[天皇]97 後村上天皇。さすらいと戦争の連続

後村上天皇

1339~1368年 南朝

さすらいの天皇
即位にいたるまでの、義良親王(後の後村上天皇)自身の運命が、かなりのさすらい

義良親王は、後醍醐天皇の皇子だが、第八皇子だった。
本来ならお兄さんたちの邪魔にならないよう
どこかに出されちゃったり出家したり

お兄さんの恒良親王や成良親王は
それぞれ皇太子だったが、足利氏のために殺害され、いずれも世を去ってしまった。
その結果、めぐりめぐってきたような即位の順序で、後村上天皇となった。

そこへ至る経緯も、紆余曲折の波瀾万丈

六歳のとき北畠顕家に擁立されて陸奥へ移ったかと思うと、
関東に転じ、延元元(1336)年には京都に上った。
その後、東北にむかい、斯波家長軍と相対し、下野に転戦した。

さらに、北畠顕家と一緒に国府の多賀城から出て、
福島の霊山城にのがれ戦力を養って、利根川べりで北朝軍に勝利をおさめている。
後に天皇になる人とは思えない、戦いの日々。

つづけて、武蔵国安保原でも合戦をし、鎌倉へはいった。
そのあと、東海道を西へむかって、
美濃国関ヶ原で高師冬(足利尊氏の弟直義の将)と合戦したが、ここでは破れた。

まだまだ戦いは続く
伊勢へ進み、そこから伊賀へ、そして奈良へと転戦をつづけた。
また、北朝軍と戦って敗れ、北畠顕家と別れて吉野へ走る。

北畠顕家と別れた事で、親王は、いのち拾いをした。
河内国へむかった顕家が、延元3年(暦応元年)5月、石津で戦死してしまったからである。

北畠顕家の弟・顕信は、同親房とともに憲良(義良とも称した)親王を奉じて、
亡き兄に代わって陸奥をめざした。

まず、伊勢へ。
その大湊というところから船出したものの、暴風に遭って船は進まない。
やむなく伊勢にかえり、延元4(1339) 年、親王はまた吉野に戻った。
こうして、やっと同年8月15日に践祚し、後村上天皇となる

ながいながい彷徨だった。

でも、やはり報われる事がなかった
その後に賀名生へ退き、
ついに京都へかえることもなく、摂津住吉で崩じた。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[建武]11 北畠顕家、若きスーパースター

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし
[建武]6 足利尊氏と新田義貞。えっ私?なんでまた
[建武]7 足利新田、そのままにしておけ
[建武]8 後醍醐天皇ピーンチ。えっ、そりゃまた。
[建武]9 生き延びてくれ
[建武]10 いや、その、なんだ
の続きです。

北陸へ
新田義貞は、弟の脇屋義助が国司を務める越前国(福井県)へと向かうことになったのです。
北陸への都落ちでした

10月10日に出立した新田軍は、思わぬ苦難の壁に阻まれます。
例年であればまだ降雪の時期ではないのに、あまりにも早く激しい大雪に見舞われたのです。

木ノ芽峠で猛吹雪が新田軍を襲います。
あまりの寒さにつれてきた馬はバタバタと凍死してしまい、
雪に埋もれて薪を見つけ出すこともできないので矢を折って火を起こさなければならないほどで、
過酷な冷寒地獄は新田軍を大きく消耗させました。

ようやく、気比神宮(敦賀市)の宮司に迎えられて、
10月13日に金ヶ崎城へと入城することができました。

間もなく、足利尊氏によって越前国の守護に任命されていた
斯波高経(しば たかつね)の軍勢が押し寄せて一気に金ヶ崎城を包囲してしまいます。

弟の脇屋義助のいる杣山城からは、なんとか新田義貞軍を助けようとするのですが、
大軍の包囲によってなかなか城に近づけません。
このままでは金ヶ崎城の兵糧も尽きてしまうことは、目に見えています。

何としても杣山城の別働隊との連携を取りたいけれど、
その包囲網の厚さに阻まれ、金ヶ崎城から杣山城に行ける者がいません。

ならば
自分で行こう

嫡男の新田義顕(よしあき)に、恒良親王・尊良親王の護衛と城の防衛を任せます

建武4年(1337年)2月5日。
新田義貞は闇夜に紛れ、わずか数騎を伴って足利方の包囲網の一瞬の隙を突破しました。

杣山城へ入り、金ヶ崎城救援の軍勢を整えるのです。
待ってろよ

ただ、斯波高経の方が少し早かった。
金ヶ崎城を怒濤の総攻撃

義貞の子・新田義顕は討ち死にし、尊良親王は自害を果たしました。
恒良親王も自刃をしようとするも、寸前で足利勢に捕らえられ、捕虜となりました。

新田義貞は、一命を取り留めましたが、
我が子を失い、そして後ろ盾の親王をも失い、流浪の将となったのでした。

今までがそうだったように、それでも新田義貞は
不死鳥のように蘇り、北陸の地で着実に勢力を回復していきます。

そんなとき、足利尊氏と和解した筈の後醍醐天皇は幽閉され
こちらもまた、不死鳥のごとく蘇り、隙をみて逃れ
吉野の地にたどり着き、我こそは正当な天皇なり、と南朝を開きました。
[天皇]北2 光明天皇。じゃあね

