ブータンでピンチに陥ったとき

「ブータンに魅せられて」の今枝さんがブータンで経験したエピソード

これすごいなあ、と思いましたので、ご紹介

ドライブの途中で
今枝さんが、ティンプという地域のあちこちをドライブしていて、
一本の狭い道に迷い込んだ
どこでどう間違ったか、次第に道幅が狭くなり、
気がつくと実は道ではなく、排水溝を覆うコンクリート板の上だった

いずれにしても、もう引き返せる状態になかったので
そのままゆっくりゆっくり進む

最後までいくと道に繋がった
と、思ったんだけど

その道との間に20センチ程の段差がある。
今枝さんの乗っていた車でそこを降りることは不可能。

行くも無理、戻るも無理。
万事休す

通りがかりの人
いやあ、こっからがすごいと思いましたね

通りがかりの人が、「待て」と手で合図
あちこちから石を持ってきて、その段差を埋め始めたというんです。

でも結構の段差。ちょっとやそっとじゃ無理。

ところが、通り会わせた人が1人2人と集まり石を集めて段差を埋めだした

そうすると早い。
ほんの数分で段差が埋まっちゃった。

誘導してくれて、無事に段差を降りることが出来た。

その後
無事に段差を降り終えて、みんなにお礼をしようと見回したら、
何事もなかったかのように、みんな立ち去ってしまっていたというのです。

不思議なのが誰一人言葉を発しなかったということ。

今枝さんが助けてください、と声をかけた訳ではない
ふとみると、車が立ち往生している。
一人が石で段差を埋めようとしている。

状況をみたみんなが、瞬時に今やるべき事を理解し
その事を、当然の、こととして黙って動き
大丈夫そうだとなると、そのまま去っていく。

なんと、無関心に通りすぎていった人が一人もいなかったというんです

日本だと
もし、日本で同じ状況が起きたら、どうなるでしょう。
私は、結果としては助けてもらえると思う
何となくだけど自信ある

日本人だってそういうときは一致団結する

ただ、もうちょっと仰々しくなるというか
無言で、とまではなりそうもないし
数分とまではいかないでしょう
無関心に通りすぎる人だっているでしょう

自分がその場にいたらどうするか、自信がない
少なくとも、どうしようか、躊躇はすると思う。

おそらく、ブータンでは余りにも、自然で当たり前なので
例えば、後日その中の一人を見つけて、その時の事を聞いたら

えっ、そんなことあったんですか
そういえばありましたかね
それが何か?
くらいの自然なことかも知れませんね

人間としての自然な動き
失いたくないなって思いました。

ブータンに伝わる民話

ブータンに伝わる民話で、ブータンの国民性を良く表したものがあります

ヘレーじいさん
ヘレーじいさんはある日、そば畑を耕していて
とてつもなく大きなトルコ石を見つけた

こんなトルコ石を見つけたからには、もう働く必要なんかないわい
これを売れば金持ちになれるぞ

ヘレーじいさんは得意げに市場に向かいました

しばらくすると、馬を引いた男に出会いました

ヘレーじいさんやーい。どこへいくんだい?

ヘレーじいさんは、うきうきした気分で答えました。

そば畑を耕していたら、切り株が出てきたんだよ
その切り株を抜いたら、なんとトルコ石が出てきたんだよ
それで、これからこいつを市場に売りにいくところさ
ところで、お前さん。
その馬を、このトルコ石と交換する気はないかい?

馬を引いた男は、トルコ石の大きく立派なことにびっくり仰天して
馬とさっさと交換し、
気が変わらない内にと
大急ぎでその場を去って行きました。

ヘレーじいさんは、大満足でした
そして、馬を引いて、また市場の方へと歩きだしました

ヘレーじいさんは、この調子で
馬を牡牛に、牡牛を羊に、羊を雄鶏にと
次から次に出会う人ごとに交換した。

最後に、
自分の心の思いを歌に歌いながらやって来る男に出会った。

男は歌を歌うのをやめ、どこに行くのかと訪ねた
するとヘレーじいさんは、また楽しげに行った

まあ、お聞き
そば畑から、切り株を抜いたら、トルコ石が出てきたのさ
それが馬になり、馬が牛になり、牛が羊になり、羊が雄鶏になったのさ
ところでお前さん。
雄鶏をお前さんの歌と交換する気はないかい?

ヘレーじいさんは、男の腕に雄鶏を預け
自分は嬉しい心の内を歌に口ずさみながら
遠ざかっていきました。

ブータンでは、誰が見ても馬鹿げた取引をするものを
「ヘレーじいさんのようだ」
と言います。

生き方
言わずと知れた「わらしべ長者」の逆バージョンですね
考えてみれば、わらしべ長者もへんてこな取引です。
わらしべ長者も相手から声をかけてきたんでしょうから
取引だけを見ると一緒かも

