[旅行] 全国渓谷巡り。中国四国九州編

[旅行] 全国温泉巡り。東日本編
[旅行] 全国温泉巡り。中部西日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。東日本編
[旅行] 全国渓谷巡り。中部近畿編
の続きです

中国

島根
立久恵峡(たちくえ)
杭を立てたような岩が並んでいるところから立杭と呼ばれ、後に立久恵峡

広島にはふたつ
帝釈峡(たいしゃく)
帝釈天が雨宿り

三段峡

山口
長門(ちょうもん)峡
西長門峡と東長門峡に分かれとても長い


四国
四国もすごいのあるよ

徳島
大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)
大股で歩いても小股で歩いてもやっぱり危ないから

祖谷渓(いやだに)

すごいのが祖谷渓のシンボル
どうやって頭の上に小銭乗せたんだろ

香川
寒霞渓(かんかけい)
島です。小豆島
まさか、島にこんな膨大なスケールの渓谷があるなんて
24の瞳もびっくり




愛媛
面河渓(おもごけい)


滑床渓谷
この個性的な渓谷にぴったりの名前


九州
九州の渓谷はこれぞ渓谷!

熊本
菊池渓谷

人吉渓谷

大分
出ましたっ
耶馬溪(やばけい)
渓谷界の教科書
全国各地に〇〇の耶馬溪ってのがあるくらい
見処いっぱいなんだけどまずはやっぱり青の洞門・競秀峰から
恩讐の彼方にの舞台
小学校卒業の時、先生が「佐々木君は本が好きだから」と恩讐の彼方にの本をくれた
一回読んだときは最後まで読めなかったけど
何年も経ってからふと思い出して読んだら、泣ける泣ける
私には特別な場所

こんなところもある

一目八景

深耶馬溪

宮崎
トリはやっぱりこれ
昔見たテレビドラマの最終回
高千穂に行って謎が解き明かされる、みたいな。
その時の画面に映された景色が衝撃的で
死ぬまでに一度は行ってみたい場所になった
私が渓谷好きになったのは、あの画面が脳裏に焼き付いたからかもしれない

天孫降臨
神が降り立った場所
確かにここだと確信できる


トロッコ列車も

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]42-2 福田赳夫。大福戦争

[首相]42 福田赳夫。昭和の黄門様
の続きです

福田赳夫

総理就任から2年後、
それなりに順調に諸課題を解決し、自信をつけていた

総裁戦に出馬

おいおい、次は私でしょ

三木おろしのあと、福田赳夫総理を認めたものの
次は大平と密約を得ていた大平正芳
総裁選に出馬表明で全面激突

大福戦争と呼ばれる戦いが始まります

大平正芳のバックにはあの田中角栄がついている

この時の総裁選では予備選挙なるものがあった
そういうとそういうのありましたね
結局今まで3回しか行われませんでしたが
党員党友だけで、本選の国会議員は含まれない選挙

党員党友名簿を持ち出した田中派
個別訪問、電話攻勢

福田派でも対抗すべしとの声にも
大丈夫大丈夫
と余裕の構え

予備選告示のとき
「予備選で鮮やかな結果が出たら従うべき」と発言
いらんこと言いました

予備選の結果は
大平正芳748点
福田赳夫638点

鮮やかな結果

本選を行えば結果は分かりませんでしたが
言っちゃいましたので、本選を辞退
潔い退陣となりました

40日抗争
潔い退陣なんで、そのまま政界の第一線から退くかと思われましたが、そうじゃなかった
激突がさらに続きます

退陣後「清和会」を発足させる
自分が総理の時は派閥解消でしたが
大平正芳は派閥容認なので作らざるを得なかった
出ましたね「清和会」
清和会対宏池会

1年半後、
大平正芳は解散総選挙に打ってでる
でも、前議席を上回る事が出来なかった

意味なかったね
大平さん責任とるべきじゃない

いやいや大敗って訳でもないし続投します

党内の意見がまとまらない

両院議員総会が行われるはずの党ホールがバリケード封鎖される
大平に近い浜田幸一が単身乗り込んでこれを撤去
「もう聞かねえぞ、こうなったら!いいか断っとくけどな、
かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅう事を忘れるな!
お前らの為にだけ自民党があるんじゃないぞ!」

