練塀特別見学会。その2

練塀特別見学会
の続きです

練塀の内部
さあいよいよ練塀の内部見学です
いかに本途帳の以下の絵と一緒か確認しましょう
図面には内部に瓦を組み合わせた5つのアーチ状のものが書かれています。
これは何なのかというと雨を外に逃すためのもの

練塀の上には瓦屋根が乗っかっているので、雨は中に入ってこないと思いきや
残念ながらやっぱり浸透してくる
それを外に逃すための構造
その構造が、5つ書かれている

対する現物がこれ


解体時のスライドの方が分かりやすいかな

水分を最後に外に逃す場所の瓦は長めになっているのもそのとおりだった

中の瓦は一枚きれいなものならベストなんでしょうが
コストがかかりすぎる
江戸って高度なリサイクル社会なので壊れた瓦は取ってある
それを埋め込み、パッチワーク的にきれいに組み合わせていっている

私は全くの素人なのでとんちんかんな事言いますが
あの5層の瓦って、水を逃がすだけじゃなく、別の目的もあるんじゃないかという気がする
設計図を見て私には五重の塔に見えた
日本建築の最高峰
地震の国日本おいて、地震に強いモビール的構造で力を分散させる

上からの力を中の瓦が横にずれる事で力を分散させるとか
塀が壊れる横揺れに強いとか

電車の板バネにも似ているような

練塀を含めた土塀の大きな役割は、火災に強いと言うことでしょう
江戸は何度も大火に見舞われた火災都市
塀で類焼を食い止めたい

実際に、東京大空襲の時に廣度院も、その練塀も火災に見舞われた。
そのあとがこれ
赤く変色していますね

またこちらの瓦はボロボロになっている。瓦は自分が焼いて作られた時の温度を超えるとボロボロになるらしい。
火災の温度はそれを超える

これは建物側で見られるが、道路側では見られない
火災を食い止めたという事ではないか

副住職さんは貴重な戦争遺産なので、できるだけこのままの形で残したいと言っておられた。

先代の住職さんの時に、練塀の屋根を張り替える補修工事を行っている
その時、下まで雨が浸透しないよう瓦の下をモルタルで固めた
それがこの三角の部分

先生は、この処置がここまで良い状態で中を保てたひとつの要因だろうと言っておられた

ここから、先生が中心になって戻していく作業に入る
同じ材料を同じ場所に戻すため、チョーク等でマーキングしたあとがあった

それぞれの瓦で、弱っているものは壊して強化する材料を混ぜた上で同じ形に復元するらしい
積んでいくときも同じ工法で積んでいく
木枠を組み、間を糸で繋ぐ
その位置に来るまで、30cmの厚みの土が5cmになるまでガンガン突く。突いて突いてまた突いて
糸のところまで来たら瓦を置いていく
気の遠くなるような作業

間地石
練塀のさらに下には基礎として間地石(けんちいし)が置かれる
お隣の工事で、練塀の延長線上の歩道の下から、きれいに間知石が見つかった

お隣さんは良い人なので、貴重なものだと話しすると
じゃあそのまま引き上げて、みんなに見える形で展示しましょうと言ってくれた
それがこれ

3層に積まれていた
外側は四角で中側が三角に削られ、その間の空間に裏栗石という砂利が敷き詰められる
水はけを良くしておかないと、水がたまって中から崩れるから
この三角の角度は、石材が豊富だった江戸初期はそれほどでもなく奥まで四角っぽいんだけど
後期になってくると、三角の角度がより鋭角になってくる
工事の現場で三角に削られ削られた残りはそのまま裏栗石として使う
今回の発掘で、一層目と二層三層目が、石の材料も違うし角度も違うことが判明
一層目と二層三層目は時代が違う
おそらく江戸初期からも練塀かは分からないけど塀が同じ場所にあって
おそらく享和2(1802)年に1層目の間知石だけを残して、二層目三層目、さらにその上の練塀を全く新しく作り直したのではないだろうか

ああ、面白かった。

これで終わりではありますが、何と言ってもでーこんでございます。
浜松町まで行ってこれだけで帰る訳はございません。
この前後にウォーキングをしております。
その様子は次回

