[歳時記]9/29 クリーニングの日。べちゃべちゃにならないの?

おもしろ歳時記シリーズ、9/29は2つネタがあるので、1つは前倒しで今日。

9/29
9月29日は「クリーニングの日」

全国クリーニング環境衛生同業組合連合会が、
消費者にもっとクリーニングを利用してもらい、
みずからもクリーニング技術の向上をめざそうと設けた日

ご察しの通り、語呂合わせです。

クリーニングは、古くはローマ時代に行なわれていた。
職業洗濯人がクリーニングを行なっていたが、
税金が高かったため、お金持ちしか利用できなかった。

日本では、1860年代、
横浜のフランス海兵が洗濯するところを見ていた日本人によって、
西洋式の洗濯業が始められた。

同じころに、横浜に外国人が洗濯屋を開いていたという話もある。

さらに、「明治大年表」には、
1868(明治元)年に、横浜で洗濯屋をしていた与兵衛という人が、
東京に出店して西洋式洗濯業を始めたという記録が残っている。

どうやら、横浜は日本のクリーニングの先進地区だったらしい。

ドライ・クリーニング
ドライ・クリーニングは明治40年に五十嵐健治という人が、
西洋式の無水洗濯を研究し、開発したといわれている。

ドライってどういうこと?
乾いたままで、どうやって汚れを落とすのよ、
風で吹き飛ばすの?そんなのゴミだけでしょ
とずっと思っておりました。

調べると、水を使わないと言う意味で
油で洗うんですと。

油ぁ?
べちゃべちゃのぬるぬるになるやん。
大丈夫。
天ぷら油とはちょっと違う。

揮発性有機溶剤というくらいだから、すぐ乾くんでしょうね。
ほっとしました。

クリーニング屋さん
おそらく私だけの超個人的なお話ですが
クリーニング屋さんって、唯一、対面で話の出来るお店

今、スーパーを始めとして、ほとんどのお店は、店の人と話をせずに購入
煩わしくないので、それはそれで悪くはないのですが
いくらなんでもほぼ100%その類いになってしまうと寂しい気もする。

たまたま、行っているクリーニング屋さんが
気の良いおしゃべりなおばさんだった、というだけの話なんですけどね。

引っ越し前の練馬区の時のクリーニング屋さんは特にそうで
色々話しかけて来てくれる。

出す洗濯物で、娘の成長が分かるので
娘さんずいぶん大きくなられたわね、とか
もうすぐ卒業式ね、とか

やっぱり人間って、コミュニケーションが必要な動物なんだなって気がする。

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[歳時記]9/21 宮沢賢治死去。そういうものに私はなりたい

9/24
「雨ニモ負ケズ」の詩や「銀河鉄道の夜」 「風の又三郎」などの童話で有名な宮沢賢治は、
昭和8(1933)年9月21日、わずか38歳で亡くなった。

賢治は岩手県花巻市生まれ。
農学校の教師や農業技師を務めながら創作活動を続けていた。
だが、生前、そうした作品が評価されることはなかった。
わずかに大正12年に「春と修羅」「注文の多い料理店」の2冊を自費出版したのみ。
それもまったく売れず、なんの反応もなかった。

生涯独身を通して貧しい生活を送った彼は、亡くなるときもひっそりと世を去った。
父が見守るなか、水を飲み、自分でガーゼで体を拭き、
ぽとりとガーゼを落とすと静かに息を引きとったという。
自分の死期を予感していたのかもしれない。

銀河鉄道の夜は、法華経の精神
ジョバンニとカムパネルラでしたね
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」

雨ニモマケズ
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けない
丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている
1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れず
よく見聞きし 分かり そして忘れない
野原の林の下のかげの
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供がいれば
行って看病してやり
西に疲れた母がいれば
行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人がいれば
行って怖がらなくてもよいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい

これは、宮沢賢治が世の中に発表しようとして書いた文章ではない。
自分の手帳に、日記的に書いたもの
家族も知らなかった手帳が死後に偶然に見つかった。

そもそも、宮沢賢治は詩人ではない

この詩は、戦前から戦中にかけて盛んに使われた。
ただ、その時は、「1日に玄米4合」の部分は改ざんされていた。
満足に食べられない時代に4合は多すぎる

我々の感覚でも、1日に4合?って思うんだけど
江戸時代の資料とか見ていると、4合とか6合とか平気で食べている
おかずがろくなものが無い。
ご飯と味噌汁と漬物だけという日も多い。

この詩を書いたとき、宮沢賢治はほぼ病気で寝たきりだった。
立って歩きたい。
それが切実なる願望

もし、それが叶ったとしても、少し風が吹けば倒れてしまうだろう。
普通に歩ける人なら、雨や風ごときには、余程でなければ負けない訳だけど
それは叶わぬ事だった。

1日4合なんてとんでもない。
でも、賢治にとっては、やっぱり4合って書きたかった。
そこは、改ざんしちゃいけない部分だと思う。

切実な願望から始まるけど
後半にかけて、どうだろう。
やっぱり、自分の事なんてどうでもいいや、って
気持ちが変わっていく。

銀河鉄道の夜でテーマだった「ほんとうのさいわい」

皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい

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[歳時記]9/15 敬老の日。聖徳太子が老人ホームを作った日

