江戸時代にいた!女性天皇。明正天皇

東福門院和子(まさこ)の話はしましたね
将軍の娘で天皇の奥さんになった和子
その続きの後半戦になります。

後水尾天皇の怒り
後水尾天皇の怒りが沸点に達したところまででした

朝廷のやることはいちいち幕府の許可がいるだとぉ
お前たち徳川が威張ってられるのも
征夷大将軍だから
その征夷大将軍を任命したのはこの私だ!

よし、お前たちに相談せず、一番大事なことをしてやろうじゃないか

一番大事なことは?
天皇の切り替わりです。

やーめたっ
後水尾天皇は、徳川に何も言わず、突然に譲位をしてしまいます。

誰に?
正妻、東福門院和子との間に生まれた二男五女のうち
二人の男の子は、幼くして亡くなってしまっていました。

他の女性との間には男の子はいます。

さあ、どうする

かなり考えたと思います。

明正(めいしょう)天皇
東福門院和子との子、興子(おきこ)
7歳にして、即位し、明正天皇となります。

これが、どれだけの意味を持つことか

まず何と言っても大きいのが、女性天皇の誕生です。

わがブログとしても、女性天皇シリーズをやって来て
とても久々の続編となります。

古代は女性天皇華盛り
古代には、こんなにいっぱいの女性天皇がいたのに、全く途絶えていた。
推古天皇
皇極天皇、斉明天皇
持統天皇
元明天皇
元正天皇
孝謙天皇、称徳天皇

実に、奈良時代の第四十八代称徳(しょうとく)天皇以来、859年ぶりの女帝になるんです。
正直、後水尾天皇と徳川家の大バトルがなければ
絶対に実現していなかったと思います。

次に重要な事は、徳川家の血が入った天皇だということです。
徳川家は実は天皇にまでなっていたということです。

そのために送り込んだ和子さん
ある意味、成功したということです。

ものすごい事だと思うんですが
あまり歴史の本には出てこない。
とても不思議です。

そして、もっと不思議なのが
後水尾天皇は、徳川に反発するために突然の譲位をしたのに
結果は逆じゃないの?という疑問

その答えは、古代の女性天皇の歴史の中にあります。

女性天皇は結婚できないんです。
結婚できるんだったら、称徳天皇のときの悲劇は起きなかった。

女性天皇が皇族でない誰かと間に男の子を生んでしまったら
その子は、脈々と流れる天皇家を継ぐものとして次期天皇になって良いんだろうか
というとても難しい問題が起きるからです。

それにしても
7歳にして、もうあなたは一生誰とも結婚できないですと宣告される。
悲劇以外の何物でもありません。

そして、後水尾天皇の真意はそこにあったんじゃないかと。

やってらんねえ、やめたやめた
と放り出したと見せかけて
とても緻密な計算をしたんじゃないか

天皇家の中の徳川の血を絶やそうということです。
明正天皇が結婚できない以上、徳川の血は天皇家の中で「そこでストップ」になる

徳川から和子という奥さんを送り込まれた。
でもたまたま、その和子は天真爛漫の良い娘で
仲良く幸せに暮らせた。
子供だって出来た。

徳川さん、あなた方のやりたかったこと
私はちゃんとやりましたよ。
そして、その集大成である
徳川天皇を実現させましょう。

ある意味、良くしてくれた和子へのプレゼントだったかも知れない

でもね
もうすぐ気づくと思いますが
最終的には私の勝ちですよ、徳川さん
身を切らせて骨を絶つ

名前の由来
明正天皇という名前
死後に送られた諡(おくりな)です。
先程あげた女性天皇の名前の中にありますね

元明天皇と元正天皇です。

私はこの事が強く、あることを示唆しているように思います。

推古天皇、皇極天皇、持統天皇という超大物3人からは取らなかった。
ましてや、途絶える最後の称徳天皇からは取っていない。
なぜ女性天皇が859年も現れなかったかの原因が、この時の失敗にあるんじゃないかと思っています。