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

練塀特別見学会


以前、増上寺の子院、廣度院(こうどいん)で練塀(ねりべい)の話で大盛り上がり
練塀について考える。その1
練塀について考える。その2

その廣度院から手紙が届いていました
もしやあの話?と思いましたが、何せ受験中だったので封も開けずにそのまま
受験が終わって思い出し、開けてみると

やっぱり!
練塀特別見学会

お隣との境界の関係で、練塀をほんの一部一旦取り壊す必要がある
その時、中が見れる。みんなで確認したいので、住所を書いてもらえると、と言われて書いていた

9/8(金)と9/9(土)
間に合うじゃないか
9/9(土)10:00からの回に参加します。と返信ハガキ

練塀特別見学会
大反響だったらい。
200名を超える申込み
9/8は台風だったので、その分9/9に回数を増やして移動してもらってと大忙し

今日10:00からの回は、40名ちょっとで超満杯

まずは、工学院大学客員研究員の菅澤先生がスライドを映していただきながらのお話
今回の練塀解体調査を実際にやっていただいた、とても詳しい先生です。

江戸時代には江戸中のあちこちに存在していたはずの練塀
今は本当に数ヵ所にしかないとても貴重なもの

隣のビルとの境が、隣のビルの建て替えに伴い繋がっている部分を解体し作り直す必要があって
中を調査する機会を得た
最初心配していたのは、年数が経っているため、中が崩れて空洞のようになっているのではないかということ
見てみると、その心配は全く杞憂のものでした
実にしっかりした仕事がされており、本途帳(ほんとちょう)と寸分たがわぬものでした

本途帳というのは、当時の最高峰の建築集団「甲良組(こうらぐみ)」が江戸城を作るときに設計書兼作業指示書として作成されたもの
そこに練塀のページがあり、江戸城内の塀はその構造で作られたものだと思われる

今回の調査で初めて練塀の中が詳細に明らかになったが
本途帳(ほんとちょう)に書かれたものと構造も材料も寸法も全く異ならなかった
そして驚くべき事に、崩れもなければ歪みもない
我々が古い構造物を調査するとき、どれだけ歪んでいるかから入るのですが
それがほとんどなかった
私が経験した中で、見事な仕事というべきもの

各地方の練塀をひとつずつ説明していただきましたが
やっぱり江戸の練塀と各地方の練塀は若干考え方が違う気がする

あと、面白かったのが、増上寺三解脱門の横の練塀
明治以降に継ぎ足している
解散後、私が写真撮りに行きました
ここ

そのあと、副住職さんがさらに色々解説していただいた

一通り解説が終わったので、思わず私が質問
調査結果として、この練塀は享和2(1802)年のものということになりますか

それは分からない
増上寺の三解脱門の両サイドの部分はおそらくそうではないか

確実な証拠がない以上、先生も副住職さんも言い切る事は出来ないでしょうから
変わって何の責任もない私が断定することにいたしましょう

廣度院の練塀は、甲良組が享和2(1802)年に作ったものが、そのまま残されています。
享和って寛政の次で文化文政の前
松平定信が寛政の改革を行ったすぐあと。
将軍でいうと11代将軍家斉です
今から220年も前
そんな前のものがそのまま残っていて、その中身をこれから見に行こうという訳です
こんな大興奮がありましょうや

そして、修復も先生が担当するのでそのやり方の説明もあった
瓦とかの材料をチョークとかで印をつけ復元出来るように覚える
材料は基本的に同じものを戻していくが
強度をアップするためにある薬剤を入れて、瓦を固め直す
土の部分も基本的に同じ材料で同じ工法で戻していく
30cmの厚みの土なら、5cmになるくらいまで上からどんどん叩く
だから築地塀

解説が終わったあと、参加者の一人が先生に
ここのこの材料は石灰じゃないと思います
おおおっ。すごい。
3人のグループで来ていて、建築関係の材料を扱っている会社の人たち
いやあ、今回のこの調査がいかに色んな方面の人に注目されていたかということ

さあこのあと、いよいよ現物を見に行くことになります
次回その続きをレポートすることにいたしましょう

[迷信]5 夜に口笛を吹くと蛇がくる

「科学で読み解く迷信・言い伝え」シリーズ

夜に口笛を吹くと蛇がくる
夜に口笛を吹いていると、大人から

「蛇がくるからやめなさい」

そうなのかなあ

蛇って耳あるんだろうか
口笛の音は聞こえるんだろうか

蛇に耳があるかと言われると
あるっちゃあるし、ないっちゃない

蛇は非常に聴覚が発達しているんだけど
いわゆる「外耳」はない

「内耳」が体の中にあり、耳の穴は開いていないんだけど
体全体から、その内耳に音が伝わる

体全体が耳みたいなもんです。
耳で音を聴くというよりは、体全体で音を感じているのである。

人間はかすかな音がすると、その音の方向に耳を向け、あくまでも耳を通して音を聞く。
一方の蛇は、草の動きやほかの動物が移動する小さな音を全身でキャッチする。

その力は、 ほかの動物よりもはるかに優れていると考えられている。

だから、レッドスネークカモン、と言いながら笛を吹くと
蛇が顔を出す訳です

一般的に、蛇が聞き取ることができる音域は50~1000ヘルツ。
これはかなり低い音域にあたる。

人間が吹く口笛の音域は平均で500~4000ヘルツである。
一部カバーしていますが、1000ヘルツから上は苦手

高い音で口笛を吹くと気付かれない訳です。

お母さんに言ってあげましょう。
今のは、2000ヘルツだから大丈夫さ

ちなみに、蛇には、昼行性のものと、夜行性のものがある
日本にいるのは36種類
ほとんどの蛇は昼行性だから、夜口笛を吹いても大丈夫

ただ、ここだけの話、ニホンマムシは夜行性

お母さん
ちなみに、日本にいるのは36種類
ほとんどの蛇は昼行性だから大丈夫さ

ほとんどなの?

