[三十六歌仙]36 平兼盛。真っ赤になっちゃって

三十六歌仙シリーズ、これで最後になります。

平兼盛

しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで

誰にも知られないように隠していたのに
私の恋心は顔に出てしまったようだ

出ましたね。
百人一首にも選ばれていて同じ歌
しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで

壬生忠見(みぶのただみ)との歌合わせの対決の話もしましたね
[三十六歌仙]35 壬生忠見。拒食症で

平兼盛
光孝天皇の玄孫
光孝天皇-是忠親王-篤望王-平兼盛
臣籍降下前は兼盛王と言っていた。

『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』における代表的な歌人の一人
歌の世界ではかなりの重鎮です。

才女の赤染衛門(あかぞめえもん)の実の父ではないかといわれている。
赤染衛門の母は、はじめ兼盛の妻だったが、懐妊したまま別れて、赤染時用と再婚した。
そして生まれた娘が赤染衛門
平兼盛は私の子だと主張したんですが、
赤染時用はいえいえ元々私とも付き合っていましたし。
あらま、それもどうなんでしょう。

赤染衛門の歌才は、もしかしたら実父の兼盛ゆずりかもしれないが、事実かどうかはわからない。
百人一首だとこれ
やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて
かたぶくまでの 月を見しかな

璋子に仕えた紫式部の仲間です。

赤染衛門は大江匡衡に嫁ぎ、その血脈は大江広元や大江姓毛利氏にも流れているので
平兼盛も毛利の祖先という可能性があります。

ちなみに誤解しやすいですが
平清盛一族とは関係ありません。

鑑賞
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで

ぼくは自分の思いをじっと胸に秘め隠してきたが
おのずと顔や雰囲気に出たのか
〝君は恋しているんじゃないか 物思わしげにみえるよ〟と
人にたずねられるほどになってしまった

現代人にはかなり分かりやすい歌なので
この歌が好きな人も多いんじゃないでしょうか
基本的に分かりやすい歌風です

この感覚とても懐かしい
小学校から中学校にかけて
好きな女の子と話なんかすると、顔がすぐ真っ赤になっちゃったりしたから
物や思ふと 人にとはれてばかり

あの頃の感覚はどこ行っちゃったんでしょうか
恋ってどんなんやったっけ
初老のおじさんは何も思い出せません。

もう一首
わが宿の 梅の立ち枝や 見えつらむ 思ひのほかに 君が来ませる
(我が家の高く伸びた梅の枝が見えたのだろうか。思いもかけず、あなたが来てくれた。)

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[三十六歌仙]35 壬生忠見。拒食症で

三十六歌仙シリーズ、ラスト2、麻雀でいうとリーチでございます。
そうか、最後の二人はこの因縁の壬生忠見と平兼盛でいくわけね

壬生忠見(みぶのただみ)

こひすてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか

恋をしているという私の噂が、早くも世間に知れてしまった
誰にも知られないように密かに思い始めたばかりだというのに

出ましたっ。こいすちょう
百人一首もこの歌
こひすてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか
第41首
そして、お隣の第40首が平兼盛
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

この二つの歌は何処までもセット

「天暦の御時の歌合」
村上天皇の天徳4年(960)3月30日に内裏で催された歌合せ

それまでも、歌合せというテーマを決めて歌を競い合うというものはあったが
村上天皇が主催したこの時の歌合せは特に盛大で
その後の歌合わせは全てこのやり方を真似るようになったほど

左右に分かれ、お題に沿った歌が詠われ、勝負が決せられる
審判は左大臣の藤原実頼

「左歌の心ばへ、いとをかし」とか、「右歌、させることはなけれど、難は見えず」
引き分けは「持」(じ)と言う
「歌の品の同じほどなれば、持にぞ定め申す」

平兼盛は歌の世界ではベテランのエリート
この最高の祭典に選ばれて当然

他にもそうそうたるメンバーが並ぶなか
異例の人物が選ばれた。
壬生忠見
三十六歌仙の壬生忠岑(みぶのただみね)の息子
はるたつと いふばかりにや み吉野の 山もかすみて けさは見ゆらん
百人一首でいうと
有明の つれなく見えし 別れより 暁(あかつき)ばかり 憂(う)きものはなし

お父さんは優れた歌人ではありつつも、位はかなり低い
壬生忠見も歌の才能は引き継ぐものの、ずっと田舎で貧乏暮らし

大抜擢
こんな最高の舞台に呼んでもらえるなんて

とはいえ、立派な服は持ち合わせておらず
田舎者の格好で参上する

勝って、名をあげる。相手は実力者であればあるほど良い
平兼盛。申し分なし

いよいよ最後のお題。「恋」

双方の歌が読み上げられ、一堂どよめく
どちらも忍ぶ恋

忍ぶれど、は何処までもしらべが流麗
さすがに王者の風格

比して、こひすてふ
少し破格のしらべ
そこが、逆に想いの乱れを感じさせる

決めがたい
「持」か
「左右ノ歌、伴ニ以ツテ優ナリ。勝劣ヲ定メ申スコト能ハズ」
と天皇に申し上げようとすると
天皇からは
「各々歎美スベシ。タダシ、猶、之ヲ定メ申スベシ」

