相田みつを美術館に行ってきました。

相田みつを美術館に行ってきました。

その経緯はこちら
丸の内をふたつのテーマで歩く

相田みつを美術館
すみません。写真は写して良いんでしょうか

作品については、ご遠慮いただいています。
館内の様子とかは大丈夫です。


これは大丈夫。

まず、井戸が出迎えてくれます。

中を覗くと、文字が書かれるところや、水や、色々入れ替わる

さあ、順路に従って

面白い白板がありました
水を含んだ筆でそこに文字を書くと、黒く浮かび上がってきます。
乾くとまた消える

ありました。
あのお馴染みの文字

(パンフレットから)

何年前かなあ
心にずしんときて
詩集を買って。

今もどこかにあるはずだけど
どこなんだろう。

中学の頃から詩が好きだった
手帳サイズのノートに書きためて、200くらい
その内、曲までつけたのが50くらい

私は基本、芸術は抽象的な方が感動するタイプなので
詩でも絵でも映画でも。

そういう意味では好きなタイプの詩ではないんだけど
新しいジャンルなのかとも思う。
まあ、良いや
こんなに分かりやすくて、ドンと来て、等身大
名言、のような説教臭さもない。
自分にとって良いものは良いんだから。

相田みつを美術館は、息子さんがやっておられて
作品ひとつひとつに息子さんが、それにまつわるエピソードを書いておられる。

「良く誤解されるんですけど」
と書いておられて
展示してあったのが、般若心経
習字のお手本のような綺麗な字

伝統的な、通常の書家として食っていけそうにはなったんだけど
疑問が沸いちゃった

お手本があって書き写す
勿論、そこに自分流の表現というのは入ってくるんだけど
やっぱり、なんか違う。

自分で書きたいものを自分で考えて
それを書にする
それを人が詩と表現するなら
それは詩なのかも知れないけど

音楽で言うと
シンガーソングライターみたいなもの

そうすると、書体が変わってきた

さっきの
つまづいたっていいじゃないか
にんげんだもの
は、同じもので、32歳の時と50過ぎの文字が展示されているんだけど
やっぱり文字が違う。

以前どこかのおじいちゃんが新聞かなんかに投稿していた。
相田みつをっていうのは、とても良いことを書いています。
字は下手くそだけど。

笑いましたが
そう思うかもね

展示してある書で
今の私にずんと来るものと来ないものがある

昔はこういうの、響いていたなあ
でも、今の自分としては、こうは思わないんだよなあ

そういう今響くものを書き留めたくなった。

写真を撮るのはダメだと言われたから
文字で書いておこう。

タブレットを開いて
文字を打ち始めた

しばらくしたら、スタッフの人がやって来た。

あっ、書いてもダメなんですか。

打ち込むのはご遠慮いただいています。
その代わり
ボードと紙と鉛筆をお持ちしますので
そちらにご記入ください

なるほど、入口のところにボードと紙と鉛筆があったのはその意味か

書き留めました。

それを、買ってきたハガキや、図書館で借りた本等から引用して書を掲載します。
私が今響く書

最後にショップがあるんだけど
そこで買ったメガネ拭き

これが一番かなあ

しあわせ
何度も、言い方を変えつつブログで書いています。
私は、今、やたらめったら幸せ

3年前から、急にそうなりました。

そういう意味では
相田みつをの
〇〇しないといけないと思うんだけどなあ
できないわたし
のパターンは
そうだよなあ、とは思うけど
昔ほどは響かなくなったのかも

出来るようになったわけじゃないんです。
〇〇しないといけない、と思わなくなったし
出来なくても全然気にならなくなった。

人間としてあるべき姿、みたいなものに
興味がなくなった、っていうのかなあ
「良く生きる」みたいなことに頑張って
心が疲れるんだったら

自分が楽しいと思えることばかりをやっても
それほど批難を浴びないってことが分かってきた。

ブログも、ウォーキング同好会もそう。
自分が面白いと思うことだけを
調べてまとめて書いて、
ウォーキングイベントで、喋りまくる

一人でしゃべってばかりで、何だよあいつ、って思われるんじゃないかとか
途中にそう思ったこともあったけど
その辺は、吹っ切れた
イベントで喋りまくるのは、とても楽しくて止められない