おっと、鋭いところを突かれました。

ニホンマムシの話は内緒ね

[科学]シリーズはこちら(少し下げてね)

[寺社建築]木造建築なので

建築における、西洋と東洋の根本的な違いは石か木か

特に日本は木材が多くとれたので、建物は木造のみ
木の特徴を考えた上での建築となります。

木造を石や鉄筋コンクリートと比べた特徴をざっと考えると以下の感じでしょうか
ゆがむ
腐る
燃える
それらを総合して耐久性が石に比べると劣る
加工が楽
湿気を一定に保つ
夏は涼しく冬暖かい
総じて安い
他にもありますが、これらを踏まえて、どう建築するか

基本的に、ずっとは持たない前提で考えます。
ゆがむ前提
外して一部を入れ替えられる

ウォーキングをしていると
よく、この家はどこそこから移築して、というのに出会うんですが
どうにもイメージが沸かなかったんです
スポッと抜けるんやろか
抜き取った家はどれだけ大きなトラックに乗せるんやろ
そんなでかいトラック、交差点曲がれるんやろか

合点がいきました。
解体して運ぶってことね
古民家とか、寺社建築は、釘とかをほとんど使わず
継手(仕口とも言う)とかで組み合わせていく

もう一回同じように組み立てれば、はい完成
空間移動の術

何百年前のお寺とかあると
全部が全部当時の木材ではないらしい

そもそも宮大工は、継手の遊びが無くなった状態を想定して組んでいく
随分前にたてられた建物を見てきての技なのでしょう
100年に一度は外側との歪みを解消するため
軸部まで解体する

1400年経った法隆寺は7割が当時の木材で3割が入れ換えた木材
7割が当時のものというのが逆にすごいなと思いますが。

先年の重要文化財妙心寺、庫裏(くり)(京都市右京区)における修復の際
興味のある話があった
元々、杮葺き(こけらぶき)の屋根だったんだけど
江戸時代の、文化5(1808)年に瓦葺きに変わっている
その後、瓦葺きの屋根が現代まで続いた

瓦の屋根において、18cmも沈み
建物全体が南西に傾いた。

屋根全体で240坪もあり、瓦の重さは100トンにもなる
さらに棟の上に大きな煙出しを設置したことから、
屋根全体の重量は柿葺のときとくらべて、約120トンも増加した。

もともと柿葺用として建設された軸組や小屋組に、無茶な荷重をかけたのだから、
当然おこるべくしておこった結果

面白いのが、文化5(1808)年に瓦葺きに変えたときの前の古文書が残っている
安永9(1790)年の寺の記録には、
「瓦葺にすれば狂いが出るので請け合えない」として大工が拒否している
しかし大工の言葉は無視され約20年後、請けてくれる別の人に頼んだのでしょう
瓦葺が強行された

おそらくもう自分は死んでいなくなっているほどあとの事について
責任を終えないから受けられませんとは、なんという心意気
黙ってやればお金もらえるのにね
日頃の仕事で、身に詰まされることがいっぱいあります。

今回の修復では、杮葺きに戻しました

屋根のカーブ
お寺の屋根は反りがあります。
この前、東京理科大の科学博物館で、理科大の学生さんにサイクロイド曲線といって
最も早く雨が落ちる曲線だと教えて貰いました。
計算じゃなく、経験で理解していたのには驚きです。

垂木(たるき)と言って外から見える分は最後のところだけ
中で屋根の荷重を支えて、でこの原理で軒先を持ち上げる桔木(はねぎ)は
野物材といって、綺麗にかんながけされた化粧材ではない
太鼓落としと言って、荒木や樹皮を剥いだだけの丸太を使うことも多い

屋根のカーブに合わせるとき、細かく段々に継いでいったりすると意味がないので
一本どーんと支える桔木は、容赦なく締め上げられ、曲げられる
そうすると、元に戻ろうとする力が出てくるので
上からの荷重とバランスさせるという考慮になる

それぞれの木材が、自身の重量や引き合い押さえ合いの
総合芸術が木造建築
石や鉄筋コンクリートで
ほれ強いだろう、いつまででも持つぜ
ってのと、根本的に考え方が違う

[寺社]シリーズはこちら(少し下げてね)