麻田剛立。月の表面に名前を残した男

江戸の理系シリーズです

麻田剛立
あさだごうりゅう 天文学者 1734~1799

麻田剛立ってかっこいい名前ですね。
本名、綾部正庵(あやべしょうあん)。
本名で十分かっこいいから変えなくて良いのに。

子供の頃
月や星の動きを観察するのが大好きという風変わりな少年。

病気の時に外が見れないのがとても辛かった。
看病の人に、夕刻の太鼓がなる時刻に星の場所を教えてもらう。

あれ、星の位置がずれましたね

そりゃそうだ。
そのために教えてもらっているんだ。

えっ、星って動くんですか
坊っちゃん、それを誰に教えてもらったんですか

そんなの毎日見てれば分かるよ

日食
前回、天文学の歴史は日食の予測という重要な課題から発展していったとお話ししました。
渋川春海。暦を作った人は碁打ち
渋川春海の作った暦はとっても優秀で、70年使われたのですが
麻田剛立の時代には、いまいちの宝暦暦(ほうりゃくれき)に変わっていました。

今度の何日に日食があるよ

えっ、ちょっとちょっと、暦に書いてないよ。

大丈夫。ちゃんと計算したから。

見事的中。
一気に名前が知れ渡る。

独学
通常は、師匠につくとか学校に行ったりするわけだけど
あくまでも独学。

ひたすら本を読む。ひたすら観察する。ひたすら計算する。そして考える。

分かったのが地動説。

地動説
ええっ
これ、逆に仰天しました。
こんな時まで、分かってなかったの?

渋川春海とかの偉大な天文学者は
天動説の前提で、
あの緻密な計算をやっていたんだろうか。
地球は丸いって分かっていたと思うんだけどね

逆にその事に感動。

気になって調べてみたら
ものを知らないって恐ろしいですね。

地動説ってはるか昔の紀元前辺りに分かっていた感覚だったけど
全然そんなことないんですね。
そんなに時代的に離れていない。
コペルニクスが1543年に発表
ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は動く」の裁判が1633年。
それから地動説は否定され
ニュートンをもって地動説が認められるようになるんだけど
そのニュートンと、渋川春海って、完全に同世代の人。

そりゃ、渋川春海が地動説を唱えたとしたらひっくり返ります。

その後、徳川吉宗の時代になって
科学好きの吉宗が、
宗教に関係のない科学の本なら輸入しても良し

ここから、一気に江戸の理系が発達していく。

でも、ニュートン後もキリスト教関係者は地動説を認めたくない
西洋の天文学の本も完全に地動説に統一はされていない。

日本で一番読まれていた西洋の天文学の本はまだ天動説だった。

長崎にいた志筑忠雄(1760~1806)という同世代の人が訳した本で
「地動説」という言葉が初めて使われている。

麻田剛立の本に「地動説によれば」と表現されているので
この本を読んだと思われます。

「惑星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する」
という法則も発見した。
はいはい、と言いたいところだけど
書いてて何を言っているかさっぱり分からない。

ケプラーの第3法則というらしい。
これは、ケプラーを知らずに自分で同じことを発見したと思われます。

麻田剛立の弟子の高橋至時(よしとき)がケプラーの本を翻訳したんだけど
ありゃりゃ
こんなところに麻田先生の発見した法則が書いてあるとビックリした。

高橋至時聞き覚えのある名前じゃないですか?
そう。
あの伊能忠敬の師匠です。
伊能忠敬の、隠居後の第二の人生は?

医者
この時代の超頭良い人って二つ以上のことで優秀だったりします。

麻田は医者としても超優秀
藩医として取り立てられます。

生活のため、引き受けるんですが
嫌で嫌で仕方ない。
好きな天文学の時間が取れない。

あー、我慢も限界。
やーめたっ。

今度は天文学に没頭し
先程の高橋至時等の弟子を取るほどまでに。

月面
高精度な望遠鏡で月面の観察を行う。
クレーターの存在を発見し
詳しく月面を図に書いて、本を出す。

月は疱瘡(ほうそう)のごとし

疱瘡とは今で言う天然痘で
江戸時代にかなり多くの人が悩まされた
運良く治っても、顔にあばたが数多く残る。

今、それぞれのクレーターに名前が付いているんだけど
その中に「ASADA」というのがある
これは麻田剛立にちなんでいるんです。

すごいですよね。
江戸時代の日本人の名前が月のクレーターに付いているんですよ。

改暦
吉宗は、西洋好きなので
西洋の天文学の考え方を取り入れた暦に変えたかった
その考え方までは良かったんだけど任せた相手が悪かった。
さっき言った、宝暦暦。
評判悪いのなんの

失敗したぁ

吉宗は急死しちゃったんだけど
吉宗の意を汲んで何とかしなくちゃ。

麻田さん
天文方に来てもらって何とかお願いできんやろか

医者は駄目だったけど
今度は好きなこと。

引き受けるのかな?

