[昭和歌謡]109 魅せられて

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

魅せられて
ジュディオング
作詞・阿木耀子、作曲・筒美京平
1979年

♪南に向いてる窓を開け
一人で見ている海の色
美しすぎると怖くなる
若さによく似た真昼の蜃気楼

当時、「若さによく似た」が
若狭によく似た、と聞こえてしまい
なるほど、エーゲ海は若狭湾と似てるのね
意外に庶民的
と納得しておりました。

ジュディオング
素晴らしかったですね
綺麗かったぁ
すごい美人ですよね、ジュディオング
額の広い人ってほとんど美人です。

作詞は阿木耀子だったんですね
知りませんでした。
エーゲ海の歌
そんなもん、阿木耀子でないと作れません。
額の広い人=美人説は、ここに証明されました。
(2例かいっ)

ジュディオング
えっ、歌手なん?
とビックリしました

衣装
なんといっても衣装ですね
着たいわぁ、あの衣装

途中から棒持ってスケールアップしましたよね

このあと、小林幸子の闘争心に火がついた訳です

二番に
♪レースのカーテン引きちぎり
踊って見たくなる

というビックリするような歌詞があり
女の子たちは実際にレースのカーテンを取り払って
纏って踊っていたらしいです。

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)

スープカレーに大苦戦

(3/29日の事です)

カミさんが
ブロッコリーあるからカレーにしてね
ほらほらああいうやつ

うん、素揚げにするんでしょ

そうじゃなくて、にんにくの


素揚げじゃないの?

ころも付けて、
にんにくの

スープカレー
全く言っている意味が分かりませんが
普通のカレーをイメージしていないんでしょうから、スープカレーにしてみましょう。
スープカレーだったら、素揚げのイメージですがまあ良いでしょう。

どうせなら、ちゃんとしたやつにしましょう
ネットで色々検索して、本格的っぽいの見つけました

トマトのへたとか、ピーマンのへたとか、玉ねぎの外の皮とかは捨てずに、煮込んでスープにします、と
おおっ、これはプロっぽい

しかも、最初に多少フライパンで焦がしてから
おおっ、デリシャス


私達、いつも捨てられてたけど、今日ばかりは違うのね
そうだなあ。人の役に立てるって嬉しいなぁ
野菜のへた達の座談会です。

そのあと、水を入れて30分ほど煮込みます。

その間に、別のフライパンで玉ねぎを炒めます。
出ましたっ。玉ねぎを飴色になるまで炒めましょうってやつ
カレーと言えば、必ずこういう風に書いてありますが、飴色ってどんな色よ
人生において、色んな色の飴を舐めてまいりました。

いつも飴側に譲ってもらっています。
こんな色の飴もきっとある

ようやく飴色の写真を見ることが出来ました。
お手本はこちら

これほどまでにブラウンだったとは。

ふたつまみほどの塩を振ってからスタート
放置して動かす。放置して動かす。
途中何度か差し水をするらしいです。
10分ほどでできるとのこと

いかん。単に焦げた玉ねぎになってもうた。

そのあと、刻んだトマトを入れてつぶしてねりねり
カレーロードが現れたら

カレー粉、バジルを入れます。
バジルがポイントらしいです。
ありゃりゃ、あったかなあ
なんとか戸棚の中に発見

カレー粉は固形のじゃなく、フレーク状のをいつも使ってるんだけど、これで良いんだろうなあ
結局、このカレー粉の味になっちゃう気がするけど
それは言わない約束

その間、スープの方を何度も味見するんだけど、いまいちイメージしているような味になっていかない。
ポトフを作る時は、いいんでないの、って味になっていくんだけど。

野菜を濾して

うーむ、なんでお手本とこんなに色が違うのか
最初に焦がしすぎたかも

ここで再度レシピの方を確認すると、驚くべき事が書いてありました。

ぶっちゃけ、この工程、ぜーんぶ市販品でやっちゃうってもの全然ありですよ。
野菜でわざわざスープなんか取らず、こんな感じのブイヨンの素とか、スープの素なんかを使ったほうが簡単ですし、
きっと“わかりやすくうまい”です。正直なところ。

げげっ、最初にここを読んどくんだった。
ポトフの時に美味しいのは、コンソメ入れるからなのね

でもね、一度、このレシピどおりに作ってみてください。

そうすれば、「あー、なるほど。この食材だけで作ると、こんな味になるのか」とわかって、
次からは、あの食材を加てみようとか、あの味をもう少しプラスしようとか、
今日は時間がないから市販のスープの素を使おうとか、自分の中で調理のアレンジができるようになりますから。

なるほど、良いこと言うわ、この人
先生と呼びましょう。

じゃがいも、にんじん、鶏肉を入れ
ルーの方も入れて20分煮込みます。

鶏肉は手羽を買っときゃ良かったなあ
骨から出汁がでる訳だもんね

その間、トッピングの方
ゆで卵を茹で
ピーマンを炒める
お手本にはないけど、ブロッコリーから話が始まった訳だから
ブロッコリーは必須ね
素揚げじゃないと言ってたから、蒸しましょう
以前、コメントでブロッコリーは茹でるより蒸した方が美味しいと聞いてから
ブロッコリーは蒸すようにしています。

20分たって味見してみると
良いんじゃないの。これは美味しいかもよ

娘たちには大好評

ね。今まで味わったことのないコクがあるでしょ

これに関してはノーコメントでしたが。

そのあと帰ってきたカミさん

今日はスープカレーだよ

ありがとう

なんで、ブロッコリーは素揚げじゃないの?

