11年にも渡って続いた、応仁の乱が終結
相対的に将軍が力を失い、ここから「戦国時代」に入っていきます
義尚(よしひさ)
義政の嫡男になります
義政は最初、弟義視を次の将軍と考えていたが、
嫡男の義尚が生まれると考え方が変わっていきます
そんな空気の中で応仁の乱が勃発したので
義視は兄の義政と共に東軍にくみし
一時期は東軍の旗頭にまでなるが
兄との関係がうまくいかなくなると
一転、西軍に鞍替えします
そうなると、次期将軍は義尚(よしひさ)に確定
文明5(1473)年に義尚は征夷大将軍になります
まだ、応仁の乱の最中ではあります
当時義尚は9歳
何が出来る訳でもないので、
実権は父義政がそのまま握っています
応仁の乱が終わっても実権は義政が握ったままで手放しませんでした
理由があります
義政は応仁の乱が終わると、
京都の東山に瀟洒な邸宅を建設しはじめていた。
のちの「東山殿」である(現在の慈照寺、すなわち「銀閣寺」)。
だが、その建設には莫大な費用を要した
実権を握っていてこそ、色んなところから資金が集まってくる
ようやく、義尚が20歳を過ぎた頃から
徐々に権限を与えられるようになってくると
自分の色を出すべく、色んな行動を起こしていく
近江の大名、六角高頼(ろっかくたかより)が問題を起こすと
六角征伐を発表
通常なら、征伐せよと誰かに指示するだけだが
敢えて、自分自身で兵を率い、近江へと向かった
距離的にも父の元から離れ、政治的自由を得たかったのだと思われる
主要大名たちにも参陣を呼び掛けると
ほぼ全てが参陣
応仁の乱終結後も、まだ将軍の影響力は衰えていなかった
義尚はこのとき23歳。
梨打烏帽子をかぶって紅金襴の鎧直垂を着し、
太刀を帯び、弓を握って矢を背負い、
河原毛の名馬にまたがって威風堂々と出陣したという
たちまち、六角の城は陥落、
高頼は南近江の山岳地帯・甲賀(滋賀県甲賀市)に落ちのびていった
義尚はさらに追い詰めんと
近江の鈎(まがり)(滋賀県栗東市)にいたって安養寺を本営とした
この鈎(まがり)で京都から奉行衆を召しよせ、
また、近臣のなかから信頼しうるもの数名を選抜して「評定衆」という組織をつくり
本格的な政治を開始する
この状況に、父義政はというと、病気がちになっていたため
そのまま介入しなかった
いよいよ、近江にて義尚の世の始まり
誰しもがそう思った
ところがそうはならなかった
義尚が病に倒れたからである
側近たちは、義尚を京都に戻して養生させようとした
ところが状況がそれを許さない
この時とばかり、六角が勢いを盛り返してきた
まずい
ずるずる長引く応仁の乱の再来は避けたい
細川政元が単独で、六角との和平交渉にのぞむ
六角とて、戦いたくて戦っている訳ではない
和平の空気が強くなっていく
義尚さま、京都に戻りましょう
嫌だ
何のためにここまで来たのか
まだ何も成し遂げられていないじゃないか
でも
そのお体では
嫌なものは嫌だ
京都は嫌だ
でも鈎(まがり)では、十分な養生ができなかった
病状はどんどん悪化していった
母、日野富子はいてもたってもおられず、鈎にやって来た
必死の看病
甲斐あって、一時期は持ち直した
でも
延徳元(1489)年、鈎の陣中で死去した。
わずか25年の生涯であった