玉川上水ウォーキング、第4コーナー回りました。

繋いで繋いでの、玉川上水を辿るウォーキング
またまた玉川上水。続けて繋げてまた続けて。
の続きです。

出掛ける前に図書館に寄って
玉川上水がらみの薄目の二つの本を借りてきました。
それをバスの中で読みながらのスタートです。

久我山
前回は久我山まで行きました。

さあ、続きだ。
今日は、暗渠(あんきょ=地下に埋まるタイプ)になってしまう手前くらいまでは行きたいなぁ

はい、岩崎橋。ここから

さっきの本で、開渠の清流復活ルートは、浅間橋(せんげんばし)までってあったな

げろっ
げろげろっ

岩崎橋の次は、浅間橋
あとひとつしかないの?
それだったら、前回、キリの良い浅間橋まで行っときゃ良かったなぁ

浅間橋

ああ、お水さん、さようなら

ここで、水は地下に潜り
こんな大通りの下を流れる(上は首都高)

第六天神社

この神社、彫り物がすごいのなんの

環八

ここで下を流れる水は二手に分かれ
左折する方は環八の下を流れて、神田川に注ぎ込みます。
玉川上水と神田上水の合体です。

あれっ、とっても不思議なもの

何でしょ
お寺のようです。
お休みでしょうか、入口も閉まっているし、誰一人いません。
身代り不動尊と言って、川崎の高津にあるものの別院らしいです。

ウォーキングしていると色々面白いものに出会えます。

玉川上水公園
ああ、良かった。
暗渠で、どこを流れているか分からなくなったらどうしようと思っておりましたが
ちゃんとその上が公園になっている
玉川上水公園とのネーミング。
説明板まで

見落としていて、後で再度本を読んで分かったんですが
この説明板の辺りから
下高井戸分水が枝分かれしていたそうです。

この前を通っているのは甲州街道ですが、その一里塚も近くにありました。


おおっ
おかえりなさい。お水さま


下からポンプで汲み上げたんでしょうか

汽車だって走っています。

船だって

おっと、これは
今は水が干上がっていますが
ひょっとして開渠にしている区間では?

大感動!
この一連の公園の最後の方で
でっかい管
本によると、2条の送水管
上は朝霞浄水場に向かう加圧された水が流れるもの。2400mm

下が玉川上水。1800mm

これで、玉川上水は暗渠としてちゃんと流れていることが確認出来ました。

和泉給水所
この玉川上水公園の突き当たりにあるのが
和泉給水所
でかいっ



ここに、水を貯めて加圧して送り出す。
新宿の淀橋浄水場が廃止され、跡地が新宿副都心になる昭和40年までは
玉川上水は、淀橋浄水場への送水機能を持っていた
明治大正昭和に至っても、東京都民の飲料水は、玉川上水が担っていたわけです。

その時は、この和泉給水所で最後にグッと加圧して淀橋浄水場まで水を送り込む重要な役割
旧、玉川上水とは別に、ここ以降で新しい、淀橋浄水場へ向かうルートに変わっていました。
新水路と呼びます。
この地図で上が新水路、下が旧水路

ところが、この新水路も関東大震災(大正12年)で壊滅的打撃
13日間使えなくなります。
その時、何とか東京都民に飲料水を届けられたのは、
旧水路からポンプで送り込んだ水だったというから泣かせます。

その時の反省に基づいて、もっと強固なものに変えようと
新々水路が作られます。

甲州街道を拡幅し、その拡幅されたところに、強固な送水管が埋設されます。
昭和40年までは、その新々水路が頑張り続けます。

続きは明日書くことに致します。

おでかけマップ

室町時代の仏教

名僧シリーズ、室町時代に入って参ります。

個別の僧に入る前に、ばくっと、室町時代の仏教ってどんな感じなの?
というのを見ておこうと思います。

室町時代
元弘3年(1333)、鎌倉幕府は滅亡。
後醍醐天皇による建武の新政をヘて室町幕府の時代になります。

その初代の将軍·足利尊氏は聖徳太子の憲法十七条にならって
延元元年(1336)に、建武式目十七条を発した。

その翌年、全国六十ほどの国ごとに一寺一塔の建立を発願。

安国寺(あんこくじ)·利生塔(りしょうとう)と名づけられた。
古代の聖武天皇の時に同じような、国分寺というのがありました
よし、真似しましょう。

とはいえ、新たに寺院が建立するのは大変。
安国寺のほとんどは既存の寺院を安国寺と改称しました。
利生塔も既存の寺院の境内に五重塔か三重塔を建てました。
一番多かったのは、臨済宗、曹洞宗といった禅宗。あと、真言宗、天台宗、律宗など
浄土真宗とかが極端に少ないのは、体制よりの禅宗と明確に分かれて面白いです。