えっ、決めなきゃいけないの?
ムリムリ
大納言の源高明の意見を求める
源高明もお任せします、と下を向くばかり

こうなったら、天皇に決めていただくしか方法がない

「天気」はいかに

忍ぶれど・・

おそらく天皇は、両方口に出して感じてみようと思ったのだろうが
先に口にしたのはたまたま忍ぶれど

右の勝ち
右方はどっとわいて勝ちどきの音楽

別の部屋で控えていた、平兼盛
喜びいさんで、他の人の歌がまだ続くのに帰っちゃった

一方の壬生忠見
「あわと思ひて」 大きいショックを受け、
「胸ふたがりて」たべものものどに通らず、
ついに「不食の病」になって死んでしまった。

この歌で、三十六歌仙にも百人一首にも選ばれ、後世に名を残すが
この歌で命を落としたことになる

常に二つの歌はセットで語り継がれ
いつも、どっちの歌が良いかの論争になる
千年の時を経ていまだに

明暗が余りにも大きく分かれたからですが

ここだけの話
ほんとは、壬生忠見
拒食症で死んだりしていません。

ドラマティックに明暗を表現しようという、
『沙石集』での作り話

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[三十六歌仙]34 源順。お菓子「最中」はここから

三十六歌仙シリーズ

源順(みなもとのしたがう)
水のおもに てる月浪を かぞふれば こよひぞ秋の もなかなりけり
(水面に輝く月光の波――月次(つきなみ)をかぞえれば、今宵こそが仲秋の真ん中の夜であったよ。)

若くして博学を知られ、二十代の頃、醍醐天皇第四皇女勤子内親王に『和名類聚抄』を撰進した。
歴史検定2級の時、一生懸命覚えました。
和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)漢和辞典です。

さらに「宇津保(うつほ)物語」
日本文学史上最古の長編小説
源氏物語にも影響を与えたと言われています。
作者不明では有りますが、源順ではないかという説が有力

鑑賞
水のおもに てる月浪を かぞふれば こよひぞ秋の もなかなりけり

小波が立つ池の水面に照り映っている月を見て、
月日の数を数えて見れば、

そうかそうか。今宵は秋の最中の八月十五夜であったぞよ。
だから月は見事なのか

お菓子「最中」の語源となった歌。

この歌が有名になったので
宮中で開催された月見の宴で、丸くて白い餅菓子が出された時、
それを見た公家たちが、
「もなかの月」と名付けましょう

時は流れ、江戸時代中期。

江戸吉原の煎餅屋「竹村伊勢」が、
もち粉を水でとき、焼いて丸く形成した干菓子に甘味をつけ
「最中の月」として売り出しました。

その後「最中の月」にようやくあんこが挟まれ、
「最中饅頭」として出るようになり、
これが略され「最中」として定着しました。

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[三十六歌仙]33 大中臣能宣朝臣。不安定なリズム

三十六歌仙シリーズも残り少なくなってきました。

大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん)

みかきもり ゑじのたくひの よるはもえ ひるはきえつつ ものをこそおもへ

御垣守(みかきもり)である兵士のたく火が、夜は燃え昼は消えているように、私の恋の炎も、夜は燃え昼は消え入るばかりに、物思いに沈んでいる。

百人一首にも選ばれており、百人一首と同じ歌です。

代々伝わる伊勢神宮の最高責任者の家柄。
自分も祭主をつとめている。
「朝臣」もついているので位も高い。

百人一首第61首の伊勢大輔(いせのたいふ)のおじいちゃんでもある。
代々伊勢神宮だから、伊勢なんですね。

御垣守(みかきもり)は、宮廷を警護するガードマンのこと
衛士(ゑじ)は、その内、特に出張で都に来ているガードマン。
御垣守、衛士は夜にかがり火をたく。

その火から、恋心の不安定さを詠んでいる

リズムの良い歌なので
火がチラチラ燃えている様をちゃんとイメージさせてくれる

地元兵庫県をウォーキングしているときに、この歌の歌碑があったので
強く印象に残っている歌です。

焚き火がブームらしいですね
火って見ていてなぜ飽きないのでしょう
キャンプファイヤーって今の子供たちもやるのかなあ
大好きだった。
火を囲んで歌を歌ったりして

♪あの、すばーらしいー あーいーを もーうーいーちーど

大中臣能宣朝臣でもう一首

梅の花 にほふあたりの 夕暮は あやなく人に あやまたれつつ

梅の花が匂う辺りの夕暮にあっては、むやみに人の薫香と間違われて、来客があったのかと思い違いをしてばかりいる。

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