根っから「出たがり」なんだなと心底分かった
ブログもそう

やたら楽しい楽しいとはしゃぎまくっているおじさんのブログ。
鼻につく、ってひとはいるでしょうね
でも3年もやってれば
そういう人はもう読まなくなっていて

いつもはしゃいでて、バカだなあとは思うけど
そういうでーこんは嫌いじゃないよ
って人が読んでくれている気がする
いただけるコメントでそれが分かる。

幸せなんです。
毎日が。

波瀾万丈で、波風ばっかり起こして
みんなに嫌われて
会社もいっぱい首になって
世の中を変えてやるんだって力んで。

でも、そういうところに幸せはなかった。

その時々は楽しいと思っていたんだよ
でも、今のこの尋常じゃない楽しさを味わっちゃうと
あの時自分は本当に楽しかったんだろうかって思っちゃう。

でーこんらしい詩をいくつか作ってみました。

じぶんひとり
たのしくっても
いいじゃないか

楽しい
ただそれだけ

前向き?
良いんじゃないかな
どっちでも

ゆったりと
生きる

なにも目指さない

こころそのままに

迷ったらゴー
はい、解決

心配ごと?
うーん
忙しくて
それどころじゃない

人の事なんて気にならず、平穏無事に生きている
でもね
どうにもこうにもならないことが、1年ちょっと前にあったんです。
とても嫌な奴が職場にいた
直接私に仕事の指示をするサブリーダー
人人具足
彼は彼で問題なし
って思おうとしたけど無理だった
随分頑張ったし、悩んだけど
「良く生きる」ことより「楽しく生きる」ことを選んだ

彼から逃げた

その時の会社を辞める必要があったけどね。

うまくやろうと努力はする
でも、どうしてもダメだったら
逃げれば良い
一生を精神鍛練に費やすには勿体ない

この最終手段を手に入れたのは大きかった
だから、今も、このあとも幸せいっぱい、って言い切れるんです。

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島秋人の手紙その2

島秋人の手紙その1の続きになります

前坂和子
当時高校生の前坂和子は
次に掲載される島秋人の短歌を心待ちにするようになります。

自分で、島秋人の歌集を作り、「いあいしゅう」と名付けます。
自分だけの歌集です。

そんなある日、新聞である報道があります。
島秋人の死刑が確定

前坂はいてもたってもいられず島秋人に手紙を書きます。

島からはとても素直な、ありがとう、の返信

何度かやり取りして
一度会いたいですね、ということになる

前坂は「いあいしゅう」を持っていきます。

その後、二人の文通は続き、
実に6年の長きに渡ります。

千葉てる子
次に、島の短歌に強烈に心を突き動かされた人がいます。
千葉てる子さん
島秋人より十歳年上。
熱心なクリスチャンです。

手紙を書いて面談もして
でも、あまり神様がどうのという話をする気になれなくて
友達のように接したら
島も心を開いて、神様の事もたずねるようになり
「信仰の姉さんになって下さい」
昨日書いた手紙の文面にあった、洗礼のくだりは
そういった経緯を経ています。

島は、次第に死刑になってかつ人のためになることができないかを考え
遺体と角膜を捧げようと考えます。
でも、肉親の同意書が必要です。
島は戸籍から外されてしまっています。

千葉てる子さんにあるお願いをします。

養母になってくれませんか

千葉さん快諾
10歳年上なだけなんだけどね。

島秋人、本名、中村覚は千葉覚になります。

その日
昭和四十二年十一月一日朝、処刑の日が明日であると告げられます。
この日、予め呼ばれていた五人との最後の特別面会が許されました。
お父さん、養母の千葉さん、前坂さん、教誨師(きょうかいし)の泉田精一さん、
そして彼の信仰の導きをした小川久兵衛牧師です。

千葉:明るいね、どこまでも明るくてね、ニコニコして、ほんとに明るい顔していました。どこにも曇りのない。とにかくみんなで会うのが嬉しかったんじゃない。いつも金網越しで会っていたもの。「このまま私が許されたら、いいことするんだけどもな」なんて、ポツッと言ったのね。ほんとだなあ、と思ってね。私は、涙ボロボロ出て・・・

