荒川どう掘るの?

荒川掘っちゃいましょう
の続きです

工事
あまりにも大規模な工事
ブルドーザーやショベルカー等がない時代、どうするの
予定より大幅に遅れます
特にその間に関東大震災があった
20年かかり、明治44年から昭和5年まで

ばくっと言うとこんな形しているのですが

最初の高水敷と言われているところまでを平らに掘り下げていくのは
なななんと人力

掘った土を堤防の方に盛り上げるのはトロッコ

全部で東京ドーム16杯分の土を掘ったのですが、2杯分までが人力

その後、低水路を掘るのはエキスカベーターという機械
今も水路を掘るのはエキスカベーターという名前の機械ですが
当時は蒸気の力で動くもの
日本にはなかったので輸入し、さらにそれを解析して日本で真似て作ったものを数台準備


そのまま、線路上のトロッコに入れられ、土手まで運ばれていきます

数年かかりますので、雨水とかがたまっていき、掘りにくくなっていきます
第3段階は、むしろ水を通しちゃった上で、浚渫船(しゅんせつせん)という船で川底の土をかきあげて行きます


それぞれの時期の地図を見比べると順番に進んでいっているのが分かります

付随工事
これだけの大規模工事になると、単に荒川放水路が出来れば良いってことではなくなる
放水路予定地は鉄道が横切っている
荒川放水路工事中の20年間は、鉄道は寸断されるけどごめんねー、って訳にはいかない
鉄道や道路で横断する橋の建設を同時に進めていく必要があります

川がすごいなと思う
綾瀬川と中川を分断する事になるので、その流れも変えなきゃいけない

綾瀬川を荒川放水路と平行に沿わせ、中川と合流。中川も荒川放水路と平行に進む

えっなんで?荒川に流し込んじゃえば良いじゃない
答えが調べきれていないんだけど、台風とかで増水したときの問題だと思われる
増水したときは荒川から中川上流の方に水が流れ込み中川上流の流域が洪水になる
その時、逆流しないように水門で止めるとすると
今度は中川上流の水の行き場がなくなるから、中川としての放水路も必要
結局はほぼ最後まで、仲良く横を流れる

荒川放水路と中川放水路の間を水が行き来するところはあって、そこに中川水門がある

そこにこういう説明がなされている

立ち退き
広範囲にわたるので、予定地に住んでいる人もいっぱいいる
立ち退きをしてもらう必要がある

1300世帯にのぼった
家ごと引っ張って移転したのもある

資料を読んでいて、えっ、と思ったのが浄光寺(通称木下川薬師)
ウォーキングで行ったんですよね
四ツ木の散歩。月光院と翼くん
出来たのが貞観2(860)年、平安時代の最初の頃です。
規模的にも、一時期は七堂伽藍を備えていたというから、どでかい敷地
最澄、円仁、家光といった大物の名前が次から次へと出てくる超大物のお寺です。

そんなすごいお寺が荒川放水路の予定地にすっぽり入っちゃった
潰す訳にはいかない
代替地を探すものの、そんな広い敷地はそうそう見つからない
時間ばかりが過ぎていく

行ったとき、違和感はあったんですよね
そんなに昔からの由緒ある寺にしてはやたら綺麗かった
荒川で移転したなんて一言も書いてなかったなあ
あんまり言いたくなかったのか

大きな問題は墓地
ものすごい数のお墓
檀家さんのためにも、何とか代替地を見つけてもらわねば

周りはどんどん移転していく
工事も進んでいき、とうとう工事現場の真ん中にポツンと取り残された
苦悩する住職さん
自分ひとりが悪者のように思われているんじゃないか
一括した墓地移転をあきらめ「各自の判断で墓を移転してください」

ようやく移転する土地ができた
代替地は見つからなかったけど、中川を埋め立てた新たに作られた土地が与えられた

東京を守る岩淵水門の話を次回しますね

[日本の歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

練塀を作っちゃった

(10/29[日]のことです)

