[ことば日本史] ばさら

「ことば日本史」シリーズ、南北朝時代に入ります

ばさら
ばさらと言えば佐々木道誉。
私と同じ名字なので気になる存在。
佐々木道誉は、足利尊氏が鎌倉幕府を裏切ってから室町幕府を樹てるまで、
つねに尊氏と行動をともにした武将。

鷹狩りに行った帰り、妙法院門跡の御所の前を通りかかったが、
下人たちがその庭に入りこみ、美しい紅葉があったのを一枝折りとった。
そのとき門跡はちょうど、庭を眺めながら詩吟じたりしていたところだったので、
この狼藉がゆるせない。

「誰かおらぬか。あの男どもをとめなさい」
「いったい何者が、御所の紅葉を折っておるのじゃ。すぐに外へ出なさい」

道誉の下人はあざ笑って、さらに大きな枝を引き折る。
すると、ここに宿泊中だった比叡山の法師たちが、躍りでてきた。

「この野郎、ふざけやがって。目にものを見せてやるぞ」
紅葉の枝を取り上げると、それで男どもをさんざんに打ちつけ、門の外へ追い出した。

このことを聞いた道誉、怒り心頭
ただちに妙法院に押し入り、火を放った。
激しい風にあおられて、火は他の寺院へも燃え移った。
戦が起きたような大騒ぎである。

尊氏は、道誉の味方なので、これほどのことをしても、道誉を処分するつもりはなかった。
だが、比叡山の僧たちが処分を求めて大騒ぎをつづけるので、
ついにやむをえず、道誉の父子を上総国に流罪とすることになった。

反省してしょんぼりと思いきや、道中がまた大変だった。

佐々木家の郎党など五百騎が見送りにつきそっていたが、
彼らはみな、猿皮で作ったうつぼを背負い、猿皮の腰当てをしていたのだ。
猿は、比叡山の神使とされる神獣である。

おまけにこの連中が、道中の休憩所ごとに酒宴をはり、
宿駅ごとに遊女をあげて大騒ぎする。
まるで物見遊山の旅。
とことん、延暦寺をあざけってみせたのである。

このような過激な振る舞いは、バサラと呼ばれた。
バサラとは、過激な型破りをさす一種の美学である。

バサラの語源は、ダイヤモンドを意味するサンスクリット語だというが、
鎌倉時代中期から、派手、分を過ぎた贅沢などの意味で用いられるようになっていた。
それが「下剋上」の風潮のなか、
身分の違いも、聖なる権威も、あるべき様式も侵犯し、
積極的に秩序を転倒してみせる危険なまでの美学となったのである。

道誉をはじめ「バサラ大名」と呼ばれた大名たちがおり、
豪華な茶酒をそろえて、茶の銘柄をあてあう闘茶を行う「バサラ茶会」を楽しみ、
派手な「バサラ扇」を好み、奔放な画風の「バサラ絵」を扇や団扇絵馬などに描いた。

室町幕府が発足した延元元年(1336)年に、足利尊氏は政治要綱『建武式目』を出したが、
その第一条は、倹約をすすめ、バサラを禁じるものだった。
新たな秩序を作ろうとするときに、この破壊的な美学は許されなかったのである。

佐々木道誉の子孫が、大魔神佐々木主浩で、その子供が佐々木朗希
(嘘です)

怪獣でいうとブースカ
(それはバラサバラサ)

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史] 神風

ことば日本史、鎌倉時代から

文永11(1274)年、対馬の西方海上は、蒙古軍船でうまっていた。

文永の役、まもなく佐須浦に数隻が接岸してきた。
地頭の軍勢は少なく、矢をかけあっていられたのもしばらくだった。
佐須浦の民家はすべて焼き払われ、対馬は蹂躙された。

それから8日後、壱岐島に二艘の船が現れて上陸、ここも制圧された。

博多に続々と武者たちが集まってきた。だが、蒙古と日本とでは、戦いのルールがあまりにもちがっていた。そのうえ火薬を用いた「鉄はう」にも驚かされる。

あきらかに劣勢だった。

神風
ところが、この危機は強風雨によって免れた
蒙古軍船は次々と難破

この時の強風雨は台風というほどの者ではなかったらしい
色々説はあるが、一回目は様子見的な意味合いだったかも知れない

これで終わるはずはない
日本も再来を防御すべく軍備の増強

弘安4年、再び蒙古軍がやって来た

今度は暴風雨

何とも不思議なことに2度目も逃げ帰ることになる

3度目は?

なかった

別の外交上の理由で、蒙古がそれどころではなくなっていた

ここで、あまりに有名な言葉「神風」が定着し
ずっとずっと先の、太平洋戦争まで生き続ける

元々存在していた言葉
伊勢に対する枕詞だった

ところが、言葉は共通の「意識」になる

日清日露戦争を経て
神に守られた特別な国なのだと

自然現象だったはずなのに
人間が命を投げ出して作り出すもの、に変貌する

神風特攻隊

歴史
歴史は「事実」なのか

歴史は意図をもって語られるものだということを忘れてはならない

風は吹いたが
それは「神風」だったのか

神風だったとして
太平洋戦争に勝てる、理由づけになるのだろうか

歴史は考えるための材料

どう使うか
われわれ一人一人に委ねられている

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

[ことば日本史]ゴタゴタ

ことば日本史、鎌倉時代の禅に関わることばから

ごたごた、ってゴンゴン、バンバンのようないわゆるオノマトペかと思いきや
背景になる歴史があったんですね

ゴタゴタ
文応元年(一二六〇)に南宋から招いた臨済宗の僧、兀庵普寧(ごったんふねい)は、
北条時頼の要請により建長寺の二世となったが、
その説教はややこしくて、わかりにくかった。

それで入り組んでごちゃごちゃしてることを、兀庵みたいだというので、
「ゴッタゴッタしてる」、さら「ごたごたしている」というようになったという。

時頼の死後は理解者もなく、門徒間の争いに嫌気がさして、
文永2(1265)年に帰国。

ゴタゴタの兀庵がゴタゴタに嫌気がさした、なんともはやな結果

[ことば日本史]大げさって大きな袈裟?

ことば日本史、鎌倉時代から
禅宗にまつわる言葉です

大げさ
僧侶が着る袈裟には三種類あって、一番外側に着るものが大袈裟と呼ばれた。
それが「大げさ」の語源らしい
あれ?良いことのような

禅僧が正装とした袈裟のものものしさを他宗派のものたちがバカにしたことからとする説もある
なるほど、ちょっとした妬みから来ているのかも

普請(ふしん)
禅寺では、人々をあまねく請いあつめて、上下の区別なく作業してもらうことを、普請といった。

普請には、茶摘み、本の虫干し、すす払い、大掃除など、
さまざまな作業があったが、もっとも大きな労役は建築工事だった。

そこから、禅寺の事業にかぎらず、土木工事一般をも普請というようになり、
やがては民家の建築にまで使うようになった。

蒲団(ふとん)
禅とともに渡来した、座禅のとき尻に敷く円形の座布団が、
「蒲団(ふとん)」と呼ばれていた。

もとは、字にあるように蒲(がま)で編まれたもので、
布で綿をくるむようになったのは、綿花栽培が始まった室町時代末のことだった。

江戸時代には、綿の栽培が普及したことによって大型化し、寝具ともなった。
ただし日本人がみな蒲団で寝るようになったのは、明治以降のことだった。

いやあ
現代に生まれて良かった良かった

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)