[迷信]5 夜に口笛を吹くと蛇がくる

「科学で読み解く迷信・言い伝え」シリーズ

夜に口笛を吹くと蛇がくる
夜に口笛を吹いていると、大人から

「蛇がくるからやめなさい」

そうなのかなあ

蛇って耳あるんだろうか
口笛の音は聞こえるんだろうか

蛇に耳があるかと言われると
あるっちゃあるし、ないっちゃない

蛇は非常に聴覚が発達しているんだけど
いわゆる「外耳」はない

「内耳」が体の中にあり、耳の穴は開いていないんだけど
体全体から、その内耳に音が伝わる

体全体が耳みたいなもんです。
耳で音を聴くというよりは、体全体で音を感じているのである。

人間はかすかな音がすると、その音の方向に耳を向け、あくまでも耳を通して音を聞く。
一方の蛇は、草の動きやほかの動物が移動する小さな音を全身でキャッチする。

その力は、 ほかの動物よりもはるかに優れていると考えられている。

だから、レッドスネークカモン、と言いながら笛を吹くと
蛇が顔を出す訳です

一般的に、蛇が聞き取ることができる音域は50~1000ヘルツ。
これはかなり低い音域にあたる。

人間が吹く口笛の音域は平均で500~4000ヘルツである。
一部カバーしていますが、1000ヘルツから上は苦手

高い音で口笛を吹くと気付かれない訳です。

お母さんに言ってあげましょう。
今のは、2000ヘルツだから大丈夫さ

ちなみに、蛇には、昼行性のものと、夜行性のものがある
日本にいるのは36種類
ほとんどの蛇は昼行性だから、夜口笛を吹いても大丈夫

ただ、ここだけの話、ニホンマムシは夜行性

お母さん
ちなみに、日本にいるのは36種類
ほとんどの蛇は昼行性だから大丈夫さ

ほとんどなの?

おっと、鋭いところを突かれました。

ニホンマムシの話は内緒ね

[科学]シリーズはこちら(少し下げてね)

[寺社建築]木造建築なので

建築における、西洋と東洋の根本的な違いは石か木か

特に日本は木材が多くとれたので、建物は木造のみ
木の特徴を考えた上での建築となります。

木造を石や鉄筋コンクリートと比べた特徴をざっと考えると以下の感じでしょうか
ゆがむ
腐る
燃える
それらを総合して耐久性が石に比べると劣る
加工が楽
湿気を一定に保つ
夏は涼しく冬暖かい
総じて安い
他にもありますが、これらを踏まえて、どう建築するか

基本的に、ずっとは持たない前提で考えます。
ゆがむ前提
外して一部を入れ替えられる

ウォーキングをしていると
よく、この家はどこそこから移築して、というのに出会うんですが
どうにもイメージが沸かなかったんです
スポッと抜けるんやろか
抜き取った家はどれだけ大きなトラックに乗せるんやろ
そんなでかいトラック、交差点曲がれるんやろか

合点がいきました。
解体して運ぶってことね
古民家とか、寺社建築は、釘とかをほとんど使わず
継手(仕口とも言う)とかで組み合わせていく

もう一回同じように組み立てれば、はい完成
空間移動の術

何百年前のお寺とかあると
全部が全部当時の木材ではないらしい

そもそも宮大工は、継手の遊びが無くなった状態を想定して組んでいく
随分前にたてられた建物を見てきての技なのでしょう
100年に一度は外側との歪みを解消するため
軸部まで解体する

1400年経った法隆寺は7割が当時の木材で3割が入れ換えた木材
7割が当時のものというのが逆にすごいなと思いますが。

先年の重要文化財妙心寺、庫裏(くり)(京都市右京区)における修復の際
興味のある話があった
元々、杮葺き(こけらぶき)の屋根だったんだけど
江戸時代の、文化5(1808)年に瓦葺きに変わっている
その後、瓦葺きの屋根が現代まで続いた

瓦の屋根において、18cmも沈み
建物全体が南西に傾いた。

屋根全体で240坪もあり、瓦の重さは100トンにもなる
さらに棟の上に大きな煙出しを設置したことから、
屋根全体の重量は柿葺のときとくらべて、約120トンも増加した。

もともと柿葺用として建設された軸組や小屋組に、無茶な荷重をかけたのだから、
当然おこるべくしておこった結果

面白いのが、文化5(1808)年に瓦葺きに変えたときの前の古文書が残っている
安永9(1790)年の寺の記録には、
「瓦葺にすれば狂いが出るので請け合えない」として大工が拒否している
しかし大工の言葉は無視され約20年後、請けてくれる別の人に頼んだのでしょう
瓦葺が強行された

おそらくもう自分は死んでいなくなっているほどあとの事について
責任を終えないから受けられませんとは、なんという心意気
黙ってやればお金もらえるのにね
日頃の仕事で、身に詰まされることがいっぱいあります。

