潜在意識って、こんな奴等

潜在意識の本に有ったこと、第二弾

あなたのなかにいる「たくさんのあなた」
潜在意識の特徴としてあげられるのが、全体性
全体が仲良く手と手をとりあっている

潜在意識の世界では、何かひとつだけ成長するってあり得ない
逆を言うと
成長するときには、全体が揃って成長する

金持ちになりたい
「経済担当のあなた」が
がんばるぞー

すると、他のみんなが
おいおい、みんなで行こうよ

この辺は、最初に話した現状維持メカニズムの原因のひとつにもなるんでしょうね

この事から何が言えるのか

何か変えたければ、全体的なことを意識しないと、それだけだと、それ以外のあなたに押し戻されますよってこと

本ではダイエットのリバウンドを例にあげてるんだけど、
となると、私はむちゃくちゃ実感があります

今まで、何度か書いてきましたが、リバウンドしないようにするためには、元の場所を無くしてしまえば良い。
減量を目的にしている間は、絶対にリバウンドする
健康だったり、人生作りだったり、仲間作りだったり。
私は、ダイエットしてから、価値観も生き方もまるっきり変わっちゃった

「○○担当の私」みたいなのが、あれもこれも、よってたかって変わっちゃった
元の自分がなくなっちゃったから、戻るってことがイメージできない
元の自分ってどんなだったっけ

快癒力、の話も同じかもね
「病気を治したい」などと思っている間は病気は治らない
治癒担当の自分がいくら頑張ったって
他の自分はこんなこと言うかも

ええやん、病気は悪いことばかりじゃない、働きすぎたよ。ゆっくり休もうぜ

ええやん、病気のおかげで、人の優しさに触れられた。もうちょっとこのままでいさせて。

どれだけ真剣に心を向けたか
ここからが、この本の面白いところ

全体的なレベルアップっていったって、時間がないよ
何をしようにもカネがかかる。そんなのありゃあしない。
ってのは、意識の世界の話ですよ

潜在意識の世界では大丈夫
どれだけ真剣に心を向けたか、だけでいいんですよ

もし、家族に会うわずかな時間すら持てなかったとしても、
家族が支えてくれているから仕事ができる。
ああ、ありがたい
今度旅行に一緒に行こう

と、思うだけでOK
というんですね
空手形でも大丈夫。

なんて便利な。
これなら、時間も金もなくても確かになんでもできるわ。
お手軽っ
これなら、「全体的なレベルアップ」みたいな難しそうなことでも
難なくOKですね

逆の場合
この全体性って、逆のときにとても有効に働くんです。
「○○担当のわたし」が何らかの理由で落ち込んじゃったとします
そしたら、他の潜在意識たちが、手を取って引っ張りあげてくれる。
良いんだよ、君だけじゃないから

これって、愛じゃないですか

人間って人に愛されて至上の喜びを感じる

以前、腸内フローラの話の時、こんなことも言いました。
人間は、どんなに「誰にも愛されていない」って感じる事が有るにしても
腸内細菌に愛されている
もうそれだけで温かい

そしてさらに、
潜在意識は潜在意識でお互いに愛し合っていた。

無敵だーー

私たちは繋がっている
ここまでいったら、オカルトめいて、何でもありかって感じにもなりますが
私は素直に、そうだよなって感じになりました

潜在意識の全体性って
自分の中の潜在意識どうしが繋がっているだけじゃなく
周りの人たちの潜在意識とも繋がっている

違和感あります?

良いじゃないですか
単純に考えて
周りの人たちがハッピーにならなければ、自分もハッピーになれない
周りの人たちを豊かにしてあげることで、はじめて豊かになれる

私は、全然違和感無いです

頭と心
結局、この本の言ってることは
私が前に書いた、頭と心でいうと、意識が頭で、潜在意識が心
脳で言うと大脳と小脳
伝達方法で言うと、神経とホルモン
ピピッてやつと、じょわじょわってやつ
人間には両方が存在するから、潜在意識の特徴もちゃんと分かってないと
わかりやすい頭の方だけでやろうとすると失敗しますよって

面白いのは、さっきの時間や金の話もそうですが
意識の方では、現実世界と境を接しているから「できないこと」が色々存在するけど
潜在意識は意識を介してもうひとつ中側だから、「潜在意識を変える」ための独特の方法が存在すること。
そうするともう潜在意識は抵抗勢力でもなければ「心のブレーキ」でもなくなる
立派な応援団です。