9/15
平成15年(2003年)までは、「敬老の日」は毎年9月15日でした。
今は固定の日じゃなくなって9月の第3月曜日

「多年にわたって社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」

そのルーツは1951(昭和2)年につくられた「としよりの日」にある。
9月15日から1週間を老人福祉週間と定めて、これを「としよりの日」と命名した。

でもね。「としより」というネーミングはどうなのよ

1963(昭和38)年に老人福祉法が制定されたのをきっかけに、
9月15日を「老人の日」に定めた

うーん、あんまりイメージ変わっとらん。

1966(昭和4)年、「敬老の日」に改められてめでたく国民の祝日になった。
めでたしめでたし。

聖徳太子
なんで9月15日が、老人に感謝する日になったのか。

なんとなんと、その起源は聖徳太子にまでさかのぼる。

聖徳太子が、現在の大阪市に 「悲田院(ひでんいん)」という救護施設を設立したのが、
9月15日
何年かは不明。

悲田院は身寄りのない老人や病人を収容する施設で、
いわば現代の老人ホームや病院といったところ。

四箇院の一つとして建てられた
四箇院とは悲田院に敬田院・施薬院・療病院を合せたもの
施薬院というのは、聞いたことあります。
薬草を育てている。

そんな昔に、福祉をちゃんと考えていたんですね
聖徳太子恐るべし

娘夫婦
長女のところの夫婦が、母の日の時に家にプレゼントを持って訪ねて来てくれた。

カミさんが、
今度は父の日ね、と言うから
いやあ、父の日は母の日ほどメジャーじゃないから来ないと思うよ、
って言っていたんだけど、結果的には来てくれた。

そんなに気を使わせちゃ悪いと思いつつも
純粋に嬉しいもんです。

カミさんも嬉しかったようで
職場で、母の日と父の日に来てくれたのよ、と職場の仲間に話した。

すると、その人が
あら良かったじゃない
次は敬老の日ね

えっ

いつの間に自分達は敬老の日の対象になっていたのか
全く自覚がなかった。

敬老の日には、東栄町とか加古川市の、自分達の親にはものを送っているけれど
送られる側なの?
そんな。いつからよ

言われてみれば、カミさんも私も60歳の還暦をさらに1歳過ぎた。
ものすごいショック

大丈夫。
敬老の日の祝日は、向こうのご両親と温泉旅行に行くらしい。
こっちには当面来る予定なし。

やっぱり、孫が出来てからでしょうね
孫ができれば素直に大喜びで「おじいちゃん」を受け入れますよ。

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[歳時記]9/9 正午の合図に空砲が撃たれる

9/9
明治4(1871)年9月9日の正午。東京に「ドン」という大きな砲声が響いた。
この日から、毎日、正午には空砲がうたれるようになり、
人びとはそれで時間を確認するようになった。

なぜ、「ドン」が始まったのか
時間の考え方が変わったので、みんなの意識づけ

うーん、不思議だなあ
前後逆なんですよ。

不定時法が定時法になったのが明治5(1872)年12月

江戸時代は不定時法といって、季節によって1時間の長さが違う。
日の出が明け六つで、日の入りが暮れ六つ
その間を6つに分けたのが一時(いっとき)
今の2時間相当
夏の一時は冬の一時よりずいぶん長い。

これをキッチリ1日を24時間に分けたのが明治5年12月3日
同時に月日の考え方も変えて、太陰太陽暦を太陽暦に変えた。
一月の長さも違う。
明治5年12月3日は明治6年1月1日になった。

不定時法についてはこちらも読んでね
明治5年は急に短くなったのよ

そうするよ、って発表は、僅かその23日に急に言ったので
ドン、が始まったときは、まだ時間を変えるなんて言っていない。
それまでは、時の鐘ってのが一時ごとに鳴っていたのをやめて
正午に一回だけドン
意識づけというよりは、欧化政策かも
正式には午砲というんだけど、外国ではやっていたりしたみたい

東京だと、皇居に大砲が設置された。
その大砲が、うちの近くの小金井公園内、たてもの園の中に移設されているのよ

一回、いつかの時の記念日にドンの再現をしたらしい。
もう一回やってくれないかなあ

皇居から、色んな場所にたらい回しにされたらしいけど続いていた
経費削減のため、昭和4(1929)年に砲声はサイレンに変わったが、
その習慣は昭和12年頃まで続いたとされる。

ドンと言えば半ドン
我々の世代、小学校は午前中で終わりだった。
ドンまでで終わりということで半ドン
言葉の起源は諸説あるらしいけど

東京に出てきて「今日は半ドンだから」って言っても通じないことが多い

ええっ。半ドンってひょっとして関西弁なの?
カルチャーショックで立ち直れない

調べてみた
一応全国区ではあるらしいんだけど
やっぱり関西ほどは浸透していないらしい

他に言いようがないよね
「午前中終わり」とか?
可愛くないよね、それ

そもそも、週休二日で土曜日も休みになっちゃったから
半ドン、って死語になっちゃうのかなあ

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