの酒宴が開かれていた。
このとき天皇は、盃に橘を浮かべて女官の県犬養三千代に、
橘は、果物のなかでも最高である。
樹は冬の寒さを凌いで繁茂し、葉は寒暑に遭っても萎まず、
珠玉と競って光り輝き、金銀とまじっていよいよ美なり。
これをもって汝の姓として、橘宿禰(たちばなすくね)を賜わん。
と、橘の姓を与えた。
最初、橘の姓をもらったのは女性だったんですね。
このあたりから氏名(うじめい)と姓名の区別がなくなり
賜姓というと氏名+姓名をセットで与えることになり
氏名(うじめい)の事を姓名(せいめい)と呼ぶようにもなる
このあと、このブログでも氏名(うじめい)とは言わず姓名ということにします
橘三千代に与えられた「橘」という姓名は一代限りのものだった。
だが、息子たちが「橘」の姓を使いたいと申し出る
そのうちの一人が後に超実力者となる橘諸兄(たちばなもろえ)だった

橘諸兄は、政界のライバルの藤原4兄弟が相次いで亡くなってくれて、橘時代を築く事になる
財政悪化
このあと、放漫財政が続き、皇族の財政が危機的状態に陥る
皇族の人数がどんどん膨らんでどうしようもなくなってしまう。
荘園も増えてきて、皇族の収入も減る一方
そこで桓武天皇が大ナタを振るう
それまで、律令制度では、5代目までは皇籍と決められていたが
2代目に過ぎなかった弟や息子に賜姓し、皇籍を離脱させた
賜姓は、それまで褒賞だったが
一気に考え方が変わり、リストラのためのものになった。
延暦24(805)年には、実に102もの人に賜姓を行い
皇籍を離脱させた
ここでの賜姓は、源平藤橘のいずれでもなく、様々だった
源氏(げんじ)
これでもまだまだ財政は良くならなかったと思われる
次の嵯峨天皇の時代になり
8人の子供に賜姓し、皇籍を離脱させた
臣籍降下という
注目すべきは、8人に全て同じ姓を与えた事
ここに「源」という姓が誕生する
「源」という語の意味は「水元」で、
〝水源〟の意味である。
最初はチョロチョロと流れる〝細流〟だが、
しだいに水量が増加して〝川〟になり、ついには滔々たる〝河〟になる
続いて24人の子供に源姓を与え、合わせて32人もの「源」姓が誕生する
これで財政が改善されたかというと、
まだまだ序の口で
嵯峨天皇以降の天皇も臣籍降下をどんどんさせていく
摂関政治が進んでいくと、皇族の収入が減り
摂関家の持つ荘園がどんどん増えていくことによる
「源」以外の姓が思いつかなかったのだろうか
全て源姓
そこで系図を溯っていって、最初に突きあたる天皇を冠して、
〝~源氏〟と呼んでいる
〝~源氏〟は、次の二十一流ある。
嵯峨源氏・仁明源氏・文徳源氏・清和源氏・陽成源氏・光孝源氏・宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏・冷泉源氏・花山源氏・三条源氏・後三条源氏・後白河源氏・順徳源氏・後嵯峨源氏・後深草源氏・亀山源氏・後二条源氏・後醍醐源氏・正親町源氏


清和源氏
このような〝~源氏〟たちのなかで異色だったのは、清和源氏。
財政逼迫を少しでも改善しようとする臣籍降下が続いているなかで、清和源氏だけは褒賞としての臣籍降下だったらしい。
やがて清和源氏の初代になる経基王は、
平将門の乱や藤原純友の乱への対応に対しての褒賞だった。