練塀特別見学会


以前、増上寺の子院、廣度院(こうどいん)で練塀(ねりべい)の話で大盛り上がり
練塀について考える。その1
練塀について考える。その2

その廣度院から手紙が届いていました
もしやあの話?と思いましたが、何せ受験中だったので封も開けずにそのまま
受験が終わって思い出し、開けてみると

やっぱり!
練塀特別見学会

お隣との境界の関係で、練塀をほんの一部一旦取り壊す必要がある
その時、中が見れる。みんなで確認したいので、住所を書いてもらえると、と言われて書いていた

9/8(金)と9/9(土)
間に合うじゃないか
9/9(土)10:00からの回に参加します。と返信ハガキ

練塀特別見学会
大反響だったらい。
200名を超える申込み
9/8は台風だったので、その分9/9に回数を増やして移動してもらってと大忙し

今日10:00からの回は、40名ちょっとで超満杯

まずは、工学院大学客員研究員の菅澤先生がスライドを映していただきながらのお話
今回の練塀解体調査を実際にやっていただいた、とても詳しい先生です。

江戸時代には江戸中のあちこちに存在していたはずの練塀
今は本当に数ヵ所にしかないとても貴重なもの

隣のビルとの境が、隣のビルの建て替えに伴い繋がっている部分を解体し作り直す必要があって
中を調査する機会を得た
最初心配していたのは、年数が経っているため、中が崩れて空洞のようになっているのではないかということ
見てみると、その心配は全く杞憂のものでした
実にしっかりした仕事がされており、本途帳(ほんとちょう)と寸分たがわぬものでした

本途帳というのは、当時の最高峰の建築集団「甲良組(こうらぐみ)」が江戸城を作るときに設計書兼作業指示書として作成されたもの
そこに練塀のページがあり、江戸城内の塀はその構造で作られたものだと思われる

今回の調査で初めて練塀の中が詳細に明らかになったが
本途帳(ほんとちょう)に書かれたものと構造も材料も寸法も全く異ならなかった
そして驚くべき事に、崩れもなければ歪みもない
我々が古い構造物を調査するとき、どれだけ歪んでいるかから入るのですが
それがほとんどなかった
私が経験した中で、見事な仕事というべきもの

各地方の練塀をひとつずつ説明していただきましたが
やっぱり江戸の練塀と各地方の練塀は若干考え方が違う気がする

あと、面白かったのが、増上寺三解脱門の横の練塀
明治以降に継ぎ足している
解散後、私が写真撮りに行きました
ここ

そのあと、副住職さんがさらに色々解説していただいた

一通り解説が終わったので、思わず私が質問
調査結果として、この練塀は享和2(1802)年のものということになりますか

それは分からない
増上寺の三解脱門の両サイドの部分はおそらくそうではないか

確実な証拠がない以上、先生も副住職さんも言い切る事は出来ないでしょうから
変わって何の責任もない私が断定することにいたしましょう

廣度院の練塀は、甲良組が享和2(1802)年に作ったものが、そのまま残されています。
享和って寛政の次で文化文政の前
松平定信が寛政の改革を行ったすぐあと。
将軍でいうと11代将軍家斉です
今から220年も前
そんな前のものがそのまま残っていて、その中身をこれから見に行こうという訳です
こんな大興奮がありましょうや

そして、修復も先生が担当するのでそのやり方の説明もあった
瓦とかの材料をチョークとかで印をつけ復元出来るように覚える
材料は基本的に同じものを戻していくが
強度をアップするためにある薬剤を入れて、瓦を固め直す
土の部分も基本的に同じ材料で同じ工法で戻していく
30cmの厚みの土なら、5cmになるくらいまで上からどんどん叩く
だから築地塀

解説が終わったあと、参加者の一人が先生に
ここのこの材料は石灰じゃないと思います
おおおっ。すごい。
3人のグループで来ていて、建築関係の材料を扱っている会社の人たち
いやあ、今回のこの調査がいかに色んな方面の人に注目されていたかということ

さあこのあと、いよいよ現物を見に行くことになります
次回その続きをレポートすることにいたしましょう

[東京ミステリー] 風水で江戸の都市づくり

都作り
日本の都は古くから例外なく風水を元に場所が選定されています

徳川家康が豊臣秀吉から関東平野を賜ったとき
やはり風水の考え方によろうとした

風水
東西南北に四神という守り神に守ってもらうため、守り神を象徴する地形があるところを選ぶ

東には「青龍」(せいりゅう)。 青い龍です。
キトラ古墳の壁画などでも知られるようになりましたが、
東側に青い龍神がいるのを良い地形としています。
これはもちろん象徴的な意味ですから、
青い龍に見立てる存在が「山岳」であったり「森林」であったり「河川」であったりします。

南には「朱雀」(すざく)。 朱い雀、支那でいう鳳凰のことです。
手塚治虫さんの漫画で知られる『火の鳥』がこれです。
エネルギーを溜める場所という意味で、南から陽光が差すことを意味するので、
「湖沼」や「平地」などを表します。

西に「白虎」(びゃっこ)。 白い虎です。
四神の中で唯一実在する動物ですが、
昔の支那ではホワイト・タイガーは伝説上の生き物だったのでしょう。
強くて白い神獣が西側を守護するとされていて、
岩だらけの「山岳」や、外敵の侵入を防ぎ、
なおかつ兵士を布陣できる「長城」などを意味します。