この歳で、お役所勤め?
いいよもう疲れたよ。

ってことで、弟子の二人、高橋至時と間重富(はざましげとみ)を推薦
その二人が寛政暦(かんせいれき)を完成させます。

明治の東京は牧場だらけ

いきなりクイズです。

【問】明治の中頃、牧場が一番多かったのは、どこの県でしょう。

全くクイズになってませんね。
タイトルで答えを言っちゃってます。

【答】東京

ダントツです。
圧倒的です。
それも、今で言う23区内。

いよいよでーこんは気がふれたか

次のクイズも、まず問だけ出しておきましょう。

【問】なぜ東京に牧場を作ったんでしょう

答は5つもあるので、どれでも正解です。
このあと、答を書きますので考えてみてくださいね。

榎本武揚の話の中で、東京のど真ん中に牧場を作ったという話をし
近いうちに書きますねと言いました。

黒田清隆に呼ばれて北海道に行って
生活の拠点はどちらかというと北海道にあった。
牧場作りたいんなら北海道に作りなさいよ、ですね

オランダ留学の時に得た、牧場運営のノウハウを人に教えて
東京の北辰社牧場は最初は人に任せている感じ
後の東京農業大学に繋がっていく訳ですけどね

実は榎本武揚だけじゃなく、色んな人達が
東京のど真ん中にどんどん牧場を作っていっているんです。

理由があるからです。

【答1】外国人がたくさんいた。

もう一個の答も続けて

【答2】江戸っ子は新し物好きだった。

古くから、馬と共に牛も日本で慣れ親しんだ動物ではありますが
牛肉を食べる習慣も牛乳を飲む習慣もありませんでした。
もちろん、パンなんてないから、バターやチーズも食べなかった。
世界的に見て、乳を飲む習慣の無い国ってかなり珍しいらしい。

牛は馬同様に、野良仕事で使われる労働力だったんですね。

地方で、牛乳なんて作っても、それ何?な訳です

ちなみに、15代将軍、徳川慶喜は新し物好きなので、豚肉を好んで食べて
「豚一様」と陰口をたたかれています。

【答3】運べなかった。
当時はまだ、殺菌等の保存技術も、輸送のためのインフラもまだまだ整備されていませんでした。

外人さんや江戸っ子が沢山いる、江戸のすぐそこで作らざるを得なかった。

【答4】土地が余っていた。
これ意外でしょう
びっくりする理由ですね
普通、もうちょっと土地の余っている郊外にしたら?って思いますよね
違うんです。
都心こそ、土地が余っていたんです。

これ実は、明治維新になって、首都をどこにしようかと考えて
最高権力者、大久保利通が大阪に決めていたのに
前島密が、東京にすべしと言った一番大きな理由と一緒です。

東京都心には思いっきり土地が余っていた。

江戸という町の、世界中どこにも例の無い特殊な構造によります。

参勤交代で、一年おきに諸藩の武士が仮の生活
出張者だらけの町で、そのために幕府は上屋敷、中屋敷、下屋敷の土地を与えます。
江戸の半分以上がその屋敷

明治維新で参勤交代制度がなくなり、
みなさん、国に帰ってね。

東京の町はもぬけのからの、すっからかんになります。

面白いね。
最も発達していた町のど真ん中が、すっからかんって
世界中どこ探してそんな町があるでしょうか

牧場?土地がいる?
はい、ウェルカムでございます。

もうひとつ、東京市が積極的に進めたのが桑畑です。
明治の始め頃の地図を見ると東京のど真ん中に「クワチャ」「クワチャ」
桑畑だらけです。
開国以来、幕末の輸出品は一位が生糸、二位がカイコの卵、三位がお茶ですから。

