ココファームワイナリーに行ってきました、の続き

あしかがフラワーパークに行ってきました
ココファームワイナリーに行ってきました
の続きです

ぶどうの育て方
ぶどうの育て方を詳しく教えていただけました
色々方法はあるようですが、ここではカーテン仕立て、というやり方
ぶどうの木が伸びていってワイヤーのところまで行くとワイヤーに沿って左右に伸ばしていく
中心の木は次の列のワイヤーのところまで伸ばすとまた左右に伸ばす

それぞれ左右に伸びた太い枝から上に向かって枝が伸びていく

ある程度伸びたら、今度は、180度グイッと回して下向ける
すると下へ向かって枝が伸びていく
地面が見えたくらいでなぜかピタッと伸びるのを止め、
今度は身を作ることに勢力を注ぐようになるそうです

とても不思議
植物って上に、さらに言うと太陽に向かって伸びるはずなので
質問したんですが
ぶどうに聞いてみないと分かりません。なぜかそうなんです。との事でした

ワイヤーとワイヤーの間が広いし、上の方は急斜面なのでいっぱい日光が当たって美味しくなる
栽培する方の人間はとても大変なのですが

ワインの作り方
ワインを作る工程は、大きく分けて
選果(せんか)、除梗(じょこう)、発酵、熟成になります

まずは選果
実は、ココファームのブランドはもう有名になったから
この足利のぶどう畑のぶどうからは一部でしかありません
契約農家が数ヵ所あって、大量のぶどうが送られてくる
そのぶどうを一つ一つ目で見て、本当に良いぶどう以外は取り除く作業です

ここがココファームの真骨頂
普通のワイナリーは効率や採算を考えるから、そこそこにしかやらない
ココファームでは徹底的にやる
だから良いワインになるんです

選果を終えると、ぶどうをこの機械に入れて、ギュっと搾る

この穴からポタポタ落ちてきて

ここに貯まる

次にこちらに移して発酵
お酒になるんです

ただ、今言った工程は、白ワインの時だけ
赤ワインの時は、搾る工程がなく
皮ごと発酵の入れ物に入れちゃう
赤ワインの赤い色は、ぶどうの皮の色だったんですね
赤ワインと白ワインはワインの種類も違うのですが
色に関して言うと工程の違い

発酵についても、ココでは他とちょっと違う
通常は発酵させるため酵母をいれるんですが
ココでは酵母は入れない
本来、発酵に必要な酵母は、元々ぶどうの皮にくっついている
とは言え、理屈ではそうでも、最初に酵母を追加せずに発酵させるときはドキドキだったそうです
みんなで祈って
本当にちゃんと発酵したときは、やったあ

次の工程は熟成
貯蔵庫に行きました
ヒンヤリ
空調ではないんですって

樽に入れて何年も
美味しくなあれ

樽がなぜ良いかというと、木が呼吸してくれるから、適度な酸素を取り入れてくれる
ところが、呼吸するってことは、中のワインが蒸発する事にもなる
長い間たつと、上に隙間ができる
そうなると、逆にワインにとっては良くないので、定期的にチェックして、
隙間があったら同じワインを足してやる
これが補充用のワイン

さあここで問題です
樽の上にできる隙間。その隙間の事を何と言うでしょうか

みんな何だろうなと首をかしげるばかり
私は「すきま」かと思ったのですが違いました

そんな中、唯一正解を言った人がいました

嬉しくて嬉しくて

長女です

長女は何を隠そう天才なんです
親の口から言うのも何なんですが、自慢で自慢で
公にそれが証明できたようで、天にも昇る気持ち

天使の分け前

正解です
良くご存じでしたね

もっと誉めてぇ

次に、スパークリングワインの作り方
シャンパーニュ地方で規定の品種・規定の製法(シャンパン方式)でつくられたものしか「シャンパン」を名乗れません
それ以外は、スパークリングワイン
ココでは、シャンパン方式を忠実に行っていますが、日本なのでスパークリングワインです

