多摩川氾濫の時、岩淵水門がなければ隅田川は氾濫していた

荒川、掘っちゃいましょう
荒川どう掘るの?
の続きです。

岩淵水門
それまで、荒川は下流を隅田川と呼んでいたけど
隅田川は基本そのままに、どでかい荒川放水路を作った

その別れ道に一工夫必要
荒川放水路は大きな台風に耐えられるように作ったけど
隅田川は以前のまま
耐えられる水量は桁が違う

よし、入口に水門を作って、台風の時は、隅田川に水が流れ込まないようにしよう
あったま良いー

ってところまでは思い付いたけど、それまでに日本にある水門と規模が違いすぎて、どうしていいものやら
水門、水門
パナマ運河の水門を真似れば良いんじゃない
いたー

日本人で唯一、パナマ運河の工事に携わり、最終的には現地で副技師長になっちゃったすごい人
お願いしまーす

青山士(あきら)

大学を出てまもなく、恩師の勧め
パナマ運河の工事が行われるらしいよ、行ってみたら?

面白そうですね。行ってきまーす

行ってみると、7年半で4000人が亡くなるほどの過酷な環境
青山もマラリアに感染し、生死の淵をさまよいます

当時を振り返ってこう語っています

「天然との戦争で大いなる苦痛を伴うものでありますが、今になって顧みると血湧返るを覚えて愉快のこともあります」

岩淵水門の工事を任された青山
パナマ運河で、特に基礎工事の大切さを痛感
岩淵水門の基礎は、川底よりさらに20mの深さに
鉄筋コンクリートの枠を6個埋めて固めてあります。
当時「そこまで頑丈にする必要があるのか」という声もありました
青山は譲りませんでした。

結果的に、大正12年(1923)の関東大震災にも被害を受けず完成に至りました。

でしょ。そうなんですって

カスリーン台風
荒川放水路完成後の昭和初期、
荒川では10年間に3度も計画高水流量を上回る大きな洪水が発生しました。

そのうち、昭和22年(1947)のカスリーン台風は、
荒川のみならず東日本全域に大きな爪あとを残しました。

それでも洪水になったのは、荒川上流。
荒川放水路部分は堤防の決壊なし
岩淵水門がガッチリ塞いで隅田川を守り
隅田川も氾濫なし

結果は良かったものの、10年間に3度も計画高水流量を上回るとなるとヒヤヒヤもの
岩淵水門も強化せねば
昭和35年に大規模改修工事

さらに、昭和48年荒川基本計画が改訂
水門にもう少し高さが必要ってことになった

作り替えるぞ

青山士の作った岩淵水門は旧岩淵水門、通称赤門となり
歴史的建造物なのでオブジェとして残り
どでかい青門が誕生しました

位置関係的には
まず、赤門だけのとき

こうなって

こう

今、こんな感じ

実際にどう役立ったかというと
平成13年の台風の時
まっ茶色の泥水が、河川敷全てを埋め尽くしているなか、隅田川手前でガッチリガード
隅田川は泥水が入っていません
東京都心が守られたのです

記憶に新しい2019年(令和元年)
多摩川が氾濫したあの台風19号でも頑張ってくれたのです



後に調べて分かったのは、荒川の水位は隅田川の堤防の高さを27cm上回っていた
即ち、岩淵水門を閉めていなければ、隅田川は氾濫していた

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

荒川、掘っちゃいましょう

荒川知水資料館で教えてもらったことがあまりに衝撃的だったので
それ以降、荒川に関して3冊本を読みました

まとめていこうと思います

江戸時代
徳川家康が関東全域に領地替えになってから
日本一広い関東平野をどうするか考えた

都市造りにおいて大きなテーマ
「水」
ひとつは交通。当時から明治に至るまで、最も重要な交通手段は道ではなく川
特に物を運ぶには人や馬ではたかが知れていて、船が必要
上方や関東近郊からの物資を江戸に運ぶ。舟運