こっちの方は、うまくいかなかったらしくて、かなり急激に無くなっていくんですけどね。

【答5】人が余っていた。
武士の失業対策です。
武士は食わねど高楊枝、なんてなことを言っている場合じゃありません
突然時代が変わっちゃいました。

武士も頑張れ、乳搾り

明治後期
明治後期になりますと、次第に郊外に牧場が移転していきます。
5つの理由が解消されていったからですね。

あとは、一時期急激に増えた鉄道馬車が、また急激になくなっていった理由と一緒かな
やっぱり、ちょっと臭いかも

お役所
お役所は、牧場なんて見たこともないから
変な決め事を作っちゃったりしました。

乳を出さない雄の牛は飼ってはいけません。

は?
ビックリした牧場関係者たちが大挙して、お役人に詰め寄ります。

あのねえ
牡牛がいないと、子牛が産まれないんですよ。

あらそうなんだ
ってことで、一頭ずつは認めましょうとなった。

牛乳の普及
江戸っ子は新し物好きと言っても600年以上も日本人は牛乳を飲んでいません。
やっぱり強烈な抵抗感がある。

そんなもの飲んで、牛になっちゃやせんじゃろか

一方で明治政府は、産めよ増やせよの富国強兵索

牛乳の普及に大活躍するのが、明治のマツジュンこと松本良順
松本良順はお医者さんなんですが、治療ではなく、初めて予防医学という考え方を提唱した。

健康増進には牛乳を飲むのが一番。
明治天皇に朝晩2回、牛乳を飲んでもらった。
当時一番人気の歌舞伎役者にも「牛乳は美味しいねえ」と言ってもらう

で、導入された哺乳瓶なるもの
なんと、母乳が出なくても牛乳を飲めば赤ちゃんは育つらしい。
それが証拠に、そうしている外国人はあんなにでかい。

確かに、畜生だと思っていた外国人も、
付き合ってみると良い奴も多いし
あいつらもきっと人間だ。

ということで、急速に普及していき
流行の飲み物となる
町のあちこちに「ミルクホール」なる喫茶店が出来ていくんですね。

マツジュンやったね

渋川春海。暦を作った人は碁打ち

「江戸の理系力」の話はしました。
勘違いしていたかも知れない。江戸の理系力

その後、「江戸のスーパー科学者列伝」という本も買って読みました。

これはすごいっ、て人を一人ずつ紹介することにいたしましょう。

初回はやっぱりこの人からでしょう。

渋川春海
天文学者。1639~1715

渋川春海は、「天地明察」という、最近映画化された小説の主人公。
生粋の天文学者と思いきや、碁所(ごどころ)四家(本因坊、安井、井上、林)のひとつ、安井家に産まれる。
ということなので、父、算哲の名を継いで、二代目算哲という碁打ち。

本人は、家業とは別に、子供の頃から強く興味を持ったのが星。
北極星は唯一動かなくて、他の星はその周りを回っている、というのは
随分昔から知られている常識
その常識に春海少年は疑問を持った。
庭の竹を利用して北極星の正確な位置を毎日観察
微妙に北極星も回転している事を発見した。

親はビックリして、
お前は北極星の生まれ変わりだ


天文学となると、暦がひとつの大きな到達点
太陽と月の動きを極めて緻密に計算して
少しずつずれていく一年を、
何年に一度どういうふうに修正するというルール作りこそが暦。

日本では、唐の時代、西暦822年から使われていた宣明暦(せんみょうれき)というのを
800年以上の長きにわたって、ずっと使い続けていた
中国側は、71年後には違う暦に変えちゃっているんですけどね。
中国は為政者が変わるとすぐに暦を変えたがる。

そんな中でも宣明暦が特に優秀だったので変える必要がなかったのが変えなかった理由だけど
さすがに800年も使っているとずれてきた。

何がずれるかというと、日食。

面白いなあと思うんだけど、太古の昔から
政治において日食の起きる日を予想するというのは極めて重要なこと
日食の日は前々から準備して
一切の仕事を停止しないと災いが起きる。

それぞれの暦で、日食の日を計算できる。

春海は、中国の数々の暦を比較検討し
授時暦(じゅじれき)が最も優秀だと結論付ける

日本も暦を変えるべきです。
授時暦にしましょう。
と、幕府に提案。

ほんまか
そんなに授時暦は優秀なのか

2年後、宣明暦でも授時暦でも日食が起きますよ
でも、予想日はそれぞれ違う日
結論が出ますね

さあ、2年後

授時暦 ハズレ
宣明暦 大当たり

えええっ

人生
寝ぼけとるんか
寝言言ってんと、碁を打て碁を!