納得、納得。

その「潜在意識の特徴」なるものを、続けて次回以降も紹介する事にします

難病が治るケース(人のために尽くした人)

人のために尽くした人
快癒力の篠原先生によると
難病が治るケースのうちの一つは

篠原先生のところにあまり顔を出さなくなって
久しぶりに顔を出したので、どうされてましたって聞いたら
いやあ、それどろじゃなくってね
誰々さんが大変でねと、
自分の事そっちのけで人の話ばかりする

ところでお体は、
ときくと
何か治っちゃったかも
って
そういうケースだと言うのです。

何に「気」を使うのか
例えば、呼吸は吐いて吸っての繰り返し。
多く吸うためには、まず吐かなければならない。
出せば黙っていても入ってくる。
健康にかかわる「気」のエネルギーはそれと同じだって思うんです。。

「体を大切にする」より健康に良いこと
「体を大切にしない」よりは「体を大切にする」の方が、いいでしょう。
それはそう
しかし、「もっと体を大切にする」ことは「もっと健康になる」ことにつながるのだろうか。

もやもや
「健康」にかかわるブログを書いていて、多少もやもやしていたんです。
結局これって、「自分にとっていいこと」でしかないのではないか。
自分さえよければいい。いわゆるジコチュウなのではないか。

自分への納得のさせ方
それに対しての自分への納得のさせ方。
自分で実践した「健康に良いこと」「本当によかったこと」を公表する。
それは「人のため」になる
現実に楽しみにしてくれている人もいるし、コメントももらえる。
「人のため」になっているのだろう

ただ、ハッとしました。

快癒力では、「体を大切にする」ことに必死になっている人は、それほど健康にはなれないとしている。
「そんなことより」人のために一生懸命になっているひと。
惜しい惜しいと「気」をため込む人は、「気」が内向きになってしまう。

健康なんてどうでもよろしいやん

ギブアンドテイク
ギブアンドテイクはギブが先
自分の事なんてどうでもよろしい

その方が結果として健康になれますよって

それすら考えることもなく
気がついたらなおっとった

それでいいんやと

過去は変えられる2

過去は変えられる
1はこちら
http://smcb.jp/_ps01?post_id=6707828

私のとても大切な仲間の書いた日記です。

快愉力という本を読みました。
「過去は変えられる」と書いてありました。
衝撃でした。

どうしてもこの話を「その人」にしたかった。
レインボーブリッジをウォーキングで一緒に歩きながらその話をした。
確信があったから。

そして、こんなにいい日記を書いてくれた。

追っかけてコラムを書きたいと思います。

過去は変えられる
こんな考え方はしたことがなかった。
「過去は変えられないから仕方がない。くよくよ考えるより、今と未来を大切に生きていこう」が前向きセオリーの基本でした。

なぜ過去は変えられるのか
根拠は、過去って自分の主観の中にあるということです。
厳密に全てが全てそうなのかと聞かれると、例えば3.11のような事実そのものは変えられないので、いったん言い方を変えましょう
今の自分に影響を与えている「過去の自分」と言うことにしましょう。
過去の自分は他人には分からない、自分の中だけのもの
例えばある人にひどい目に合わされた過去があったとしましょう
「あのやろう」と思い続けるのではなく「今思えば懐かしい過去。彼は彼で必死だったんじゃないか。今なら会って挨拶くらいは出来るかも」と思ったとたん、過去は変わっているのです。

事実すら怪しい
テレビの「あの人に会いたい」コーナーで、昔山中で助けてもらった旅館の美しいお嬢さんに会えた時のエピソードが書いてありました。
実際に会ってみると当時の思い出としての事実はほとんどが事実とは異なっていたそうです。
長い時間の間に「美しい思い出」に尾ひれがついていったのでしょう
でもそれは「事実と違うじゃない」と非難されるべきことなのでしょうか。
誰にも迷惑はかけていない。
いずれにしても「事実」は「主観」を通してしか自分にはやってこない
もし他人に迷惑をかけないなら、どんなに過去を「ねじ曲げ」ても他人にとやかく言われる筋合いのものではないだろう。

えっ、そんなことありましたっけ
嫌な過去なんてねじ曲げてしまいましょう。
あの時は大変でしたねえ、なんて誰かに言われても
えっ、そんなことありましたっけ
って言ったとたんに
ねじ曲がって、すっとんでいってしまっている。

