[天皇]37 斉明天皇。もう一回天皇やりますわ

天皇シリーズ

斉明(さいめい)天皇
655~661

クイズです。
【問題】
今の天皇は、126代目の天皇です。
では、今まで天皇になったのは何人いるでしょう。

変な問題ですね
すぐあとに答を書くので考えてね

35代の皇極天皇という女帝は初めて譲位という事をしました。
弟、孝徳天皇に譲った

実は、もうひとつ、初めての事をしています。
重祚(ちょうそ)というんですが、一回やめたのにもう一回天皇になった

二回目は名前が変わり、斉明天皇と言います。

【答】
124人

異例中の異例
重祚したのはもう一人
孝謙天皇が称徳天皇として重祚

だから2マイナスして124人です。

初めて譲位したから出来る技です
それまでは死んでから代替わりですから

弟の孝徳天皇に譲位した経緯はお話ししましたね
本当は息子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に譲りたかったけど、
ある意味時間稼ぎのため、弟に譲った。

その時は、実質的な政治は中大兄皇子がやっていた訳です。

その弟が死んじゃった訳ですからもう良いよね
じゃあ、今度こそ息子に、となりそうです。

ならなかったんですね
とても不思議
日本史の三大不思議のひとつかも知れません
(あとの二つは本能寺の変と鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が逃げ帰ったことかな)

色んな理由はあるでしょうが
それだけ、殺人の実行犯になったのが大きかったんだと思います。

今までも政治的なライバルを殺して自分が権力を握るっていくつも例はあるわけですが
全て誰かにやらせています。

自分自身が手を下して、それも大衆の面前でなんて初めて
普通に考えて、逮捕されます。お縄頂戴です。

時間稼ぎをしてもまだ、ほとぼりが冷めなかった

それでもお母さんの情でしょうか
どうしても息子に天皇を譲りたかったんでしょう
再度の時間稼ぎ

私、もう一回天皇やるわ

朝鮮半島情勢
この時期大きく変わるのは朝鮮半島情勢
引き金は、唐(中国)が巨大化したこと
朝鮮半島は、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の3国が凌ぎを削っておりましたが
新羅が高句麗や百済に攻め入られ
逆転すべく、唐に応援を要請

次第に、高句麗・百済連合、新羅・唐連合という様相になっていきます

まあ、唐側の方が強いです

660年、とうとう百済が唐により滅亡に追い込まれます。
逃げてきたのが日本という訳です

百済の残党達は日本で力を蓄え、百済を再興したい
日本さん助けて

ほいきた

斉明天皇と中大兄皇子は大群を引き連れ
唐に立ち向かっていきます。

正確に言うと
朝鮮半島や唐に行こうと北九州で準備をしているときに斉明天皇は死んでしまいます。

元百済の、白村江(はくすきのえ)という港に上陸しようとして
待ち構えていた唐軍に、こてんぱんにやっつけられます。
白村江の戦いです

この歴史的惨敗は、その後も日本に大きく影を落とすことになります。

その後、高句麗も滅亡してしまいます

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[徳川将軍の演出力] 将軍の御成の意味するところ

「徳川将軍の演出力」から

御成(おなり)
御成(おなり)とは、将軍が大名のところに出向いていくこと
大騒動になります

初代家康は、3回の御成
浅野幸長(よしなが)、池田輝政、結城秀康の3人
息子や親戚
豊臣方との間をどうしていくかという戦略的な行動

2代秀忠に移ります
まだ戦国時代を引きずっていますが
大なたをふるいつつ徳川の基盤を固めていきます。
大なたは改易(かいえき)。藩の取り潰しです。
あっちで改易、こっちで改易という報せを聞く度に恐怖に陥れられます。
ほとんどがいわゆる「いちゃもん」
関が原で西軍についた外様大名たちは気が気ではありません
もうひとつ改易で目立つのは、兄弟親戚の類い
これは、徳川の基盤というより、秀忠の基盤
ライバルとなりそうなのは、いちゃもんをつけて潰したい

謀反を起こす気なんてさらさらございませんと態度で示す必要がある
戦国時代なら、武士たるもの、いくさで功をあげることがアピールだったけど
「機嫌を取る」事しか思いつかない

何とか江戸に行ってお目通りさせてもらって、というお願いが殺到
それが参勤交代という制度になります。
幕府が大名に参勤交代させて金を使わせて、みたいなイジメの図式で説明されるけど、とんでもない
参勤交代は大名たちの死活問題の切なる願い