主流派のみが出席する両院議員総会で大平を首相候補と決定

反主流派は「自民党をよくする会」の決定として福田赳夫を首相候補に指名

前代未聞
なんと同じ自民党から首班指名の候補が二人立つ
自民党真っ二つ

40日もかかってようやく首班指名
僅か17票の僅差で大平正芳第二次内閣が発足

そして、1年後
ハプニング解散
あの衝撃の総理殉職へと繋がっていくのです

そのあたりの経緯はまた、シリーズ次回、大平正芳で書いていくことにいたしましょう

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

[足利将軍]11 義澄。二人の将軍

[足利将軍]10 義稙。明応の政変
の続きです

義澄(よしずみ)

明応の政変で細川政元がクーデター
10代将軍義稙(よしたね)を逮捕監禁
清晃(せいこう)という僧侶を還俗(げんぞく)させ義澄(よしずみ)として将軍としてたてる

義稙は毒を盛られるが一命をとりとめる
小豆島に送られるだろうとの噂がある中、
隙をみて、脱走した

死んでたまるか

越中(現在の富山県)まで逃げ延びる
北陸の大名たちは
義澄?誰よそれ
わしらの将軍は義稙様
と、義稙に忠誠を誓う

細川政元は大慌て
急いで兵を整え、越中に進軍
ところが敗北してしまいます

「二人の将軍」の始まり
教科書では10代義稙、11代義澄と習いますが、そんな簡単なものじゃない

京都の人たちは恐れおののく
義稙軍が明日にも京都に攻め込んで来るのではないか

でも義稙軍の動きは鈍かった
京都まで進軍するほどの結束には至らない
そこまでは勘弁
次第に膠着状態

隣の越前(えちぜん)の大名朝倉氏に身を寄せる
ただ、朝倉氏もかくまうのはかくまうが、京都進軍までは勘弁

一方の京都の義澄
勝手に将軍に立てられた訳だが、困ったことが起きる
強力な後ろ楯のひとり、日野富子が病死した
細川政元も義稙と和睦を試みるなど足元が定まらない

そうなると各大名たちも義澄のもとに一致団結とはならず
距離を取りつつ様子見
各大名たちは地元の領地経営の方に集中していく
だから、戦国大名化が進んだとも言えます

そんな中、近畿で異変
もともと義稙派だった畠山政長の嫡男畠山尚順(ひさのぶ)が兵をあげた
たちまち畿内の南半分を制圧

おっと、これはチャンス
朝倉さん、今こそ一緒に京都に進軍しません?

