[ことば日本史] 抜け駆けと旗揚げ

「ことば日本史」平安時代から

抜け駆け
前回、先陣争いについて書きました
[ことば日本史] 先陣争い

その関連ということになりましょうか

先陣争いが、いっそう早く討って出たときには「抜け駆け」になる。
「抜け駆けの功名」と言ったりもします

この言葉は、やがて全体の攻撃が始まるより前に自分の手勢だけで出陣することをいう
ようになり、軍の統制をみだす行為としてマイナスの意味をもつようになった。

いつの世も、やり過ぎはいけませんぞ

旗揚げ
源平の騒乱では、他の支配から離れ、独立した軍勢を指揮する立場に立った者が、
自家の旗を大将の旗印として掲げた。

このことが、中世には「揚げ」という言葉でいわれるようになった。

これとは違うので念のため

一旗揚げる
そして似たことばで「一旗あげる」
敵の城に旗を立てるような際立ったことをするという意味で、
戦国時代に使われるようになった言葉のようだ。

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[ことば日本史] 先陣争い

「ことば日本史」平安時代から

先陣争い
武者の最高の名誉を競って
寿永2(1183)年7月に入京した木曾義仲は、
十一月にクーデターを断行し、
後白河法皇に迫って源頼朝追討の院宣を出させた。
そして翌年正月十日にいたって、征夷大将軍に任ぜられた。

だが、それは法皇の本意ではなかった。
法皇の密旨を受けた頼朝は、源範頼と義経を義仲追討に派遣する。

それぞれに軍をひきいて、範頼は勢田へ、義経は宇治に迫った。

義経にしたがった梶原景季(かげすえ)と佐々木高綱(たかつな)とは、
宇治川を渡るとき、我こそはと先を争った。

高綱は、義経からとっておきの名馬を賜って、もし人に後れをとったなら死ぬと誓っていたのだ。
必死だった。

だが景季が、一歩リード。

高綱が声をかける。

「おお、梶原殿馬の帯がゆるんでおりますぞ。
締めたほうがよろしかろう」

景季は、いったんほどいて、締め直した。

その隙に、高鋼は追い抜いて、ざんぶと川へ。

「おのれ、だまされた」

馬を打って、川へ入るが、ついに先陣は高綱のものとなった。

「宇治川の先陣争い」

真っ先に斬り込んで功をあげることは最高の手柄であり、
当然、その後の報酬にもつながる。

そこで、先陣争いということが起きるわけである。

ただ「平家物語」に描かれたような、
騎馬武者が駆けながら一騎打ちするというような場面は、
現実にはほとんどなかったと思われる。

当時の馬はポニーくらいの大きさしかない
鎧を着けた武者を乗せると、速く走れない
馬上から弓をいるなんて、困難を極めるので
普通は馬から降りて弓を射る

おそらく当時から、それを分かっていながら
「まあ、物語の世界ですから」というお約束的な事だったのだと思われる

先陣争いも、端からみるとかなりドタバタの格好悪い感じだったかも知れませんが
それじゃ物語になりませんから

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[ことば日本史]薩摩守

ことば日本史、平安時代から

薩摩守(さつまのかみ)
平清盛の弟で、薩摩の職にあった平忠度(ただのり)は、
富士川の戦、墨俣川(すのまたがわ)の戦、砺波山(となみやま)の戦などに
大将軍の一人として参戦。

当初は優勢だった平氏も、寿永二年(1183)6月の砺波山の戦では源義仲に敗れ、
七月には都落ちせざるをえなくなってしまった。

忠度は、いったん都を出たものの、引き返し、
和歌の師匠であった藤原俊成(しゅんぜい)の屋敷を訪れた。

忠度は、すでに平家の敗北を悟って、死の覚悟はしていたが、心残りがあったのだ。

「この戦乱もいずれは終わり、平和が訪れたならば、
勅撰和歌集が編まれるときも参りましょう。
この巻物のうちに、取るべきほどの歌がございましたら、
たとえ一つなりとも 勅撰集に取っていただきたく、 まいりました」

巻物には、日頃詠んだ歌から、これはと思うもの百首を集めて記してあった。
俊成は、それを開いて見て、涙ながらに約束する。

「このような形見をお預かりしたからには、けっして粗略にはいたしません。
それにしてもこうして訪ねていらしたことには、感涙がおさえられません」

「もはや、野山にさらそうとも、西の海に流されようとも、かまいはしません。
今はもう、憂き世に未練もありませんから。ではお暇を申し上げます」

翌年の二月七日、忠度は一の谷の合戦で討たれた。

文治三年(1187)、勅撰による「千載(せんざい)和歌集」が編まれ、
俊成は忠度の歌を「読み人知らず」 として採用した。

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

(かつて都だった滋賀の地は荒れ、琵琶湖のさざなみがわびしく聞こえるが、山桜は昔のままに咲いている。)

一首しか入れなかったのは、優れた歌が他になかったわけではなくて、
勅勘(ちょっかん)の身であることをはばかってのことだと
「平家物語」には記されている

この故事にちなんで、特別なコネによって名誉ある場に列せられることを
「薩摩守」というようになり、
明治時代にいたっては「タダノリ」とゴロがあうので、
汽車に無賃乗車することをさしていうようになった。

もとは美談だったのに、あら残念

もっとも今では、このような故事など知っている人のほうが少なくなって、
通用しなくなったためだろう、
もうほとんど使われることはなくなった。

私も今回初めて知りました。

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[ことば日本史]おごれるものは久しからず

「平氏にあらざれば人にあらず」といわれたほどの栄華を誇った平家一門も、ついには滅びる。

清盛は、源氏との合戦半ばにして熱病で苦しみながら逝き、
清盛の孫である安徳天皇も、平家一門の者たちとともに壇ノ浦に沈んでいった。

世の無常を感じずにはいられない。

そのことを「平家物語」は、このように語る。

奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂には滅びぬ、風の前の塵に同じ。

これは「平家物語」を貫く思想であり、
言い換えれば 「平家物語」は仏教の無常観を文学化した物語だった。

単に歴史の物語というのではなく
日本人の生き方に強く影響を与えたと思う

自分についても数々の思い当たることがある
ちょっとうまく行くとすぐに天狗になる
知らず知らずのうちに周りの人をばかにしている

しっぺ返し
その繰り返し

ああ、ああしてりゃ良かった、こうしてりゃ良かった。

でもね
この歳になると吹っ切れた

天狗になったって良いじゃないか
自分の事は大好きだから
立派な人になんてならなくて良い
反省ばかりしていると、辛くなる

あの人すごいなあ
でも、私だってすごいのさ

知らず知らずのうちにかけた迷惑があるのなら
どうぞ、言ってください。
誠心誠意謝りますから
それまでは好きなようにやらせてください

そんな生き方

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