[昭和歌謡]82 無縁坂。お母さんの坂。

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

無縁坂
グレープ
作詞、作曲 さだまさし

♪母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた
ため息をつけば それで済む
後だけは見ちゃだめと
笑ってた白い手は とてもやわらかだった
運がいいとか 悪いとか
人は時々口にするけど
そういうことって確かにあると
あなたを見ててそう思う
忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生

♪いつかしら僕よりも 母は小さくなった
知らぬまに白い手は とても小さくなった
母はすべてを 暦に刻んで
流して来たんだろう
悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに
運がいいとか 悪いとか
人は時々口にするけど
めぐる暦は季節の中で
漂いながら過ぎてゆく
忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生

無縁坂
無縁坂はウォーキングで行きました。
都立9庭園のひとつ、旧岩崎邸庭園。
その横にあるのが無縁坂

無縁坂を降りると、その先にあるのは、上野の不忍池(しのばずのいけ)

行って初めて位置関係が分かり
分からず歌っていた、忍ぶ忍ばず無縁坂の意味が分かりました。

さだまさしは、小さい頃長崎だから、実話ではありません。

単身、バイオリンの修行のため上京した後
坂の町長崎が恋しくなり、東京の坂をずいぶん歩き、その時、この坂も訪れたのでしょう。

バイオリンと共に、もうひとつ持っていた夢が小説家になること。
無縁坂は、森鴎外の小説『雁』の舞台にもなっているので
特別な思いを持ったかも知れません。

その時、作った小説の中に以下のフレーズが。

母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた

グレープで精霊流しが大ヒット

その後、日本テレビのドラマ「ひまわりの詩」の主題歌を依頼される。
三浦友和と池内主演の、お母さんがテーマのドラマ

その時に、小説の中のフレーズが甦ったらしい。

小説
その小説がどのようなものかは分かりませんでした。
ということで、ここからは、私でーこんの全くのオリジナル。

小説「無縁坂」

母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた

坂を登りきったところに、病院があった

少し見ない間にまた大きくなったな
どうだ
学校は楽しいか

うん

そうか

良いわよ。外で、遊んでらっしゃい

ーーー

どう? 具合は

ああ、ここ何日かは、痛みもおさまっている。
悪いな、いつも。

いろんな事にけりがついたよ。
なのになあ。
このざまだ。
お前には、ずっと苦労をかけ通しだ。

そんなことないわ。
あなたは、自分の体の事だけ心配してちょうだい。
私は大丈夫よ
あの子さえいればとても幸せよ。

私は日本一の幸福者。

<余談>
最後の方に、「うるさい」という声が入っていたら、その声は次女です。

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[赤穂浪士]12 近松勘六。いつも池に落ちるのね

赤穂浪士シリーズです。

近松勘六
表門組 玄関固め 馬回り 34歳

祖先は清和源氏(清和天皇を祖先とする一族)というすごい血筋。
父は名医で有名である一方、山鹿素行から直接兵学を学んでいた文武両道(ぶんぶりょうどう)の人であり、
勘六自身も兵学に詳しく頭の良い冷静沈着な男だった。