二つ目に生産。農業には水が必要

三つ目に治水
度重なる洪水
そのたびに甚大なる被害が生じていた

大きく言うと、一つ目の舟運と二つ目の農業は水が多い方が良いが
三つ目の治水は水が多すぎると困る

利根川と荒川
この大きな川は最終的に合体して東京湾に流れ込んでいた
あまりに治水で問題が大きかったので
利根川と荒川を分けた
元々荒川は、荒ぶる川で荒川
氾濫を繰り返していた

利根川は東京湾ではなく、千葉の銚子へ
利根川東遷と言います
あっさり書きましたが、流域面積日本一の利根川の流れを変えるなんて
そんな発想をすること自体信じられません
当然人力で掘って変えるわけです
並大抵ではありません
利根川東遷についてはあまりに大きなテーマなので、以下を読んでいただくとして今回割愛
江戸を土地にした男

利根川東遷で治水は改善されましたが副作用が出た
お分かりですね。舟運と農業
水が減りすぎると困る

荒川西遷
舟運と治水では水の量だけでなく、川の曲がり具合の都合も逆になる
山道が真っ直ぐだと、急すぎて登れないので、わざとくねくねしています
川も同じで、流れに逆らって上るには帆を上げてがんばる訳だけど
まっすぐで急だと無理
治水面では、くねくねだとすぐに決壊

荒川はどうしたか
くねくね

利根川東遷である程度は良くなったんだし
どっちかっていうと舟運優先

とはいえ、江戸の中心地は洪水から守りたい
二つの堤防を作った
隅田堤と日本堤
普通、堤防って川沿いに作りますよね
隅田堤は良いとして、ずっと日本堤の意図することが分からなかったんですが
ようやく分かりました

川は溢れる大前提
溢れても、江戸中心地が水浸しにならないよう
もう少し上流に犠牲になってもらって、その地域を水浸し
水色で囲われた遊水地帯
その辺は田んぼが多いから良いんじゃない?
そんなこと言われちゃいました

もちろん人も住んでいる訳なので
その人たちは自己防衛するしかありません
水屋という建物で、高い土台の上に家を作り
洪水の時、それでもだめなら、2階で暮らせるように
ウォーキングした浮間地区だとこんな建物が今も残っています

明治時代
明治時代になりました
基本的には状況は変わらず、舟運優先
やっぱり、洪水はたびたび起こります

殖産興業なので、工場がどんどん増えていきます
そうなると、同じ洪水でも、田んぼよりけた違いの被害になる
舟運優先だからとも言っておれなくなります

そうこうしているうちに、鉄道が敷かれ出す

舟運優先も転換点にさしかかる

日清戦争後の明治29年、河川法が制定
そこでは、明確に洪水氾濫防御がうたわれる
明治元年 (1868) ~明治40年 (1907) の間で、
床上浸水などの被害をもたらした洪水は、10回以上発生

被害の大きかった洪水は、明治29年、明治35年 (1902)、明治40年でした。
特に、明治40年の洪水は甚大な被害をもたらしました。

河川法では、河川の改修はほぼ都道府県の役割
度重なる洪水被害に、荒川を抜本的に作り直すべきとの議論が沸き上がるものの
東京都の予算では限界がありました

そんな中で、明治43年に未曾有の大洪水が起きます


もうだめだ
新河川法の制定
河川改修は国が主導権を持って推進する

荒川放水路
無茶苦茶広くてほぼまっすぐな水路を荒川(今の隅田川)とは別に作ろう
4つの案が出ましたが、最も抜本的な案(④)

