花が咲いたよ

(8/27までは週に1度、土曜日のみとさせていただいています)

やったぁ
朝顔にようやく花が咲いた

ずっとすごい量の葉っぱで、ジャングル状態だったのに
いつまでたってもつぼみらしきものが出てこない

今年の朝顔は、花が咲かない、葉っぱを楽しむタイプの朝顔なんだろうか
葉っぱが多すぎると花は咲かないのかな。葉っぱも間引きしてやらないといけないのかな
などと考えておりました

昨日の朝
あっ
あああっ
葉っぱの間で頑張って咲いてるーっ

えらいっ
きれいよ、きみ

そして、今朝は
おおっ、二つも

美しいーっ


畑の方は?

ズッキーニなんですが、集中しちゃっているので、次女と
ひとつ植え替えようか

根が多少ブチブチっといっちゃったのですが
何とかなるかな

ところが翌朝見ると、こんな風に

いかんっ
水をたっぷりあげて
復活してくれーっ

でも残念
さらに翌朝見ると
虫がいっぱいたかっておりました
すごいなあ
虫って、もうダメって分かるんですね

残りのズッキーニです

植え替え作戦はダメだと分かったので
集中はしておりますが、この場所で頑張っていただきましょう

予定だと、花が咲いて
雄花と雌花を筆でコチョコチョってやって受粉してあげて、
その後、実がなる

そこまでいっておくれー

オクラ
オクラは二番手の出世株

かすかにつぼみのようなものも

ナス
一時期の絶望的な状況よりは改善
頑張っております
現段階から実がなるところまでいくのは厳しいかも知れないけれど
見守ってあげているよ

陽当たりが悪い方のうねはやっぱり可哀想
茎ブロッコリー

大葉
ガンバレー

ちなみに、小ネギは全く芽を出しませんでした

そして、バジル
結局、鉢が一番陽当たりが良いので一番良く育つのかも
また、次女に何か料理してもらいましょう

[庭]シリーズはこちら(少し下げてね)

[社労士]力試し惨敗。落ち込んで

社労士試験があと1ヵ月になりました。

また過去問で力試しをしよう
前回より点数を伸ばしたいな
日曜日の事です

選択式
まずは選択式
前回合格点を下回ったので今回こそ

結果、40問中27点、合格点は21点

よっしゃあ

ただ、またまた一科目足切りに引っ掛かった
一科目5点中2点だと足切り
択一式まで含め、ひとつでも足切りにあってしまうと、それだけで不合格
とても怖いシステム

選択式は問題数が少ないだけに足切りに会いやすい
今まで、力試しの選択式で足切りに引っ掛からなかったことが一度もない
恐るべし足切り

択一式
問題は択一式
3時間半もかかる膨大なもの

相変わらず、時間がキツキツのまま進んでいく
解いている間の感覚としては前回より悪い
おかしい、なんで?

気持ちが飛んでいきそうなのをなんとか踏ん張る
最後の厚生年金国民年金でとうとう時間が足りなくなってきて
あまり熟読できず
ほんとのギリギリで終了

ああ、嫌な予感
答え合わせしたくないなあ

結果
70問中35点、合格ラインは45点なので大きく下回る

えっ
何が起きたの?
これ、ほんとに起きた現象?

50%って完全に1年目の水準
あと1ヶ月ってところでそんなところまで戻ってしまうなんて

落ち込んだ
立ち直れない

2年目は受かる前提でやって来たし
感覚的には、受かるんじゃないかと思っていた

安全圏へと思っていたのに
完全にそんな構想は消え去った

何も手につかなくなった

やる
一日おいてブログを書いて良かったと思う
昨日書いていたら弱音のまま終わっていたろう

ちょっと待て

考えた

落ちると決まった訳ではない
現に前回の択一式は合格ラインを上回っている

問題の相性で大きく結果が変わる事が分かったので
安全圏構想は消え去り「五分五分」にはなったけど
一度も力試しで合格ラインに達しなかった1年目とは大きく違う

あと33日
もうここから「広げる」方向に舵切る時間的余裕はないから
今までやって来た事を何度も繰り返して
より記憶を確実にするしかない

手につかない?
言っている場合か

お陰で若いとき経営コンサルタントをやっている時にあみだして
みんなに伝授していた極意を思い出した

やる気と「やる」を切り離す

「やる気が起きないからやれない」とよく言う
昨日までの私の状況でもある

でもよく考えるとおかしい
やる気と「やる」は別のものだから
連動しなくてよい

やる気なんてなくったってやりゃあ良いじゃないか

やっぱり社労士に受かりたい
だったらやりゃあいい
結果がなんとかなんてどうだって
もう33日しかない
最善を尽くすしかないんだ

ごめんなさい
ごめんなさい
こんな状況になっちゃいまして

ブログ(日記)は試験(8月27日)まで
週に1回にさせてください
土曜日とします

ホントにホントにごめんなさい

[社労士]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 神風

ことば日本史、鎌倉時代から

文永11(1274)年、対馬の西方海上は、蒙古軍船でうまっていた。

文永の役、まもなく佐須浦に数隻が接岸してきた。
地頭の軍勢は少なく、矢をかけあっていられたのもしばらくだった。
佐須浦の民家はすべて焼き払われ、対馬は蹂躙された。

それから8日後、壱岐島に二艘の船が現れて上陸、ここも制圧された。

博多に続々と武者たちが集まってきた。だが、蒙古と日本とでは、戦いのルールがあまりにもちがっていた。そのうえ火薬を用いた「鉄はう」にも驚かされる。

あきらかに劣勢だった。

神風
ところが、この危機は強風雨によって免れた
蒙古軍船は次々と難破

この時の強風雨は台風というほどの者ではなかったらしい
色々説はあるが、一回目は様子見的な意味合いだったかも知れない

これで終わるはずはない
日本も再来を防御すべく軍備の増強

弘安4年、再び蒙古軍がやって来た

今度は暴風雨

何とも不思議なことに2度目も逃げ帰ることになる

3度目は?

