八田與一。台湾に捧げた生涯

「感動する!日本史」から

八田與一
八田與一(はったよいち)は東京帝国大学を卒業後台湾総督府土木部の技師として
台湾に赴任しました。

日本は日清戦争後の講和条約で、台湾の統治を始めます。
與一が赴任したのはその16年後

台湾総督府が力を入れたのは、教育とインフラの整備

嘉南大圳
インフラの整備で象徴とされるのが、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」
嘉南地区は最も貧しい地域。
香川県ほどの広さで、台湾の14%を占める広大な土地ながら農作物が全く育たない
気候が極端なんです。

六月から九月の雨季に年間降水量の約九割が集中する
その時はどどっと雨はあるんだけど、
平坦な土地で排水も悪いので、水害に悩まされる。
それ以外の乾季はカラッカラ。
サトウキビも育たない。

よし、この地域を台湾一の穀倉地域に変えてやろう。

烏山頭(うさんとう)ダムを作り、そこからの水を嘉南地区全体に用水路を縦横無尽に張り巡らせて行き渡らせる。
気が遠くなるほどの膨大なプロジェクト。
プロジェクト全体を嘉南大圳と呼んでいます。

與一は、最初に何をしたと思います?

ダム作ったんでしょう?

いいえ、街を作った。
このプロジェクトに携わる膨大な数の人達を、家族ごと受け入れるため
家を作り、商店を作り、娯楽施設を作り、学校を作り、病院を作った。

人が好きなんですね。

でも工事は困難を極めた。
そしてあるとき
トンネル工事の中でガスの大爆発。

死者が50人を超え、けが人まで含めると100名以上
與一は全ての被害者の家庭を涙を流しながら謝って回る

でも
工事は続けさせてほしいんです。
嘉南地区にとって
台湾にとって
それでも、必要なことなんです。

何故、続けさせてもらえたんだろう
どんな大義名分言われたところで
かけがえのない家族を亡くしてしまった。

でも
目の前で、涙をいっぱい浮かべて
辛そうで、悲しそうで、悔しそうな
この男も
家族なんだと思えたら

苦難
また、どでかい苦難がやって来た。

関東大震災。

日本は、台湾総督府に予算を回せられる状況になくなった。
当面は、大幅にプロジェクトをスリム化して
回復の時を待つしかない。

現実に目の前の問題として
みんなをそのまま雇い続けていられなくなった。

一人一人がかけがえのない家族だったのに。

誰かには、ごめんなさい、と言わざるを得ない
身を切られるような人選。

取った方法は

優秀な者にやめてもらう。

彼だったら、次の就職先もすぐ見つかるだろう。

就職先探しに奔走。

日本が驚異的な回復を見せ
プロジェクト規模が戻ってきたら
再度、やめてもらったひとに声をかけ
希望者には戻ってもらっている

完成
着工から10年、昭和5(1930)年
紆余曲折を経て
ようやく、完成しました。

烏山頭ダムに二つの川から水を引き
満水になるまで
実に2ヶ月を要したそうです。

5/15日に通水式。
勢いよく水が吹き出した。

どんなに嬉しかったろう。

そして、全ての田畑に水が行き渡るのに、2日かかった
その水を見て
60万人が涙した。

ここから
実は、私が一番すごいなと感じたのは、この後です。
ここまでなら
もちろんすごいことなんだけど
ダム作った人ね、で終わっているかもしれない。

そうじゃなかった。

與一には
あらかじめ分かっていることがあった。

それでも、必要な水の量の1/3にしかならない。

農民たちにある提案をした。

嘉南地区を3つに分けようと思います。
A B C だとして
ある年はAにしか、水を流しません。
次の年は、今度はBにだけ
そしてその次の年は、Cにだけ。

ある地域には、3年に一度しか、水は流れないのです。

こうして欲しいんです。
水が流れる年には
多くの水を必要とする、稲作をする
次の年は、水をあまり必要としないサトウキビ。
その次の年は、芋や雑穀。
三年輪作と言います。

最初から全員が賛成した訳ではありません。
明らかに、稲作が収益性が高い。
でも、結局は、全農民が足並みを揃えて
このルールでスタートした。

朝5時から、夜の11時まで働き続けた
みんなのことを思い、涙を流した
そんな與一の提案だから、反対なんてできなかったんですね。

この三年輪作が根付き
7年後には米が、それ以前の11倍、サトウキビが4倍と
飛躍的に収穫量が増えている。

気持ち
ほとんど物が手に入らない極貧の時代。
貧しさから抜け出すのはみんなの夢で
それさえあれば幸せの筈。

でも

少し手に入るようになると
もっと
さらにもっと

争いが絶えなくなって
こんなことなら、何もなかったあの頃の方が・・・

與一にはそれが見えていたのかも知れない。

そして嘉南地区の人達には、宝物が手に入った
水よりも、もっと大切な、「人のことを思う気持ち」
みんなが一様に貧しさから抜け出すため
自分は1/3に押さえて
さあ、あとはどうぞ
そんなルールを守っているという、心の豊かさ。

ダム?
箱物じゃないですよ
與一は、みんなに芽生えた「心」を作った人。

最期
與一はその後も台湾に残り、
今でも、與一の命日には台湾の発展に生涯を捧げた。

最期は突然にやって来た
太平洋戦争の最中、
與一が一市民として乗っていた客船が、アメリカ軍の魚雷を受けて沈没。
帰らぬ人となった。

やがて、終戦を迎え
日本の台湾統治は終わる。

日本人は日本へと帰っていく。

でも、「帰りたくない人」がいた。
與一の妻・外代樹(とよき)

外代樹は台北の空襲がひどくなり
烏山頭に疎開していた。

いよいよ、日本へとなったとき
黒の喪服に白足袋といういでたちで
烏山頭ダムの放水口に身を投げた。

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