[首相]41-2 三木武夫。クリーン三木

[首相]41 三木武夫。議会の子
の続きです

三木答申
三木総理誕生からさかのぼること
12年前の1962(昭和37)年
池田勇人総裁から自民党の組織調査会長に任じられ、
三木は党の近代化問題に取り組んでいた

カネの問題といい、派閥の問題といい、いま何かしなかったら
民主政治は崩壊する。三木君、何とか考えてもらえないか

総裁が相当の決意を持っていただく必要があります

その決意はある。
最後には君と私ふたりだけになったとしてもやろうじゃないか

三木は「三木答申」といわれる試案を提出
でも、残念ながら池田が病気で退陣したため、
三木の答申は結局、実らずに終わった。

この時から、三木の生涯続くテーマが「政治浄化」になる

椎名裁定
田中角栄総理が金脈問題で失脚
時期総裁候補として、福田赳夫と大平正芳
勢力伯仲で大バトル
このまま行くと党が真っ二つに割れる

当人達も危機感を持ち、次期総裁の決定を椎名副総裁に決めてもらう事で納得
椎名副総裁は、金脈問題での党の信頼回復のため
「クリーン三木」を担ぐ

意外にも、両陣営とも小派閥の三木なら単なる時間稼ぎ、と承諾

三木は「嵐のなかに船出する小船のような気持ち」と述べながら、
じつは「総裁でなければできないこと」、
すなわち徹底した政界浄化をやろうと意欲を燃やしていた。

三木試案
総理となった三木は、ただちに先の「三木答申」をもとにした
「三木試案」を椎名悦三郎副総裁に提示し、
その実現に向けて全力をあげるように求めた。
この試案のうち、国会で争点となったのが、
政治資金規正法と公職選挙法(いわゆる選挙2法)の改正である。

政治資金規正法改正案は、政治献金を量と質の双方から規制して、
オープンなものにしようという内容であった。
「3年後に企業献金を廃止し、個人献金1本に絞る」という案件が含まれていた
【三木試案のポイント】

①総裁選挙改革⇒予備選挙制を採り入れて投票者の幅を広げる。
②政治資金の規制強化⇒公開を原則とし、一定の限度を設ける。
③選挙腐敗の防止⇒金のかからない、かけられない選挙を目指し、国の費用負担を拡大。
規制を強化(連座制強化、違反の厳重取り締まり)。

企業献金廃止に対して、
党内からは「政治資金を規制すれば自民党が困るだけじゃないか。
三木さんだって自民党員だ。何を考えているんだ」という
反発の声がいっせいにあがる。

党内の意見はまとまらない。
「三木にとって最大の野党は自民党」と評されるほどの
総スカン状況となり、三木は企業献金「全廃」を断念せざるをえなくなる。

規正法案の内容をゆるめることで党内はまとまったものの、
今度はマスコミや野党から「政治姿勢の後退だ」
と叩かれることになる

国会通過
選挙改革は公職選挙法改正案等の選挙2法
政治資金浄化は政治資金規正法

「金がかからない選挙を目指そう」という選挙2法改革案は、
社会、民社両党が積極的推進にまわり、
組織力を駆使した資金と人海戦術で選挙を戦う公明党と共産党は不利になることから、
共闘して反対した。

選挙2法は与党が安定多数を占めている衆議院は通過したが、
問題は与野党伯仲の参議院である。
公職選挙法は社会、民社両党が賛成しているので問題はないものの、
政治資金規正法は野党すべてが反対のため、
もし自民党内の結束が乱れれば成立が危うい。

6月30日、公明、共産両党の議員や秘書団は、選挙2法を阻止すべく、
法案を審議する第1委員会室の前で座りこみを行なった。
委員会審議は不可能となり、選挙2法は参院本会議で直接審議されることとなる。

2日連続で徹夜のロングラン国会となる。
ようやく選挙2法の採決に入ったのは、国会最終日4日の午後5時40分過ぎだった。

まず、公職選挙法を予定通り可決。
そしていよいよ政治資金規正法の投票である。
与野党ともギリギリまで票読みをしたが、どうなるかわからなかった。

投票が終わり、議場が緊張に包まれるなか、河野議長が投票結果を読みあげる。

「投票総数234票、白色票(賛成)117票、青色票(反対)117票、可否同数です。憲法第66条第2項により、議長が決します。議長は可と決します」

「ウオッ!」という声が議場からあがる。

三木はゆっくりと立ち上がり、「あぶなかったなあ」といいながら、
顔をしわくちゃにして、そこにいた誰かれとなく握手をする。
眼鏡の奥の目からは大粒の涙が溢れていた。

自民党総裁選の改革案
こうして政治資金規正法と公職選挙法はかろうじて改正を果たせたが、
三木が「諸悪の根源」と言い放った自民党総裁選の改革案には、
分厚い壁が立ちはだかった。

総裁選改革案は、総裁選の有権者が国会議員と少数の地方議員に限られている現状に、
全党員による予備選挙を導入しようというものだった。
だが、各派閥の思惑がからんで難航。

三木を批判する田中・大平派の若手議員らが改革案を逆手にとり、
「総理は新しい規定に従って、総裁選の洗礼を受けるべきだ」という署名を集めるなど、
三木体制へのゆさぶりを開始した。

三木は改革案を強行することによって党内の混乱を招くことを危惧し、
翌1976年(昭和52)1月の党大会で改正をついに断念。
いったん棚上げすることで収拾した。

ロッキード事件
総裁選改革の断念から1か月後の2月初め、ロッキード事件が明るみに出る。
三木は「日本の政治の名誉にかけても問題を明らかにする」と徹底究明を表明。

さあ、どうなるか
続きはシリーズの次回

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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