今回の修復では、杮葺きに戻しました

屋根のカーブ
お寺の屋根は反りがあります。
この前、東京理科大の科学博物館で、理科大の学生さんにサイクロイド曲線といって
最も早く雨が落ちる曲線だと教えて貰いました。
計算じゃなく、経験で理解していたのには驚きです。

垂木(たるき)と言って外から見える分は最後のところだけ
中で屋根の荷重を支えて、でこの原理で軒先を持ち上げる桔木(はねぎ)は
野物材といって、綺麗にかんながけされた化粧材ではない
太鼓落としと言って、荒木や樹皮を剥いだだけの丸太を使うことも多い

屋根のカーブに合わせるとき、細かく段々に継いでいったりすると意味がないので
一本どーんと支える桔木は、容赦なく締め上げられ、曲げられる
そうすると、元に戻ろうとする力が出てくるので
上からの荷重とバランスさせるという考慮になる

それぞれの木材が、自身の重量や引き合い押さえ合いの
総合芸術が木造建築
石や鉄筋コンクリートで
ほれ強いだろう、いつまででも持つぜ
ってのと、根本的に考え方が違う

[寺社]シリーズはこちら(少し下げてね)

[寺社建築] 寺の建物の名前

お寺には色んな建物があります。
それぞれ何のためのものでしょうか

本尊(ほんぞん)
本尊を安置する建物を、金堂(こんどう)・仏殿・大雄宝殿・本堂などと呼びます。
仏、大雄、はお釈迦様の尊称なので
全て、お釈迦様のいる場所、という事です。

金堂と本堂ってどう違うのかなとずっと疑問に思っていました。
日本史の本には必ず寺院の配置の移り変わりみたいな図があって、金堂となっているのに
実際に歩き回ってみると、金堂という表現を目にすることがなく、本堂ばかり

唯一、国分寺で金堂跡地、だけ
謎が解けました。
時代が違うんですね
金堂は奈良時代以前の呼び名
中国にも朝鮮にもその呼び方はないので、起源は分からない
仏像が金色だからなんでしょうね

この頃は、金堂には基本的に人は入らず
法要や儀式は金堂の南面に舞台を仮設して行っていました。
堂内には、華や供物をそなえる時のみに入った。

平安時代以降は、本堂と呼び方が変わりました。
役割も変わった。
金堂の頃は建物内部は仏様のものだったけど
本堂になると、
仏様と衆生(一般の信者)、そして間を取り持つ僧が全て同じ屋根の下
雨の多い日本ではとてもありがたい。

僧が議論するところが、講堂や法堂

唐招提寺の講堂

座禅の修業をするところが、僧堂や禅堂

東福寺の禅堂

僧の師弟が同居して法を伝える場所が僧房
小さな部屋が連なった建物でした

法隆寺の旧僧房

そこから独立して住まいを持つようになると
子院とか塔頭(たっちゅう)とか呼ばれます。

南禅寺の塔頭

お経を納めておくのが、経堂や経楼
堂や殿は最高級の建物
殿の方が若干格上のイメージ。
楼は2階建て

中世末期に出来た金閣寺や銀閣寺は本格的な楼閣建築ですが
それまでは楼と言っても単に二階に登れるだけで、一階は使われていない。

鐘楼(しょうろう)は時を告げるための鐘があり
太鼓で時を告げる場合は、鼓楼

東大寺の鐘楼

塔はお釈迦様の遺骨(仏舎利)を納めてあるよという標識
塔婆(とうば)の略です。

五重の塔、三重の塔、多宝塔など色々あります。

法隆寺の五重の塔

塔は木造の建物以外にも石塔もあります。
宝篋印塔や五輪塔など

瀧法寺の宝篋印塔

聖域を区切るのが門
囲って回廊になったりします。

法隆寺の中門

生活のための空間として、食堂、湯屋、また倉庫などもあります。

伽藍(がらん)
こういった各種建物を伽藍(がらん)と言います

大規模寺院は
本堂、講堂、塔、僧房、経楼、鐘楼、中門を含む回廊が揃っています。
厳密にこの種類じゃなくても良いんですが
7つも揃って大きいよねと、大規模寺院の事を七堂伽藍(しちどうがらん)と呼びます。

永平寺の七堂伽藍

鎌倉時代以降の寺院には、さらに違った種類の建物があったりします。
開祖が信仰の対象になりますので
開祖の遺影や像を安置する祖師堂や御影堂(みえどう)が作られ
本堂と同格、ないしはそれ以上に重視されます。

身延山久遠寺の祖師堂

[寺院]シリーズはこちら(少し下げてね)