古くからの第一の宿場町の真上を通して潰しちゃうことには猛反対がおき
そこだけはちょっと迂回

理屈的に正しいのは分かるけど、そんなでかい川、どうやって掘るのよ
今のブルドーザーやショベルカーみたいなのはありません

その地域にはいっぱい人が住んでおります
鉄道も横切ることになるし綾瀬川や中川だって横切る

歩くと分かりますが、対岸ははるか彼方

よくもまあ、こんなのを人が掘ろうと思ったもんです
よほど切羽詰まり、よほど立案した人がすごかったんでしょう

その辺の話は次回

[江戸東京]シリーズはこちら(少し下げてね)

練塀特別見学会


以前、増上寺の子院、廣度院(こうどいん)で練塀(ねりべい)の話で大盛り上がり
練塀について考える。その1
練塀について考える。その2

その廣度院から手紙が届いていました
もしやあの話?と思いましたが、何せ受験中だったので封も開けずにそのまま
受験が終わって思い出し、開けてみると

やっぱり!
練塀特別見学会

お隣との境界の関係で、練塀をほんの一部一旦取り壊す必要がある
その時、中が見れる。みんなで確認したいので、住所を書いてもらえると、と言われて書いていた

9/8(金)と9/9(土)
間に合うじゃないか
9/9(土)10:00からの回に参加します。と返信ハガキ

練塀特別見学会
大反響だったらい。
200名を超える申込み
9/8は台風だったので、その分9/9に回数を増やして移動してもらってと大忙し

今日10:00からの回は、40名ちょっとで超満杯

まずは、工学院大学客員研究員の菅澤先生がスライドを映していただきながらのお話
今回の練塀解体調査を実際にやっていただいた、とても詳しい先生です。

江戸時代には江戸中のあちこちに存在していたはずの練塀
今は本当に数ヵ所にしかないとても貴重なもの

隣のビルとの境が、隣のビルの建て替えに伴い繋がっている部分を解体し作り直す必要があって
中を調査する機会を得た
最初心配していたのは、年数が経っているため、中が崩れて空洞のようになっているのではないかということ
見てみると、その心配は全く杞憂のものでした
実にしっかりした仕事がされており、本途帳(ほんとちょう)と寸分たがわぬものでした

本途帳というのは、当時の最高峰の建築集団「甲良組(こうらぐみ)」が江戸城を作るときに設計書兼作業指示書として作成されたもの
そこに練塀のページがあり、江戸城内の塀はその構造で作られたものだと思われる

今回の調査で初めて練塀の中が詳細に明らかになったが
本途帳(ほんとちょう)に書かれたものと構造も材料も寸法も全く異ならなかった
そして驚くべき事に、崩れもなければ歪みもない
我々が古い構造物を調査するとき、どれだけ歪んでいるかから入るのですが
それがほとんどなかった
私が経験した中で、見事な仕事というべきもの

各地方の練塀をひとつずつ説明していただきましたが
やっぱり江戸の練塀と各地方の練塀は若干考え方が違う気がする

あと、面白かったのが、増上寺三解脱門の横の練塀
明治以降に継ぎ足している
解散後、私が写真撮りに行きました
ここ

そのあと、副住職さんがさらに色々解説していただいた

一通り解説が終わったので、思わず私が質問
調査結果として、この練塀は享和2(1802)年のものということになりますか

それは分からない
増上寺の三解脱門の両サイドの部分はおそらくそうではないか

確実な証拠がない以上、先生も副住職さんも言い切る事は出来ないでしょうから
変わって何の責任もない私が断定することにいたしましょう

廣度院の練塀は、甲良組が享和2(1802)年に作ったものが、そのまま残されています。
享和って寛政の次で文化文政の前
松平定信が寛政の改革を行ったすぐあと。
将軍でいうと11代将軍家斉です
今から220年も前
そんな前のものがそのまま残っていて、その中身をこれから見に行こうという訳です
こんな大興奮がありましょうや

そして、修復も先生が担当するのでそのやり方の説明もあった
瓦とかの材料をチョークとかで印をつけ復元出来るように覚える
材料は基本的に同じものを戻していくが
強度をアップするためにある薬剤を入れて、瓦を固め直す
土の部分も基本的に同じ材料で同じ工法で戻していく
30cmの厚みの土なら、5cmになるくらいまで上からどんどん叩く
だから築地塀