普通こうなりますね

ここからが春海の人生が大きく変わります。

どうしても納得のいかない春海
冷静に分析を始めます。

もう、こうなったら、碁を打っている場合じゃない。

結論
中国の暦は経度が違うため正確さに限界がある。
日本オリジナルの暦を作るしかない。

何年か経過して

よっしゃ出来た!
日本オリジナルの暦だ

貞享暦(じょうきょうれき)
幕府に
すみません
とっても良い暦が出来たんですけど。

あらま
この前、大ぼら吹いた渋川さんじゃありませんか
顔を洗って出直していただいてもよろしいでしょうか

と言われることは覚悟の上。

貞享暦の事を考えるに
もちろん渋川春海の熱意は尋常じゃないと思うけど
それ以上に、幕府がすごいなあと思う。

良いじゃないか
この前の事は無かったことにしよう。

実は、碁打ちの経歴が役にたった。

幕府お抱えの碁打ちというのは
何かのイベントで誰かと勝負っていうのもあるんでしょうが
もうひとつ重要な仕事がある。

幕府のお偉いさんに、碁を教える先生。
その時は相手がどれだけ偉かろうが先生であって、相手は弟子。

この時期の一番の実力者、あの保科正之もそうだった。

やり取りの中で、強い信頼関係と絆が出来たんでしょうね
保科正之を中心にして、数人が根回しに走り回る。

渋川を男にせねば。

実に823年ぶりの改暦
初の和暦。

朝廷
幕府にはもうひとつ思惑があった。
暦に関しては、朝廷側にずっと主導権を握られっぱなし。

陰陽寮(おんみょうりょう)という、安倍晴明で有名な占術を司る陰陽師(おんみょうじ)のいる部署が全てを取り仕切っていた。

一気に主導権を奪い取ろう。

陰陽寮に変わって、「天文方」という新設の部署を幕府内に作り
はい、こっちでやりますから。

そしてその初代は
渋川さん、頼まれてくれる?

あらま
碁はもう良いんでしょうか

それ以外
暦の変更の段階で、例の二十四節気も日本オリジナルに変えてればねえ
当然、渋川さんは中国からそのまま輸入した二十四節気が多少合わないのは分かっている。

ところがどう思ったか
もっと細かい七十二侯というのがあるんだけど、それを日本に合うように変更して
二十四節気はそのまま
残念!

それから
渋川春海の功績としては星座
中国から伝わっていた星座に61個も追加した。

天文測量のための機械もオリジナルでいっぱい作ったよ

旧暦でも太陽暦を使っていた(二十四節気)

「旧歴で読み解く日本の習わし」を読んでいて、とても驚きました。

それって丸々太陽暦じゃないの!

二十四節気
啓蟄(けいちつ)だの大寒(だいかん)だの聞いたことはありました。

簡単におさらいです。

月の満ち欠けの1サイクル29.53日を一月とし、
12ヵ月で1年としたのが旧暦
でも、29.53×12=354日は365日より11日短い。
3年たてば1ヵ月分もずれるので、約3年に1回閏月をもうけてその年は13ヵ月ある。
結局は太陽の一年の動き(365日)に合わせようとしているので太陰太陽暦と言います。

啓蟄(けいちつ)だの大寒(だいかん)だのは二十四節気(にじゅうしせっき)と言うんですが
いつも旧暦の話の中で話題になるので
太陰太陽暦の中で、季節を表現するために区切った表現だと思い込んでいました。

逆だったんですね。

二十四節気は太陽暦だった。

太陰太陽暦だと、閏月のある年とない年で、何月何日から田植えをしようという日が結構ずれる
不便なので、太陽暦も使おう。
一年365日を4つに分け
昼と夜の時間が全く一緒の日を春分、秋分
昼が一番長いのを夏至、短いのを冬至
これで、春夏秋冬が分けられる。
さらにそれを半分に割る(1/8)と、ここからが春夏秋冬ですよという
立春、立夏、立秋、立冬になる
半分じゃなく3で割ってみましょう
すると1/12になって太陽暦の月と同じ長さになるわけです。
これを節と呼んでいます。
1月節は立春と一緒、2月節は啓蟄、3月節は清明というふうに名前がついています。