シャンパン方式を日本語でいうと瓶内二次発酵
瓶の中で再度発酵させます

シャンパンを発明したのは、盲目の修道士
名前は何と言うでしょうか

残念!長女も分からなかった

ドン・ペリニオンです

盲目なので、ドンペリのラベルには、点字がついています

貯蔵庫に詩が掲げられていました

『天使の光輪』
まちを通りぬけた山あいのワイナリーで、
今年の5月
初めて三鞭酒ができた

この発泡する透明な葡萄酒の発祥は
昔 西欧で盲目の修道士が
瓶のなかで再発酵したワインを
誤って賞味した時からだという

樹々と西陽のもつ治癒力を信仰し
楢、椚の森と空を写す沼のある谷
その西斜面に葡萄畑と醸造所が
つくられても半世紀近くなる
農夫の顔をしたここの修道士たちは
太陽と土の匂いを頬張り 滅法陽気だ
ドラム缶を叩き ひねもすカラスを追ったり
剪定した枝を抱えて 葡萄畑を駆け降りたり
時には大声をあげて人々を威嚇したりもする

 毎年の収穫祭には
まちじゅうの人々が彼らとともに
豊穣の秋と人生を称え 酔い痴れ
山野を浮遊るすのだ

そしていま 地下のトンネルの底には
熟成したワインが青白い光を放ちながら
スパークリングを続けている
人生そのもののように単調だが
正確な斜度を要求するルミュアージュ
陽気な彼らも
この一瞬だけは 寡黙な修道士となる

 唄いながら手をヒラヒラさせて舞い
 山彦の啓示で突然瞑想に入ったりする聖者
彼らのつくりだす発泡する酒の不思議
透明なのに複雑で 律儀で怠惰な味わい
苦悩や傷、怯えを優しく抱擁し
酔いと漂いの中に癒し 解き放つ
これはもう この谷間の森に住む
精霊たちの仕業に違いない

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ココファームワイナリーに行ってきました

あしかがフラワーパークに行ってきました
の続きです

あしかがフラワーパークを終えてもう一ヵ所
本当は2ヶ所行きたかったんですが
フラワーパークが結構時間かかったので、足利学校を断念
ココファームワイナリーというところに行くことにしました

カミさんからのリクエストです
昔行ったあそこに行きたいわ

それは一体、いつ行ったどこ?

うーん、分からない

それは、どうにも分からんなあ

試験対策で、まっぷるは全県見れますので、まっぷる栃木を読み
フラワーパークの近くで、足利学校以外にも良いところがないか探していると、
たまたまです

あっ、ここのこと、言ってるんじゃない?

ずいぶん昔になりますが、カミさんと旅行しているときにたまたま立ち寄ったワイナリー
カミさんは障害者に対する仕事をしているので、その方面に詳しい

こころみ学園という精神障害者(昔でいう知恵遅れ)の子供たちが作っている
ワインのワイナリーです
とても高品質なワインを作っていて
なんと日本で開催されたサミットでも出されたほどのものです

以前に寄ったときは何も知らず、もうひとつどっかに寄ってみる?と寄っただけ
障害者の子供たちがそんなにすごいワインを作ってるんだと衝撃を受けたものの
時間が遅かったので色々閉まっちゃっていた
また来ようね、とは言ったけど、すっかり忘れていた

今回は、15:00から案内してくれる見学会にも参加できました

ココファームワイナリー

結論から言うと、見学会に参加して本当に良かった
感動
知らない事もいっぱい教えてもらえた
無茶苦茶話が上手
こころみ学園や、ココファームを作った川田昇園長に対する敬愛の念がとても強く伝わってくる
サイさんという方です。