えっ、素揚げかって聞いたら、素揚げじゃないって言ったじゃん

待ってるから素揚げにしてよ

はいっ??

このような人間と結婚してしまったのか
なんともはや

どうせ素揚げにするんだったら
もうちょっと色んなものを揚げましょう
カボチャとピーマンとブロッコリーとアスパラ

より美味しそうになったでしょ

それ以外の今週の作りおきは、我が家の定番もの
スパゲティサラダ
この前成功したまこがれいのアクアパッツァ
グラタン
キッシュ
キッシュは、いつものじゃなくて違うバージョンで作ってみましたよ

[料理]シリーズはこちら(少し下げてね)

[吉岡宿の奇跡]6 平八の暴走

[吉岡宿の奇跡]1 吉岡宿を救いたい
[吉岡宿の奇跡]2 大きな一歩
[吉岡宿の奇跡]3 せがれの気持ち
[吉岡宿の奇跡]4 金のなる木と熊野牛王符
[吉岡宿の奇跡]5 最大の協力者
の続きです。

大友軍次
最初、資金のめどはいつになってもつかないだろうと思っていたが
穀田屋十三郎や菅原屋篤平治の一途な思いは、色んな人の心を動かし
なんとかなるのではないかというところまで近づいた。
まさに奇跡

しかし、この提案を仙台藩がのんでくれないことには全く無理

可能性はあるもんじゃろうか

その事よ

大友軍次という男がいる
吉岡宿を領する但木氏の家来

まずはこの男に聞いてみよう、と訪ねる事にした

穀田屋と菅原屋が計画をつぶさに話すと、大友はため息をついた

はぁ。またえらいことを考えついたものじゃのう
して、そのほうらがわしにこれを打ち明けたのはいかなる料簡か

はっ。もし、この訴願をあげたとして、お上はこれをお取り上げになられましょうか
その見込みをおうかがいいたしたく参上いたしました。

それは仙台の役所にあたってみねば分からぬ

一生のお願いにござりまする。どうか、お出入りの役所に、内々に聞き合わせてくださいませぬか

考えておく
大友は渋い顔をした

駄目かと思っていたが、後日、大友から連絡が入った

喜び勇んで馳せ参じた。

どうも、二人が帰ったあと、せっせと書状を知り合いにしたため
あるいは自分で見込みを聞き回ってくれたらしい。

役所では脇々にその例があるかが肝心である

今の役所でもある前例主義
それが当時からあった
参った。そんな前例がある訳ない

それでな。そのほうらの訴願であるが

いかがでござりました。

それが、意見がまちまちで、よくわからぬ
ある者は誉めちぎっておった
これは、古今無双の願いである

確かにそういう者もおったんじゃが

急に二人の顔が曇った

立派すぎる。かえってまずい
という者もいたのじゃ

と申しますと

立派なのは領民の方で、これでは藩の政事が悪いようで
お上への当てつけにならないかと

二人は絶句した。
そんなことは最初からわかっている。
藩の政事が悪いのだ
長年にわたり吉岡宿に課せられるだけ課役しておきながら
助力せず見殺しにしてきた。

この願いは長い目で見ればお上の不利益である、と言う者
利子をかなり少な目に設定すれば許可が降りるかもしれない、という者もいた

結局分からないという事だな
帰り道で、菅原屋が言った

最初から、簡単ではないと分かっていた

あきらめずにやりましょう

十三郎はそういうしかなかった。

平八
悪いことばかりではなかった
吉祥院という寺で同士たちが寄合を重ねていた時

仲間の一人がこういった。

もし、藩から毎年百両の利子が取れるようになっても
最初のうちは、三浦屋への返済にあてなきゃいけない
そうすると、最初から金がもらえると思っている庶民の誰かが、不正だ横領だと騒がぬとは限らぬ

そうすると、向こうの方から突然大声が上がった
台所で下働きをしていた平八

旦那様がた。そんな心配は要らねえ
おらたちは、そんなことは言わねえ。信じてくだせえ
おらたちは、とてもこの企てに金を出すことはできねえ
だども、旦那様がたのご苦労ぶりは身に染みて分かる
今から家々を回って「旦那様がたに言いがかりをつけることはしない」と一札を取ってきます。