いやいや、ありましたよ
なんて、誰が言うでしょう。

おそらく「もう気にしていないんだ」ってホッとしてもらえるはず。

例えば私の母さんなんかは、私が落ちこぼれてすごい点数のテストを持ち帰って見せても
「何かの間違い」にしてしまっていた
絶対、人にゆうたらあかんよ。
あんたは頭いいんやから。
何かの間違いなんやから。

未来の自由度
「過去は変えられないから、未来こそ前向きに」
なんて、未来の自由度がちっちゃいちっちゃい。

過去を勝手に変えちゃうと、今が必然的に変わってきて、未来がどどーんと大きく変わる。
なんせ、出発点が変わるのだから。

祝! ブログ1年

2015/9/14をもちまして、ブログを始めてから、1年が経過しました。
その間、若干、アップ出来なかった日があったものの、ほぼ毎日アップできたのは、皆様の応援あってのことと、深く感謝いたします。

それにしても、よく続いたものです。
私にとっては、1年続いたということはかなりの意味を持っています

1年ということ
歳をとってくると、1年をとても短く感じるようになってくる
分母が人生全部の長さだから。
10歳だと、1年は人生のうちの1/10だからとても長いが
50歳だと、1/50。
ほんのすこし。

この大原則どおりだった。
一年があっという間。
2年前までは。

大きく変わった。
ダイエットがきっかけになり、ブログで大変革。
ウォーキング同好会でだめ押し。
あんな事もあった、こんなこともあったって、思い起こせることが桁違い。
ものすごく長い一年だった。

ブログって何だろう
所詮はwebのバーチャルな世界。
始める前はそんな感覚があった。
そのブログが、自分自身をここまで大きく変える存在になろうとは思わなかった。
そして、まさしくリアルな世界のウォーキング同好会は、
ブログと大きく互いにかかわりあうものになる。
変えてしまった。
変わってしまった。

ブログを始めて6ヵ月のとき、
ブログは生きてるあかしだと書いた。
まさしくそうだと思う。

自分が死んだら世の中ってどうなるんだろう。
恐怖だった。
足跡が欲しかった。

世の中に無いものを残したかった。
そんな人生だった。
そういう価値観で仕事も選んできた。

色んな事をした。

これってさ、昔はなかったよね。
みんな知らないかも知んないけど、
これをつくったやつ知ってるよ。

誰でもいい、1人でもいいから、そう噂話してほしい。
でないと死ねない。

そう思っていた。
がむしゃらに仕事をし、革命児たらんとした。

いいところまではいったかな
でも、もうない。
今後の人生を考え、革命は無理だと悟った。
そういう事って大事なんだろうと思う。

それから
普通、そうやって「あきらめる」時を迎えると、
いわゆる「ふぬけ」のようになってしまうのかも知れない。
でも違っていた。
むしろ逆だった。
うまいぐあいにちょうど重なった。
ダイエット、ブログ、ウォーキング同好会。
自分が抜きんでて、世の中を変える存在。
そんなものはもういらない。

仲間が出来た。
一緒に歩ける仲間。
いっぱいしゃべって、仲間だなあって思い合える。

ブログもそう。
だんだん分かってきた。
不完全な内容の方が面白い。
色んなコメントをもらえる。
私はこうです。こんなのどうでしょう。
こういう辺りでとめとくと、コメント来るだろうから
返信の時に続き書こう、みたいな。
コメントを想定しての作品作り

震えるような満足感ではなく、まったりとした「一緒感」

こんなこと言ってるけど、さすがにネタが尽きてきた。
今後どうなるんだろう。

まあ、その時はその時。
ありがたいことに、私は日本アバウト党。

これなんだろう的な何かが身近にあるとして、
今までは、何か分かんないけどいいや、めんどくさいし。
ブログはじめてからは
とりあえずいっとく?
最悪、何かようわからんにしても、ブログのネタにはなるやろ。

この感覚が自分をこの一年いろんなものに突き動かしてくれた。

そして、みんながフォローしてくれた。
ほんとにありがとうございます。

ブログって、なんか悪い風には書けないなって暗黙の空気を感じる。
腹立つカミさんの話題でも、書いてるうちにいいふうにまとめちゃったりして。
奥さんへの愛情を感じます、みたいなコメントをもらっているうちに
ひょっとして、こいつはいいカミさんなんやろかって思えてくる。

ブログは、ベクトルを幸せな方向へ向かわせてくれる、魔法の杖なんかもしらん。

いよいよネタないわってとこまで続けますので、
もしよろしければお付き合いください。