足利尊氏としても、最後の決め手に欠ける中、
もうひとり、恐れる人物が動き出します。

北畠顕家(きたばたけ あきいえ)です
奥州の足利方を次々に掃討して、東北地方で一大勢力となっていたのです

北畠顕家は、後醍醐天皇からの、足利尊氏を討て、との綸旨を受け取り
建武4年(1337年)8月、10万の兵を連れて進撃を開始します。

まずは関東へ
関東を制圧されてはならじと、足利方の関東武士たちが、防衛に当たりますが
ことごとく破って行きます。

そして、岐阜まで進んできました。

足利勢としては、一番恐れるのが新田義貞軍との合流

新田軍の勢力を削ごうと、大軍を北陸へ
ところが、新田軍は足利軍に勝利し、北陸で大きな勢力へと広がります。

合流は時間の問題か

ところが、これまた歴史の不思議
北畠顕家は合流のために北陸へ向かうことをしなかった
じゃあ、いよいよ京都へ
いえ、それもしなかった。

なぜか奈良へ向かった

えっ、来ないのね

ならば、と足利尊氏は家臣の高師泰(こうのもろやす)を奈良へと向かわせます。

今度も撃破か

いえ、大激闘の末、
堺浦石津(大阪府堺市)で、
北畠顕家は追撃してくる高師直軍に突っ込み、最後の激突となります。
「石津の戦い」です。

最後の抵抗虚しく、足利方に討ち取られてしまうのでした。
享年20。
あまりに若すぎる戦死でした

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[社労士]科学的一発合格勉強法。社労士とは

「科学的一発合格勉強法」とは、ハードルを思いきり上げたタイトルでしょ
受からなければお笑いぐさです

シリーズ化して、他のシリーズの合間にちょこっとずつ入れていきたいと思います。

受かってもいないのに「こうやったら一発合格」と銘打って
リアルタイムで受験勉強奮戦記を書こうという暴挙
大恥をさらしてしまう企画です

昨日の宣言でも書いたけど
ポイントは「自分なりの勉強法」の確立
歴史検定2級では、それが確立できて、ひたすら繰り返した。
「一問一答」を語呂合わせを自分なりにまとめつつ、繰り返した

社労士では、さすがに超難関試験だけあって、そんなに単純ではありませんでした。
勉強法の確立までに4ヵ月を要しました。
宣言が予定より1ヶ月遅れた理由です。

以下の4つの組み合わせになります
1.力業
2.語呂合わせ
3.横断まとめ
4.理屈

シリーズの中で、順番に説明していきたいと思います。
一つ一つの中にも、ノウハウが思いきり詰まっています。

かなり科学的に組み立てられたと自負していますので
科学的一発合格勉強法と、挑戦的なタイトルにしてみました。

まず、その前段階として、今日はそもそも「社労士試験」ってどんなの?
っていうのをお話したいと思います。

社労士試験
正式名称は社会保険労務士
労働にかかわる各種手続き、社会保険にかかわる各種手続きを行います。
給与計算とかもね
お客様は企業がほとんどなので安定しています。
国家試験で、士業と言われ、弁護士を筆頭とした「士」がつく人達
社労士しかやっちゃいけない仕事があったりするのもメリット

科目は
1.労働基準法→労働での一番基本的な決めごと。給料はこういうルールで計算するとか、有給とか
2.労働安全衛生法→仕事場で怪我しないよう、色々決め事があります。あと健康診断
ここ以降が、こんな条件に当たればこれだけもらえますよ、ってやつ
3.労災→仕事上で怪我したり病気になったりすると、手厚く色んなものがもらえます
4.雇用保険→失業したときのもろもろ
5.徴収→労災とか雇用保険の元手ってどこかからお金が降って涌く訳はなく、保険料を予め払っている。その我々が払う方の決め事
6.労務一般知識→一般知識といってもほとんど法律。1~5以外の労務に関わるその他の法律あれこれ。男女雇用機会均等法とか、時の政府が選挙のために色々法律作るんで大変
疲れてきましたね。まだあと半分あります。今度は、健康保険とか年金とか
7.健康保険→お馴染みですね。病院に行っても、原則的には3割負担で済みます。
8.国民年金→会社に属さない人のための年金。
9.厚生年金→会社に属している人の年金。原則は65歳から年金がもらえます。
 老齢年金と言いますが、それ以外にも、病気になったり、それが治っても障害が残ったり、死亡したり、出産だ、育児だと、実に色んな時に色んなものがもらえます。
10.社会保険一般知識→こっちもやっぱりその他の法律。介護保険だの後期高齢者だの子育て支援だの、いっぱい