手紙
被害者の鈴木さんへ、
長い間お詫びも申し上げず過ごしていました。申し訳ありません。本日処刑を受けることになり、ここに深く罪をお詫び致します。最後まで犯した罪を悔いておりました。亡き奥様にご報告して下さい。私は、詫びても詫びたらず、ひたすらに悔いを深めるのみでございます。死によっていくらかでもお心の癒されますことをお願い申し上げます。申し訳ないことでありました。ここに記し、お詫びのことに代えます。皆様のご幸福をお祈り申し上げます。
昭和四十二年十一月二日朝、千葉覚
 
吉田さんへ
吉田絢子様
奥様、とうとうお別れです。僕との最後の面会は、前坂君も来てくれるので、前坂君から聞いて下さいね。思い残すことは、歌集出版がやはり死後になることですね。被害者の鈴木様への詫び状を同封致しますから、お届けして下さいね。僕の父や弟などのことはなるべく知れないように守って下さいね。父たちも可哀想な被害者なのです。短歌を知って僕は良かったと思って感謝しています。僕のことは、自分で刑に服して償いとするほかに道のないものと諦めています。覚悟は静かに深くもっています。長い間のご厚情を感謝致します。有り難うございます。
 
前坂さんへ
前坂和子様
色紙と空穂先生の序文と住所をひかえたノートと年賀状と万年筆を差し上げます。年賀状の方々に、歌集刊行の節はお知らせ下さい。万年筆は私の使用していたものです。
十一月二日朝
惜しいようなのにとうとう朝です
和子さん、さようなら。
秋人

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神戸震災記念館に行ってきました。

昨日、姪っ子の結婚式で神戸に行った話をしましたね。

せっかく、神戸まで来たんです。

一つくらいどこか観光してから帰りたいな
でーこんの考えそうな事でしょ

朝、どこ行こうか考えていた。

開国
まあ、普通に考えると異人館なんだろうけど
でーこん的に考えると、
神戸と言えば開国
幕末から明治維新、文明開花のいろんな遺跡がいっぱいあるのではなかろうか
勝海舟と坂本龍馬の神戸海軍操練所とかね

神戸の開国についての歴史を分かりやすくまとめた博物館みたいなのがあると良いなあ

検索すると、意外にないのね
神戸はそんなネタで観光客呼び込まなくても
一大ブランドですからね

唯一ひょっとしたらこれって期待した、神戸市立博物館
工事中でお休みでした。

異人館巡り
神戸異人館巡り
昨日お話しましたが
これって予想外に降って沸いたような話。
単純にプラスオン

あっ
神戸と言えば
大きなテーマを完璧に忘れていた。

こんな大きなテーマを今更思い出すなんて
関西人としては、完全に失格ですね。

阪神淡路大震災です。

阪神淡路大震災
1995年1月17日
あの時は福島県郡山に住んでいた。

親兄弟は兵庫県

朝起きたら、えらいことが起きましたってテレビでやってて
ええっ
これが神戸?
あの神戸?

すぐに親兄弟に電話かけるけど
誰にも全くかからない

何度も何度もかけて
それでも全くかからなくて

仕事どころじゃないので
すぐに帰ってきて、テレビ見て
そしたら、時間を追うごとに死者の数がどんどん増えていって
とうとう1000人越えちゃったよ、と思ったのに
それどころじゃなくて、2000人とか3000人とか

電話しか出来ることがないから
電話かけ続けるんだけど全くかからなくて

翌日になっても状況は変わらず
火の海の映像が広がるばかり

親と妹は加古川なので、ちょっとは離れているんだけど
姉は、宝塚。
宝塚もニュースでどんどんやっている

公衆電話の方がかかりやすいらしいよって情報があって
十円玉いっぱい持って、公衆電話にいっても全く一緒

これはもう、どうにかなっていると考える方が順当だろう
救出に行くしかない

東京側から向かっても大阪を突っ切れる訳は無さそうなので
岡山まで飛行機で行ってそっち側から戻って来よう
電車で行けるところまで行って
後は何日歩いてでも。

当時携帯電話持っているのは金持ちだけだったので
本部長に頼み込んで携帯電話を借りた。

空港に行った。
岡山行きのチケットを買う前に
公衆電話から、もう一回だけ電話してみよう。

プルルルル

はい、もしもし

生きてたあ

こっちは揺れたけど全然大丈夫
姉ちゃんの所も家具はほぼ全部倒れて壊れちゃったけど全員怪我もなく無事
こっちには来なくても大丈夫だよ
やっぱりこっちからもそっちに全然電話かからなかったねえ