川田昇は特殊学級の教師でした
私はずっと園長園長って言っていたから、これから園長、で通しますね
園長は特殊学級を作り、その子供たちの手を見てビックリしたんです
赤ちゃんのような白い手だった
かわいそうかわいそう、で何もかも親がやってくれたんだな
親が亡くなったらこの子たちは一体どうなるんだろう
生きて行けるようにしてあげなきゃ
どんな事でも仕事ができるようになれば生きていける

私財を投げ売って、売りに出ていたこの山を買うんです

ぶどうを作るんですが、最初は食べるためのぶどうでした
園長は最初から果実にしようと決めていました
毎日毎日繰り返してつらい仕事をずっとやって
あるとき、実がなる
ああ、実がなった、って

この急斜面を見てください
スキーのジャンプ台とほぼ等しい
上の方は、立っているだけでもつらい
そんな中で手を上にあげて、作業するのはとても大変
でも、実はそんなことよりも何より大変なのは草刈り
ここでは、一切除草剤を使いません
ひたすら刈って、少しずつ上に上がっていって
やっと一番上まで刈り終えて
ああ終わった、って思うと
下の方はもう草ぼうぼう
そんな果てしのないことをずっと続けるんです

除草剤を使うとぶどうに悪い事は分かっています
でも何よりも、そうしてしまうと、彼らの訓練ができなくなってしまう
仕事をするための場所ですから

赤ちゃんのような白い手が
一年たてば青年の手になり
二年たてば立派な大人の手になり
三年たてば老人のようなゴツゴツの手になる

最初食べるためのぶどうでしたが
それだと、豊作の年には、値段が暴落して儲からない
凶作の年には元々収穫が少ない
収入が少ないとかかる費用を捻出できずにたちいかなくなる
そうなると訓練の場がなくなってしまう

ワインを作れば安定するだろうということなんですが
実は園長がとても酒好き
三歳から酒びたりだったんです

(これ、オーバーに言っているのかと思っていましたが
川田昇さんの書かれた「ぶどう畑の笑顔」という本をワイナリーで買って読みますと
本当に三歳から酒びたりだったようです。
そのために、川田昇さん自身が極端に成績が悪い怒られてばかりの子供だった)

あともうひとつあるのが「かっこいい」ってことです
ぼくたちはワインなんてかっこいいものを作っているんだって

そして、園長はせっかく作るんなら最高に良いものを作ろう、と思うんです
知恵遅れの子どもたちが作ったワインだと、同情で買ってくれても
2度3度は続かない
本当に良いワインを作らなきゃダメなんだ

(このあと、ぶどうの育て方、ワインの作り方を実に詳細に教えていただけるんですが
なぜ最高のワインができたのか、分かる気がしました
他のワイナリーではやっていないようなバカみたいに手間隙のかかるような事を
徹底的にやっている。ワインは手間をかければかけるほど良いワインになる
ここでは、彼らの訓練が目的なので仕事はいっぱいなきゃいけない
「効率」を考えないワイナリーなんだろう)

まだまだ、説明は続きます
続きは次回

以下はテイスティングをやったワインです(長女の腕)

私は運転があるのでぶどうジュースでした。無茶苦茶ぶどうっ

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あしかがフラワーパークに行ってきました

ゴールデンウィーク前半は関西方面に出かけ
伊勢神宮に行ったあと、長女のところに泊まり、
長女夫婦と共に、
老人住宅に入った父さんのところに会いに行った
とても元気そうで安心

そのまま、車で長女夫婦と一緒に東京に来ました

ゴールデンウィーク後半
長女が家に来ているので、カミさんと長女と3人一緒に
観光に出かけようということになりました

旅行業務取扱管理者の地理の試験に資するよう
関東近辺で車で行け、それほど遠くないところ

そうだ
栃木県のあしかがフラワーパークだ

あしかがフラワーパーク
藤の花で全国的に有名なのがあしかがフラワーパーク
あまりに旬過ぎ、ゴールデンウィークだと超混雑でしょうから
普通なら避けたいところですが
添乗員を目指すものとしては、見ておく必要があります

