西東京市のイベントの下見の続き

西東京市のイベントの下見
の続きです

案内板に従った中島飛行機についての話は、ちょっとだけ後回し

ひこうき雑学クイズ
失敗した。西側行っていない
仕方ない、元のところに戻ることになっちゃうけど、行きましょう

普通は三択や四択なんだけど、「とり」のところは直接文字を打ち込む
あれれ?文字を打ち込んだあと、OKボタンが押せない!

結局ひと回りしたものの、「とり」だけが開かない

ひこうきの絵が完成するということだけなんだけど
悔しいですよね

元のサービスセンターのところに戻っている訳なので
ちょっと聞いて見るかな

すみません、変なこと聞くんですが
これ、なんでOK押せないんでしょう

お姉さん、親身になって色々調べてくれる
お調べする間、これをお読みいただきながらでもお待ち下さい
と渡されたのが、これ

これは、さっき案内板で熟読した内容と同じではありませんか
結果、OKが押せない理由は分からなかったものの
ここに立ち寄って本当に良かった

その後、詰めてきたお昼ご飯も食べました

中島飛行機
それでは、案内板と、もらったパンフレットに基づき、中島飛行機と空襲の概要をお話ししましょう

中島飛行機は、戦前日本の航空機製造のトップメーカーでした。
代表機は、九七式艦上攻撃機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」、夜間戦闘機「月光」などです。
その他に、三菱重工業株式会社が開発した「零戦」も、エンジンはすべて中島飛行機で製造され、機体も3分の2が中島飛行機で製造されました。太平洋戦争期には、中島飛行機株式会社と三菱重工業株式会社の2社で日本の航空機全製造機数の6割以上を製造しました。

群馬に2工場を持ち、荻窪にも工場
更なる増産のため、この公園の隣の現都営住宅の広大な敷地に海軍専用工場の多摩製作所が作られます
そして、次にこの公園を含む多摩製作所とほぼ同じ広大な敷地に、今度は陸軍専用の武蔵野製作所が作られます
空軍というのはなく、海軍でも陸軍でも飛行機を作っていたんです

同じ会社ながら、海軍と陸軍では情報交流なく秘密

しかし、戦局が悪化してきて、国から合併しなさいとの指示
武蔵製作所になります

働いていた人は4万5千人とも、5万人とも言われています
中庭に集まった人

学徒動員で集められた少年たちも含まれます

空襲
アメリカとしては、この中島飛行機を壊滅させる事が最重要課題
案内板のある場所が東西製作所の真ん中だったため
第一標的と定めます

サイパンが陥落し、日本までB29で行って帰れる拠点が確保されたため
頻繁に空襲が起きます

B29は1万mの高高度を飛ぶ能力があるので、迎撃されないよう、高いところからレーダーで照準を合わせ爆弾投下
ところがこれがなかなか当たらない
わが東久留米市を始めとし、周辺地域にバンバン爆弾が落ちます

アメリカは途中で作戦変更。
それほど迎撃もないと分かり、低いところからに変更
それでも正確には当たらないのだけど
数撃ちゃ当たる作戦

1945年3月10日の東京大空襲もその一環です

中島飛行機については4月に大空襲
周辺地域も含め、甚大なる被害
中島飛行機自体にも多大な被害が起きます

米軍が撮影した中島飛行機に爆弾が落とされた瞬間

米軍が撮影した中島飛行機の壊滅的被害

パンプキン爆弾
1945年7月29日、特殊部隊が原子爆弾投下作戦を決行すべく調査及び予行演習
原子爆弾と全く同じ大きさ重さの爆弾を作成し、投下してデータ収集

ターゲットは東京の中心と、中島飛行機
さらにそれ以外にも全国に49ヶ所も落とされます
東京については中央区のお堀の中に落ちます
中島飛行機については、これまたそれて、西東京市の、しじゅうから第二公園の場所に落ちます

落ちていく写真

爆発した瞬間

被害状況

時間は前後しますが、ウォーキングをほぼ終えて、元の西武柳沢駅の近くにある図書館でパンプキン爆弾の資料を見せてもらいました
上の写真はその資料に載っていたものです

そのわずか8日後、8月6日に原子爆弾が広島に、8月9日には長崎に落とされます

なんと、原子爆弾投下後にも、ひとつパンプキン爆弾は投下されています
さらに原子爆弾を落とすつもりだったことになりますが
8月15日ポツダム宣言受諾
長い戦争が終わります

中島飛行機の跡地に「東京スタジアム・グリーンパーク」という野球場が作られました
国鉄スワローズを承知する計画もあったようですが、砂ぼこりがひどく、1951(昭和26)年の短い期間だけ実働し、廃止されました。
西工場は、1953(昭和28)年に米軍住宅グリーンパークとして改修の上、利用されますが、
返還を求める東京都と都民の運動が実り、1973(昭和48)年に返還が決定、
1977(昭和52)年に解体され、1989(平成元)年に都立武蔵野中央公園として開園されました。

何も作らず、原っぱだけの公園にして欲しい
住民の思いが受け入れられ
ただただ広い公園になりました。

中島飛行機は富士重工業になり、スバル、プリンス自動車、日産自動車へと受け継がれていきます。

ウォーキングの続きは次回ね

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

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