五山
五山という仕組みが中国の南宋時代にありました。
5つの大寺を中心に寺院を管理した官寺制度。

よし、真似しましょう。

鎌倉時代には、建長寺を五山第一としていました。
あの、蘭渓道隆無学祖元の建長寺です。

ちゃんと5つ揃えましょう。
京都五山=第一→天龍寺、第二→相国寺、第三→建仁寺、第四→東福寺、第五→万寿寺。
鎌倉五山=第一→建長寺、第二→円覚寺、第三→寿福寺、第四→浄智寺、第五→浄妙寺。
そして、京·鎌倉の「五山之上」に南禅寺をおいて最高の寺格とした。

時代によって多少変わるんですが、だいたいこんな感じ

これは、臨済宗の中の制度で、臨済宗オンリー
臨済宗であれば何派でもオッケーね

この五山の住持(住僧の長)は、
臨済宗僧侶の身分などを管理する僧録によって選定され、
将軍によって任命された。

室町文化
室町の文化と言えば大きく2つ
北山文化と東山文化
金閣と銀閣と言った方が分かり良いですね

争いに明け暮れた時代ではあっても
民衆の力は強まり
寺社の祭りが盛大におこなわれるようになりました
中でも臨済宗の五山の諸寺は将軍や大名、
それに力をのばした商工人から寄進をうけて、財政は豊かでした。
文学や建築、庭園、芸能など、幅広い文化が花開きます。

まずは、3代将軍義満·4代義持の頃の北山文化
義満が応永4年(1397)に造営した北山山荘
のちの鹿苑寺金閣です。

義満は猿楽の観阿弥 .世阿弥父子をひきたて、
猿楽から能がうまれる。

能の多くは幽霊が主人公なんですって

東山文化は足利義政が応仁の乱の最中に将軍職をしりぞき、
文明5年(1483)、山荘の東山殿に隠居したことによります。
そこに義政は観音殿、後の銀閣や持仏堂の東求堂を建てました。

東求堂には書院造の茶室がつくられ、
茶の湯、能楽、立花(華道)などの芸能が発達しました。

文化の中心になるのは、お坊さんだったんですね

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

[赤穂浪士]15 原惣右衛門。大ハッスルじいちゃん

原惣右衛門(はらそうえもん)
表門組 門固め足軽頭 56歳

吉田忠左衛門や小野寺十内と共に、大石内蔵助を支えた重鎮です。
ずっと浅野家ではなく、その前に仕えていたのが、上杉家
吉良上野介の奥さんも、養子に入った跡取り息子も上杉家ですから
上杉家は吉良家を全面バックアップ
複雑な気持ちです。

絶縁状を出して気持ちの整理。

刃傷沙汰の時は、伝奏屋敷に詰めていました。
浅野内匠頭と一緒に朝廷の勅使を接待しようとしていた訳です。

伝奏屋敷って普段はがらんどうで、接待するときだけ
担当の藩が接待用に色んなものを持ち込んで準備。

即日切腹なので、すぐに全て引き払えってことになって
その引き払いで大慌ての中、冷静にみんなに的確な指示を出して大活躍

刃傷沙汰当日3時半くらいに、早水藤左衛門と萱野三平が事情を伝えるため赤穂藩へ
この時点ではまだ切腹していません。
さらに夜になって、切腹御家取り潰しが決まったため、第二陣
原惣右衛門と大石瀬左衛門が選ばれた。
第一陣もそうですが、通常早籠で飛ばしても一週間はかかるところ
昼夜関わらず寝ずに飛ばしたので4日半で到着。

そんなのじいちゃん死んじゃいます。

赤穂の城内で行われた大会議、
意見が分かれて大もめ

大野九郎兵衛がことごとく大石内蔵助の意見に反対するもんで
原惣右衛門は、頭に来て一喝
出てけっ

江戸の急進派を説得するため派遣されるが、
ミイラ取りがミイラになって急進派に転身します。

当日大ハッスルで、いち早く塀を越えようとし
雪で滑って落っこちる
いてててて

辞世の句
かねてより 君と母とに しらせんと 人よりいそぐ 死出の山道

[赤穂浪士]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]20 安康(あんこう)天皇。衣通姫の禁断の愛。

天皇シリーズ20人目となります。

曙光(しょこう)の大王(倉田美恵子作)という本を読みました
雄略天皇の物語です。

前半は、その少し前、允恭(いんぎょう)天皇と安康(あんこう)天皇です。

とても面白い説に基づいています。
允恭天皇は、天皇の直系ではなく氏族の王でもない。血が繋がっていない氏族の王の娘婿にすぎない
すごいじゃないですか
もうこの時点で万世一系が途切れたことになります。
とても面白いですが、残念!允恭天皇は前回もうやっちゃいましたね。
まるっと省略。