坂本(現在の滋賀県大津市)にまで迫る
京都は北と南から挟み撃ち
時間の問題

ところがここで思いがけないことが起きる
近江の大名、六角高頼が挙兵
昔義稙に滅亡寸前まで討たれた時の恨み
近江を通るんならわしが許さん。復讐だ

あれよあれよと義稙軍壊滅
撤退ーーっ
それを知った畠山尚順も撤退

命拾いの義澄

義稙は逃げに逃げ、周防(すおう)現在の山口県まで落ち延びて行った
畠山尚順も大人しくなる

義稙の影に悩まされ続けた義澄にようやく心の平和が訪れる
よっしゃこれからだ

ところが皮肉なものです
敵が明確だったときは一枚岩だった細川政元との間がギクシャクしだす

こういうときは距離を取った方が良いと細川政元が思ったのか
「隠居します」と宣言し地元にこもっちゃった
ここは義澄が出向いてなだめ、隠居解消

ところが今度は義澄が「隠居します」
意味分からん

そんなこんなを繰り返しながらも、なんとかやっていた

ところがまたまた大事件
その肝心の細川政元が暗殺されてしまった
もともと細川政元は変わり者
細川家の家督相続問題でゴタゴタし、内輪もめ

参った義澄

これをチャンスととらえた人物
分かりますね、義稙
しぶといわ。何度復活するのでしょう

周防の超大物、大内義興とともに京都に進軍

まずいっ
義澄は、新たに細川家を率いることになった細川高国に支援を要請
ところが細川高国あろうことか、義稙に味方する
万事休す

義澄は将軍職を放棄し逃げ出す

義稙は、京都に入り、天皇からも征夷大将軍の称号を与えてもらい
正式に将軍として復活です

義澄の人生って何だったんでしょう
僧侶として静かに平和に暮らしていたのに、勝手に将軍にさせられて
ビクビクしながら時を過ごし
せっかく平和が訪れたかに見えたのに

一般的には、10代義稙、11代義澄、12代義晴となっています
めんどくさいのでそういうことにしていますが、正確には違います
10代義稙、11代義澄、12代義稙

さあ、復活将軍の第二次政権はいかに

続きはシリーズの次回ね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[岩宿] 趣味から学問へ

[岩宿] 相沢忠洋というひと
[岩宿] 一家団らん
[岩宿]3 少年の孤独
[岩宿]4 戦争とおばさん
[岩宿]5 さよなら
[岩宿]6 赤土の壁でみつけたもの
の続きです

再度
赤土の壁で石片を見つけた翌日
いてもたってもおられなくなり再度訪れた

石片を3つ見つける事ができた
合計6つ

やはり、土器片はいくら探しても見つからない

土器片の見つかった場所につけた〇印
ここには◎をつけた

11月に入り、ふと街頭の露店に「日本歴史」という雑誌を見つけた
後藤守一先生の一文
「日本に旧石器時代人が住んでいたかどうかということは古くから問題となっていたが、
それとともに、多くの学者はこれを否定しつづけてきた。
じつをいうと、私も否定側に立っていたのであるが、
近ごろは〈住んでいたかもしれない〉と考えており、
とにかくに、〈住んでいない〉と断言するのは誤っていると信ずるようになった」

「今日では縄文式文化は、曙期・前期・中期・後期・晩期と五時代を経過しており、
ここ五、六年間に研究はもう一歩躍進して、前期の前に曙期のあることが説かれるようになった。
つまり〈最初の日本人〉の年代は年を追って古代へとさかのぼって行く」

関東ローム層、即ち赤土の事が書かれている
赤土は、縄文式文化の曙期、ないしはそれ以前ということになる

心が沸き立つ
ところが自分の中に厄介なものが存在している

友がいない
今までの20年間が現実の人間社会に、嫌悪感を生んでしまっている
とてつもない大きなテーマに、わたしひとりはどう向き合えば良いのだろう

今やれることから始めよう
大量に集めた遺物を整理分類するところから始めた
何かが見えてくるかもしれない

青年団活動に参加してみた
人間の祖先の生活について話してみる
最初は興味を持って聞いてくれても
「こんな時世に、遺跡や遺物のことなどなんにもならないじゃないか」
という結論になる
それでも話せる相手がいるというのは楽しかった

登呂遺跡
登呂遺跡発見のニュースが流れた
一般の遺物への関心が少しずつ変わり始める

戦後も2年目になり、群馬県にも郷土史研究会の集いが持たれるようになってきた

家の中が遺物の木箱でいっぱいになってくると
どこからか噂がたつようになり
遺物に興味がある人が時々訪ねて来ては遺物を見せてくれと言うようになってきた

少しずつ繋がりのようなものができていく
どこどこの誰々先生のところへ行ってみべえ

前橋の川崎先生を訪ねる事になった

「趣味の収集をするのか、事実の追究に目標を定めるのか
まず、自分のやることにけじめをつけなさい」

学問とは何であるのか
強く心を打たれた

赤土の壁に何度も通うようになった
あちこちであんなにも見つかる土器片が
赤土の壁からはどうしても見つからない

縄文早期文化の専門学者の大先生たちの名前が分かってきた

川崎先生に尋ねると、大先生たちの住所を教えてくれた
折があったら手紙でも出して相談してみたらどうか

無学な自分のようなものが、大学の先生に手紙を出すなんて
恐れ多いにもほどがある
そうは思うのだが
日を追うごとに想いが膨らんでいってしまう

思案のあげく
一通は東京大学考古学研究室にあて
もう一通は市川の国府台にもうけられた考古学研究所あてに
心を込めた手紙を出した

続きはシリーズの次回

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