4歳の時に、母親と死別。

義母に、弟三人、妹二人が生まれた
一番上の弟は、奥田孫太夫のところに養子に行った、奥田貞右衛門
奥田孫太夫、奥田貞右衛門も四十七士です。

義母にも親孝行だったけど、乳母に対しても同じ。
討ち入り前に遺書を送り、老後の面倒を見れないことを謝っている

自分の家来である甚三郎(じんざぶろう)にとても慕われていて
甚三郎に、討ち入りをどうしてもお供したいと懇願される。

結局は断るんだけど
甚三郎は、心配で心配で、当日門の前までこっそり見に来る。

うまくいったことを知ってほっと胸をなでおろし
みんなに餅とみかんを配る

甚三郎はその後、近松の名を名乗ることを許されます。

討ち入り
表門組として討ち入りに参加し、吉良の屋敷から逃げ出してくる敵と戦った。
清水一学と斬り合って庭の池に落ちたエピソードが有名

本当は、実際にたたかったのは清水ではなく山吉新八。

そのときに、雪で足を滑らせて庭の池に落ち怪我をした

年末と言えば毎年やっていた忠臣蔵では、毎回池に落ちるんです。

吉良の屋敷からひきあげて泉岳寺に向かう途中は、
歩けなくなり駕籠(かご)に乗って移動しました。

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[赤穂浪士] 前原伊助

前原伊助(まえはらいすけ)
裏門組 長屋防ぎ 金奉行・中小姓 40歳

人一倍正義感が強かった。
そんなの討ち入りに決まっとる、と
そもそも会議にすら参加せず
自分なりの準備。

何をしたかというとスパイ活動
米屋五兵衛という店を吉良邸のすぐ前に開く
行ってみると、前原伊助邸跡というのが残っていて
見事に真ん前

利益あげようなんてはなから思っていないので
大大繁盛

考えさせられます。
利益あげようとさえ思わなければ
商売って大繁盛するんですね

一緒に住んで、自身も吉良邸のすぐ近くで小豆屋をやっていた、神崎与五郎と仲良し
一緒に「赤城盟伝」という本を書いています。

最終的には、武林唯七、不破数右衛門などの江戸急進派も同居するようになります。

映画やドラマでは、吉良邸に納品に行って、
邸内を探っていたところを吉良家の侍に見つかって拷問を受けますが、
本当のことを言わずに、傷まみれで自分の店に帰るってパターンが多いです

討ち入り
吉良邸のすぐ近くなので、前原伊助邸が最終的な集合場所になります

辞世の句
春来ぬとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪

[赤穂浪士] 神崎与五郎

神崎与五郎(かんざきよごろう)
表門組 玄関固め 徒目付・郡目付 38歳

最初津山城主、森美作守(もりみまさかのかみ)に仕えていたけど、森家断絶に会い、浪人になる
その後、赤穂に来て、浅野内匠頭に仕える苦労人。

赤穂義士のなかでいちばんの大酒飲みで、
「燗酒(かんざけ)よかろう」というあだ名をつけられていた。

俳句に関しては大高源五とならぶ才能をもち、俳号は江農舎竹平(こうのうしゃちくへい)
大高源吾、萱野三平とともに、俳諧三羽がらす

江戸に来るとき、山中の箱根で言いがかりをつけられるが
厄介なことになると困るので、ひたすら辛抱してわび状を書いて謝る。

スパイ活動
江戸に出て最初は、美作屋善兵衛と名乗り、扇子売の行商に扮してスパイ活動。
扇子売って美男子がやると相場が決まっていたようなので、美男子だったかも。

前原伊助が吉良邸のすぐ横で米屋(米屋五兵衛)を開いて、スパイ活動をしているがそちらに合流。
一緒に住む。
さらに、神崎与五郎すぐ近くで店を構える事にした。
今度は小豆屋善兵衛
前原伊助と一緒にぼた餅作れるね

吉良邸の絵図面を入手してからは、正確性を増すため
火事だと言っては屋根に登ったりして、絵図面を修正していく。

上野介が乗っているんじゃないかという籠に出くわすと、
土下座をした。
なぜかというと、当時の習慣として、土下座の礼を取れば、家の主人は
乗り物の戸を開けて礼を返すことになっていたから。

前原伊助と一緒に『赤城盟伝(せきじょうめいでん)』という本も書いた
元々、文学には自信がありますからね。
この『赤城盟伝』は、元禄赤穂事件を知る上で、かなり貴重な資料とされています。

切腹
幕府の判断を待つ間、与五郎だけは薬の代わりとしてお酒を飲むことを許されていた。

切腹の時は、自分より身分が下だった三村次郎左衛門さん(台所役人)が先に名前を呼ばれて切腹し、
そのあと神崎さんが呼ばれる形になったのですが、
その時に「いささか閉口でござる」といって、怒ってたそうです。

辞世の句
梓弓春近ければ小手の上の雪をも花のふぶきとや見ん