さっきの1/8の8と12の最小公倍数が24なので、二十四節気という事です。

二十四節気名 月 新暦の日付
【春】
立春(りっしゅん) 1月節 2月4日頃
雨水(うすい) 1月中 2月19日頃
啓蟄(けいちつ) 2月節 3月5日頃
春分(しゅんぶん) 2月中 3月21日頃
清明(せいめい) 3月節 4月5日頃
穀雨(こくう) 3月中 4月20日頃
【夏】
立夏(りっか) 4月節 5月5日頃
小満(しょうまん) 4月中 5月21日頃
芒種(ぼうしゅ) 5月節 6月6日頃
夏至(げし) 5月中 6月21日頃
小暑(しょうしょ) 6月節 7月7日頃
大暑(たいしょ) 6月中 7月23日頃
【秋】
立秋(りっしゅう) 7月節 8月8日頃
処暑(しょしょ) 7月中 8月23日頃
白露(はくろ) 8月節 9月8日頃
秋分(しゅうぶん) 8月中 9月23日頃
寒露(かんろ) 9月節 10月8日頃
霜降(そうこう) 9月中 10月24日頃
【冬】
立冬(りっとう) 10月節 11月7日頃
小雪(しょうせつ) 10月中 11月22日頃
大雪(たいせつ) 11月節 12月7日頃
冬至(とうじ) 11月中 12月21日頃
小寒(しょうかん) 12月節 1月5日頃
大寒(だいかん) 12月中 1月21日頃

夏至とかを季節の中心に置いているから
今の太陽暦より、もっと太陽の動きに直接的。
「純太陽暦」とも言える。

昔の人は太陰太陽暦と太陽暦の両方を使いこなしてたんですね。
すごすぎます。

おかしいと思ってたんです。
伊勢神宮が暦を配って大人気、とか
確かに今でも、カレンダーは一家にひとつ以上あるけど
そこまでありがたがるかね、と

太陰太陽暦と太陽暦の変換表が暦だとすると
これは、365個の数字を曜日ごとに機械的に並べればすむ現代と違い
専門家がちゃんと作らないと出来ません。
大の月、小の月の並び、閏月のあるなしも毎年違う
さらに、農作業上、二十四節気が分からないと仕事にならん
となると、暦がいかに有難いものかが分かりました。

季節感
ひとつ問題があるとすると
季節感の肌感覚と春夏秋冬の区分が合わないという事でしょう。

春分、夏至、秋分、冬至を季節の真ん中と決めちゃって
そこからの前後3ヵ月分を春夏秋冬にしちゃったところ

地球って、日が一番長くあたる夏至が一番暑い訳ではなく
そこから地表がどんどん熱くなっていって、
2ヵ月近く先に一番暑いピークを迎える。

感覚より、科学的計算の方を優先しちゃった。
ある意味すごいと思うんですけどね。

8月8日から、はい秋です、って言われてもねえ。

立春、立夏、立秋、立冬は計算上のものとあきらめて
大寒や大暑といった季節の表現の二十四節気が
肌感覚とピッタリしていたら
誰も文句言わないんでしょうけど
それすら、肌感覚とは若干違う。

理由はこれが作られた場所
中国華北地域

日本の江戸とかよりは緯度が高いので
東北や北海道の季節感に近い
また、日本独特の梅雨や台風の要素が取り入れられていない。

中国の名前そのままじゃなく
日本の季節感の名前
梅雨とか、台風みたいに変えときゃ良かったのにね。

渋川春海がそれまでずっと使われていた中国の暦から
日本の経度に合わせて計算し直した
貞享暦(じょうきょうれき)を貞享2年1月1日(1685年2月4日)に改暦したとき
二十四節気のそれぞれの名前まで変えるチャンスだったのにね

日本だって南北に長いから
結局は、二十四節気も自分の地域で考えて
毎年、どこの何日目に、こういう農作業を行うといった
マイごよみを補足追加しておく必要がある。

逆に言うと、それさえ出来ていれば
二十四節気は、自然相手の仕事の強い見方になってくれる。