こういう民話が残っていて、日常の中で引き合いにだされる
その国民性が面白いなと思うのです。

おそらく、それに近いことが行われるんじゃないか
そうじゃなきゃ、民話として語り継がれて残っていかない。

お前、ヘレーじいさんみたいだな
そうかもな。
わっはっはっ

みたいな最後はその場が笑いに包まれる、使い方になるんじゃないだろうか

経済的な成功を重要視せず
そんなことより、
って何かが色々ある国民性なのかもしれない。

ヘレーじいさんにその時の事を聞いたら
こんなふうな答えが帰ってくるんじゃないかな

いやあ
嬉しかったのさ
自慢したくてね
みんなはとっても喜んでくれたよ。
あの時の歌は、今でも良く歌うのさ
♪♪~

ブータン人にだけ見えるもの

幸せの国、ブータンでは仏教をかなり強くみんなが信心しています。

そんなお国柄なので、「ブータンに魅せられて」の著者、今枝さんには見えないのに、ブータンの人たちにだけ見えるものがあるんですって
正確に言うと「見えないけど分かるもの」なんだけど

チュメー川の魚
今枝さんが顧問をつとめる国立図書館の館長、ロポンペマラさんとスンゲ村というところに行った
チュメー川にかかる吊り橋を渡る

ロポンペマラさんは、懐から小さな布袋を取り出して、呪文を唱えながら川に粉を散布
何をしているのか訪ねると、魚に餌をやっているのだという。

その時は、それほど気にも止めなかったが、何度か通る度に同じことをするという

気になって川を眺めても、魚がいる様子がない

ブータンの仏教では、殺生、特に魚を取ることを嫌う。
だから、魚にとってみれば天国みたいなもので、どこの川でもかなり多くの魚がいる。

チュメー川には不思議なくらい魚がいない

ロポンペマラさんに訪ねると、ある言い伝えを教えてくれたんだと

言い伝え
チュメー川のほとりにたいそう立派なお坊様がやって来た
ふとみると、みんなが魚釣りをしている。

殺生はいけないと説いたがやめようとしない。

何度言ってもその状況なので、そのお坊様は仏の力を借りて、
魚を見えないようにしたらしい

おかげで、魚にとっても、みんなにとっても良くなった。

地域の人たちは、チュメー川の魚が、「いるのに見えない」ということを、
たいそう誇りに思っているらしい

今枝さんからすると、川の水は澄んでいるのに、魚がいないちょっと面白い川に過ぎない。
ブータンの人たちからすると、とても有難い川

幸せの国ブータンに根付いた仏教

「ブータンに魅せられて」の今枝さんは、ブータンの国立図書館の顧問
国立図書館の蔵書は全てお経

お経の調査に寺院へ
各地の寺院のお経を調査に、よく、出掛けたらしい

何せ国全体が山岳地帯のブータン。
ちょっとある寺院に、みたいなことでもおおごとになる

万が一、不在だったりすると大変なので、必ず、ちゃんとアポをとってから出掛けていた。

いつも職員の誰かと一緒に行くのだけど、
その日は職員の知り合いの中年女性も一緒にいきたいとの事

じゃあ良いですよ、と一緒に出掛けた

ところが、登山のあげく着いてみると、不在。
そんなはずはない。
ちゃんと連絡して了解を得ている

何時間待っても帰ってこない。
仕方ないから、昼食もすませる
それでも帰ってこなくて、数時間待つ。
いよいよ、これ以上待ってると帰れなくなるというという時間になったので
断念して帰路につく

まあ、国民みんなが性格がいい加減と言いますか、
良く言えばおおらかと言いますか

今枝さんは腹がたって仕方なかったらしい。

ところが、同行した女性にそういう素振りがない。
むしろ嬉しそう。
不思議になって訪ねたそうです。

私は、以前から、このお寺にお参りしたく思っていました。
母がなくなってからは、その思いがいっそう強くなりました。
しかし、女一人でこの山道は大変です。
今日はあなたのお陰でようやく夢が叶いました
少しは徳も積めました。
だから、有りがたく嬉しいんです。

もともと、今枝さんにとっては調査が目的だけど
その女性にとってみると、あくまでも、お参りが目的
そこで、中に入って拝むという行為が出来たかどうかなんて
おそらくどちらでもいいんでしょう。
山道を苦労して登ったという事自体が、
「徳を積めました」ということになるのでしょう。

切手をめぐる激論
ブータンの切手って有名だそうですね
絹の布に印刷した仏画シリーズというのもあるらしい

ただ、このシリーズが出たとき、大激論が戦わされたらしい。

企画したのはアメリカの会社で依頼が来た。

切手は使われると消印が押される
仏様の顔を、ゴム印のようなもので叩いたら、バチが当たるのではないか
ゴミ箱に捨てられるというのも問題なんじゃないか

なんとか妥協にこぎつけたのが
おそらく、絹の布に印刷してあるので、大切に保管されるのではないか
少なくとも消印の押された切手は、見るに耐えないので、国内では使用禁止
という妥協案

絵葉書なんかでの仏画も、あるにはあるが、全て外国人が作成したもので
ブータンの国民が作成したものは無いらしい。

仏教美術って
日本では仏像や仏画は、仏教美術としての対象でもあります。
ブータンではあくまでも、信仰の対象でしかない。
したがって、誰が作った仏像かなんて、話題にものぼらない。