[昭和歌謡] 105 青葉城恋唄

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです。

青葉城恋唄
さとう宗幸
作詞・船間星一 作曲・さとう宗幸
1978年

♪広瀬川流れる岸辺
 思い出は帰らず

仙台
出ました。青葉城恋唄
大好き仙台

2015年8月から12月まで
仙台に出張して仕事をした
仙台市内の現場だったので
月曜日の朝東京を発って、仙台市内のビジネスホテルに連泊し
金曜日に自宅に帰る
そんな事を結構何度も繰り返した。

それより前であれば、そういうことがあったとしても
職場とホテルを行き来するだけだったろう

ウォーキングでの名所巡りに目覚めちゃってます。

仕事が終わればもう日が落ちています。
夜の町が好きな訳じゃない

金曜日に帰らず、そのまま仙台に泊まれば週末には観光できるでしょうが
そんな領収書を会社に出してもホテル代が出るわけありません。

閃いた!
朝、早起きして歩けば良い

仕事は朝9時から
7時にスタートすれば2時間近く観光できる

歩いてみて初めて分かったんだけど
仙台って極めて特殊な町
会社の集中している中心地から青葉城等の観光地まで、歩いて行って帰ってこれる
2時間で十分お釣りが来る

歌の始まり、広瀬川は町の中心近くを流れる広い川で何度も行った

その川べりが断崖絶壁になっているところもあって大興奮

その断崖絶壁の上に何があるかというと、青葉城(仙台城)なんですよね

青葉城を初めとして、色々行ったなあ
行った場所のリストと地図はこちら
今見返してみて甦ってきた。
楽しかった

仙台■公園■仙台に開通した地下鉄東西線は、リニアモーターカー
仙台■公園■仙台、台の原森林公園まで
仙台■川■仙台、竜の口渓谷と2つの飲み会
仙台■川■仙台出張の早朝散歩で断崖絶壁
仙台■神社仏閣■初めての方と仙台大観音。と大雨特別警報
仙台■歴史■仙台に2泊3日の出張で
仙台■歴史■仙台出張で観光もしました

青葉城恋唄
この歌の歌詞
プロの作詞家ではなく、さとう宗幸がパーソナリティだったラジオの企画で歌詞を募集し
選ばれたもの

実は青葉城恋唄なのに1番から3番まで、一言も青葉城が出てこない
仙台という言葉すら出てこない

実は最初は
瀬音ゆかしき青葉城仙台
という歌詞だった

それを
瀬音ゆかしき杜(もり)の都
にさとう宗幸が変えちゃった

いいかも
くまなく歩いてみて良く分かった
もりの都だ

ぐっと盛り上がる「ときは巡り~」
最初は「時は巡り」だった
途中で阿久悠先生がアドバイス
「季節は巡り」と書いて「ときは巡り」と読ませてはどうか

良いですね、さすがです

カラオケで文字が出て、「時は巡り」と出ればかなり古い機械です。

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)

[徳川将軍の演出力] 川崎大師は将軍のおかげ

徳川将軍の演出力シリーズでは最終回になります。

シリーズで将軍の影響力を見てきましたが、寺院についてもそう
ひとつの例として、川崎大師を見ましょう

川崎大師
大治2(1127)年、平間兼乗という漁師が、弘法大師像を引き揚げたのが始まり
なので、平間寺と言います

地域の厚い信仰を受けた川崎大師は、厄除けの御利益で、江戸にも広く知れ渡るようになります。

江戸中期になり、吉宗の子供、御三卿のひとつ田安家の田安宗武の帰依を受けます。
宝暦2(1752)年、宗武本人ではありませんが代理の者が参詣
ここから始まります。

寛政3(1791)年、同じく御三卿のひとつ一橋家の一橋治済(はるさだ)が参詣します。
同じ年には、水戸家も代参を立てています。

一橋治済となると、次はいよいよこの人ですね
11代将軍家斉(いえなり)
一橋治済の息子です。
将軍って、ややこしくなるからあまり出歩かないようにしているけどこの人は別
出掛けるの大好き