うんざりでしょ
社労士の何が大変って、無茶苦茶ボリュームがあること
日本の福祉はすごい。
何とか困った人を助けてあげようと、これでもかこれでもかと至れり尽くせり
でも、ここまで複雑にする必要あるんだろうか、と思うくらい無茶苦茶複雑
まあ、だから社労士という職業が成り立つんでしょうけど

5日以内とか14日以内に請求しないとダメ、みたいなのもいっぱいあるから
もらえる筈のものを知らずに過ごしちゃったのも
思いきりあるんだろうなと思います。

例えばこんな問題です。

こんなタイプの問題もあります。


そもそも、問題文を読む気が失せます
ちゃんと覚えていないと、想像して答を導けそうな問題は一切ありません。

こんなのが延々と続いて、70%以上正解で合格
いかに難関試験であるかご理解いただけましたでしょうか

こんなのを一発合格すると言い切っています。
無謀です。
恐ろしいですね。

それを何とかするのが、でーこんっちゅうものでございます。

さあ、シリーズの次回から、科学的一発合格法を展開して参りましょう

宣言!社会保険労務士に挑戦

歴史検定日本史2級の試験の2~3ヵ月前にカミさんがこんなこと言いました。

後見人という仕事があって、そこそこ稼げるらしいよ
社会福祉士という資格を取らなきゃいけないんだけどね
挑戦してみたら?

その時は、歴史検定にしゃかりきになっていた事もあって
聞き流していました。

歴史検定2級の試験を終え
自己採点をして受かったと分かり一安心

そういうと何かに挑戦してみたら?って言っていたよね
あれ何だっけ

社会福祉士というものを調べてみると、国家試験なのでとっても難しい
残念ながら、実務経験がないとそもそも受けられないと判明
そんな事を調べる中で、結構気持ちが盛り上がっちゃったりしています。

ユーキャンとかで
「シニア向け 資格」とかで出てくるものは
興味が起きないものばかり

社会保険労務士?
そんなクソ難しい試験受かるわけないしね
と、さっと飛ばした。

でも、やるからには、受かりやすいというより
受かって意味のあるものでないと、と思い返し
もう一度、社会保険労務士について調べてみる事にした。

今の仕事は、IT関係で派遣。
社員という形式は取っているものの、所属している会社にずっと居させてもらえる訳じゃない
「案件」があればそこに行って面談してアピール
「頑張りますのでやらせてください」
1年を超える仕事は珍しく、だいたい数ヵ月

若い人の多い仕事なので、年々厳しくなり
60を超えると面談してもらえる案件が極端に減った
やらせてもらえる案件がなければチョン

今の仕事が途切れた段階でもう無理かも、という恐怖がある

社会保険労務士(社労士)は、いわゆる士業のひとつ
弁護士、税理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士
国家試験に受からなきゃ、社労士を名乗っちゃいけなくて
社労士でなきゃしちゃいけない申請ものもある
健康保険、労災保険、失業保険、年金といった労働保険や社会保険関係の仕事

だいたい毎年5万人くらいが受験するんだけど、2千人ちょっとしか受からず、
合格率6~7%という超難関
歴史検定2級とは全くレベルが違う

仕事がなくなってしまう事への対策だから
これくらいのものでなければ意味がないとは思いつつ
本当にこんなもの受かるんだろうか
色々見ていくと、一回の受験で合格する「一発合格」の人は少ないよう。
何年もかけて頑張る類いのもの

ただ、今から挑戦となると、状況からして数年もかけておられない
ターゲットは「一発合格」最悪でも2年
試験は8月

自分の人生を大きく作り直す大事
生半可な気持ちじゃやれない

やるのかやらないのか
宣言するまでに、時間をかけよう
そう思ったのが12月
自分で期限を切った
2月末までに決める

2つの視点

一発合格できそうか、というところの手応え
3ヶ月間必死で勉強してみて、
自分なりの勉強の仕方を固められるのか
これも重要
歴史検定での78点は大きな自信になっている
勝因は、自分なりの勉強法が完全に確立できて、ひたすらそれを繰り返したことにある

二つ目は、このあとの自分の人生は「社労士」なのかということ
ガラッと変わる
それをこの年からやるのか
あまりに浮き沈みの激しい波瀾万丈の人生を送ってきた
ガラッと人生を自分から変えていくのは
普通の人よりは慣れていると思う

でもそれを本当にこの年からやるのか

社労士のメリットは開業出来ること
でも、一回会社を作って潰している私は、そこまではしないと思う

頑張りました。
3ヶ月

でも、何だかんだで、もうちょっとやっておいてから
っていうので宣言が1ヵ月延びちゃいました。

あと5ヶ月弱

宣言します。
社会保険労務士に挑戦します。