ちょうちん屋が黒船を作っちゃった

人生に悩んだら日本史に聞こうシリーズです。

黒船来航
ペリー来航。日本中で上へ下への大騒ぎ。

大体の人は、度肝抜かれて、ひっくり返った。

でも、3人は、こんな風に考えた。
すごいけど、作れそう。
作っちゃおうかな。

薩摩藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)
肥前佐賀藩主 鍋島閑叟(なべしまかんそう)
伊予宇和島藩主 伊達宗城(だてむねなり)

薩摩と佐賀は分かります。
洋学もさかんで、経済的にも裕福。

問題は、宇和島。
下地もなければ金もない。
あるのは、殿様の夢ばかり。

だって、作りたいんだもん。

実は、伊達宗城は、小藩ながら有名人。
福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とともに「四賢侯」と言われ
幕末の政治に強い影響力を持ちます。

黒船作ろうプロジェクト
始まりました。一大プロジェクト。

名前が上がったのは、嘉蔵(かぞう)
なんと、ちょうちん張りの職人です。

その、理由は
あいつは器用だから。

は?

最下級の町人。
名字だって無い。

藩は何とかエンジンの図面らしきものを手に入れる
こんなの作ってねと嘉蔵に渡す
それがなんだか分かっていないので
木と紙でささっと作っちゃう。

おおっ!
さすがは嘉蔵
君に決定。
あとは本物作ってね。

はい? 本物?
黒船? 何ですの、それ。
よし、まずは、黒船見に行こう。
長崎へ

嘉蔵は、同行した武士達にいじめられますが
負けるもんか!

いけいけ嘉蔵
藩は、長州から、村田蔵六に来てもらいます。
後の大村益次郎。
戊辰戦争の上野決戦では新政府側の総大将となる超大物です。
この時は、まだ蘭医。お医者さんです。
手に入れた図面らしきものがオランダ語で書いてあったので
蘭医ならオランダ語も読めるだろうという発想。

村田蔵六には設計を担当してもらいます。
お医者さんに船の設計。

最初に村田蔵六が嘉蔵に会いに行った時
嘉蔵は、そんなお偉いさんには会えないと
裸足で逃げちゃいます。

村田蔵六は、嘉蔵の頭の良さにビックリし
後に、大学教授なみの頭脳の持ち主と絶賛しています。

ともあれ、設計と製造の二人三脚。

長崎奉行所の役人もバックアップしてくれます。
オランダ政府も、蒸気船を見せてくれました。

長崎から帰って、1856年正月から、本格的に着手。
最初は汽罐(かま)即ちエンジンであるボイラーを鋳物で作っていて
圧力が増すと爆発するなど試行錯誤
翌年秋、見事に完成させます。
船の部分は船大工に任せ、エンジンを乗せます。
着工から3年経過で、海上運転テスト。

嘉蔵は、狭い機関室に入ったまま、釜焚きから操作まで一人でこなします。
小さな窓から外を見て

動くのか?

天守閣がすぅーっと

動いたっ。

どれだけ嬉しかったろう。

伊達宗城も大喜び
これで参勤交代に行こう。

この時の実験では、エンジンが小さすぎて
すぐに止まっちゃうんですけどね

気持ちとベース
それがどうした
やってやろうじゃないの
って
伊達宗城を中心とした、楽しいワクワク感が良いですね

嘉蔵の選ばれた経緯は突飛だけど
庶民の識字率の高さが世界的にもずば抜けているので
ひょっとして
嘉蔵じゃなくても
第二、第三の嘉蔵的原石が
ゴロゴロ転がっていたのかも。

常識にとらわれない発想があれば
こういった人材を引き上げられる。

嘉蔵は、後に前原巧山と名乗り、明治時代を代表する技術者になります。
ゲベール銃の国産化、木綿織機の製造、爆弾の雷管の作成などを手がけ、ミシンの製造にも成功しました。
パンを作ろうとしたのは失敗しちゃうんですけどね

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