そこに、幕府が土地を貸してやって武家屋敷を作って良いよ。
一年交代で住んでも良いよと、とっても親切

江戸に来させてもらったら、今度は大名同士の競争が始まります。
御成の誘致合戦

どうか私どもの屋敷に来ていただけますよう
心を込めて精一杯のおもてなしをさせていただきます。

御成門という将軍のためだけの門を金ぴかに作ってアピール
御成門の建設ラッシュになります。

越前福井藩の御成門の模型

将軍秀忠としても、徳川の基盤を固めるため
御成で大名たちがひれ伏す様を世間に知らしめたい
特に、大規模外様を中心に御成していきます。

例えば、御成誘致に成功した加賀藩百万石で言えば
屋敷は今の東大の駒場の場所なんだけど
大々的に庭園を作り、その中の池が三四郎池

大行列の御成に、全員分の超豪華な食事
加賀藩本郷では何と7000人分用意した。

その時に使った食器は、一回使っただけで全て廃棄
使い回しにはしませんよというアピール
本郷で発掘調査をすると大量の食器が出るわ出るわ。

3代将軍家光の時代になると
基盤確立も進み、今日明日改易させられるんじゃないかという緊迫感も薄らいでいく
政治的な意味合いより、趣味的な意味合いの御成が増えていく
気の合う大名のところに足しげく通うようになる
神楽坂の酒井忠勝のところには100回以上通います。

5代綱吉も御成好き
明暦の大火の後だから、大名屋敷も金ぴかの御成門を作り直すほどの余裕がない
企画力で勝負

尾張藩
ライバルの紀州藩がなかなかの庭園を作った(今の赤坂御所の場所)ので負けてられない
戸山荘という今の新宿区の場所に広大な屋敷
その中に、箱根山を作っちゃった
今も東京23区内で一番高い山です。
そして、小田原宿とそっくりな宿場町まで作っちゃった
普段は建物があるだけだけど、御成の時は、のれんをかけ、色んなお店に早変わり

お団子いかがですかぁ

滝があるんだけど、板をはめてわざとちょろちょろしか水を流さない
近づいてきたタイミングで板を外してドバッ

はめおったな
ひっかかったわい
愉快愉快

日本人のおもてなしって良いですね
金がないならないで、わびさびとか、企画とかで何とかする

8代吉宗は、御成より、鷹狩りが大好き
郊外で鷹狩りして、帰りに寄るくらい

11代家斉も遊び好き
出掛けるのが好きなので、大々的に御成って言っちゃうと、相手の負担が大き過ぎる
御成と言わず、通り抜け
散財ばかりしたイメージだけど、それなりに配慮してるのね

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

夏目漱石の漱石山房

(1/19の事です)

江戸時代に新宿に落ちた隕石を探して
の前の話です

せっかくのお出掛けですから、隕石の前にいくつか寄ってみましょう

経王寺
都営大江戸線の牛込柳町
大江戸線も降りたことのない駅が少なくなってきましたが、その一つ

駅の真ん前に、経王寺
山の手七福神のひとつ、大黒天を祀っています


大黒様を撮そうと思うと、NG
そもそも、見える場所にある大黒様はお前立ち(代理人)
本当の大黒様はその後ろの戸の中
看板の中に写真があります

最初の大黒天は恐い顔をしているんですが日本に来てだんだんにこやかになる
ここの大黒様は4分の3くらいかな

庭にあった石像をパチリ。これならOK

墓地の真ん中に被爆の楠の木がありました。


頑張ってるね

多聞院
おっと、ここには、松井須磨子の比翼塚があると書いてあります
これは確認しておかねば

ところで、私には姉と妹がいます。
姉の名前は何と言うでしょう

この前、神楽坂のウォーキングイベントで芸術倶楽部跡で
島村抱月との許されない愛の話をしました

その時にこのクイズを出したら、すぐにノーヒントで当てられちゃいました
結構むつかしめの名前なんだけど不思議だなあ

随分頑張って探したんだけど、結局見つからなかった
悔しい

草間彌生美術館
これは、ひょっとしてあの水玉おばさん
大人気で人だかり

詳しく知っている訳ではないけど
有料だろうけど、面白そうだから入ってみよう

入口で
チケット拝見します

どうも、ネットで事前にチケットをもらう必要があるようです。

さすが世界に認められた芸術家。強気です。

仕方ないので外からだけパチリ

漱石山房
夏目漱石が長く住み、終焉を迎えた場所

出来立てホヤホヤ
新宿区が思いきり力入れて作りました

まずはその周辺の漱石公園


これが、吾輩は猫であるの吾輩ちゃん?の墓

本当は、こちらの写真にあるように九重の塔だったんだけど、空襲で焼けて崩壊

もう一回元の石を積み上げた

音声ガイドも無料で借りれます。

元の漱石の家を色んな資料を集めて可能な限り再現
博物館の中にボコッと丸々家が入ってます


ご本人もいます

有名なフレーズ

作品紹介コーナーはさすが
文学に疎い私でさえ
知っているタイトルがあるわあるわ
せっかく来たんだから、近い内にひとつくらい読まないとバチが当たります

漱石が俳句ってイメージ無かったんだけど
かなりいっぱい作ってるんですね
最初は親友の正岡子規に教えてもらったんだって

私はこの中の一番左が気に入りました

すみれ程な 小さき人に 生れたし

おでかけマップ

江戸時代に新宿に落ちた隕石を探して

(1/19の事です)

