尾張藩はどうだったのか

御三家と御三卿をシリーズにしようと思っています。

尾張藩ってどうだったのか

ウォーキングで、 市ヶ谷の防衛省に行ってきました。
尾張藩の上屋敷どでかい敷地です。
中屋敷は四谷の上智大学
下屋敷は新宿に近い戸山公園です

御三家の筆頭でありながら
最後まで、将軍を出すことはなかった。

尾張にいくようならもう「おわり」と言われるほど幕閣のみんなには不人気
とても不思議な藩ですね

尾張藩
御三家ってなんで格上かというと家康の子供だからですね。
最初は、四男・松平忠吉
でも、子供ができないまま死んじゃったので
はい、やり直し。

甲斐甲府藩から九男で忠吉の弟である徳川義直が入封

清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って、尾張藩誕生!
御三家の兄弟の中で一番上なので差をつけませんとね

ちょっとずつ石高増やして61万9500石
尾張の他にも、美濃・三河・信濃・近江・摂津と広範囲に飛地も持ってます。

第4代藩主・徳川吉通
第4代藩主・徳川吉通のとき、かなり惜しかったんですよね。
第6代将軍徳川家宣から、すごく評価されていた。

自分の子供、家継がまだ幼く、かつ病弱。
将軍は無理かな。
徳川吉通さん、お願いして良い?

周りの反対で一旦は取り下げたけど
なにせ家継は病弱だったので、その次の可能性は十分あった。

ところが
家宣が死んだ翌年、突然死しちゃう。

第6代藩主・徳川継友
チャンスは潰えたかに思いましたけど
予想通り、少年将軍は、重病の床に臥す。
まだ少年なので、当然跡継ぎは産まれていません。

真剣に次を考えないと。
大奥の天英院と月光院の大バトルもあり
次の将軍候補が混沌と。

ご存じの通り、最終的には紀州の吉宗が勝つ訳です。
その時、対抗馬として名前が上がったのが
第6代藩主・徳川継友

ここで負けちゃったのが、あとを引き
とうとう最後まで、御三家で唯一将軍を出せなかった。

負け惜しみかもしれませんが
第4代藩主徳川吉通は、「尾張は将軍位を争わず」と言っています。
尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、
徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切です。

そのあたりの意識が、次の徳川宗春に繋がっていくのかも知れません。

第7代藩主・徳川宗春
継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春

この人、すごいですよ。

吉宗の享保の改革、節約節約にちょっと待った!

そんなの面白くにゃあ。

名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可し、規制緩和政策を推進。
真っ向対立です。

とてもやり手なので
どんどん政策を打ち出すんですが
的を得て、成果が上がるもんですから
幕府は後追いで、同じことをやったりします。

単に規制緩和一辺倒ではないんですよね
メリハリをつける
厳しくするところと、緩めるところ。
庶民の娯楽は奪わない。

宗春のとき、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。
犯罪者の処分より、犯罪を起こさない町造り
見回りを強化。
死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた
心中しようとした者、幕府では非人あるいは死罪のところ、
結果的には夫婦として普通に生活することを許可した

人の道の分かった人ですね。

でも、幕府に逆らっているようには見える。
幕府の中に尾張嫌いがじわじわ増えていきます。
もちろん、吉宗自体も、面白くない。

宗春と家老の成瀬正泰が参勤交代で江戸に行ったとき
もうひとりの家老竹腰正武が、
名古屋で宗春の政策を一気に否定。
クーデターみたいな感じ。

そんなバカな
絶対ばれますよ、そんなの。

尾張藩の中の皆もどっちに従って良いんだか
シッチャカメッチャカ

当時、朝廷と幕府の関係がまずくなったことがあり
元々、朝廷との関係が深かった、尾張家が板挟みになったということも
重なった。

吉宗、この時とばかり

全責任は宗春にあり
隠居謹慎を申し渡す。

10代から
9代で血が途絶えてしまった。
で、御三卿の一橋から養子に入る
その後、11代将軍家斉の子とか
田安家からの養子とか

言葉悪く言えば
血筋的には紀州にのっとられた形になる

秘伝の家訓
藩祖義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、
代々伝えてきた勤皇家
そういった意味では、事がおきれば朝廷側につくべしとの秘伝の家訓のあった、
水戸家にも似ている。

このことや、長い不遇の歴史から
尾張家の中では、幕府がだんだん嫌いになっていく。

最終的に、幕末にどうなったかというと
なんと、戊辰戦争では、幕府を裏切り官軍についた。

面白いですね。
血筋的には紀州がのっとっちゃったはずなのに
秘伝の家訓の方が勝っちゃうんですね。

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