なかった

別の外交上の理由で、蒙古がそれどころではなくなっていた

ここで、あまりに有名な言葉「神風」が定着し
ずっとずっと先の、太平洋戦争まで生き続ける

元々存在していた言葉
伊勢に対する枕詞だった

ところが、言葉は共通の「意識」になる

日清日露戦争を経て
神に守られた特別な国なのだと

自然現象だったはずなのに
人間が命を投げ出して作り出すもの、に変貌する

神風特攻隊

歴史
歴史は「事実」なのか

歴史は意図をもって語られるものだということを忘れてはならない

風は吹いたが
それは「神風」だったのか

神風だったとして
太平洋戦争に勝てる、理由づけになるのだろうか

歴史は考えるための材料

どう使うか
われわれ一人一人に委ねられている

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[足利将軍]3-6 足利義満。北山殿という最終段階

[足利将軍]3-1 足利義満。言うだけの事はある
[足利将軍]3-2 足利義満。室町時代の始まりの大行事
[足利将軍]3-3 足利義満。手紙持っていっただけなんですけど
[足利将軍]3-4 足利義満。室町殿と公方様
[足利将軍]3-5 足利義満。南北朝統一
の続きです。

出家
義満が作り出した新たな支配者の概念、室町殿、と公方様、の話をしました。
武士と朝廷の両方を実質的に支配するものとして
目に見える形として明らかにしたのが室町殿でした

そして、いよいよその最終段階になります。

38歳にして出家

将軍職を息子に譲り
普通に考えると余生をゆったりと世捨て人として生きる

そうはいきませんでした

終わりの始まり
義満にとってみれば、全く新しい考え方をスタートするために
今までのものを捨てる形をとった

出家と聞いて慌てた後小松天皇が室町第に慰留に言ったが
その時、義満は言い切った
政治は今後も私が取り仕切り、朝廷への出仕も何一つ従来と変わらない

変えたのは概念
今までの「形」によるならば
義満は天皇が君主であるのにたいして臣下でしかなかった
実質がどうあれそれは変わらない

であれば、その構造の「外」に出よう
「武士の長であると同時に廷臣の長である者」から
「武士の長と廷臣の長を従える何者か」に変貌する

外部からの支配
それを目に見える形として内外に示す
そのために必要だったのが「京都を出る」事だった

北山殿
大阪京都旅行で家族と行った金閣寺です。
それを肌で感じるために金閣寺に行きました

金閣寺の場所、北山は今でこそ京都の中ですが
当時は、京都に極めて近いが京都とは違う場所

かつて西園寺家の屋敷だった場所を買い取り
新たな支配の本拠地、北山殿を作った

室町弟でなされていた政治や
訴訟に関わることも、「北山殿」に移った
主要大名は、北山殿の近くに移り住み、北山殿に勤務する

北山殿は「山荘」とは名ばかりの、「国家の中心的な政庁であり、宮殿」となる

外に出ることによって
今までの決まり事は無視してもよい

内裏の周辺は、天皇以外は年寄りと女性以外は牛車に乗ってはいけなかったが
38歳にして堂々と牛車に乗った

「院」という待遇は天皇経験者にしか許されず
鎌倉時代前期に後堀河天皇の父の守貞親王が「後高倉院」となったのが、例外中の例外

義満は、それら正規の手続きを一切踏まずに、院と同等の待遇を獲得した。
つまり、彼は院でも上皇でもないが、「院と同等の何か」になった

日本史研究の中でたびたび言われるのが
「義満は天皇になろうとした簒奪者」論

おそらく違う
臣下が君主を超えるのは難しいが
臣下でも君主でもない第三の人種になった
言い方を変えると、天皇になる必要がなかった

「義満は天皇になろうとした簒奪者」論のもうひとつの論拠が
中国(明)の皇帝から「日本国王」に冊封(さくほう)されたこと

決定的と言えそうだが、どうも違う

冊封って中国の傘下に入る事を意味するから
あくまで独立色を強く出したい日本の天皇はずっと拒否し続けてきたこと
天皇としてはうらやましくも何ともない

枠組みから外れた義満だからできること
何と義満は公式にではなく「個人的」に国王として中国と貿易した

中国は中国でうまく行かなかった時に
正式なもんじゃないんですわ、という保険をかけたい
お互いにいつでも引ける関係での取引、という利害が一致した

お陰で義満は膨大な財力を個人的に手に入れる
やりたい放題は財力が裏打ちされてのこと

こうして「最終的な形」が完成
「天皇になる」などということは、義満にとれば
むしろ邪魔な事だったろう

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)