百姓達から連判状を取って、十三郎たちを助けると言い出した。

十三郎は目頭が熱くなった。

このあと、平八は驚くべき行動に出た。
百姓達から連判状をとるだけだと思ったら、それ以上の事もやりだした。
嬉しい暴走、と言って良い

町内の金持ちの家を回り、勝手に熱弁をふるって資金集めを始めた。
けちで有名なので声をかけなかった吉岡宿で二番目の金持ち、早坂屋からも金を出させてしまった。

虎は死して皮をとどめ、人は死して名をとどむと言います。
悪いことは申しません。あなたも出資の人数に加わった方が良い

いかほどなのか、の問いに
腕を組みながらこういった

そうですな。あなた様のご身分なら、五六百貫文というところでしょうな

五六百貫文も出せば店はつぶれてしまいます。
三百貫文。それでなんとかご勘弁くださいませんでしょうか。

平八に何の権限があるのか分かりませんが
実際に三百貫文出させてしまいました。

平八が集めた百姓達からの連判状
それを見て、同士たちも、口上書を書くことにした。

いざとなって一人でもやっぱり金は出さないとなったら全てが崩れてしまう。
絶対にそういうことは言わないという文書

例えば、大肝煎の千坂仲内
万一、金について行き違いが生じたるときは、わたくし家屋敷・家財・衣類はもちろん
妻子までも身売りしても上納いたす
わたくし妻子ともに右の覚悟にござそうろう

これらを全て添え
いよいよ、藩への願い出の書類を全て揃えた

見込みがあるかどうかは不明なまま
だけど、そういうことではない。
みんなの思いの結集です。

突然激しく戸を叩く音がした
平八です。

お願いがごぜえます。

さあ、続きはシリーズの次回でね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治]三条実美。のらりくらりの最高権力者

「歴代総理の通信簿」という本を読みました。
明治以降の全ての総理大臣に10段階評価をつけるという本です。
評価自体は、著者八幡和郎さんの主観なので、賛否両論あるでしょうがその分析がとても面白い

三条実美(さんじょうさねとみ)
そのスタートが三条実美です。

総理大臣という名称が始まったのは伊藤博文から
従って、初代総理大臣が伊藤博文であることは間違いないのですが
名称が総理大臣ではないにしても、同じ役目をした位があった。

ということで「序章」です

分かりやすくまとめてある図があるので、見ていきましょう。

①幕藩体制(慶應3/10/14)
大政奉還から王政復古の大号令までは、従来通り。
結局は徳川慶喜に委託せざるを得ない状況でした。

②総裁、議定、参与制(慶應3/12/9)
総裁に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)
副総裁に三条実美と岩倉具視(いわくらともみ)
ということは、一番最初の宰相は有栖川宮熾仁親王だと言えなくもない

③輔相制(慶應4/閏4/9)
総裁制は長くは続きませんでした。
副総裁だった三条実美と岩倉具視が公職の最高位である輔相になります

④太政官制(明治2/7/8)
翌明治二年七月には太政官制が成立し、右大臣に三条、大納言に岩倉と徳大寺実則が就任
明治四年になって三条実美は太政大臣となり、内閣制度の発足までの14年間続けて任務に当たります。

通じて言うと、三条実美は18年間トップにいたことになります。
かなりの長期政権だと言えるでしょう。

三条実美は藤原氏の中の清華家(せいがけ)
近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家、という摂関家の次の名門です。
一方の岩倉具視は中流の公家ですから
常に岩倉具視の上に三条実美がいて、お公家さんコンビは、二人三脚で物事を進めていきます。

俺が俺がの岩倉具視に比べると、印象が薄いことは否めません
岩倉具視は500円札にもなってますしね

征韓論の時、岩倉具視と西郷隆盛が大喧嘩
間に入って三条実美はノイローゼになって入院

そんなだから、ぼんくらなんだという意見もあります
ただ、ぼんくらで18年間もトップには立てない

特に、首都をどこにするかについてはかなりリーダーシップを発揮しています。
大阪を主張する大久保利通に対し、東京を主張

「東国はこれまで皇室の恵みを受けることが少なく、いつ人心が離れるか分からない。
京都や大阪の人々に少々恨まれても、古来からの関係もあるので皇室に刃向かうことはあるまい。
朝廷を江戸に置いて初めてこの国は安定する」

結局は大久保利通も、前島密に手紙もらったりして、東京論者に変わるんですけどね。

太政官制以降、内閣制までを整理すると
明治6年の征韓論で敗れて西郷隆盛が下野するまでは、三条実美を中心とした合議制
明治11年の大久保利通暗殺までは、三条実美、岩倉具視、大久保利通という縦のラインの独裁制
大久保利通暗殺後、岩倉具視のもとに、大隈重信、伊藤博文、井上馨が並列的に並び
明治14年の政変以降は、岩倉具視のもとに、伊藤博文が力を持ち
明治16年に岩倉具視が亡くなって、
明治18年に、内閣制に移行したという流れです。

伊藤博文が下級武士の出身だったので
三条実美の代わりとなって太政官になれなかった事が大きい。

であれば内閣の上に太政官を置くという制度より
内閣の同列的な地位の中の代表者的な意味で首相を置こうという発想
たまたま名家で、実力を伴った三条実美の代わりを見つけられなかったということです。

のらりくらりの性格ではありますが
激動のこの時代に、一癖も二癖もある猛者たちの上にたち
うまくコントロールするためには
そういった性格の方が良かったのかも知れません

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)