北に「玄武」(げんぶ)。玄(くろ)い武ということになりますが、
これは難解で、いくつか異説があります。
一般には「亀」と「蛇」がからみあっている図で示されます。
亀がメスで、蛇がオスだとされます。もちろん勘違いからきてますが。
しかし、それならたぶん、亀ではなく「スッポン(鼈)」でしょうね。
スッポンと蛇は、それぞれが雌雄の姿でつがいであると、
古代にはそういう伝説がありました。
まだ生物学や動物学が成り立っていない時代ですね。
亀やスッポンの甲羅を兵士の鎧に見立てて、「武人」だという解釈もあるようです。
「玄い」は「黒い」や「暗い」でもあるので、
冥界つまり先祖の世界を表すともされます。
そこから、「先祖の国」つまり「祖山」といった意味にもなっているようです。
いずれにせよ、風水地のエネルギー源、最重要ポイントです。

そしてこれらの指し示す真ん中こそが「黄土」です。黄色い大地。
聖なる者の住まうべき地点ということになります

江戸
江戸においてはそれぞれをどうとらえるか
京都とかとは違い、余りにも広い平野であったため、少し考え方を変える必要があった
都内には四神はいないんです。
北の山が苦労したと思います。
江戸の中は平らなので北に山なんてない
よし、もっと広域でとらえよう
とするとちゃんとありました
おおよそ100キロメートル北方に峻険な高山があります。
日光白根山です。標高2578メートル。
関東以北では最高峰です。

東西南北が少しずれています。
これは恵方という考え方です
節分で太巻きを恵方に向かって丸かじり、今年は東北東とか言ってきれいに東西南北の年がありませんね
ちなみに、あの発表される恵方はこういう法則です

江戸の四神を解説してある文章で、玄武を富士山と書いてあるのが多いのですが
あまりにもずれすぎます
東京ミステリーの本にあるように、富士山は白虎ととらえるのが自然でしょう

朱雀は東京湾で、青龍は房総半島になります

[江戸東京]シリーズはこちら(少し下げてね)

[東京ミステリー]関東の武士団は強かった

前回お話しした平将門
[東京ミステリー]平将門の思い
時代的には平安時代になります

本人はあっさりと討たれてしまいましたが
その魂は、関東の武士たちに受け継がれます
坂東(ばんどう)の武士団

次なる「担げる人」を虎視眈々と待ち
そこに源頼朝が登場する

はい、待ってました

坂東武士が大活躍で、関東に政権が樹立
公家の世の中から武士の世の中に大きく変わる

もっとも、源氏の世は、たった三代で終わり
その後は北条がつかさどる

上が変わっても支え続けたのが坂東武士団
「武蔵七党」という言い方もします

横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)
苗字として残っています

その中で、特に強い氏族、豊島氏、足立氏、葛西氏
治承・寿永の乱(源平合戦)で大活躍し
全国に名をとどろかせます

こちらは、地名として残っています

そして、秩父から豊島郡にやって来た氏族が
「江戸氏」を名乗ります
江戸時代へと繋がっていく訳です

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[東京ミステリー]平将門の思い

東京ミステリー、前回は古代でしたが
平安時代まで進めてまいりましょう

将門塚
東京のミステリーと言えばやっぱりここ
でっかいビルばかりの丸の内のオフィス街の中にポツンと残されている異様な場所
平将門の首塚

あれよあれよという間に、関東一円を制し
「新皇」と名乗って、関東一円を京都の中央政権から独立した国とした平将門

その物語は以前詳しく書きましたので、良かったら
[平将門]1 父の死。頼んだぞ。
[平将門]2 桔梗どのにございましょう。
[平将門]3 合戦が始まる
[平将門]4 京の都で裁判。その結果は
[平将門]5 桔梗、無事でいてくれ
[平将門]6 めでたしめでたし、になるはずが。
[平将門]7 俺はそんな事がしたかったのか
[平将門]8 新皇万歳ーっ
[平将門]9 あまりにもあっけなく

京都にあったはずの首が、なぜか江戸に埋められた
一説には、京都からバッタのごとく飛び跳ねながらやって来た
目撃した人はびっくりしたでしょうね

その後ずっと大切に葬られ今に至るのですが
実に多くの都市伝説が語り継がれてきた

何せ一等地中の一等地なので当然潰したい訳ですが
潰そうとした人たちはことごとく謎の死を遂げる

隣接するビルでは首塚を見下ろす方には窓を開けないとか
首塚の方に尻を向けないようなデスク配置にしているとか
まことしやかにあれやこれや

平将門はギラギラした性格ではなく
そそのかされて何だかんだのうちに中央に反逆しちゃったわけで
その人柄から、関東の人たちにとても好かれている

徳川家康って、
太田道灌の作った江戸城もそうですが
それまでにあった江戸のものを尊重し
丁寧に受け継いでいる

言葉をかえると、平将門もうまく利用して
江戸庶民の気持ちをまとめていった

神田明神
怨霊信仰という考え方がある
典型的なのは菅原道真の天神様ですが
怨みを持って死んでいった人を丁寧に祀れば
その力が強大な守護神となる

平将門を江戸城の鬼門にあたる東北の方向に神田明神を作って祀る

裏鬼門の日枝神社とともに、天下祭りとして将軍も見る祭りとして
一年交替で一大イベント

明治になると様相が変わります
明治は尊皇でまとまった政権
その天皇に背いた平将門を祀るとはなんたることぞ
さらに、それを重視していた幕府を倒した訳ですから

とはいえ、完全にぶっつぶす事はしませんでした
やっぱり祟りが恐いからでしょうか
境内に小さな将門神社を作り、祭神としてはそっちに移した

ただ、その後、将門神社は火事で焼け
「臨時に」本殿に平将門も合祀
そのまま現在に至っています

[江戸]シリーズはこちら(少し下げてね)