昨日は荻窪のウォーキングイベント
一生忘れることのない、特別なイベントになりました

今日はワクチン接種、6回目です
前回同様、東久留米市のわくわく健康プラザで13:00~

朝、掃除を済ませて
10:00にわくわく健康プラザに行った
早めに行っても、「そこを何とか」と言えば早く射ってくれるに違いない

そもそも午前中にはやっておらず、
12:00に再訪し、
結局はほぼ時間通りになっちゃった

チクッ

なぜ、早めにワクチンを射ちたかったかと言うと、練塀を作りたかったから

練塀(ねりべい)
去年の文化財ウィークに廣度院で練塀の話を聞いてから練塀にはまっております
練塀について考える。その1
練塀について考える。その2
練塀特別見学会
練塀特別見学会。その2

今年の文化財ウィークでも練塀を特別公開してくれます
そこに合わせ、ウォーキング同好会でのウォーキングイベントを企画

文化財ウィークの期間中、特に本日10/29[日]は、「練塀を作ってみよう」というスペシャル企画
ここはいくらなんでも大にぎわいだろうと、ウォーキングイベントは少しずらせて11/3[祝]
11/3も特別公開はしてくれ、内部構造が分かるようにしてくれています。

とはいえ、「練塀を作ってみよう」にも参加したいですよね
前から予約していたワクチン接種が疎ましい

スペシャル企画は16:00まで。
急げーっ

大門に15:00に着きました
よっしゃ。最後のへんは間に合ったかな

ビニールの手袋をしました

基本的に子供が中心でやってましたが
図々しくも「私もやらせてもらっていいですか」
あっ、先生だ
この前説明してもらった大学の先生が今回も解説

その辺に土を置いてください


上から棒で突いて固めていって下さいね
はーい

割れた瓦をポンポン

この時点で謎が一つ解けた

先生!
ということは、この被せていく瓦とは違う瓦なんですね

はい
あんこの中の瓦は割れ瓦になります

何が疑問だったかと言うと
廣度院の練塀は享和2(1802)年に作られたんじゃないかと思われます
桟瓦(さんがわら)という今一般的な普及タイプの瓦が発明されたのが1674年
本瓦は高くて庶民には手が出ないけど桟瓦は安価なので
江戸でも一般庶民にも瓦屋根がだんだん普及していく
享和2(1802)年は練塀に強度保持のため、廃物利用としての瓦を混ぜ込んで行くのは時代的に合っている
ただ、前回見た内部構造で五重に乗せられている瓦は桟瓦ではなく本瓦(その中の平瓦)だった

そうか
水を逃がすための五重の瓦は本瓦で、それ以外の部分(先生の表現で言うあんこ)は割れた桟瓦が強度保持のために含まれているんじゃないか

本瓦を2つ並べるところまで終わり
先生が
こんな感じで乗せてここで乾くまで2週間ほど待ちます
「水引き」と言います

ここでまた一つ疑問解決
綺麗な瓦を水捌けのために乗せても、その上に土を入れてガンガン突いたら、
割れちゃうんじゃないか
割れちゃったらそこから水が下に浸透しちゃうよねと思っておりました
なるほど、一つ一つの工程に「水引き」の時間を取っていくなら
ちゃんと下は固まっていて、上からガンガン突いても瓦は割れないかも知れない

次は横をやってみましょう
左官屋さんが手慣れた手つきでさささっと土を盛る


その上に細長い瓦を置いていきます

もう一段やってみましょう
この向こうから3つめは私が置きました

横に黄色い紐があるのは見えますでしょうか
この線に合わせて置いていく
なるほど、だから綺麗に横一直線に揃うわけね

さらにもう一段
その時、下が歪んで一直線にならないのを防ぐため
くさびを打ち込んでおく

ちょっとここを離れて、もうひとつの場所に行ってみました
あっ、副住職さんこっちにおられたのか
今度、11/3のウォーキングイベントの時、副住職さんが解説していただける事になっています

よろしくお願いします

こちらこそ、ぜひ

ひょっとして、でーこんさん?