渋滞もなんとか乗りきり、到着

藤の花だ

1箇所だけでなく3箇所も4箇所も藤棚がある


nor


こっちの八重の藤はさらに紫がきれい

白い藤

白い藤のトンネルはとても長くて圧巻

黄色い藤

正直、この時期は藤以外はそれほどでもないのだろうと思っておりましたが
フラワーパークさんごめんなさい
とんでもありませんでした

花花、そしてまた花
あっちでもこっちでも




バラも目一杯





趣向をこらした花壇があっちでもこっちでも




パーク内のレストランでお昼にしましょう
これもまたお花畑のよう

食事中、足利氏の話や足利学校の話
足利学校を作ったのかも知れない、小野篁が
地獄と現世を行ったり来たりしながらダブルワークしていた話

名物藤ソフトも美味しかった

口に入れた瞬間
あああっ藤だっ
藤の花を食べた事ないのにね

サイダーも

大満足

このあと、ココファームワイナリーというところに行くのですが
その様子は次回

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[首相]41 三木武夫。議会の子

首相シリーズ
角三福大鈴中(かくさんぷくだいれいちゅう)の内の二つ目、三木武夫になります

三木武夫

三木武夫は、徳島県北東部に位置する御所村(現阿波市土成町)に生まれた
父は肥料商を営み、裕福な家庭であった。
学校では
弁論部に入って主将をつとめた。
その演説は、つねに冷静で絶叫することなく、噛んで含めるような説得型であったという。
2度にわたる海外留学を経験
スイスのジュネーブで国際連盟の軍縮会議を傍聴した時
小柄な体で熱弁をふるうフランス外相ブリアンの演説に
深い感銘を受け、政治家になることを決意する

1937年(昭和12)3月23日、郷里徳島で、無所属で立候補する。
まったくの新人で泡沫候補といわれながら、
三木は仲間とともに自転車で走り回って遊説し、
みごと初当選を飾った。
「全国最年少の30歳、学生服の代議士」の誕生であった。

三木が当選を果たしたころは、
日米関係は悪化の一途をたどっていた。
翌年2月、三木は日比谷公会堂の「日米親善国民大会」で、
「日米戦うべからず」という演題の演説を行なう。
壇上には日の丸と星条旗が並んで掲げられた。
三木は、「日米両国が平和的に今日の対立を解決するよう努力することが、両国の政治家の責務ではないか」と訴えた。

だが、ついに日米は戦争に突入してしまう

戦時下の1942年(昭和11)4月、政党は解散に追いこまれ、
大政翼賛会が発足していた。
三木は立候補し、さまざまな干渉や妨害を受けたが、
蓋を開けてみれば、この「非国民」候補は悠々と当選を果たした。
「名もない大衆というものの強さ、骨太さ、これはやはり信頼することができる。これは自分の長い政治生活で不動の信念のようなものですね」と回顧している。

戦争が終わると、保守・革新ともに新党が続々と結成され
協同民主党の結成に加わる。
翌年3月に国民党と合併して国民協同党となり、
三木は書記長、ついで中央委員長に就任。
小政党ながら一党を率いる立場となった。

片山哲内閣では、
第一党の日本社会党が全議席の3分の1にも満たなかった。
そこで民主党と三木の国民協同党の3党連立で、
日本社会党の片山哲を首班とする内閣が成立した。

三木は逓信大臣として初入閣を果たすのである。
40歳の閣内最年少閣僚だった。

その後、党の離合集散が繰り返され
三木武夫は以下のような経緯をたどる

小政党、ないしは小派閥の長という立場が続くことになる

田中内閣で副総理兼環境庁長官に就任。

官僚出身ではないので、田中角栄と最初は通じるところがあった

だが、1974年(昭和40)の参議院選挙後に、
田中総理の金権政治を批判して副総理を辞任した

その後青天の霹靂となる三木内閣が誕生することになるが
この続きは次回

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