称徳天皇は、結婚できないのでもちろん結婚していないんですが
愛する人がいた。
道鏡というお坊さんです。

お坊さんですから
天皇家の血とは関係無いんですが
なんと、この道鏡を次の天皇にしようとした。
結局は失敗するんですが。

元明天皇と元正天皇は一番地味な女性天皇です。
次に天皇になるべき聖武天皇に繋ぐための中継ぎとして
母娘の二代に渡って、最初から中継ぎですと宣言して即位した天皇。

明正天皇は1643年、21歳で異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位することになります。
最初から後光明(ごこうみょう)天皇譲ると宣言していました。
以後54年間、女性の上皇として宮中にいることになります。

天皇在位中も、全ての物事は、後水尾上皇が決めました。
あの、院政の再来です
「禁中並公家諸法度」は形式的に天皇でない人の行動までは縛れなかった訳です。

明正天皇自身は、どういう人だったのか
21歳で、譲位後、ずっと宮中にいて、何をしたかの資料が見つけられませんでした。
一人一人性格も、大切にしている価値観も違うので
何とも言えませんけど
幸せだっかのかなあと、とても気になります。

女性天皇
実は、女性天皇は、明正天皇が最後ではありません。

江戸時代にもうひとり
後桜町天皇という方がいて
その天皇が最後の女性天皇ということになります。

後桜町天皇については、またの機会にと致しましょう。

索引はこちら
[女性天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)


ニラ

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将軍の娘で天皇の奥さんになった和子

幕末に公武合体として、天皇家から将軍の奥さんになった和宮は有名です。

実は江戸時代初期に逆パターン
将軍家から、天皇の奥さんなった人がいた

前回、2代将軍秀忠の長女、千姫の話はしましたね
その妹、5女の和子(まさこ)です。

公武合体?
思惑は、はっきり分かりますね
あの姻戚関係で栄華を極めた、藤原氏の真似をしようと。
でも、圧倒的な力を持った天皇家の力を利用しようとした時代とはニュアンスが違うかな

お相手は、後水尾天皇
よろしくね

その、後水尾天皇、圧倒的力を持った徳川に対して
負けてたまるか、の骨のある天皇
さあ、バトルが繰り広げられることになります。

ちなみに和子さん
普通に考えると、かずこですよね
なぜ、まさこなのかというと
本当はかずこだったんです。
それを、濁点を嫌う天皇家に配慮して、名前の読み方を変えちゃった
そう言われると、かこ様とかあいこ様とか濁点付いていません。

でも、同じ名前の和宮(かずのみや)はどうなのよ
と疑問は尽きませんが。

いずれにしても、後水尾天皇と和子さんの夫婦仲はとても良かった。
天真爛漫で、周りを笑顔にしてしまう女性。
二男五女をもうけます。
天皇の子であり、将軍の孫。

後水尾天皇は他の女性とも仲良ししちゃったんですけどね

そうこうしているうちにも、徳川からの天皇への締め付けがどんどん進んでいきます。

まず、嫁入り前に遡ると
後水尾天皇が違う女性との間に男の子をもうけていたのをけしからんと
その女性を流罪に。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)というのを決めます。
ばくっと言うと、
天皇ならびにお公家さんたちはいちいち幕府に許可を得ないとダメ

後水尾天皇ははらわた煮えくりかえります。

そして起きたのが紫衣(しえ)事件
位の高い僧に紫の衣を着る勅許を与える
これはずっと天皇の役割であり
朝廷の収入源でした。

後水尾天皇は、十数人に、従来通り紫衣着用の勅許を与えます。
その中には、あのタクアンで有名な、沢庵和尚も入っています。

法律違反だ!
幕府は怒って、その勅許を取り消し
沢庵和尚等を流罪とした

さらに、春日局事件。
春日局はのちの家光が病弱だったので、お伊勢参り
その帰りに天皇に拝謁
春日局の身分じゃ全然無理な事なんだけど
無理矢理直前に形式を整えて、実施した。

後水尾天皇は、怒りが頂点に達します。
そして、とった行動が・・・

これは、次の江戸のヒロインに繋がる話なので
次回回しね

和子
和子さんに話を戻しましょう。

愛する旦那様と、お父さんの間に入って
ずいぶん色々動き回ります。

彼女の頑張りがなければ、
ひょっとして、朝廷と幕府の全面戦争に陥り
この時点で明治維新が起きていたかも知れません。

そんな和子さん
ストレス発散が必要です。

今でもそういう人いるかも知れませんね

服を買う。

今の金額にして、1億5000万円というから
狂気とも言うべき金額。

しかも、レベルが極めて高い。

彼女のファッションセンスは抜群で、
美術的才能が群を抜いています。

京都の呉服商「雁金屋」がお気に入りなんですが
出されたものに対して、
「あら良いわねえ」なんぞとの柔な対応はしてくれません。
徹底的にダメだし。
さらにそれがことごとく的を得ている。