分かるわあ、その気持ち

24歳前厄祈願のため参詣
将軍が厄除け祈願で参詣したのは初めてです。

江戸中大騒ぎ

今までお寺の側から江戸城に出向いて厄除けしますよ、ってのは有ったけど
将軍が自ら足を運ぶっていうインパクトはすごかった

25歳の本厄の時は参詣しなかったが
26歳の後厄の時も参詣

お寺がよくやるのが、本尊を秘仏として隠して見せない
もったいつけてもったいつけて、いざと言うときに大々的に宣伝してご開帳

川崎大師も秘仏にしていたんだけど
さすがに将軍が来られるとなると、当然ご開帳

それだけじゃもったいないので
将軍参詣後、15日間を御成後開帳(おなりあとかいちょう)として一般開帳

押すな押すなの大盛況
ああ、これが上様もご覧になった本尊なのね

立ち止まらないで下さーい

大名たちもこぞって我も我も
紀州、尾張も参詣し
これで御三家御三卿が揃い踏み

川崎大師は勢いに乗っちゃいます

文化3(1806)年
江戸に打って出ます

出開帳といって、他のお寺に本尊を持っていって一大イベント
両国の回向院で大儲け
百貨店の催事場でよくやってる特別展みたいです。

合わせて「大師河原撫子話」という本も出版
滝沢馬琴が文を書き挿絵は北尾重政
メディアミックスです

読んでから詣るか
詣ってから読むか

そして今度は42歳の厄

41歳の前厄祈願で行きますね

ところが、その直前にあろうことか、34世山主の隆円上人が急死
まずい
とってもまずい

ひたすらに隠してお出迎え

ところがあっさりばれちゃった
万事休す

あれ?
将軍が意外な反応

上人が私の厄を身代わりになって受けてくれたとは
感激だ

申し訳ないと、50石の寺領を寄進した

43歳の後厄でも参詣
次の12代家慶も2度参詣

家斉は53人も子供を作り、それぞれが有力大名に養子に入ったり嫁いだり
参詣が絶えません

自らの命を差し出してまで、上様を厄からお守りするなんて
これ以上の厄除けがあろうか
この噂で、江戸庶民も参詣者が激増

そのまま、人気が定着し現在へと続きます
初詣の人手は堂々の関東ベスト3です

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[吉岡宿の奇跡]2 大きな一歩

[吉岡宿の奇跡]1 吉岡宿を救いたい
の続きです

仕組み
1450両の金を仙台藩に貸し、毎年1割の利息をもらう

ちょっと考えて不思議なのは、貧乏解消の手段として言っているけど
それだけの金があったら貧乏じゃなくなるんじゃないのと

そこは菅原屋篤平治、考えてあって、資金運用力の差
仙台藩には蔵元大文字屋というのがついている
庶民が1450両を持っていっても相手にしてくれないが
藩からであれば資金運用のプロが相手にしてくれ、確実に増やしてくれる
一時で資金集めに苦労しても、末代まで安定して吉岡宿を守ろうという長期的発想
同志を募って資金集めをして、みんなを救おうと

