[大岡越前] 構造改革あれもこれも

「江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革」という本を読みました。

大岡越前
♪ルールー ルルルルルールルー ルルルルルルー
出ました、大岡越前 かっこいいー

テレビの影響で、お白州で名裁き、のイメージです。
もちろんそれはそれで正しいのですが
この本を読んでびっくり

裁判官としての顔は、ほんの一面
吉宗の片腕として、実に色んな改革に、実際に携わる

江戸町奉行という職務は
東京都知事、警視総監、消防総監、東京地方裁判所を兼ねたような役職だが
大岡越前は、評定所(ひょうじょうしょ)のメンバーにもなっている。

評定所とは、縦割り組織では解決できないような事を扱うところ
例えば厚生労働省と文部科学省をまたがるような事案を検討するところ
老中からの諮問を受け、実務的観点から意見を述べ、決定までもっていく
早い話が国政の一番重要な役どころ

とても異例なんですが、大岡越前は、勘定奉行の役割を半分やっています。
要は経済産業省

本を読むと、えっそれ吉宗のやったことだよね、というのがずらずら
確かに、吉宗の享保の改革は、いろんなことを途中で方針転換しながら進んでいくので
大岡越前が、実際にやってみて、悪影響が出たら方針を変えるというのを頻繁にやったと思われます。

特に、矛盾する政策を同時並行でやっています。
緊縮財政を行いながら、景気刺激策を取る
物価抑制を図りつつ、米価に関しては、物価をあげるために四苦八苦している

大岡家は大名ではなく、旗本
幕臣、すなわち、政府の官僚として、実務を行う役回り
その実務方のトップは町奉行です。

実務の事の何から何まで分かっていないといけないから
色んな何とか奉行を全国転々としながら全て経験してからでないと、江戸町奉行にはなれない
産まれながらにしてお殿様、という大名とは違い、旗本は成果主義

普通、江戸町奉行になるときはおじいちゃん、て事が多いんだけど
大岡越前は異例づくめのスピードでポンポン出世
町奉行の手前まで出世した時点で、ちょうど吉宗が将軍になった。

そんなすごいのがいるのか
すぐに江戸町奉行として呼び寄せる。
40歳。
結果として、20年間、色んな改革を進めることが出来た。
バックに吉宗という良き理解者がいたからね
やれやれーって

やっぱり、改革はある程度の期間継続してやらないと、結果が出ません。

このあと、何回かに渡って何をしたかまとめていきます

私が一番知りたかったのは、物価政策
何度か書いているけど、江戸庶民って、遊ぶことに一生懸命で月の半分も働いたらあとは遊んじゃう。
なんでそんな事が可能だったのか、ずっと疑問だった。

一番の要因は、物価だったのだろう。
物価と賃金(収入)のバランスが良かったんだろう、とは思うんだけど
自然にそうなったのかなあ、
誰かがちゃんと考えてそうしたんじゃないか
と、ずっと思っていた。

この本を読んで、やっぱり「誰か」はいたし
その「誰か」の一人が大岡越前だったんだと分かった。

その具体策は、もったいぶって次回以降に回すとして
まずは、行政組織改革から

行政組織改革
江戸の行政組織ってとても小さな政府
これは、大岡越前がということではなく、最初から。
町人は50万人もいるのに、北町奉行配下に、警察的役割をする、与力(よりき)が25人、その下の同心が100人
南町奉行配下にも同数。合計で、250人しかいません。
何かを取り締まるなんて不可能。
町の数は八百八町というけど、実際にはほぼ倍の1600町

行政のお役人としては、管理は無理なので、町の代表者たちに自主管理させる。
良く言えば民間活用。
学校で言うとクラス委員長みたいな感じ
名主(なぬし)と言います。

ひとりの名主が7~8町を受け持つ。人数にすると2000人以上を支配している。
この人たちがありとあらゆることを行う。
その下にもさらに組織が分かれていくんだけど、一旦省略

名主の見分け方は、玄関があること。
名主以外の人は、家に玄関をもうけてはいけません。
みんなには、名主たちは「名主」とは呼ばれず、玄関と呼ばれています。

名主はやることが多岐に渡り、実施するための費用は、町入用(ちょうにゅうよう)と言い
各戸の地主から徴収する。
即ち全て民間の費用。
大岡越前の頃まで、江戸が始まって随分経っているので、この仕組みにも問題点が増えてきていた。
町入用は肥大化し、庶民の負担が大きくなっていた。
特権を持った名主たちは、一部ですが甘い汁を吸っていた。