商売や芸術はお客様に引き上げられる典型。

「雁金屋」の息子として生まれたのが
あの、尾形光琳

寛文期の華やかな文化を育てた人がいて
それが和子だったと言えます。

宮中に小袖という着物の着用を習慣付け
さらに庶民に至るまで
小袖という今の着物の形を定着させたのは
和子だと言えます。

出家して東福門院と名乗るのですが
東福門院小袖、ないしは寛文小袖

さらに、香道という芸術の一ジャンルを作り上げる
香を組み合わせて、匂いを嗅いでゲームとして当て合う
こんな楽しい競馬仕立ての道具を使いながらゲームとして勝敗を競うんですって。

匂いという五感のひとつを利用した芸術ジャンルは
世界にも例を見ないと言います。

索引はこちら
[江戸のヒロイン]シリーズはこちら(少し下げてね)


サルビア ガラニチカ

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[百人一首]45 あはれとも~ あらまたご冗談

あはれとも いふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな

私のことを哀れだと言ってくれそうな人は、誰も思い浮かばないまま、
きっと私はむなしく死んでいくんだろうなあ。

謙徳公
謙徳公は藤原伊尹(これただ)の諡(おくりな)
右大臣藤原師輔(もろすけ)の長男、師輔の5男が兼家でその子が道長なので
道長からするとおじさんということになる。
娘が冷泉天皇の女御となり、花山天皇の母となったため、
晩年は摂政・太政大臣にまで昇進しました。
自邸が一条にあったので「一条摂政」と呼ばれます。
和歌所の別当として、当時の和歌の名手を集めた梨壺の五人
(清原元輔・紀時文・大中臣能宣・源順・坂上望城)を率いて、
後撰集の選定に関わりました。
才色兼備の貴公子、もてもてプレイボーイです。

鑑賞
そんな、順風満帆の人生を送った藤原伊尹があれれ?です
この歌はどうしたことでしょう。

ひとつひとつ見ていきましょう。
あはれとも→かわいそうにと
いふべき人は→言ってくれそうな人は
思ほえで→思いつきません、そのまま
 ここ、現代人には分かりにくいですね
 広く一般も指していますし、特定の彼女も指しています。
身のいたづらになりぬべきかな→死んでしまうんだろうなあ
 いたづらは、今のいたずらっ子のいたずらではなく
 無駄になる、無になる。身のいたづらなので、死ぬってことです。
 それも哀れな死に方。
 なりぬ、だからなっちゃうんだろうなあ

想いを寄せるあなたにつれなくされて
想い焦がれて私は死んじゃいそうです。
それでも、あなたを始めとして、誰も見向きもしないでしょうね

まあ、めめしい歌でございます。

男のくせしてこういう歌を作るのは
当時、流行りとは言わないまでもそこそこあったようです。

ただ、藤原伊尹だとすると、違和感ありすぎです。
まあ、そこを狙っているとしか思えません。

本当に不運な人が、女性に振られてこんな歌を歌おうもんなら、
病院を紹介されます。
笑えません。

そうです。
冗談の歌です。
あなたがそういうこと言いますか。ご冗談を、と言って欲しかった。

私はものすごく良く分かります。
風邪ひいたりすると
ああ、死にそう。
絶対死ぬわ、死ぬ死ぬ、
とうるさく言ってしまうタイプの人間です。

もし、そのタイプの人間ですとお分かりでしょうが
大丈夫?と言ってくれるのは、一回目だけです。

次からは、
何回死ぬ死ぬ言ってんの
もう生き返ってこなくて良いから
と言われ

さらに数年たつと
そもそも何を言おうが、完全無視になります。

でも、とても正しい対応です。

実は、言っているほど大したことはない

さあ、これ返歌もらえたんでしょうか
何回目かによりますね

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[短歌]シリーズはこちら(少し下げてね)