いくつか練塀のブログを書いたのを読んでいただいていたようです
感激

こちらでは、漆喰塗の体験をさせていただけます

副住職さんがじきじきに、こての使い方を教えていただけました

こうやってまとめて、ここでシャッと乗せます
スーッペタペタ

こんな感じでしょうか
何とかできたかな

これはどこに使われるんでしょう

瓦と瓦の間の白いとこですね

確かに白いなあ

なんと、私を含め、みんなで作った練塀
オブジェとして、この場所に置いておいてくれるそうです

イベントの時、自慢できます
この3番目のこの瓦、私が置いたんやでぇ

それにしても、面白い企画考えたもんだなあ
練塀を作るなんてね
副住職さんが考えたのかなあ

実物の練塀の端っこを解析している部分も再度確認
ちゃんと雨風がしのげるように囲われていました

ああ面白かった
今日は解熱剤飲んで早めに寝ることにいたしましょう。

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

荒川、掘っちゃいましょう

荒川知水資料館で教えてもらったことがあまりに衝撃的だったので
それ以降、荒川に関して3冊本を読みました

まとめていこうと思います

江戸時代
徳川家康が関東全域に領地替えになってから
日本一広い関東平野をどうするか考えた

都市造りにおいて大きなテーマ
「水」
ひとつは交通。当時から明治に至るまで、最も重要な交通手段は道ではなく川
特に物を運ぶには人や馬ではたかが知れていて、船が必要
上方や関東近郊からの物資を江戸に運ぶ。舟運

二つ目に生産。農業には水が必要

三つ目に治水
度重なる洪水
そのたびに甚大なる被害が生じていた

大きく言うと、一つ目の舟運と二つ目の農業は水が多い方が良いが
三つ目の治水は水が多すぎると困る

利根川と荒川
この大きな川は最終的に合体して東京湾に流れ込んでいた
あまりに治水で問題が大きかったので
利根川と荒川を分けた
元々荒川は、荒ぶる川で荒川
氾濫を繰り返していた

利根川は東京湾ではなく、千葉の銚子へ
利根川東遷と言います
あっさり書きましたが、流域面積日本一の利根川の流れを変えるなんて
そんな発想をすること自体信じられません
当然人力で掘って変えるわけです
並大抵ではありません
利根川東遷についてはあまりに大きなテーマなので、以下を読んでいただくとして今回割愛
江戸を土地にした男

利根川東遷で治水は改善されましたが副作用が出た
お分かりですね。舟運と農業
水が減りすぎると困る

荒川西遷
舟運と治水では水の量だけでなく、川の曲がり具合の都合も逆になる
山道が真っ直ぐだと、急すぎて登れないので、わざとくねくねしています
川も同じで、流れに逆らって上るには帆を上げてがんばる訳だけど
まっすぐで急だと無理
治水面では、くねくねだとすぐに決壊

荒川はどうしたか
くねくね

利根川東遷である程度は良くなったんだし
どっちかっていうと舟運優先

とはいえ、江戸の中心地は洪水から守りたい
二つの堤防を作った
隅田堤と日本堤
普通、堤防って川沿いに作りますよね
隅田堤は良いとして、ずっと日本堤の意図することが分からなかったんですが
ようやく分かりました

川は溢れる大前提
溢れても、江戸中心地が水浸しにならないよう
もう少し上流に犠牲になってもらって、その地域を水浸し
水色で囲われた遊水地帯
その辺は田んぼが多いから良いんじゃない?
そんなこと言われちゃいました

もちろん人も住んでいる訳なので
その人たちは自己防衛するしかありません
水屋という建物で、高い土台の上に家を作り
洪水の時、それでもだめなら、2階で暮らせるように
ウォーキングした浮間地区だとこんな建物が今も残っています

明治時代
明治時代になりました
基本的には状況は変わらず、舟運優先
やっぱり、洪水はたびたび起こります

殖産興業なので、工場がどんどん増えていきます
そうなると、同じ洪水でも、田んぼよりけた違いの被害になる
舟運優先だからとも言っておれなくなります

そうこうしているうちに、鉄道が敷かれ出す

舟運優先も転換点にさしかかる

日清戦争後の明治29年、河川法が制定
そこでは、明確に洪水氾濫防御がうたわれる
明治元年 (1868) ~明治40年 (1907) の間で、
床上浸水などの被害をもたらした洪水は、10回以上発生

被害の大きかった洪水は、明治29年、明治35年 (1902)、明治40年でした。
特に、明治40年の洪水は甚大な被害をもたらしました。

河川法では、河川の改修はほぼ都道府県の役割
度重なる洪水被害に、荒川を抜本的に作り直すべきとの議論が沸き上がるものの
東京都の予算では限界がありました

そんな中で、明治43年に未曾有の大洪水が起きます


もうだめだ
新河川法の制定
河川改修は国が主導権を持って推進する

荒川放水路
無茶苦茶広くてほぼまっすぐな水路を荒川(今の隅田川)とは別に作ろう
4つの案が出ましたが、最も抜本的な案(④)