ここに、大岡越前が手を入れる。
不正があると見せしめ的に摘発し、厳罰に処する
世襲していた名主だったが、死亡すると息子には継がせず、隣町の名主に兼任させた。

行政のスリム化
民間なんだけどね

こりゃたまらんと、名主たち。
絶対悪いことしませんから、人数減らすことは勘弁願えませんか
町入用も減らします。

ほんまやな
ほんまにほんまやな

って事で、十七番からなる名主組合を作らせる。
組合のリーダーは、持ち回りで、内部の名主が悪いことをしていないか調査を担当

第三者委員会じゃなくて良いのかな、って気もするけど
彼らも必死。今度問題起こしたら、本当に減らされちゃう。
とっても真面目にやります。

以降、色んな改革がどんどん行われますが
実施に移すにおいて、この名主組合がとても良く機能します。

では、シリーズの次回から
具体的な改革の内容を話していきますね。

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時そばは、なぜどこが面白いのか

落語で読み解く「お江戸」の事情、という本を読みました。

時そば
お馴染みです。

十六文の屋台のそばを食べて、お勘定という時

小銭だから、間違えるといけねえや
手を出してくんねぇ。勘定して渡すから

いいかい、それ
ひぃ ふぅ みぃ よぉ いつ むぅ なな やぁ

今なんどきでぃ?

ここのつで

とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六

まんまと一文ごまかして行ってしまった。

このやり取りを見ていた男
あくる日に、意気揚々とそばを食べて、お勘定

小銭だから、間違えるといけねえや
手を出してくんねぇ。勘定して渡すから

いいかい、それ
ひぃ ふぅ みぃ よぉ いつ むぅ なな やぁ

今なんどきでぃ?

へぇ、よつで

いつ むぅ なな やぁ ここのつ とお、・・・

落ちもお馴染みですね

クイズ
翌日は違う時間でやっちゃったんだな、ということは分かります
最初は九つ、次の日は四つ

さあ、ここで問題です。
【問題】
さあ、この二つの時間、
今の時間で言うと、どれくらいの時間離れているでしょう。

答えは、後で書きますので考えてね

江戸の時刻
江戸時代の時刻について分かっていれば、この落語

なるほど、そう来たか
みたいに楽しめます。

江戸時代の時刻は不定時法
お日様が登るときが明け六つ
お日様が沈むときが暮れ六つ
その間が6つに分かれます。
一刻(とき)は、年間で平均すれば、今の約2時間ですが
夏はそれより長く、冬はそれより短くなります。

明け六つの次は七つかと思うと逆で、五つです
春分ないしは秋分の日だとすると、午前8時
その次は?
はい四つです。午前10時です。
その次は?三つ?
いえ、これがなんと、九つなんです。
正午に九つになり、2時で八つ、4時で七つ、6時で(暮れ)六つ
また、五つ、四つと減り、真夜中0時に九つに戻ります。

3時のおやつ、というのはここから来ています。
午後3時は、まだギリギリ八つです。

だんだん、答えが分かってきましたね
ポイントは9のとなりが4だということです。

何で9から減っていくかというと
おそらく中国とかで、一刻(とき)を9個に割った時間のあったんじゃないかと思われます。
だから最初は9のとき。
次はその倍なので、18のとき。
途中で、10の位を言うのがめんどくさくなって、八つ
次はクサン27だから七つ
クロク54の四つの後、正午になると最初に戻るからまた九つ

ところで、九つと言っても、真夜中と、正午、二通りあり得ます。
今でこそ東京は眠らない街
コンビニは24時間営業すべきかともめています。
でも、江戸時代は街灯なんてありません。
真夜中は真っ暗でしょう、と思うんですが
どうも、この九つは真夜中のようです。

蕎麦屋の屋台は、夜鷹と呼ばれる低俗な娼婦を主な客とする夜鷹蕎麦というのがあって
深夜でも営業している。

また、16文というのもポイントです。
江戸時代の蕎麦屋は、江戸時代の文化文政時代という、終盤に近い時代に一般化します。
それまでの蕎麦は蕎麦がきを食べるもので、
あんな細長いものは、あるにはあったが、一般的ではなく、敢えてあの形状の蕎麦を言いたいときは
蕎麦切り、と表現していたくらい。