天皇は允恭天皇まで、有力氏族たちが集まって合議制で決めていた。

暗黙のルールで、大阪寄りの茅渟(ちぬ)地域と、奈良寄りの古市(ふるいち)地域から交互に出す。
もめた末に、茅渟の允恭天皇が選出される。

允恭天皇は自分が血が繋がっていないという負い目があるので
逆に強力な地盤作りをしたい
中国に行って、お墨付きをもらう

ところで、衣通姫(そとおりひめ)ですが
前回、日本書紀と古事記で違う話になっていると言いました。
[天皇]19 允恭天皇。衣通姫の愛

この本では、日本書紀の、允恭天皇の皇后の妹としつつも
古事記の、允恭天皇の娘としての話も丸々採用。
「古事記は混同しているようです」
すごいっ。その一言で済ませちゃいました。

基本、この本に基づいて展開していこうと思います。
この本で設定された、人間関係を整理しておきましょう

允恭天皇の皇后との間に、
 穴穂(あなほ)王子(後の安康天皇)と
 幼武(わかたける)王子(後の雄略天皇)
弟姫(おとひめ)(衣通姫)との間に
 軽王子(かるおうじ)と
 軽王女(かるおうじょ)
古事記ではこの軽王女が衣通姫です。

何と言っても弟姫は絶世の美女なので
允恭天皇は弟姫側の、軽王子が可愛い。

何もしなければ自分の死後は合議制で、次は古市の番
強行に出ました。
皆を集めて、次の天皇、即ち皇太子は、軽王子だと宣言
みんなビックリしたが、その場では異を唱えられなかった。

今まで良いバランスでうまく行っていたのに
この事で泥沼の政争劇が始まることになります。

2代目衣通姫(軽王女)
軽王子には、ある噂がありました。
軽王女とただならぬ関係であると。

軽王女は古事記で衣通姫とされているくらいですから、親譲りの絶世の美女
軽王子と度を越えたほど仲が良い

当時、親が違う異母兄弟であれば恋愛も結婚も自由です。
でも、同母兄弟は駄目。近親相関
今って、どこまで駄目なんでしたっけ。

お兄様

姫よ

見つめ合うふたり

その後どうなったのでしょうか

抵抗勢力としては、その事実なんてどうでも良いことです。
噂になっているということで充分

允恭天皇が生きている間は、それでも表面上は何も起こりませんでした。

允恭天皇が亡くなりました。
死後、軽王子が即位しようとしても
なんだかだと理由をつけて即位させてもらえません。

これはまずいと、中国へ行ってお墨付きをもらってきました。
興王
画期的です。
何と、倭の五王のうち、4番目の「興」は安康天皇ではなく、軽王子だと言っています。

即位の礼
お墨付きももらったことだし、
即位の礼を強行してしまおう

当日、抵抗勢力の古市の大草香王子(おおくさかのおおじ)、市辺押羽王子、穴穂(あなほ)王子(後の安康天皇)が欠席

嫌な予感はしましたが、まあいっか

一通りの儀式を終えると、周りに何やらただならぬ気配
気がつくと大勢の兵士に囲まれています。

そして、穴穂王子

軽王子に縄を

どどどどどっ

軽王子は近親相関の罪で捕らえられ、伊与の国へ流罪。

その後、2代目衣通姫は、兄を慕って伊与まで行くことになります。

安康(あんこう)天皇
もう一度いつもの図の方で確認しましょう
宮内庁の作成した家系図ではこうなっています。

安康(あんこう)天皇の在位期間の短さが気になりますね。

さあ、即位した筈の天皇が居なくなりました。
もう後は、力の世界。
以前のように、会議は開かれて、
今度は古市の番なので、古市の大草香王子(おおくさかのおおじ)と決まる
ただ、一回無効になった会議。
誰もその通りになると思っていない。ねじ伏せたもん勝ち

穴穂王子は、最大のライバル大草香王子を潰そうとする
大草香王子は高齢。
眉輪王(まよわおう)という7歳になる息子がいる

自分は高齢なので、息子を天皇として立てて、自分はその後見人になるとか言い出すと
長期政権になってしまう。

大草香王子へと兵を向け、殺した。
息子とともにと思ったのだが
取り巻きが、事態を予想し、眉輪王を遠くに隠してしまっていた。

眉輪王を残した事に大きな不安はあったし、
ライバルはまだ残っているけど、
宣言しちゃったもん勝ち

我こそは天皇なり

みんなは、まあ一旦は良しとしよう。

安康(あんこう)天皇の誕生です。

眉輪王
不安は的中しました。

生き残った眉輪王
7歳ではありますが、起きたことの意味は充分理解できました。

父の敵(かたき)を討つ。

周到に準備
そしてその時がやって来ました。

安康天皇討たれる

またまた、振り出しに戻ってしまいました。

続きはシリーズの次回、雄略天皇でね

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)