古くからの第一の宿場町の真上を通して潰しちゃうことには猛反対がおき
そこだけはちょっと迂回

理屈的に正しいのは分かるけど、そんなでかい川、どうやって掘るのよ
今のブルドーザーやショベルカーみたいなのはありません

その地域にはいっぱい人が住んでおります
鉄道も横切ることになるし綾瀬川や中川だって横切る

歩くと分かりますが、対岸ははるか彼方

よくもまあ、こんなのを人が掘ろうと思ったもんです
よほど切羽詰まり、よほど立案した人がすごかったんでしょう

その辺の話は次回

[江戸東京]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] ばさら

「ことば日本史」シリーズ、南北朝時代に入ります

ばさら
ばさらと言えば佐々木道誉。
私と同じ名字なので気になる存在。
佐々木道誉は、足利尊氏が鎌倉幕府を裏切ってから室町幕府を樹てるまで、
つねに尊氏と行動をともにした武将。

鷹狩りに行った帰り、妙法院門跡の御所の前を通りかかったが、
下人たちがその庭に入りこみ、美しい紅葉があったのを一枝折りとった。
そのとき門跡はちょうど、庭を眺めながら詩吟じたりしていたところだったので、
この狼藉がゆるせない。

「誰かおらぬか。あの男どもをとめなさい」
「いったい何者が、御所の紅葉を折っておるのじゃ。すぐに外へ出なさい」

道誉の下人はあざ笑って、さらに大きな枝を引き折る。
すると、ここに宿泊中だった比叡山の法師たちが、躍りでてきた。

「この野郎、ふざけやがって。目にものを見せてやるぞ」
紅葉の枝を取り上げると、それで男どもをさんざんに打ちつけ、門の外へ追い出した。

このことを聞いた道誉、怒り心頭
ただちに妙法院に押し入り、火を放った。
激しい風にあおられて、火は他の寺院へも燃え移った。
戦が起きたような大騒ぎである。

尊氏は、道誉の味方なので、これほどのことをしても、道誉を処分するつもりはなかった。
だが、比叡山の僧たちが処分を求めて大騒ぎをつづけるので、
ついにやむをえず、道誉の父子を上総国に流罪とすることになった。

反省してしょんぼりと思いきや、道中がまた大変だった。

佐々木家の郎党など五百騎が見送りにつきそっていたが、
彼らはみな、猿皮で作ったうつぼを背負い、猿皮の腰当てをしていたのだ。
猿は、比叡山の神使とされる神獣である。

おまけにこの連中が、道中の休憩所ごとに酒宴をはり、
宿駅ごとに遊女をあげて大騒ぎする。
まるで物見遊山の旅。
とことん、延暦寺をあざけってみせたのである。

このような過激な振る舞いは、バサラと呼ばれた。
バサラとは、過激な型破りをさす一種の美学である。

バサラの語源は、ダイヤモンドを意味するサンスクリット語だというが、
鎌倉時代中期から、派手、分を過ぎた贅沢などの意味で用いられるようになっていた。
それが「下剋上」の風潮のなか、
身分の違いも、聖なる権威も、あるべき様式も侵犯し、
積極的に秩序を転倒してみせる危険なまでの美学となったのである。

道誉をはじめ「バサラ大名」と呼ばれた大名たちがおり、
豪華な茶酒をそろえて、茶の銘柄をあてあう闘茶を行う「バサラ茶会」を楽しみ、
派手な「バサラ扇」を好み、奔放な画風の「バサラ絵」を扇や団扇絵馬などに描いた。

室町幕府が発足した延元元年(1336)年に、足利尊氏は政治要綱『建武式目』を出したが、
その第一条は、倹約をすすめ、バサラを禁じるものだった。
新たな秩序を作ろうとするときに、この破壊的な美学は許されなかったのである。

佐々木道誉の子孫が、大魔神佐々木主浩で、その子供が佐々木朗希
(嘘です)

怪獣でいうとブースカ
(それはバラサバラサ)

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)