どちらかというと、江戸でも、蕎麦切りより、うどんの方が食べられていた。
文化文政時代に、鰹節、濃口醤油、みりんという江戸の味の元が開発されて
一気に蕎麦が一般化する
そのあとは、ずっと一杯の蕎麦の値段は16文にほぼ統一される。
二八16なので洒落で、二八の蕎麦と言えば16文のそばのこと。

この時そばも、最初は関西の落語、時うどんで始まり
時そばにアレンジされて江戸で広まっています。

【答】
最初の時が、23時から1時までの間
二日目の時が、21時から23時までの間
最短で1分、最長でも4時間です。
ただし、春分ないしは秋分の日の場合ですけど。

早い話が、ほとんど変わらない時間に実行したのに
1文得する筈が4文も損しちゃった。
この落差が笑えるってことになります。

失礼。笑える理由を説明するほど野暮(やぼ)な事はありませんね

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玉川上水ウォーキング、第4コーナー回りました。

繋いで繋いでの、玉川上水を辿るウォーキング
またまた玉川上水。続けて繋げてまた続けて。
の続きです。

出掛ける前に図書館に寄って
玉川上水がらみの薄目の二つの本を借りてきました。
それをバスの中で読みながらのスタートです。

久我山
前回は久我山まで行きました。

さあ、続きだ。
今日は、暗渠(あんきょ=地下に埋まるタイプ)になってしまう手前くらいまでは行きたいなぁ

はい、岩崎橋。ここから

さっきの本で、開渠の清流復活ルートは、浅間橋(せんげんばし)までってあったな

げろっ
げろげろっ

岩崎橋の次は、浅間橋
あとひとつしかないの?
それだったら、前回、キリの良い浅間橋まで行っときゃ良かったなぁ

浅間橋

ああ、お水さん、さようなら

ここで、水は地下に潜り
こんな大通りの下を流れる(上は首都高)

第六天神社

この神社、彫り物がすごいのなんの

環八

ここで下を流れる水は二手に分かれ
左折する方は環八の下を流れて、神田川に注ぎ込みます。
玉川上水と神田上水の合体です。

あれっ、とっても不思議なもの

何でしょ
お寺のようです。
お休みでしょうか、入口も閉まっているし、誰一人いません。
身代り不動尊と言って、川崎の高津にあるものの別院らしいです。

ウォーキングしていると色々面白いものに出会えます。

玉川上水公園
ああ、良かった。
暗渠で、どこを流れているか分からなくなったらどうしようと思っておりましたが
ちゃんとその上が公園になっている
玉川上水公園とのネーミング。
説明板まで

見落としていて、後で再度本を読んで分かったんですが
この説明板の辺りから
下高井戸分水が枝分かれしていたそうです。

この前を通っているのは甲州街道ですが、その一里塚も近くにありました。


おおっ
おかえりなさい。お水さま


下からポンプで汲み上げたんでしょうか

汽車だって走っています。

船だって

おっと、これは
今は水が干上がっていますが
ひょっとして開渠にしている区間では?

大感動!
この一連の公園の最後の方で
でっかい管
本によると、2条の送水管
上は朝霞浄水場に向かう加圧された水が流れるもの。2400mm

下が玉川上水。1800mm

これで、玉川上水は暗渠としてちゃんと流れていることが確認出来ました。

和泉給水所
この玉川上水公園の突き当たりにあるのが
和泉給水所
でかいっ



ここに、水を貯めて加圧して送り出す。
新宿の淀橋浄水場が廃止され、跡地が新宿副都心になる昭和40年までは
玉川上水は、淀橋浄水場への送水機能を持っていた
明治大正昭和に至っても、東京都民の飲料水は、玉川上水が担っていたわけです。

その時は、この和泉給水所で最後にグッと加圧して淀橋浄水場まで水を送り込む重要な役割
旧、玉川上水とは別に、ここ以降で新しい、淀橋浄水場へ向かうルートに変わっていました。
新水路と呼びます。
この地図で上が新水路、下が旧水路

ところが、この新水路も関東大震災(大正12年)で壊滅的打撃
13日間使えなくなります。
その時、何とか東京都民に飲料水を届けられたのは、
旧水路からポンプで送り込んだ水だったというから泣かせます。

その時の反省に基づいて、もっと強固なものに変えようと
新々水路が作られます。

甲州街道を拡幅し、その拡幅されたところに、強固な送水管が埋設されます。
昭和40年までは、その新々水路が頑張り続けます。

続きは明日書くことに致します。

おでかけマップ

士農工商ってほんと?

