[明治]三条実美。のらりくらりの最高権力者

「歴代総理の通信簿」という本を読みました。
明治以降の全ての総理大臣に10段階評価をつけるという本です。
評価自体は、著者八幡和郎さんの主観なので、賛否両論あるでしょうがその分析がとても面白い

三条実美(さんじょうさねとみ)
そのスタートが三条実美です。

総理大臣という名称が始まったのは伊藤博文から
従って、初代総理大臣が伊藤博文であることは間違いないのですが
名称が総理大臣ではないにしても、同じ役目をした位があった。

ということで「序章」です

分かりやすくまとめてある図があるので、見ていきましょう。

①幕藩体制(慶應3/10/14)
大政奉還から王政復古の大号令までは、従来通り。
結局は徳川慶喜に委託せざるを得ない状況でした。

②総裁、議定、参与制(慶應3/12/9)
総裁に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)
副総裁に三条実美と岩倉具視(いわくらともみ)
ということは、一番最初の宰相は有栖川宮熾仁親王だと言えなくもない

③輔相制(慶應4/閏4/9)
総裁制は長くは続きませんでした。
副総裁だった三条実美と岩倉具視が公職の最高位である輔相になります

④太政官制(明治2/7/8)
翌明治二年七月には太政官制が成立し、右大臣に三条、大納言に岩倉と徳大寺実則が就任
明治四年になって三条実美は太政大臣となり、内閣制度の発足までの14年間続けて任務に当たります。

通じて言うと、三条実美は18年間トップにいたことになります。
かなりの長期政権だと言えるでしょう。

三条実美は藤原氏の中の清華家(せいがけ)
近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家、という摂関家の次の名門です。
一方の岩倉具視は中流の公家ですから
常に岩倉具視の上に三条実美がいて、お公家さんコンビは、二人三脚で物事を進めていきます。

俺が俺がの岩倉具視に比べると、印象が薄いことは否めません
岩倉具視は500円札にもなってますしね

征韓論の時、岩倉具視と西郷隆盛が大喧嘩
間に入って三条実美はノイローゼになって入院

そんなだから、ぼんくらなんだという意見もあります
ただ、ぼんくらで18年間もトップには立てない

特に、首都をどこにするかについてはかなりリーダーシップを発揮しています。
大阪を主張する大久保利通に対し、東京を主張

「東国はこれまで皇室の恵みを受けることが少なく、いつ人心が離れるか分からない。
京都や大阪の人々に少々恨まれても、古来からの関係もあるので皇室に刃向かうことはあるまい。
朝廷を江戸に置いて初めてこの国は安定する」

結局は大久保利通も、前島密に手紙もらったりして、東京論者に変わるんですけどね。

太政官制以降、内閣制までを整理すると
明治6年の征韓論で敗れて西郷隆盛が下野するまでは、三条実美を中心とした合議制
明治11年の大久保利通暗殺までは、三条実美、岩倉具視、大久保利通という縦のラインの独裁制
大久保利通暗殺後、岩倉具視のもとに、大隈重信、伊藤博文、井上馨が並列的に並び
明治14年の政変以降は、岩倉具視のもとに、伊藤博文が力を持ち
明治16年に岩倉具視が亡くなって、
明治18年に、内閣制に移行したという流れです。

伊藤博文が下級武士の出身だったので
三条実美の代わりとなって太政官になれなかった事が大きい。

であれば内閣の上に太政官を置くという制度より
内閣の同列的な地位の中の代表者的な意味で首相を置こうという発想
たまたま名家で、実力を伴った三条実美の代わりを見つけられなかったということです。

のらりくらりの性格ではありますが
激動のこの時代に、一癖も二癖もある猛者たちの上にたち
うまくコントロールするためには
そういった性格の方が良かったのかも知れません

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治]三条実美。のらりくらりの最高権力者」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: [明治]岩倉具視。やっぱりちょんまげ切るね | でーこんのあちこちコラム

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です