結局行かずに引き返した。

姉ちゃんの所のマンションはヒビも入らなかったから
数日は色々苦労したらしいけど
生活的には何とかなった

大変だったのは姉ちゃんの旦那さんの仕事の方
旦那さんの職場は、神戸市役所ですから。

ちなみに、妹の旦那さんは西宮市役所
こちらも大変だったらしい


震災の事を聞くと
もう今は、市役所の人達も話題にすることがないらしい。
20年経った今は
所員としてあの時を経験していない、若い人の方が過半数になってしまったから

それはそれで、とも思うんだけど

私としては
結局あの時駆けつけなかった

たまに実家に帰っても
神戸にまでは、行くことはなかったので
結局この20年、「あの現場」は
あの時のテレビで見た範囲を越えていない。

私はやっぱり兵庫県民なので
それは許される事ではないと思う。

偉そうに言っても
20年間わすれていたので
不届き者には違いないんですけどね。

神戸震災記念館
正式名称は
人と防災未来センター
地図

最初に7分間の映像
1995年1月17日5時46分に
神戸の各地に起きたことを再現映像にしてある

アクション映画を見ているような錯覚に陥るんだけど
全てが現実に起きたこと

ただただ衝撃で

ごめんなさい
感想の書きようがありません。

どんな言葉で表現しても
嘘の感想を書いている気がして

次の映像を見る場所へ行くまでの間
当時の町が再現してある
ここ、撮影NGだったので、お見せ出来ないのが残念なんですが
すごかったなあ
町ってこんな風になってしまうもんなのか

でも薄暗くって良く見えない
演出なのか
もうちょっと明るくしてもらった方が
と思って、ふと気づいた

ライフラインが全て寸断されている情報で
灯りなんてあるわけがない
真っ暗な中でのまさにこの風景だったんだなって

演出だなんて考えた自分が恥ずかしい

ここにあるものや、映像やらは
ただただ、事実を出来るだけ忠実に再現しようとしただけのもの

復興
次の部屋で15分間の映像を見ます
テーマは復興

その時どうだったのかも、見たかったけど
復興はどうだったのかも見たかった

正直、今の神戸で
当時の事がかいまみれる場所がない
では、復興はどのようになされていったのだろう

これは、映像だけでなく
そのあとの部屋のおびただしい量の展示物で少しずつ感じとれます

長くなりすぎましたね

まだ続きますので
分けさせて下さい。

続きはまた明日。

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ

渥美清が母に送った手紙

拝啓、おふくろ様、僕、元気

心にひびく日本語の手紙、という本を読みました。

渥美清
ご存知フーテンの寅さんですね

この手紙は、寅さんじゃなくて、渥美清でもなく
その本名、田所康雄がお母さんに出した手紙。

映画撮影のため
長期でアフリカに滞在することになった

旅立つ前
お母さんが

あなたねえ
アフリカに行くんなら、手紙くらいよこしなさいよ
「拝啓、おふくろ様、僕、元気」だけでいいから
ほんとにそれだけで良いから、
絶対に書きなさいよ

出したのがこの手紙

ほんとにそれだけやね

アフリカに滞在中、何度か出した。

母親
分かるわあ
このやりとり
目頭が熱くなる

特に私は母さんがもう亡くなっているから
コップ一杯泣ける

一部の例外はあるかも知れないけど
男性はみんなマザコン

でも大人になっちゃうと
面と向かって、「お母さん大好き」なんて気恥ずかしい
そんなそぶりを見せるだけでも照れくさい

私も、
ほんとにそれだけで良いから
絶対に書きなさいよ
って言われたら
同じことをすると思う。

一字一句変えずそのままね

もう、めんどくさいなあ
ほんまにそれだけやからな
と言いつつ
その機会を強制的に与えてくれた母さんに
心の中で手を合わせるだろう。

不器用ですね。

他の人だったら
色々やりようはあるんでしょうけど

母親って
特別の一人だけの存在。

こういう愛情表現しかできないんですよ。

ほんとに嫌々だったら
何度か出すなんてあり得ないもんね

お母さんも嬉しかったろうなあ
おそらく、何度も何度も読み返したと思う。
何度読み返してもそれ以上の事は書いてないんだけどね