だが篤さん
そんなに都合良く藩が借りてくれるだろうか

仙台藩だって金がない
参勤交代の前とか、喉から手が出るほど金が欲しいときはある筈
その時が狙い目じゃ

徒党を組む事を極端にお上は嫌う
早くに計画が知れれば、謀反の疑いすらかけられる

同志を募るにも慎重に慎重に、信用のおける人だけに話さないといけない

その日から穀田屋十三郎は風呂に入ることをやめた
銭湯で汗を流すことが何よりも楽しみだったがそれを絶った
毎日水垢離(みずごり)を取った
ならばと、篤平治も水垢離

銭湯代を切り詰め、時には断食までして小銭を貯める

怪しい

噂になりだした。
あの二人何か良からぬ事をやらかすんじゃないか

そんな折、大きな変化が起きた
仙台の殿様がご公儀から関東川筋のお手伝い普請を命じられた
費用は仙台藩持ち

まさか、「その時」がこんな早くに来ようとは
目標額ははるか遠い

大肝煎(きもいり)
ゆっくりもしておられなくなった
ここは一気に千坂さまに相談してみようと思う

千坂様は大肝煎(おおきもいり)
他藩では大庄屋の事

百姓側の身分の中では最高位で地域を束ねている。

正気か

遅かれ早かれ、千坂様に打ち明けずして、大願成就はあり得まい
順序を踏んでと思ってはおったが、そうもしておられない

仮に何か訴えたいことがあるとすれば
全て、大肝煎を通さねばならない
大肝煎を飛び越えて直訴することは、死罪にも値する

それは分かるが
話したこともない赤の他人にいきなりか

千坂家は代々大肝煎
今は、30代の青年仲内がつとめているが
その父は、若い頃大酒飲みだった

母が思い余って
「貧乏人には酒も買えないものがいる。お前は酒ばかり飲んで」
と諭すと
不思議なことに酒をぴったりとやめ、薬を買っては貧乏なものに配り始めた
葬式が出せぬものには葬式を出し、金がなくて結婚できないものには金を出した
私財をはたいて、用水まで掘った

それが元で千原家は貧乏に陥り、大肝煎の職を解かれそうになった

村人たちは恩を忘れていなかった

千坂様が大肝煎でなければ困る

みんなで少しずつ金を出し合い、千坂家の借財を返してしまった。

今はその息子の仲内の代になったが、みんなの尊敬を集めていることに違いはない
父は痴呆になってしまったが
看病を奉公人任せにせず、自ら献身的に行っていることが知られていた。

そんな千坂様ならひょっとして
二人は、人目を忍び、ある夜会いに行った

全てを打ち明けた
思いの丈を力一杯に話した

静寂が流れる
仲内は何も答えない

無理だったか


目に涙がたまっているのが分かった

今まで、色んな人がやって来た
金を出すというのもいた
だが、その代わり、というのがそのあとについてきた
上に掛け合って武士に取り立ててもらいたい
正直、最初はその類いかと思っておりました
そのお志し、雲泥の違い
よう分かりました
よう分かりました

お願いがあります

ぜひ今夜から
私もこの企ての同志の人数に加えていただけませんか

全身を震わせながらそういった

この時から同志が3人になった

まだまだ始まったばかりだが、大きな一歩だった

続きはシリーズの次回ね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[名僧]良寛。子供が好きで、お酒が好きで、竹が好き

名僧シリーズです

良寛
1758~1831年 曹洞宗

越後出身、幼い頃に江戸に出て学問を志す。

一旦越後に戻り、名主見習いをやるんだけど性に合わなかった

出家しよう
18歳で禅を始める

22歳の時、光照寺にやって来た、円通寺の国仙和尚にビビッと来て
弟子にしてください

円通寺に行って修行する
国仙和尚の事が大好きで
日本でも傑出した禅僧・国仙和尚の真の弟子・良寛である
と書き留めています。

結局そこも離れ、諸国漫遊の旅へ

その時、書や和歌に親しんだ

ずっと師匠の事は大好きで
絵にも書いてある師匠からもらった杖をとても大事にしている

ところが、根っからの忘れん坊
すぐに杖をどこかに置いてきちゃう
忘れては見つけの繰り返し

各地を転々として、48歳で五合庵というのを作って落ち着く
寺ではありません
一日五合の米を食べれば十分ということで命名
結局生涯寺を持つことはありませんでした。

難しい説教が大嫌い
分かりやすい説法で語るから、民衆には大人気

特に子供が大好きで、子供と遊んでばかり

ある時かくれんぼしていて
いつまでたっても見つからない

夜遅くなってみんな家に帰っちゃった

翌朝早くに、隠れている良寛さんに近所の人が
何でこんなところに?

シーッ
そんなに大きな声を出したら子供に見つかっちゃうじゃないか

お酒も大好き
でも酒豪って事ではない
近所の人達と割り勘で飲む
絶対に同じ量以上は飲まない

竹が大好き
竹の生き方が好きです、と書いた書

私はこの字が一番好きです。

五合庵に生えてきた竹の子が天井につかえそうなのを見て、かわいそうに思い、
ろうそくで天井を焼いて穴を開けてやろうとした
えらいこっちゃ
火事になっちゃいました。

詩や和歌や書など、一人遊びが大好きなのに、寂しがり屋さん
「わが宿は国上山もと恋しくば 尋ねて来ませたどりだどりに」

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)