ジンジャーリリー

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神田上水と早稲田と戸山荘

目白からあれこれ。二回目
の続きです。

神田上水
再度、神田川沿いに戻って参りました
神田上水のスタート地点。上水とは今で言う上水道
神田上水は江戸で初めて作られた水道
水源は、神田川。
もうちょっと上流は、井の頭池と善福寺池と妙正寺川
ここ関口に大洗堰というダムを作って、神田川から神田上水を分岐させる


水色に書いたのが神田上水で茶色い今の高速道路の下を流れているのが神田川

神田上水は後楽園の敷地内を通って、もう少し先で元の親、神田川の上に橋をかけ、
その中を流れて横切ります。
その橋が水道の橋だから水道橋。

そんなややこしい事するんだったら、その交差しているところも神田川なんだから
そこから取れば良いじゃない、って思うでしょ

いえいえ、神田川の上を横切るというところに答えがあります。
神田川より高いところを通っている必要がある

江戸がいかに低地であるかという証明なんだけど
江戸城より北のこの場所までも
満潮時には塩水が上がってくる
ちょうど関口大洗堰辺りが限界なので
ここで取水する必要がある。

もうひとつには、神田川と分けたかった
下水だってどこかに流す必要がある。
下水を流した川の水を飲むのはゲボゲボです。

早稲田大学
始まりの目白で学習院大学の中を見学しました。
どうも、早稲田大学の中にも、大隈庭園なるものがあるらしい。

これは、一日のうちに、学習院大学と、早稲田大学の二つを制覇することになっちゃう?

行ってみましょう。

あっこれ、良く写真で見る!

大隈講堂です。

大隅庭園、どこから入るのかな
結構周りを回ったけど、どうにも入り口が分からない。
戻って、さっきの大隈講堂近くの大学ショップの人に聞いてみるか

すみません。
大隈庭園はどこから入るんでしょう。

ああ、今日はお休みみたいですね

残念!

穴八幡
横穴があってその中に金銅の御神像。
こりゃめでたいってことで穴八幡。

いやあ、こんなにきれいで立派な神社が新宿区にあったとは



私の大好きな布袋さんのお腹をなでなで

流鏑馬(やぶさめ)で有名です。

戸山荘
さあ、いよいよ戸山荘です。
先日の庭園の企画展で出ていた、江戸最大の庭園。
尾張藩です。

東海道の宿場町、小田原宿の一部を原寸大で再現するという
大胆な挑戦
名物のういろう屋さんも、そのままあります。

ということで、その横に箱根山
さすがにこれは丸々原寸大ではありませんが
今も残る箱根山はなんと、東京23区内で最も高い山になりました。

さっきの地図でいうと、赤くマークしたのが箱根山で、緑が小田原宿

残念ながら、箱根山とその周辺以外は、庭園としては残っていないんですが
公園として、スポーツ施設等で残っています。
まあ、広い公園
いかも、ちょっと離れてもう一個あります。
これで当時のごくごく一部しか残っていないっていうんだから
さすが、尾張藩です。終わりなし

さあ、箱根山に登りましょう

あれっ
結構あっさり登れちゃったぞ
いかんいかん
ここは、管理している新宿区の意向をくんで
大変大変、汗だくーっ
って事に致しましょう


何々?登頂証明書を発行します?

こういう企画大好き。
自己申告で良いとなっています。太っ腹。
何と言っても、東京23区全体でもって最高峰な訳ですから、大いに自慢になります。
ん?あれれ
戸山公園サービスセンター(ここから1km)へお越しください
うわあ。離れたところにあるもう一方のところですやん。
今日は、散々歩き回って結構疲れているんですが。

ヨシッ、気合いを入れ直しましょう。

いかに戸山荘が広かったかを実感してもらおうという作戦ですな。
しんどーっ
これは作戦大当たりですぞ

着いてからも、戸山公園サービスセンターが無茶苦茶分かりにくい。
負けるもんかっ

着いたーっ

内緒ですけど、こんなクリアファイルまでくれますよ。

さすが新宿区です。都庁も持ってます。

親切に、戸山荘の事を色々教えてくれました。

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ

ハゼラン(サンジソウ)

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