解説が終わったあと、参加者の一人が先生に
ここのこの材料は石灰じゃないと思います
おおおっ。すごい。
3人のグループで来ていて、建築関係の材料を扱っている会社の人たち
いやあ、今回のこの調査がいかに色んな方面の人に注目されていたかということ

さあこのあと、いよいよ現物を見に行くことになります
次回その続きをレポートすることにいたしましょう

[東京ミステリー] 風水で江戸の都市づくり

都作り
日本の都は古くから例外なく風水を元に場所が選定されています

徳川家康が豊臣秀吉から関東平野を賜ったとき
やはり風水の考え方によろうとした

風水
東西南北に四神という守り神に守ってもらうため、守り神を象徴する地形があるところを選ぶ

東には「青龍」(せいりゅう)。 青い龍です。
キトラ古墳の壁画などでも知られるようになりましたが、
東側に青い龍神がいるのを良い地形としています。
これはもちろん象徴的な意味ですから、
青い龍に見立てる存在が「山岳」であったり「森林」であったり「河川」であったりします。

南には「朱雀」(すざく)。 朱い雀、支那でいう鳳凰のことです。
手塚治虫さんの漫画で知られる『火の鳥』がこれです。
エネルギーを溜める場所という意味で、南から陽光が差すことを意味するので、
「湖沼」や「平地」などを表します。

西に「白虎」(びゃっこ)。 白い虎です。
四神の中で唯一実在する動物ですが、
昔の支那ではホワイト・タイガーは伝説上の生き物だったのでしょう。
強くて白い神獣が西側を守護するとされていて、
岩だらけの「山岳」や、外敵の侵入を防ぎ、
なおかつ兵士を布陣できる「長城」などを意味します。

北に「玄武」(げんぶ)。玄(くろ)い武ということになりますが、
これは難解で、いくつか異説があります。
一般には「亀」と「蛇」がからみあっている図で示されます。
亀がメスで、蛇がオスだとされます。もちろん勘違いからきてますが。
しかし、それならたぶん、亀ではなく「スッポン(鼈)」でしょうね。
スッポンと蛇は、それぞれが雌雄の姿でつがいであると、
古代にはそういう伝説がありました。
まだ生物学や動物学が成り立っていない時代ですね。
亀やスッポンの甲羅を兵士の鎧に見立てて、「武人」だという解釈もあるようです。
「玄い」は「黒い」や「暗い」でもあるので、
冥界つまり先祖の世界を表すともされます。
そこから、「先祖の国」つまり「祖山」といった意味にもなっているようです。
いずれにせよ、風水地のエネルギー源、最重要ポイントです。

そしてこれらの指し示す真ん中こそが「黄土」です。黄色い大地。
聖なる者の住まうべき地点ということになります

江戸
江戸においてはそれぞれをどうとらえるか
京都とかとは違い、余りにも広い平野であったため、少し考え方を変える必要があった
都内には四神はいないんです。
北の山が苦労したと思います。
江戸の中は平らなので北に山なんてない
よし、もっと広域でとらえよう
とするとちゃんとありました
おおよそ100キロメートル北方に峻険な高山があります。
日光白根山です。標高2578メートル。
関東以北では最高峰です。

東西南北が少しずれています。
これは恵方という考え方です
節分で太巻きを恵方に向かって丸かじり、今年は東北東とか言ってきれいに東西南北の年がありませんね
ちなみに、あの発表される恵方はこういう法則です

江戸の四神を解説してある文章で、玄武を富士山と書いてあるのが多いのですが
あまりにもずれすぎます
東京ミステリーの本にあるように、富士山は白虎ととらえるのが自然でしょう

朱雀は東京湾で、青龍は房総半島になります

[江戸東京]シリーズはこちら(少し下げてね)