福の神、貧乏神、という本を読みました。

七福神ファンですから。

七福神巡りは何度もやっていますが、
お寺に祀られていたり、神社に祀られていたり様々

一つの答えは、神仏習合で、神道も仏教もいっしょくただから。
この辺の話は、いつか数回に分けてじっくり話したいと思っています。

もうひとつは、神道だの仏教だのにとらわれない、民間信仰だから。

草の根的な自然に沸き起こってくる信仰。

名僧シリーズでやっているような、えらい人は誰一人からまない。
とても不思議。
庚申塔や富士塚や小さなお地蔵さんや。
ウォーキングをやっていると気になることだらけ。

この本を読み進めていくと、とても興味深いことが書いてある。

七福神の広まり
七福神が広まった一つの要因は、広めた人がいるから

大黒さん、恵比寿さん、毘沙門天あたりで顕著なんだけど
例えば、大黒さんなら大黒舞みたいなのがあって大黒さんの格好をしたり
恵比寿さんの人形を持ったりして
めでたい口上を言って家々を回る。
正月だと、門付けといって、
獅子舞みたいな感じで、家々を回ると
いくばくかのお金をもらえる。

ただ、それが成り立つのは、正月のようなごく限られた日だけ
また来たってことになるから
地方を回って、それで広がっていくということになる。

とはいえ、それだけで生計がたつとも考えがたく
おそらく本業が別にある

どういう人達かなんだけど
この本によると、いわゆる被差別層の人達。

信仰や宗教って、穢れ(けがれ)と実は表裏一体。
穢れの代表格は死
でも、葬式は仏教寺院の主要な収入源になっている。

死体を片付けるというような、誰もが忌み嫌うような仕事は
被差別層の人達が担当しているけど
実は、信仰的な事と、極めて近い距離にいたことになり
そのままの自然な流れで、民間信仰の中心的な役割を担うようになっていったのだと。

驚きました。
ただ、理不尽な扱いを受け続けていたと思っていたのに
ありがたや、と手を合わせてもらえる対象の一役も担っていたことになる。

頭の中が大混乱です。

改めて疑問が沸いて来ます。
士農工商って何だろう

士農工商
江戸時代が好きで、ずいぶん本も読んだけど
読めば読むほど一つの疑問が沸いて来ます。

士農工商ってほんと?

教科書で習った江戸時代の、基本中の基本のキーワード
士農工商という身分制度があったと習いました。

でも、どの本を読んでも、士農工商について書いていない。

こんなに出てこないのはやっぱりおかしい。
士農工商って身分制度は、本当はなかったんじゃないのか。

考えてみれば、士農工商は矛盾がありすぎる。

漁業や林業はどれよ
朝廷や、お公家さんたちはどうなるの?
大人気の相撲取りや歌舞伎役者や落語家等の
江戸を象徴する人達は、商、なの?工、なの?

一番の疑問は
江戸の中で15%の敷地面積を占めていた、神社仏閣
僧侶や神職が入っていないのは、おかしすぎる。

出家というのは、俗人ではなくなるという意味だから
枠組みのどこにも入らないって事かも知れません。
天海をはじめとして、かなり社会の根幹的なところを担いましたので
やっぱり納得がいきません。

昨日書いた一遍の時衆たち
かなり、被差別層の人達の割合が大きい。

一遍自身だって、乞食僧だから、アウトロー

七福神でいうと、私が一番好きな、布袋さんは、乞食僧です。

そういう人が神様になっちゃう。

例えば、仙台で超有名な福の神、仙台四郎って知恵遅れです。

恵比寿さんだって、元々は立てない未熟児の蛭子命(ひるこのみこと)が元になっているし
そもそも、夷(えびす)や戎(えびす)って外国人を見下した差別用語です。

結局、「関係ない」んじゃないだろうか

庶民の文化を見ていくにつれ
武士たちを支配者、自分達は被支配者なんて感覚はどうにも見てとれない
ほぼ対等にとらえているし、
ともすれば、小馬鹿にしていたりする。

頼りにしているのは、武士達や立派なおエライさんじゃなく
弱いものの立場に立ってくれる人を神としてあがめ
そんな、身近な神様を
たのんまっせ、と頼りにしている。

これこそが、日本の誇るべき、八百万の神なんじゃないだろうか。

索引はこちら
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