[寺社建築]屋根材の話

[寺社建築] 斗栱はアートか
で、屋根を支える話はしましたので、今度は、屋根を葺く材料の話

茅葺
屋根を葺く材料の最初は草
草の種類が、だんだん、限定されていきます。

ひとつには稲藁
藁は稲を作る上で大量に排出されるゴミなので
何とか有効利用したい。
大量に使える物としては屋根が一番
でも、耐久性がいまいちでした。

「かや40年、麦わら15年、稲わら7年」と言われます。
茅には適度な油分があり、雨を弾きますが、
藁は水を吸う特性があって、耐久性に大きな差があるのです。

稲藁は、わらじやしめ縄、馬の餌などになっていきます。

茅(かや)とはススキの事です。
屋根材となるときだけ「かや」と呼び、生えている間はススキです。

桧皮(ひわだ)葺き、杮(こけら)葺き
桧皮葺きや杮葺きが開発されます。
桧皮(ひわだ)は桧(ひのき、檜とも)の皮を剥いだもの
形を整えて、ずらしながら、竹の釘で固定していきます。

神社の屋根に使われます。

杮(こけら)は、椹(さわら)や杉、栗の原木を板状にしたもの
桧皮に比べるとすっきりした見た目になるが、耐久性は劣る
桧皮葺きが35年に対して杮葺きは25年

書院、客殿、高級武家屋敷、数寄屋造などに貴族趣味的に用いられた
今は、指定文化財など、現状を変えてはならない建物にしか使われていない。

ちなみに杮(こけら)という漢字は柿(かき)とは似ていますが違います。
柿(かき)のつくりは、なべぶたに巾ですが
杮は上からしたまで突き抜けています。
左が杮(こけら)右が柿(かき)


仏教伝来とともに、中国から寺院が導入され
瓦が入ってきます。

何あれ、かっこいいっ

人々は魅了され、次々と寺院が建てられていきます

神社としては、内心「負けた」と思っているわけですが
認めるのは悔しい。
そこで、寺院の事を「瓦もん」と言って馬鹿にします。
瓦礫(がれき)とか瓦解(がかい)というように
マイナスイメージの言葉が残っているのはその影響でしょう。

ただ、神社には、教義も教えも哲学もお経のように紙に書かれた物もありません。
勝負にはなりません。
そこで、もともと別ジャンルのものと位置付け、共存共栄を図ろうとします。
神仏習合です。

そうなると、もともと内心かっこいいと思っている瓦も解禁です。
神社にも瓦葺きが登場していきます。

ウォーキングしていると、やっぱり半分以上、神社に瓦は使われていません。
桧皮葺きではないにしても、銅板なのか何らかの金属板で、桧皮葺き風にしてあります。

瓦以上に、すぐに取り入れられたのが屋根の反りだと思います。
それまでは、神社の屋根はまっすぐだったんですが
カーブするようになります。
今、神社の屋根は、流造りと言われる前側が長めの屋根が主流です。

神社や寺院以外の建物で瓦がどうだったかというと
ほとんど普及しませんでした。
そもそも、寺院以外で瓦が禁止されていたというのがあります。

とはいえ、瓦の有用性は明らかなので、宮殿や大規模な屋敷とかには使われます。
むしろ、寺院側が、瓦職人を抱え込み
実質的に他では作れないようにしたという面が強いかと思います。

なぜなら、寺は武力を持っていたからです。
一大武力勢力だった。

時の権力者たちは、しばしば寺の勢力に手を焼き
潰そうとしますが、瓦で頑丈に守られた寺は、防衛に優れていた訳です。

本瓦
江戸時代より前の瓦は本瓦と言われるものでした。

江戸時代が始まって、3分の1くらいが経った
延宝2(1674)年、近江大津の三井寺の用を勤めていた西村半兵衛が
桟瓦(さんがわら)という今のタイプの瓦を発明します。

大発明、大革命です。

基本的に一種類の瓦ですむようになりました。

大幅コストダウン

作り方も簡単で歩留まりは良く
木枠で大量生産が可能になった。
葺く時も、職人が高度な技術を必要としません。
重さも軽いので、建物に必要とされる強度も全然違います。
良いことづくめ
一気に瓦が一般住宅にまで普及していきます。

きのう、かねやすの話でも言いましたが
江戸時代の最初は一般住宅において瓦葺きが禁止されていた。
火事の時、壊すのに危ないという理由

8代将軍吉宗の時、方針の大転換
瓦屋根の耐火性により
瓦屋根も「苦しゅうない」とされた
本郷辺りを焼き尽くした享保の大火で復旧する家屋は
むしろ瓦葺きが推奨された。

その前に桟瓦が発明されたというのが大きい。

その効果が実証されたのでしょう。

11代将軍家斉の時は、逆に瓦葺き以外の建物の建築が禁止されています。

明治10(1877)年に、更なる技術革新が行われます。
引っ掛け桟瓦の開発です。
それまでは、屋根の上に土を塗って、瓦を固定していました。
葺土なしの乾葺が可能となり、瓦の下に棒を渡し、釘留めか銅線で結ぶ工法が確立する
さらに爆発的な普及。

日本の屋根は瓦屋根と言えるほどになります。
♪いらかの波と雲の波~

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