朝一番で、センター試験を済ませ
よし、まだ少し時間があるぞ
あそこ行ってみよう

磯田道史先生の「日本史の内幕」という本を読みました。
私の好きなTBSラジオ安住紳一郎の日曜天国で年に一回ずつ出演してくれるんですが
その時の話がとても面白い

書かれたものも読んでみた訳ですが
面白いのなんの
歴史は江戸時代を中心に色々読みましたが
この本のようなアプローチは始めてです。

この時代のこの時にこういう事があって、という歴史を説明した本というよりは
随筆と言うか、裏話と言うか。

子供の頃から古文書オタク
普通の歴史家とは興味の向き先がちょっと違っている

例えば戊辰戦争であれば、個々の事件の年号だったり関係する人物なんてのは
磯田先生だととうに分かっている
実は先生の先祖が関わっていたんだけど
その先祖が、どこからどういうルートで戦場に着き
いくら新政府にご褒美をもらったのかということ

古文書を徹底的に集め、読み込んで解明していく

この本はそんな過程でワクワクしたこと
あまりの発見に息が止まった、というようなことが書いてある

何度か話している、ウォーキングの醍醐味
その場に行って、大好きで話したくて仕方ない人の幸せそうに話すのを聞くのが一番好き

同じ体験がこの本で味わえる
よほど好きなんだなあとこちらも笑顔になる

今後、いくつかの話をしていきたいんですが
今日はまず、その中で象徴的な話

隕石
江戸時代に、東京の都心に隕石が落ちてきたことがある

いきなりすごい事書いてあります。
江戸がらみの本はある程度読んだつもりでおりましたが
そんな話始めて聞きました。

磯田先生の中では、そこまでは当たり前に分かっていること。
ロシアに隕石が落ちたニュースを見て
そういうと、あの江戸に落ちた隕石って、もっとピンポイントにどこに落ちたんだろうと気になった。

ここからが、磯田先生の磯田先生たるゆえん
徹底的に古文書に当たる

私だったら、ちょこっとグーグルで検索してみて、出てこなきゃ、まあいっか、だけど

で、探し当てちゃうのがすごいところ

まず、松浦静山(まつらせいざん)の甲子夜話(かっしやわ)
江戸検定で常連さん
肥前国平戸藩の第9代藩主でありながら、引退後に書いた随筆集が面白いとバカ売れ

その甲子夜話の中に

戌の刻下り(夜8時頃)に西の空から大砲のような音が響き・・・
(中略)
早稲田に微禄の御家人の住居があり、その玄関の様なところに石が落ちて
屋根を打ち破り、破片が散乱した

よし、早稲田だな

もっと狭く特定すべし

ようやく見つけた、今度は鈴木桃野(とうや)という学者の「反古(ほご)のうらがき」という随筆

早稲田と榎町との間に「とどめき」という場所に町医者がいて
その玄関前に二尺に一尺ばかりの玄蕃石(げんばいし)のような切石が落ちて二つに割れていた
焼き石と見えて余程暖かかった

とどめきか
それはどこだ

古地図をあたる
そのあたりに、宗参寺という寺があって、傍らに轟(とどろき)橋という橋がある
とどめき とどろき

さらに、江戸名所図絵で宗参寺を見ると
弁天町にあり。この地をどどめきという

どんぴしゃ
特定した

行けっ

当時浜松に住んでいた先生は新幹線に飛び乗り、宗参寺へ
神社やお寺でご神体や寺宝として祀られているかも知れない

黒くこげた30cmの石
ない

住職さんに声をかけた

口ポカン

へえ、そんなことがあったんですか

結局見つからず、それっきり

宗参寺
磯田先生が無かったと言っているので隕石はありません

それがどうしたっ

ここは、行くしかなかろう
行かずして、何のでーこんぞ

これか

はたまた、これか

これなのか

意外にこれだったりして

この空。ここから飛んで来ました

この辺り一帯の地名「牛込」の由来の牛込氏や、山鹿素行(やまがそこう)の墓もあります。

牛込氏の墓までは分かったんですが

山鹿素行の墓までは分かりませんでした。

まあ良いか
隕石も見れたし

(見てない見てない)

よし、ここで古地図アプリを立ち上げてみよう
あっ、あるじゃないですか「轟橋」

轟橋の方にも行ってみましょう

このあたり

こっちの空

この横は済松寺


こっちにはそれらしき石はありませんでした。

実はこの隕石の前に若干のウォーキングをしています
その様子は明日ね

おでかけマップ